月のある世界
それはまるで、『ウエスト・サイド物語』のワンシーンのようだった。英二と彼女との間には、人が幾人もいた。その人間たちが、突然消失した。
人混みが消え去ると、その先に、彼女がいた。ブラウスの白色を輝かせ、英二の方を見て、微笑んでいた。英二は、引き寄せられるように、女性の方へ歩き出した。「おい、足を踏んでるぞ」「ちょっと、混んでるのに、何よ」「次の駅まで待てねえのかよ」そんな声が浴びせられたが、英二は構わなかった。というより、遠くから聞こえてくるそれらの声は、現実のものとは思えなかった。白い頬を朱色に染め、懐かしそうに英二を見つめるその女性だけが、現実だった。
彼女の名は、瑠璃。初めて出会ったのに、英二にはそう思えなかった。もう永い間愛し合っているその人が、以前のように目の前にいる。そんな気がした。
二人は結婚した。空に月が輝く夜、英二はプロポーズした。月を見ているうち、言葉が自然に思い浮かんだ。その言葉を瑠璃に捧げた。瑠璃はきっと、自分の愛を受け入れてくれる。少しも疑わずに、瑠璃の返事を待った。そうして、以前も見たような夜空に包まれながら、英二は、涼やかな瑠璃の声を耳にした。瑠璃は、もう何度も聞いたことのある言葉を、英二に囁いてくれた。
幸せなときが、二人の間に流れた。喧嘩もした。お互いの気持ちがすれ違うこともあった。それでも、二人は幸せだった。お互いを結びつける何ものかを感じた。それがある限り、二人に不幸せは訪れない。英二も瑠璃も、そう信じた。
あるとき、英二は思った。二人はなぜ、巡り合ったのだろう。どうしてこんなにも、自分の心は瑠璃を求めるのだろう。出会ったそのときから、もう瑠璃を愛していた。そんなことが、どうして起こるのだろう。
答えは不意に、見つかった。瑠璃に死が訪れた。そのときになって初めて、英二はすべてを理解した。
ベッドに横たわる瑠璃が、苦しげに唇を動かした。
「もう私、だめみたい……」
そんな瑠璃に、英二は何も言ってやれなかった。
英二が黙っていると、窓を見つめていた瑠璃が、
「あ」と、声を上げた。そして、嬉しそうに笑い、
「お月様が、綺麗」小声で呟いた。
英二も窓に広がる夜空に目を向けた。見ると、懐かしい月が、漆黒の闇にぽっかりと浮かんでいた。
と、その月が、急に滲み出した。どうしたのだろう。そう思ってじっと見つめていると、月がいくつも現れた。大きな月、小さな月。金色の月、赤みを帯びた月――。いろいろな月が、夜空いっぱいに輝いた。
英二はそのとき、はっとした。突然に、それまでの記憶が甦った。どの月にも見覚えがあった。どの月の記憶にも、一人の女性がそこにいた。容姿はそれぞれに異なっていても、どの女性も、いま目の前にいる、瑠璃だった。
英二は、瑠璃の方を見た。
瑠璃も、潤んだ瞳で英二を見つめ返した。彼女も、英二との永いときを、思い出したようだった。
瑠璃が言った。
「今度は、私が先に行って、待ってるね」
「うん……」
英二は不安げに言った。
「少しの間だけだよ。すぐにまた、会えるよ」
瑠璃が微笑んだ。
「また、会えるかな?」
英二の問いかけには答えずに、瑠璃が目を閉じた。
「少し、眠るね」と呟き、そのままもう、目を開けなかった。
◇
ダンスホールには人が溢れていた。
ナタリーは一人でぽつんと立っていた。友達に誘われてやってきたが、見ず知らずの男と踊る気にはなれなかった。誘われても、断ろう。……でも、どう言ったらいいのだろう。……ああ、どうか、誰の目にもとまりませんように――。ナタリーは不安な気持ちで、楽しそうに踊る男女をぼんやりと眺めていた。
そうしていると、不意に、不思議なことが起こった 目の前の幾人もの男女が、みるみるうちに薄れていった。
透き通っていく人々の向こうに、一人の男性が現れた。
その男性を見て、息が止まりそうになった。初めて見る人なのに、そんな気がしなかった。ナタリーは、引き寄せられるように、その人の方へ歩き出した。
ナタリーが歩み寄ると、男性が微笑んだ。そして、
「踊りませんか?」
懐かしい声で、そう言った。
「ええ」
ナタリーは頷いた。男性に両手を差し出した。気づいたら、そうしていた。
ダンスホールの窓から、月が覗いていた。美しく輝く月は、幸せそうに身を寄せ合う二人を、いつまでも見つめていた。
〈了〉




