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第5話、VSミノタウロス

 ――ミノタウロス。


 人の三倍はあろうかという筋骨隆々の体躯に牛の頭部を戴く異形の戦士。


 黒鉄のように硬い毛皮を覆い、大樹のように太い腕には人間では到底持ち上げられぬ大斧を握っている。


 その巨大な斧を振り下ろす度、草原の地面が抉れて砂塵が舞った。


 額から突き出す二本の角には血のような紋様が滲み、瞳は狂気の赤で燃えている。


(……3層に出るはずのない魔獣だな)


 本来ミノタウロスは30層以降の迷宮構造体エリアにしか現れないはず。


 しかも今目の前に現れた個体は、より凶悪な亜種――肩や腕に走る黒い魔紋が皮膚の下で脈打つ、それがただの個体ではない事を物語っていた。


 カルの視線の先でミノタウロスは何かを追っていた。丘の向こうを走る二つの人影。


 片方は軽鎧に身を包んだ若い男、もう片方は純白の鎧に身を包んだ少女だ。


(あれは……ゲートで見たエルフの冒険者と、その護衛?)


 この距離からでも分かる圧倒的な美貌。


 白銀の髪は汗と風で乱れてもなお、陽光を宿すように輝いていた。


 額には疲労と焦りが滲むが、その青い瞳は決して折れていない。


「スノウ様っ……もう無理です、足が……!」

「諦めないで! 走ってくださいっ!」


 二人は必死に逃げていた。背後を振り返る余裕すらない。ミノタウロスは一歩ごとに距離を詰め、唸り声と共に大斧を振りかざしていた。


 刃が地面を掠めるだけで草原が爆ぜて土塊が宙を舞う。衝撃波が辺りを吹き飛ばし、まるで大砲が轟いたようだった。


 二人の周囲を浮かんでいた金属製の板――スマホはその衝撃で粉々に砕け、煌めく破片となって空中に散った。


「――っ! スノウ様、配信が!」

「気にしないで! 今は生き残る事が先です!」


 少女――スノウは振り返らずに叫んだ。

 だが護衛の男は、足を引きずり始めている。


 左足の脛あたりに赤黒い染みが広がっていた。

 彼は足をやられている。このままでは逃げ切れない。


 ミノタウロスは地を蹴り、更に速度を上げた。

 地響きが草原を揺らす。空気そのものが圧し掛かってくるような重圧だ。


 護衛の足がもつれて体勢を崩せば、ミノタウロスは再び大斧を振りかぶるだろう。


 次の刃が落ちれば、二人の命はそれまでだ。


「……やれやれ」


 カルは小さく息を吐くと丘の影から踏み出した。


 そしてミノタウロスの前に立ち塞がる。

 それに気付いたスノウと護衛の男は、初めてそこで振り返った。


「あ、あの人は……!? 危ない、逃げてください!」


 突如としてミノタウロスの前に出た青年を見てスノウの声が凍り付く。


(――何を考えているの、あの人は……!?)


 この距離で見間違うはずもない。


 彼の腰にあるのは古びた様子の剣。戦場に持ち出すにはあまりにも心許ない。鎧もなく、軽装どころか黒いマントを羽織った旅人風の服装。


 ミノタウロスに挑める者では――絶対にない。


(無謀すぎる……!)


 焦りで心臓が痛む。護衛の男の呼吸は荒く、足はもう動かない。彼を庇いながら逃げ切る手段など尽きていた。スノウの魔力も既に枯渇して回復魔法を使う余力は一切残されていない。絶体絶命の状況だった。


 そこへ現れたのは、まるで死地に飛び込む素人――そうとしか思えなかった。


「あなた……早く逃げてください! あれは3層の魔獣ではないのです、戦えば――」


 言いかけた瞬間、ミノタウロスが低く唸り、二本の角が血の光を帯びる。


 踏み込みと同時に大斧が唸りを上げ、地面を割って迫った。風圧が肌を切り裂きそうな勢いだ。


(駄目……! このままではあの人も巻き込まれてしまう――)


 喉が固まり、叫びは声にならない。


 スノウの脳裏には次の瞬間に訪れるであろう、鮮血と絶望の光景しか浮かばなかった。


 それに青年は凶暴なミノタウロスを前にしてもまだ剣を抜かない――だが代わりに彼が声を放った、その瞬間。


「――止まれ」


 その一言が雷鳴のように空気を震わせた。


 大斧を振り上げたミノタウロスが不自然な程に唐突に止まる。


 ――止まれ。


 ただその一言が耳に届いた瞬間、スノウの胸の奥がひやりと冷えた。


 それはただの言葉ではなかった。

 鋭く、冷たく、抗えぬ力を帯びた声。


「……え……?」


 スノウはただ困惑する事しか出来なかった。


 それからすぐミノタウロスの獣じみた咆哮が草原に轟いた。


 だが、それは威嚇というよりも、本能的な恐怖を塗り潰そうとするかのような叫び。


 カルはミノタウロスを見上げながら、ふんと鼻を鳴らす。その眼差しは冷たく、まるで虫でも見るかのように感情が欠落していた。


「ダンジョンの深層で何度も見たな……弱い魔獣が絶対的な捕食者に遭遇した時の、あの目と同じだ」


 カルはゆっくりと腰の剣を抜く。

 刀身に走る無数の鍛え直した痕が陽射しを受けて鈍く光った。


「ここは3層だ。お前の居場所じゃない」


 カルが一歩、また一歩と距離を詰める度、ミノタウロスの足は後ずさる。


 しかし、追い詰められた獣が牙を剥くように、最後の一線で咆哮と共に斧を振り下ろした。


「遅いな」


 カルの剣が空気を裂く音すら立てずに走る。

 次の瞬間、大斧の刃が空中で粉砕され、粉々になった鉄片が草原に降り注いだ。


「なっ……」


 エルフの少女が息を飲む声を背に、カルはそのまま刃を返す。


 ミノタウロスの首筋に、剣の刃が僅かな触れだけを与えたように見えた――瞬間。


 そこから走った細い赤線が、ほんの一拍の間を置いて裂けた。


 巨体がぐらりと揺れ、次いで、重力に引かれるように膝から崩れ落ちる。


 断ち切られた首は遅れて地面に落ち、草原を赤く染めた。


 ――静寂が戻る。


 スノウは青い眼を見開き、カルを凝視していた。


 護衛の男は呆然と座り込んでいる。


 そんな二人に向けてカルはゆったりとした足取りで近付いていった。


「怪我は? それにダンジョンに入る前は他にも護衛がいたようだが」

「え……あ、はい……わたしは大丈夫です。他の護衛の方は無事に逃がす事が出来たのですが……でも彼が」


 カルは無言で男の傷口を覗き込む。出血は多いが致命傷ではない。


「回復魔法は使えないのか?」

「は、はい……ミノタウロスとの戦闘で、魔力が尽きてしまって……」


 スノウは悔しげに唇を噛み、膝をついた。

 青の瞳には焦燥が滲んでおり、その手は震えていた。


 カルは腰の革袋から採取したばかりのヒーリングハーブを差し出した。


「噛み砕いて傷に押し当てろ。この様子だと毒にはかかってない。出血もすぐ止まるだろう」


 スノウは一瞬ためらい、それから深く頭を下げた。


「……助けてくださって、ありがとうございました。あなたは――?」

「俺はカル・ディアス。薬草を摘みに来ただけの、ただの通りすがりだ」

「薬草?」とスノウは眉をひそめる。「あれ程の強さの方が……?」


 カルは肩をすくめた。


「用事のついでに、困っている人間がいれば手を貸す。それだけの事だ」


 その淡々とした口ぶりに、スノウは少しだけ口元を引き結んだまま沈黙する。


 やがて、彼女は剣を杖代わりにして立ち上がった。


「カル様……助けていただいたお礼は、必ずさせていただきます」

「ダンジョンでの出来事は持ちつ持たれつ、だ。俺が助ける事もあれば、俺が助けられる事もあるだろう」


 カルはそう言い、草原を吹き抜ける風に黒髪を揺らした。


 その横顔は、戦いの直後とは思えぬ程に静かで、先程の殺気が幻だったかのように消えている。


 ――それと同時にスノウは、カルの横顔に思わず息を飲んだ。


(……なんて綺麗な人)


 切れ長の黒い瞳と長いまつ毛、そしてすっと通った鼻筋に形の良い唇。


 優美な神が嫉妬する程に整った顔立ちにスノウは目を奪われる。


 今まで出会ってきた男性の誰よりも凛々しくて、まるで夜を溶かし込んだかのような黒髪が風でさらりと揺れて、その姿はまるで闇を統べる王のように気高くて。


 スノウは緊張で顔を赤くした。胸の奥が、妙にざわついていた。


 戦いの緊張が解けたから――そう思おうとしたが、それだけではなかった。


(……視線が合ったら、きっと……)


 想像した瞬間、スノウの心臓がどくん、と跳ねた。

 頬に熱が集まるのを自覚し、慌てて視線を逸らす。


「どうした?」


 静かで落ち着いた声が、すぐ近くから響いた。


「っ……い、いえ……なんでもありません」


 声が僅かに裏返る。自分でも情けない程、平静を装えない。


 カルは首を傾げながらもそれ以上は追及しなかった。


 それから護衛の男に向けてカルは静かに声をかける。


「護衛のあんたは動けるか?」


 カルの問いに男は悔しげに首を振る。


「なら撤退だ。幸いここは3層。ゲートはすぐそこだ」


 カルは二人の前に立ち、草原の奥へと視線を向けた。その眼差しは周囲のあらゆる危険を察知する猟犬よりも鋭い。


「立てないならあんたを担いで行く。文句はないな」

「……すみません」


 男は悔しさを滲ませながらも素直に頷く。

 カルは片腕で軽々と男を抱え上げ、残った手で剣を下げたまま歩き出した。


 スノウはその背に続きながら、小さく「ありがとうございます」と呟く。


 声は風に溶け、届いたのかも分からない。だがカルの背は僅かに揺れたように見えた。

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