第4話、薬草採取
隕石の迷宮――3層。
そこに広がっていたのは草原地帯。
爽やかな風に吹かれて、青々と茂る緑の絨毯が波打つように揺れている。
太陽に似た光を浴びて、若い草花が燦々と煌めいた。
それはカルの訪れを歓迎するようであり、息を吸うだけで瑞々しい空気が肺を満たす。これと比べれば今の王都の空気は酷く澱んでいると言ってもいい。
しかしここは確かに地下深くに眠るダンジョンの内部なのだ。
隕石の中に幾重にも広がる巨大な異空間――それがダンジョンの正体でもある。
(……変わってないな)
かつて何度も踏みしめた草原の感触が、今も足裏に蘇る。
時代が移り変わろうと、ダンジョンは”不変の存在”だ。それがこの世界の”ルール”でもある。
人は今まで未開の地を切り拓き、そこに村や町を作ってきた。当然ダンジョンという未開の地に人が手を加えようとするのは自然な流れだと言える。
ダンジョン内部に拠点を作れば攻略の難易度を下げる事が出来るし、道を整備すれば攻略に必要な時間を短縮する事も可能になる。
だがダンジョンはそれら全てを拒絶した。
人の力ではどうしようもなく、ただあるがままの姿を保ち続ける。木を切り倒して道を拓いても翌日には太い幹の樹木が元通りに生え、岩山に穴を開けて突き進んでも翌朝には滑らかな岩肌が元の形を取り戻している。
ダンジョンとは不変の存在。
いくら時代が移ろい、人々の生活が変わっていったとしても、ダンジョンだけは変わらないのだ。
(この草原も以前に見た景色と寸分違わない)
耳に届く風の音、土と草の匂い、遠くで鳴く鳥型モンスターの声まで、何も変わっていない。時代がいくら流れようと、ここは時の檻に閉じ込められたままだ。
カルは腰のポーチから採取用のナイフを取り出し、足元の草を慎重に摘み取っていった。
――ヒーリングハーブ。
ポーションの材料としては初歩中の初歩。だが冒険者とって手堅く稼げる定番の素材として知られている。
どれほど熟練の戦士であっても、不意の一撃で血を流す事は避けられない。そうした時、手元に一本のポーションがあるかどうかで、生還出来るか戦場に散るかが決まるのだ。だからこそ市場の需要は尽きず、常に安定した稼ぎを約束してくれる。
「……これなら、どの時代でも需要はある」
静かに呟き、草を革袋に詰めていく。
隕石の迷宮を完全踏破した最強の男が、地道に薬草を摘んでいる光景は、誰が見ても場違いだろう。だがカルの表情は変わらない。これも冒険者にとって必要な仕事だと理解しているからだ。
「悪くない。これなら割高で買い取ってくれるはずだ」
慎重に袋へと収め、周囲を見渡す。
少し休憩しようかと思った矢先の出来事だ。
草原の向こうになだらかな丘があり、その影に薬草の群生地が見える。
カルがそこに向かって足を進めようとした、その瞬間――
――カサリ。
風とは異なる微かな音が耳に届いた。
草の揺れ方も不自然だ。
音の方向へ視線を向けると、銀灰色の毛並みを持つ獣が低く身を構えていた。
狼のようでありながら、背中からは短い骨の棘が突き出している。
(スパイクウルフ……この階層によく出現する魔獣だ)
カルにとって脅威ではない。
だが油断すれば牙は肉を裂き、棘は毒を流し込む。
獣の唸り声が響き、次の瞬間、草原の奥から二匹、三匹と影が現れた。
だがカルは武器すら抜かず、ただその黒い瞳を魔獣達へ真っ直ぐに向ける。
「やるなら来い。だが分かっているな?」
冷たい視線が獣の瞳を射抜く。
瞬間、草原の空気が一変した。
唸っていたスパイクウルフ達の動きが止まる。
足先が僅かに震え、背の棘が小さく揺れた。
――本能が告げている。
この人間は、群れ全てが牙を剥いても届かぬ“格”を持つ存在だと。
尻尾は低く垂れ下がり、先頭の魔獣が一歩後ろに退くと他の群れも一斉に、一歩、また一歩と後ずさった。
やがて群れの中心にいた一際大きな個体が短く吠えると、他の個体もそれに倣い、草原の影へと音もなく引いていった。
カルはその背を追わず、淡々と息を吐く。
「賢い選択だ。弱肉強食のダンジョンで生き残る術をよく理解している」
ダンジョンで生き残る術、それは強者とは決して戦わない事。
カルという絶対的な強者を前に、群れは戦うよりも逃げる事を選んだ。
それはダンジョンで生き残る為の正しい選択だった。
ただ……ダンジョンの奥深くで鍛えられたカルの殺気は、少しばかり過剰すぎたかもしれない。魔獣どころか近くにいた虫や小動物まで姿を消しており、彼のいる草原はしんと静まり返っていた。
「……やりすぎた。まあいいか」
カルは一度だけ周囲を確認し、ヒーリングハーブの採集を再開する。薬草の群生地で見つけたそれは、深い緑の中に混じる淡い光沢を帯びた葉――成熟した薬草の証だ。
「……この調子ならかなり稼げるかもしれない」
手慣れた動きで刈り取り、葉を傷つけぬよう丁寧に収穫していく。その表情は、まるで職人が作品を仕上げる時のように無駄がなく、静かだった。
革袋の中が薬草でいっぱいになった頃、丘の向こうから微かな振動が伝わってきた。
「この振動、スパイクウルフとは違うな。もっと巨大な何か……それに金属が擦れる音?」
巨大な何かが地面を蹴るような鈍い衝撃音と、それに混じって金属が擦れる耳障りな音が近づいてくる。
振動は草原の向こうからこちらへと一直線に迫り、風が熱を帯び始めていた。
「冒険者が魔獣から逃げているのか?」
ダンジョン内で冒険者が魔獣から逃走する光景は、まあ見慣れたものだ。
自分の力量以上の相手に手を出してしまったり、一体だけかと思っていたらすぐ近くに群れの巣があって予想外の大軍勢に追い立てられる――そんな光景は珍しくない。
だが今近付いてくる足音と振動は、普通とは明らかに違っていた。
ここはダンジョンの3層。
出現する魔獣はさっきのスパイクウルフやスライム、ワイルドボアと言ったもので、駆け出しの冒険者でも十分に対処出来るはず――本来ならば。
だが、今響いてくる音はそれらとはまるで異質だった。足音は重く、地面を割るような衝撃を伴い、草原の土が振動で細かく跳ねる。
それに遠く離れたこの場所にまで届く殺気――3層に現れるはずのない、異常な存在感だった。
(……これは、ただ事じゃないな)
カルは採集用のナイフを片付けると、腰に添えていた剣の柄へと手を伸ばす。
草原の向こう、丘の稜線の影から、まず土煙が噴き上がった。
次の瞬間、丘の稜線を破るようにして巨体が飛び出したのだった。