エピローグ
「カル様っ、見てください! ほら、わたしの言っていた苺のタルトです!」
スノウはショーケースに駆け寄り、子供のように目を輝かせた。
任務の時には冷静沈着な彼女が、今は甘いケーキ一つでこんなにも無邪気になる。
カルは小さく息を吐き、しかし目元だけは柔らかかった。
「本当に好きなんだな」
「はいっ! 大好きです!」
頬を染めて振り向くスノウの瞳は、期待と喜びで輝いていた。
カルはそんな彼女を見つめながら、胸の奥に小さな温もりを覚える。
――初めて出会った時は、氷のような少女だった。
何があっても表情を動かさず、冷たく周囲を拒むように振る舞っていた彼女。
氷姫と呼ばれたその姿が、今も記憶の底に残っている。
けれど今、目の前にいるのは――頬を赤らめ、無邪気に笑顔を浮かべる少女だった。
氷はすっかり溶け、その奥から現れたのは、誰よりも優しく温かな心。
その変化を傍で見届けてきた事実が、カルの胸に静かな温もりを灯す。
そして、この笑顔が自分にだけ向けられているのだと思うと――ほんの少し口元が緩みそうになるのを、カルは抑える事が出来なかった。
そんな彼女と二人で苺のタルトを注文し、人目の届かない奥のテーブル席に向かい合って座る。
タルトは思っていた以上に華やかで、苺の赤とクリームの白がまるで宝石のように映えていた。
スノウはフォークを手に取り、けれどすぐには刺さずにじっと見つめる。
「……可愛すぎて、食べるのが惜しいです」
小声で呟きながら、フォークを近付けては止め、また引っ込める。その繰り返しに青い瞳が揺れている。
その無邪気すぎる葛藤にカルは思わず口元を緩めた。
「スノウ、散々力説してたくせに、今さら躊躇ってるのか」
「ち、違います! 本当に食べたいんですけど……その、綺麗で……」
頬を赤くしながら慌てる様子がおかしくて、カルは小さく笑みを漏らす。
「氷姫って呼ばれてたスノウが、タルト一つに悩んでいるなんてな」
「っ……! それは……」
スノウは耳まで真っ赤に染め、恥ずかしさを誤魔化すように俯いた。
だが次の瞬間、青い瞳をきらりと細め、悪戯を思いついた子猫のような笑顔を見せる。
――最近、カルにからかわれてばかりだ。
酒の席でべろべろに酔った姿も、甘い物に夢中になる癖も、カレーを食べながらふにゃふにゃになっていた自分の顔も……全部笑われてしまった。
(……だったら、今度はわたしが驚かせる番です)
スノウはフォークをそっと持ち直し、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
そして、わざとらしく視線を逸らしながら――けれどしっかりとカルの耳に届く声で囁く。
「カル様が“あーん”してくださったら……食べられるかもしれませんね」
挑発めいた言葉を残して、ちらりと上目遣いに視線を投げる。
心臓はどきどきとうるさく跳ね、顔の熱はもう隠しようもない。
(これで、さすがのカル様でも赤面して慌てるはず……!)
――今度こそカルを動揺させてみせる。
普段は何事にも動じない彼が、赤面して戸惑う姿が見られるかもしれない。
スノウは胸をドキドキさせながら、その反応を待った。
――なのだが。
カルはまるで何事もないように、自分のタルトから苺を一粒フォークで刺し取った。
そのまま当たり前のようにスノウの口元へ差し出してくる。
「ほら、口を開けろ」
「えっ――」
仕掛けたつもりが、逆に自然に返される。
あまりにも平然とした態度に、スノウの思考は一瞬真っ白になった。
(な、なんで……!? カル様、照れるどころか、本当に“あーん”してる……!)
頭の中がぐるぐるする中、カルは微塵も動揺する事なく、フォークを静かに差し出したままだ。その無表情な眼差しが、逆に逃げ場を奪ってくる。
(……な、なんで全然動じないんですか!? これじゃあ、わたしだけ恥ずかしがってるみたいで……!)
唇を噛んでスノウはぐっと身を起こす。
青い瞳に光が宿り、顔を真っ赤にしながらも意地を込めて宣言した。
「こ、こうなったら……最後まで受けて立ちます!」
「受けて立ちますって、お前は何と戦ってるんだ……」
カルは眉をひそめ、呆れたように小さく息を吐いた。だがフォークを引く事もなく、無言で差し出し続ける。
スノウはその態度に更に頬を熱く染め、胸をどきどきと高鳴らせながら、思い切ってぱくりと口を開いた。
甘酸っぱい苺が舌に触れ、瑞々しい果汁が一気に広がっていく――はずなのだが、苺の甘酸っぱさも、クリームのなめらかさも、何ひとつ分からない。
ただ『カルからあーんされた』という事実だけが胸いっぱいに押し寄せて、息が詰まりそうになる。熱が一気に顔へ駆け上がり、頬も耳も真っ赤に染まっていく。頭から湯気が出てしまいそうだった。
「……っ、た、食べました! ほら、ちゃんと!」
今度こそ、カルも少しは照れるはず。
勝ち誇るように胸を張り、ちらりとカルを窺った。
「――あ」
思わずスノウは声を漏らした。
カルは何事もなかったかのように、先程スノウの口へ運んだそのフォークをそのまま戻し、自分のタルトを静かに食べ始めていた。
当然の仕草のように、淡々と。
「……な……っっ!!?」
スノウの思考が再び真っ白になる。
さっき自分が口にしたフォークを、そのまま使って――。
「カル様、そ、それは……っ!」
スノウの頭に熱が一気に噴き上がり、脳内で警鐘が鳴り響く。
指先から背中まで、全身に走るのは羞恥とも幸福ともつかない甘い衝撃。
声が裏返り、青い瞳が涙目になる。
湯気が出そうな程に顔を真っ赤にしたスノウをよそに、カルは平然と答えた。
「ん? 何かおかしいか?」
「お、おかしいです……! だって今の、か、間接キスですよ!」
「ダンジョンじゃ食器は足りない事の方が多い。フォークを共有するのは珍しい事じゃないだろ?」
「こ、ここはダンジョンじゃありません!」
心臓が爆発しそうな勢いで跳ねる。
スノウの胸に残っていた勝ち目は粉々に砕け散った。
――完全敗北。
カルをからかうつもりが、自分だけが撃沈する結果に終わってしまった。
スノウは頬を膨らませ、青い目を潤ませて俯いた。
「本当にもう……カル様は、こういうところがあるんですから」
羞恥と愛しさが入り混じった、甘く切ない響きにカルはくすりと笑う。
「どうやら俺の勝ちみたいだな」
「カル様、その言い方……もしかして?」
「ああ、スノウが俺をからかおうとしてたからな。仕返しだ」
「っ……~~~!!!」
スノウは頭を抱え、机に突っ伏しそうな勢いで顔を覆った。
エルフ耳は真っ赤になり、肩を小刻みに震わせながら小さな声を漏らす。
「カル様はずるいです……っ」
そう拗ねてみせた瞬間、頭上からくすりと小さな笑い声が落ちてきた。
「……まったく。そんな顔を見せられたら、俺の方こそ敵わない」
柔らかな声音に、スノウの胸がまた跳ね上がる。
叱られたわけでも、からかわれたわけでもない。
ただ優しく包み込むようなその響きに、スノウは顔を上げられなくなってしまった。
そうして羞恥と愛しさの余韻が漂う中、テーブルに小さな振動音が走った。
カルのスマホが震えている。
画面に浮かんだ名前を見て、彼は短く息を吐いた。
「……アンゴーラか。ちょっと待ってろ、スノウ」
スノウがぱちりと瞬きをする。
カルはそのまま通話ボタンを押し、ぶっきらぼうに応じた。
「アンゴーラ、どうした? 酒の席は断ったばかりだが」
『スノウとデート中に悪いな。緊急で話したい事がある』
「デートって言う程じゃ……いや、デートか」
『デート以外の何に見えるってんだ?』
「……うるさい。用件を言え」
『ちょっと調べものをしていたら、ヤバいもんが引っかかってな』
カルの表情がすっと引き締まる。
スノウもまた、弾んでいた心を抑えるように真剣な眼差しへと変わった。
『虚喰晶の流通ルートを追っていたら厄介な線に当たった。ダンジョン50層級の魔獣“ベヒーモス”を封じている虚喰晶が、とあるBランク冒険者の手に渡ってやがる』
その会話は耳元のイヤホンを通じてスノウにも聞こえていた。
スノウの背筋に甘やかな余熱とは別の緊張が走る。
『そのBランク冒険者は以前にも虚喰晶に封じられた“コカトリス”を使って、自作自演の救助配信をやろうとしていたようだ。だが失敗に終わって怪我人が大勢出た。その時は証拠不足で捕まえ損ねたが……今回は違う。お前がジンカを捕まえたおかげで全部繋がった。今度は言い逃れ出来ねえ、黒確定だ』
「なるほど。つまり俺達の次の仕事ってわけだ」
『話が早くて助かるぜ。もしベヒーモスが解き放たれれば甚大な被害が出るはずだ。そうなる前に押さえるしかねえ。だがベヒーモスは不死の王にも匹敵する魔獣。奴をどうにか出来る実力者となると……カルとスノウ、お前達二人以外には考えられねえ状況だ』
アンゴーラの声はずしりと耳に落ち、場の空気を引き締めた。
カルは短く息を吐き、カップの縁を指で叩いた。
「場所は?」
『ダンジョンの10層だ。そのBランク冒険者はそこでダンジョン配信を予定しているのを確認した。早めに仕掛けなきゃ取り返しがつかなくなる』
カルは視線を上げる。
そこには真剣な面差しへと戻ったスノウがいた。
青い瞳は迷いなく揺るぎなく、ただ彼を見つめている。
「了解した。すぐに向かう」
『悪いな……せっかくデカい仕事が終わって、打ち上げの最中だったのに。だが頼れるのはお前達だけなんだ』
「大丈夫さ。すぐに終わらせて、スノウと甘いケーキの続きを楽しむつもりだ」
通話が切れると、僅かな静けさが落ちた。
テーブルに残る苺のタルトの香りと、胸に灯った温もりは消えないまま――それでも二人の視線は、自然と次の戦場を見据えていた。
そしてスノウの柔らかな声が、静けさを優しく溶かしていく。
「カル様と一緒なら――何処へでも」
彼女の澄んだ青い瞳には確かな覚悟が宿っていた。
任務の前でさえ、こんなにも真っ直ぐに微笑む彼女を見られるのは、自分だけだ。
カルはその眩しさに目を細めて、静かに口を開いた。
「ああ、そうだな。どんな困難があっても――俺とスノウなら、必ず乗り越えられる」
カルがそっと手を差し出す。
スノウは柔らかな笑顔で、その手を握り返した。
――指先の温度を確かめ合うように重ねる。
そして昼下がりの街へ、一歩。
次の戦場へ、もう一歩。
並んで歩き出す二人の影は、寄り添うように重なり合い、やがて静かな闇の中へと溶けていった。




