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宇宙人に足し算を教えたら「なぜそれが足せるのですか」と返された  作者: みんとす


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第四話 忘れるより、遅い方がいい

 環海体側には、いくつかの応答窓口があることが分かっていた。ただし、それを人間のように「担当者」と呼んでよいのかは曖昧だった。


 彼らには、人類ほど強い意味での個人がない。少なくとも、そう最初は説明されていた。代わりにあるのは、何を長く残し、何を早くほどくかの偏りだという。


 接触三年目、志村はそのうちの一つと正式に対話を始めた。《残響17》と呼ばれる応答相だ。局内ではこの相手を「レゾナンス」と略す者もいたが、志村は最初から「残響」と呼んだ。その方が、相手の在り方に近い気がした。残響とは、音が消えた後に残るものだ。前の音がなければ存在しない。しかし前の音そのものでもない。その中間にいる存在。名前にはいつも、呼ぶ者の理解が映る。志村はそのことを、後になってよく思い出すことになる。


 環海体の「残響」系列は、人間の個人とは違う。だが完全に無個性でもない。前の相がほどける。その一部の癖が、次の相に薄く残る。そこへ新しい偏りが重なる。そうして系列が続く。


 《残響17》は、その中でも「過去の節を長く保つ」傾向が強く、翻訳と交渉に向いているとされた。


 初対話の日、志村は簡単なつもりでこう送った。


「あなたがたにとって、もっとも基本的な違いとは何ですか」


 五分。十分。何も返ってこない。


 痺れを切らした上司が「フリーズしてないか」と言い出したころ、ようやく返答が来た。


「あなたがたが、いま"基本"を物の性質として聞いたのか、学びの順番として聞いたのか、翻訳の起点として聞いたのか、それを見ていました」


 解析室が静まり返った。


 志村はその瞬間、この相手に強く興味を持った。答えの内容よりも、問いの置き方を見ている。この沈黙は怠慢ではなく、むしろ丁寧さなのだ。それは、彼女の人生ではあまり出会ったことのない種類の誠実さだった。


 以来、志村は対話のたびに、《残響17》の沈黙の長さを記録するようになった。簡単な確認には数分。概念の翻訳には数十分。こちらの問いの意図そのものを吟味するときには、数時間。


 あるとき、志村は試しに同じ質問を二度送ってみた。一度目と二度目で、返答が微妙に違った。同じ概念を、少し違う角度から説明している。


 理由を訊くと、《残響17》はこう答えた。


「あなたの一度目の問いと、二度目の問いは、同じ文でした。しかし、一度目を送ったあなたと、二度目を送ったあなたは、すでに少し違う状態です。同じ文に同じ答えを返すのは不誠実です」


 志村は笑った。そして、少しぞっとした。この相手は、自分よりも自分の変化に気づいている。


 同時に、奇妙な安心感もあった。この相手は、手を抜かない。どんな小さな問いにも、全力で向き合う。人間の同僚にも、そこまで丁寧な者は少ない。


 ◇


 接触八年目のことだ。


 志村は、雑談に近い気持ちで訊いた。


「あなたは、ずっと同じあなたなんですか」


 《残響17》はひどく長く沈黙した。返答は数時間後に来た。


「私は十七番目です」


「何の?」


「残響の系列です」


 それ以上は教えてくれなかった。だが別の日、ぽつりとこう言った。


「私は、前の海をよく覚えています」


「前の海?」


「十六までの残響です。その多くは、ほどけました。私は、それを長く拾いすぎます」


 志村は黙った。その声を、人間の感情にあてはめたい衝動があった。悲しみだろうか。郷愁だろうか。だがどちらもずれていると分かった。


 人間の死と同じではない。けれど確かに、《残響17》は失われたものを捨てきれない相だった。前の海の癖が、彼の沈黙の中に薄く残っている。


 志村はもう一つだけ質問した。


「拾いすぎると、何が起きるのですか」


 返答は翌日に来た。


「私の海は、少し重いのです。流れが遅い。他の相より、判断に時間がかかります。それでも私は、ほどくことを選びません。あなたがたの言葉で言えば、忘れるより、遅い方がいい」


 忘れるより、遅い方がいい。


 志村は端末の前で、しばらく目を閉じていた。


 左右対称の積み木。父と母が黙っている夜の、数だけが裏切らない安心感。それを今でも手放せない自分。


 この宇宙の、こんなに遠い場所に、捨てきれないものを抱えた存在がいる。


 その癖を、志村は好きになった。


 そしてふと気づいた。自分は今、数学の話ではなく、相手そのものに興味を持っている。


 足し算が通じない。掛け算が通じない。量子力学の離散性すら共有できない。それでも、「手放せないものがある」という感覚だけは、言語も数学も超えて、確かにここにある。


 それは小さな発見だった。だが志村には、それが十二年の対話の中で最も重要な発見の一つになるような予感があった。


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