第45話、新たな朝
朝の王都は、まだ柔らかな眠気を引きずりながらも、少しずつ動き始めていた。
通りを走る車のエンジン音、横断歩道の信号が切り替わる電子音、出勤途中の人々が交わす小さな会話。
ビルの隙間から差し込む朝日が街を照らし、コンビニやカフェの前には慌ただしくコーヒーを受け取る人の列が出来ている。何処からか焼きたてのパンの甘い香りが漂い、通りを歩く人々の足取りを少しだけ軽くしていた。
そんな都会の雑踏から一本外れた路地に、ひっそりと佇む喫茶店がある。
黒猫亭。
木の看板に描かれた黒猫のシルエットは控えめで、知らない人が見ればただの古びた喫茶店にしか見えない。だがその扉の向こうは影の世界で戦う秘密の組織、シャノワールの活動拠点。
店内に広がるのはまるで別世界。木製の床は丁寧に磨かれて艶を帯び、壁に掛けられた古い時計が静かに時を刻んでいる。窓越しの柔らかな光が木目のテーブルを照らし、湯気を立てるコーヒーの香りが店全体を優しく包んでいた。
カウンターの奥では、店主を務めるローズが金色の髪を揺らしながら豆を挽いていた。ガリガリと豆が削れる心地よい音が広がり、それに混ざって立ち昇る香ばしい匂いは、まるで戦いの余韻を全て洗い流してくれるようだった。
――スノウとイクスの間で行われたダンジョンを舞台にしたコラボ配信。
世界を熱狂させた二人の冒険は、裏ダンジョン配信者『ジンカ・レイゼイ』が護衛という形で潜伏していた事が発覚した為、安全面を考慮して一時中断ではなく中止という形で幕を閉じた。
世界中からはコラボ配信が中止となった事に落胆の声が上がったものの、今はそれ以上にスノウとイクスの二人の身を案じる声が大半を占めている。
視聴者達は二人の無事を祈り、再び笑顔で姿を見せてくれる日を待ち望んでいる。
そして今、カルとスノウは地上に戻り、今回の任務の報告の為に黒猫亭への帰還を果たしていた。
店の奥のテーブル席にはカルとスノウが並んで座り、向かいにはシャノワールのボス、アンゴーラがどっかりと腰を下ろしている。
磨き上げられた禿頭が朝の光を反射し、その巨体は古びた黒猫亭の家具を小さく見せる程だ。鍛え抜かれた腕を組み、胸を張って笑う様はまるで一頭の猛獣。だが、その豪快な笑みには場を支配するだけでなく、明るく照らすような力が宿っていた。
「ははははっ! 報告書を読んで鳥肌が立ったぞ!」
開口一番、アンゴーラの笑い声が店内に響いた。
「不死の王を斬り伏せただと!? 裏ダンジョン配信界のトップを生け捕りだと!? お前ら、いったいどれだけの伝説を打ち立てる気だ! カル、お前は最高だ! そしてスノウ、お前もよくやった! お前ら二人でなきゃ、あの場は収まらなかった! 普通の奴なら一晩で白髪になってる案件だ!」
ドンッとテーブルを叩き、アンゴーラは声を張り上げる。
ボスの大袈裟に褒め立てる姿に、スノウは思わず頬を赤らめて視線を落とした。
「わ、わたしなんて……本当に、カル様に助けていただいたばかりで……」
「謙遜するな、スノウ! お前が立っていたからこそ、カルは剣を振るえたんだ! お前も最高だ!」
アンゴーラの大仰な賛辞に、スノウは頬を赤く染めて俯いた。
そんな大声に釣られるように、カウンターの奥からローズが顔を上げた。
「はいはい、そんなに声を張り上げたらコーヒーの香りが逃げちゃうわよ」
軽やかにそう言って、淹れたてのコーヒーカップ三つをテーブルへ運んでくる。
「カルもスノウも、本当にお疲れさまだったわね。今は難しい事を考えず、まずは温かいコーヒーでひと息ついてゆっくりしてね」
優しい声音と共に置かれたカップから、豊かな香りがふわりと広がった。
カップから立ちのぼる湯気が、朝の光に溶けて揺れていた。
その白い霞を眺めているうちに、スノウの胸には昨日の光景がよみがえる。
蒼炎を切り裂き、死の霧を一閃で祓い、不死の王を淡々と両断した背中。
どんな絶望の中でも揺らぐ事なく、自分を守ってくれたカルの姿。
思い出すだけで胸が熱くなり、頬がじんわり赤く染まっていく。
抑えていた想いが湯気のように溢れて止められなくなった。
「昨日のカル様……本当に、本当にかっこよかったです。不死の王を一瞬で斬り伏せて、ジンカからわたしを守ってくださった。わたし、もう……胸がいっぱいで」
頬を赤く染め、両手でカップをぎゅっと抱きしめる。
「わたし、これからもカル様のお傍で戦い続けたい。どんな時でも、何があっても、カル様の隣にいたいんです」
そして隣に座るカルを見つめ、彼女は真っ直ぐに言葉を紡いでいく。
「心の底からずっと……お慕い申し上げております、カル様」
愛の告白にも等しいその言葉は、温かなコーヒーの湯気のように静かに店内へ広がっていった。
あまりに真っ直ぐな想いを込めた響きに、あのカルでさえコーヒーを口に運ぶ動きが止まる。
次の瞬間、アンゴーラは腹の底からの笑い声を響かせた
「はははははっ! スノウ! お前、それ愛の告白みたいなもんじゃねえか!」
ローズもくすりと笑い、頬杖をつきながら続ける。
「ふふ、ほんとスノウは素直ね。ここまで真っ直ぐに愛を伝えられる子、なかなかいないわよ」
「えっ……えっ!? い、今わたし……!?」
スノウは目をぱちぱちさせ、次の瞬間に真っ赤に染まった。
自分がどれほど大胆な事を言ってしまったのか、二人に指摘されてようやく気付いたのだ。
「ち、ちがっ……いや、違わないですけど! そ、その……こ、これは……!」
カップを両手で抱えたまま、青い瞳を泳がせて必死に言い訳を探す。
エルフ耳の先まで真っ赤に染まり、声も裏返っていた。
アンゴーラは腹を抱えて爆笑し、ローズは「かわいい」と小さく囁く。
その視線を受けたスノウは更に俯き、湯気に顔を隠すようにカップを持ち上げた。
アンゴーラの豪快な笑い声が落ち着いたところで、ローズがふと視線をカルへ向ける。頬杖をついたまま、柔らかな笑みを浮かべて。
「ねえカル。スノウはあんな素直に想いを口にしてくれたわ。あなたはどう思ってるの?」
問われたカルは、コーヒーを口にしようとした手を静かに止めた。
僅かな沈黙の後、淡々とした声で答える。
「俺もそう思うさ」
「なになに? それって、カルもずっと一緒にいたいって事かしら?」
思わずローズもにやけてしまう。
しかしカルの視線はカップの中のコーヒーに落としたまま。いつもの淡々とした口振りで感情を表に出す事はしない。
「最高の相棒を持った――俺はそう思ってる」
無表情で告げたはずなのに、カルの耳がほんのり赤いのを、スノウもローズも見逃さなかった。
「……カ、カル様っ!」
思わず声を上げたスノウは、胸の奥に込み上げる熱を抑えられずに青い瞳を揺らす。
あのカルが自分の言葉で照れて耳を赤くする姿は初めてで、そんな彼の姿を見ているだけで、胸の鼓動が激しく打ち、熱が込み上げて止まらない。
「ふふ、本当にあなた達ってお似合いよね」
ローズからすれば、カルの反応は照れ隠しをしている時のスノウそっくりだ。二人は本当に隣に立つ為に出会ったのだろう――ローズはそんな確信めいたものを胸に抱き、静かに微笑んだ。
そんなカル達の様子にアンゴーラはまたしても大きな笑い声を上げた。
「はははは! やっぱりお前ら最高のコンビだな!」
その言葉にスノウは耳まで赤く染めて俯くが、胸の内では「その通りです」と何度も頷いていた。
カルはというと、何事もなかったようにコーヒーを口に運ぶだけ。だが、いつもより仕草の硬い様子が、彼の内心を雄弁に物語っていた。
ローズはその様子にくすりと笑みを洩らし、場を穏やかに和ませるように口を開いた。
「さて……そろそろ事件のことも、ちゃんと整理しておきましょうか。みんな、気になってるでしょう?」
その声を合図に、黒猫亭のテーブルに流れていた甘やかな空気は、少しずつ現実的な色を帯びていった。




