第41話、深淵に潜む者
ジンカの笑い声がようやく途切れる。
その代わりに浮かんだのは、余裕めいた微笑だった。
真実を突きつけられたというのに、その声音には恐怖の色は欠片もない。怯むどころか、むしろ愉しむように口元を緩める。
その余裕は――圧倒的な力を持つ者だけが見せるもの。
「……なるほど、やるじゃないかクロマくん。やはり君は荷物持ちにしておくには勿体ない男だった」
真実を暴かれてなお、彼の笑みは揺らがなかった。むしろ追い詰められた状況すら余興のように受け止めているかのよう。
「それにしても……本当に惜しいな。イクスが馬鹿な真似をしなければ、疑念の種が蒔かれる事もなかっただろうに。奴の浅ましい嫉妬心が、私の完璧な帳尻を狂わせたのだ」
嘆息混じりに言いながらも、その声音には怒りではなく皮肉めいた愉悦がにじむ。
「荷物持ちが鍋をかき混ぜ、その姿にスノウが笑みを向ける――ただそれだけであの英雄気取りは発狂した。哀れなものだ。おかげで君に考える材料を与えてしまった。自作自演のやらせ配信で、自分の承認欲求を満たす小物。罪を擦り付けるなら実にちょうど良い駒かと思っていたが……奴はあまりにも愚か過ぎたようだ」
ジンカは唇の端を吊り上げ、挑発を込めた眼差しでカルを射抜く。
その視線は冷たくも愉しげで、追い詰められた状況すら余興に変えてしまうようだった。
「それでどうする? ここで私を斬るつもりか?」
「出来れば無傷のまま、生け捕りしたいところだ。お前には聞きたい事が山ほどあるからな」
「それが愉快な話題だと私も楽しめるのだが」
「ワイバーンの召喚に使われた虚喰晶を、お前がどうやって手に入れたのか。ダンジョン配信者でもないお前が何故、階層外の魔獣を召喚する必要があるのか……どうしてイクスに罪を擦り付けようとしていたのか。他にも山ほど。ひとつくらいはお前も楽しめるかもしれないぞ」
ジンカは肩を竦め、わざとらしくため息を洩らす。
「冥土の土産になら話してやっても構わないぞ。君が向こうでワイン片手に楽しめるよう、特別にな」
彼は口元を歪め、嫌悪を隠さぬままも、それをあえて愉快げに見せていた。
「こっちは生きたまま、じっくりと聞かせてもらうつもりさ。それが力づくになってもな」
ジンカの喉奥から、くぐもった笑いが零れる。それは愉悦というより、闇に爪を立てる不快な音のように聞こえた。
「本当に出来るのか? 君は所詮Cランク、実力も限られているはずだ。真実を暴くまでは立派だったが……ここから先は君にとって分不相応な舞台だと思うがね」
ジンカの声音は静かなまま、だが挑むような冷笑がにじむ。
「それとも、その木の裏で息を潜めている――スノウ・デイライトに後は任せると言ったところかな?」
ジンカの視線がカルの背後を射抜く。
まるで最初からそこに気づいていたかのように、薄く笑みを深めた。
「……っ!」
名を呼ばれた瞬間、木の陰で息を潜めていたスノウの身体がびくりと震えた。
気配を殺していたはずなのに、彼女は見抜かれていた。
驚愕が入り混じった表情のまま、ゆっくりと木の陰から歩み出る。
スノウはカルと共にこの場にやってきており、二人の会話を聞きながらカルの指示で身を潜めていた。
いざという時にはすぐに飛び出し、剣を振るえるように。援護の為、そして決定的な証拠を押さえる為に。
だがジンカは、その気配を最初から感じ取っていたのだ。
月光が彼女の銀色の髪を照らし、揺れる青い瞳がジンカを真っ直ぐに捉えた。
スノウの中に相手が一筋縄ではいかぬ存在だと悟った緊張が入り交じる。
「……気付いて、いたのですね」
小さく絞り出す声。
その問いかけに、ジンカは刃を向けられながらも笑みを崩さなかった。
「当然だ。どれほど静かに息を潜めても、私からは逃れられない」
愉悦すら滲ませ、彼は肩を揺らす。
「しかし私も舐められたものだ。剣を向けるのはたかだかCランク冒険者。そしてAランク冒険者のスノウ・デイライトが貴様らの切り札だと? それで私をどうにか出来ると思っているのか」
ジンカはあざけるように鼻で笑う。
その声音には焦りも恐怖も一切なく、むしろ楽しげですらあった
スノウは剣を抜き、静かに構えを取った。
その眼差しは揺るぎなく、銀の髪が月明かりに照らされて淡く揺れる。
「余裕でいられるのもここまでです。あなたの経歴はAランク冒険者でレベル34。わたしと同じAランク冒険者だとしても、こちらのレベルは36です。実力はわたしが上……あなたはここで素直に降参するべきです」
その宣告に、ジンカの肩が震えた。
だがそれは怯えではなく、噴き出す笑いを堪えていたからだった。
「……くだらんな」
嘲るように言い放ち、唇の端を吊り上げる。
次の瞬間、森を圧するような気配がジンカからあふれ出した。
「私が世間に見せている経歴が全てだと思っているのか? レベル34のAランク冒険者、そんなものなど私にとってただの飾りに過ぎん」
「あなたは一体……何を言っているのですか」
スノウは息を詰まらせ、剣先を揺らさぬまま声を荒げる。
その青の瞳が大きく揺れ、理解を拒むようにジンカを凝視した。
「貴様らは読み違えていた、という事だ。目に見える『表』側の情報を鵜呑みにし、私という存在に大きな隙を見せた。万全の備えを怠り、AランクとCランクというたった二人の布陣で決戦に挑んだ。それは大きな間違いだ」
ジンカの眼差しが鋭さを増し、夜気そのものを圧するような威圧感が広がった。
空気が重く張りつめ、月明かりさえ薄く翳んだかのように感じられる。
「真実の足跡は――もっと深い場所にある。50層を超えた先、そこはSランクの領域。私の本当のレベルは――57だ」
「レベル57……? そんな……っ」
スノウは息を詰まらせ、言葉を失った。
青の瞳が大きく揺れ、握る剣の切っ先が微かに震える。
彼女はAランク冒険者として隕石の迷宮の36層まで到達した事がある。
そこは、ほんの一瞬の油断が死を招く熾烈な領域だった。数歩先へ進む事すら常に命の危機があった――そう思わざるを得ない程の場所。
一流の冒険者と評される彼女でさえ撤退を余儀なくされ、36層のその先を望む事は出来なかった。
だが、目の前の男は言ったのだ。
50層を超え、更にその深淵の57層にまで至ったと。
――そこは人類最強のSランク冒険者だけが足を踏み入れる事を許された領域。
未知と死が入り混じる深淵であり、到達を口にする事すら畏怖の対象となる場所。
スノウにとっては夢のまた夢であり、どれだけ鍛え上げようとも永遠に届かない壁だと思っていた。
その領域に、この男は既に足を踏み込み、57層という常軌を逸した深さにまで至ったと言うのだ。
スノウの呼吸が乱れる。
握る剣の重みが、かつてない程に手に食い込み、緊張で指先が微かに震えた。
ジンカはその様子を愉悦の色を帯びた瞳で眺める。
「レベル36のAランク冒険者が私の前でどれだけ無力か、証明してやろう――恐圧」
その声と同時に――世界が変わった。
ジンカの全身から、スキル『恐圧』が迸る。
黒い靄のような気配が渦を巻き、森の空気そのものを歪ませていった。
大地が沈む錯覚。
夜の闇が凝縮し、月明かりさえ届かない深淵に閉ざされる。
スキルによる圧倒的な精神攻撃。
目に見えぬ重圧は恐怖となって精神を貫き、スノウの肺を押し潰すように締め付けた。
「――っ!」
息が詰まり、膝が震える。剣を握る指が力を失い、今にも零れ落ちそうになる。
心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖が全身を駆け巡り、視界が白く揺らいだ。
――これ以上は、立つ事さえままならない。
その瞬間、前へ踏み出した影がスノウを覆った。
「大丈夫だ、スノウ」
カルだ。
彼が盾のように立ち塞がった刹那、スノウを蝕んでいた圧力が嘘のように和らいだ。
「……なに?」
ジンカの瞳が初めて揺れる。
恐圧は、ただの威圧ではない。
精神への魔力攻撃であり、自身より魔力の低い相手を気絶や恐慌状態に陥れる。
その影響を真っ向から受けてなお、平然と立っている――たかがCランク冒険者のはずの男が。
「馬鹿な……なぜ貴様には効かない?」
驚愕の声が、静寂の森に落ちる。
カルの横顔は月光を受けて冷ややかに輝き、淡々と答えた。
「――表向きの肩書で相手を欺いていたのは、お前だけじゃなかった。そういう事だ」
「ならばCランク冒険者という経歴はダミー? そうか……やはり優秀すぎるとは思ったが」
ジンカの声は歓声でも喝采でもない。静かに、しかし確実に突き刺さる愉悦。
「Cランクの荷物持ち……私はそう思い込まされていたようだな」
唇の裏で笑いを噛み殺しながら、ジンカはカルを見据える。
「真の切り札はスノウではなく――君だったのだな、クロマくん」
空気がひやりと震えた。
月の光さえ薄れて見える。
まるでこの場だけ、世界から切り離された舞台裏にいるかのように。
「……私のようにSランク冒険者に匹敵する実力を隠し持ち、何も知らぬ顔で荷物を担いでいたとは。そうして私をも欺き通した」
ジンカの瞳に宿るのは怒りではなかった。
驚愕を呑み込み、それすら愉しみに変えた歪んだ光。
「だが――」
掌に掲げられた虚喰晶が、音もなくひび割れる。
黒い亀裂から瘴気が漏れ、夜の森をじわじわと蝕んでいく。
「切り札を残しているのは、君達だけではない」
虚喰晶が砕け散った瞬間、森は悲鳴をあげた。
腐臭を伴う風が吹き抜け、大地は軋み、木々は灰へと変わり果てる。
夜空すら更なる黒に飲み込まれ、真なる闇が辺りに満ちていく。
「来い――不死の王!」
闇の渦から、骸骨の巨躯が這い出した。
眼窩に宿る蒼白い炎が瞬く度、大気は腐敗し、大地は黒く染まっていく。
その存在が立ち上がるだけで、森は死の領域へと変貌していった。
スノウの剣が小刻みに震える。
膝が凍りついたように動かず、呼吸が喉で詰まった。
「そ……そんな……あれは」
脳裏に蘇ったのは、幼い頃に母が読み聞かせてくれた四英雄の冒険譚。
そこに描かれた――かつて隕石の迷宮80層に現れた最強のアンデット。
最深部とされる100層を踏破した伝説の四英雄ですら、その討伐には命を賭すしかなかった。
幾度も死地を踏み越え、ようやく討ち果たし、後の世に伝説として語り継がれた――最悪の存在。
子供の頃は荒唐無稽な昔話だと思っていた。
だが今、その伝説の怪物が蒼白い炎を宿し、現実に立ちはだかっている。
「嘘……だって、あれは……もう倒されたはずの!」
スノウの声は震え、瞳には絶望の色が滲む。
そんな彼女の動揺を見透かすように、ジンカが口元を歪めた。
「四英雄が過去に倒したのは確かだ。だが――それで全てが終わったわけではない」
ジンカは虚喰晶から溢れ出す瘴気を愉悦に染めた眼で見つめる。
「100年前に起こったダンジョンの所有権を巡る世界大戦。王都メテオポリスは隕石の迷宮を守り抜く為、ダンジョンの奥底で眠るもう一体の不死の王を虚喰晶に封じ、最終兵器として用意していた。しかし各国で結ばれた停戦協定により、不死の王は使われぬまま闇へ葬られたが……私はそれを呼び戻したのだ。わかるか、この意味が。四英雄亡き今、私の手中には世界を滅ぼせるだけの力がある!」
スノウの青い眼に、深い絶望が刻まれる。
伝説に語られる最悪の魔獣。英雄譚の中でさえ倒す事が奇跡とされた存在。
――勝てるはずがない。
人類最強の四英雄ですら命を削って討ち果たしたというのに。
自分が抗える道理など、何処にもない。
喉を押さえつけるような恐怖に、スノウは息を詰まらせた。
視界が暗転しかけた、その刹那――。
カルが一歩、前に出た。
夜気を裂くように立ちはだかる背中。
その姿は不思議な程に静かで、嵐の只中に差し込む月光のように揺るぎなかった。
「……安心しろ、スノウ」
淡々とした声音。
彼の言葉が胸奥に落ちた瞬間、押し寄せていた恐怖が引いていく。
「――あれの相手は俺がする」
月下に立つカルは――不死王の伝説すら踏み越えた者なのだから。




