第39話、夜の森で
高台から見下ろすダンジョンの景色は、月夜に照らされた絶景だった。
深い森が広がり、遠くには湖の水面が銀色に輝いている。
その光景の中で、ジンカは静かに風を浴びながら眼下を見渡していた。
「……不思議なものだな」
呟きは独り言のように穏やかで、夜の空気に溶けていった。
「地下に埋まった隕石の内部でありながら、こうして自然が芽吹き、天気があり、月が昇り、風が吹く。まるで新しいひとつの世界を覗き込んでいる気分になる」
その時、背後の茂みを踏む小さな足音があった。
ジンカが振り返ると、月明かりに照らされたカルが立っていた。
「今夜は冷えますね、ジンカさん」
「おや、クロマくん。もう休んでいると思っていたが……どうしたのかな?」
「眠れなくて、散歩を」
「なるほど。それなら見張りの番を代わってくれないかね? 今日は私も疲れてしまったよ」
「荷物持ちの自分では、そこまで務まらないでしょう」
「ふふ、冗談だよ。それに君はよくやってくれている。荷物持ちにしておくのが勿体ないくらいだ」
「そんな事はないです。自分は戦闘の腕が立つわけでもありませんし」
カルは肩をすくめ、ジンカの隣に並んで夜空を仰いだ。
「ワイバーンが倒された後、安全なエリアを探して移動していたらもう夜です。時間が経つのはあっという間ですね」
「まあな。ダンジョンは広い。こうして景色に気を取られているだけでも、一日など一瞬で過ぎてしまうものだ」
ジンカは短く笑い、風に揺れる枝葉へ視線を移した。
「今日の配信は一時中断という形になったが……明日からも攻略は続く。目的地は30層。長い旅になる」
「ええ。俺も覚悟しています」
「君も体を休めておいた方がいい。明日からまた忙しくなる」
「そのつもりです」
カルは頷き、少し間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「ただ、休む前にジンカさんと話しておきたい事があったんです」
「……いつになく真剣な表情だな。他ならぬ君の話だ。分かった、聞こう」
「ありがとうございます。ただでさえ護衛班のリーダーとして多忙なのに、俺の為に時間を割いてくださって」
「はは、気にするな。配信者の護衛も長くやっているが……君のように律儀な荷物持ちは珍しい」
ジンカは笑みを浮かべ、組んだ腕を解いてから言った。
「それで、話とはなんだ?」
カルは夜風に髪を揺らしながら、少し視線を落とした。
「今日のワイバーンの件です」
「あれには……驚いたな。まさか25層に出現するワイバーンが、群れになって8層という比較的浅い層に現れるとは」
「俺も驚きました。ジンカさんを始め、護衛の皆さんがいなかったら壊滅してもおかしくなかったと思います」
「我々は大した働きは出来なかったよ。あれはスノウさんの活躍あってこそだ」
ジンカはふっと笑みを漏らしながらも、その眼差しは何処か遠くを見ていた。
夜風が鎧の裾を揺らし、湖面に映る月光が彼の横顔を照らす。あの時の戦場は、今もジンカの瞼の裏に焼き付けているのだろう。
「彼女がいなければ……あの場で何人が生き残れたか分からない。彼女は真の英雄だ」
カルはその横顔を静かに見つめ、短く頷いた。
「仰るとおりです。スノウは本当によく頑張ってくれました」
「だが今日の出来事を、ただ振り返る為だけに私と話しているわけではないだろう?」
ジンカの声音は穏やかだったが、その瞳はカルを真っ直ぐに射抜いていた。護衛班のリーダーとして数多の場数を踏んできた男に、曖昧な言葉は通じない。
「……はい」
カルは静かに頷き、月光を浴びた横顔を僅かに伏せた。
「今日のワイバーン出現のような異常現象が、ダンジョン各地で頻発しているのはご存知ですか?」
「ああ、知っている。そのせいもあって護衛業を営む冒険者は休む暇もない状態だ。何処も人手不足で本当に大変だよ。全く……一体どうなっているんだか」
「俺の聞いた話だと、階層外の魔獣の出現には規則性があるらしいです。それについてはご存知ですか?」
ジンカは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに首を振った。
「いいや、そんな話は聞いた事もない。あれは突発的な異常現象だ。もし規則性があるなら……それこそ大発見だろうな」
「ですが実際に規則性がある事が分かって、その話をギルド長から教えてもらったんです」
「ギルド長から?」
ジンカが軽く目を瞬かせる。
すぐに腕を組み直し、真面目な声音で問い返した。
「ほう……それは興味深いな。どんな規則性だと言うんだ?」
「――階層外の魔獣は、決まって“ダンジョン配信の最中”にだけ現れるらしいです」
「……配信の最中に、か」
ジンカは小さく頷き、月明かりを受けて表情を変えぬまま視線を森の奥へ向けた。
「奇妙な話だな。だが、確かに記録が積み重なれば偶然とは言い切れなくなるかもしれない」
「はい。そして今回のワイバーンも配信中を狙ったかのように現れましたよね」
「……確かにその通りだ。ダンジョン配信の真っ只中に奴らは現れた。まるで狙いすましたかのように」
「そしてギルド長は仰っていました。階層外の魔獣の出現は偶然ではない。意図的に仕組まれたものだと」
「……なに?」
ジンカの目が見開かれた。
それは長年修羅場を潜り抜けてきた歴戦の男にしては、珍しく隙を見せた表情。
「意図的に……だと?」
彼はゆっくりと息を吐き、組んでいた腕をほどく。湖面を渡る冷たい風が二人の間を吹き抜け、鎧の金具が静かに揺れた。
「はい。魔獣が封じられた召喚石を利用し、それをダンジョン配信の“演出”に使っている。配信が盛り上がる瞬間を意図的に作り出し、多くの視聴者が熱狂するよう仕向けているんです」
カルの声は淡々としていたが、言葉の一つひとつは夜の空気を震わせるほど鋭かった。
「……なるほどな」
ジンカは低く唸り、視線を湖面に落とす。
「確かに、配信者にとって強大な魔獣との戦闘は“最高の見せ場”になるだろう。今やダンジョン配信者は星の数ほどいる。だが大半は無名のまま消えていくものだ。そんな厳しい世界で生き残る為には、何より“目立つ事”が重要になる……ならば中には、禁じ手を使ってしまう者がいてもおかしくはないか」
「――そうです」
カルは小さく頷き、月光を宿した瞳でジンカを見据えた。
「実際に、その禁じ手で自作自演を行う配信者を見つけました」
「……誰だ?」
「イクスさんです。彼は英雄と呼ばれ讃えられていますが……それは本来の実力によるものではありません」
カルの声音に一片の揺らぎもなく、告発の響きは高台の森に吸い込まれていく。
「イクスさんの行ってきた配信は、全て“やらせ”でした。演者を雇って危機的状況を作り出し、その相手を“偶然”現れたイクスさんが救う……視聴者が熱狂する場面を、最初から用意していたんです」
カルの言葉は夜気を裂き、揺るぎのない断定となって響いた。
「罠にかかった冒険者を助けるのも、怪我人を背負って救助するのも、魔獣に追われた人を助けるのも……全部です。偶然に見える瞬間は、全て仕組まれていた」
ジンカは黙したまま、その横顔をじっと見据える。月明かりに照らされた鎧が冷たく光り、しばし重苦しい沈黙が二人の間を流れた。
「……クロマくん」
やがてジンカは静かに疑問を口にする。
「君は一体、何者だ?」
荷物持ちに過ぎないはずの青年が、英雄と呼ばれる男の裏側をここまで言い切る。常識で考えればあり得ないことだった。
「――ギルド長から雇われたんです」
カルは視線を逸らさず、静かに告げた。
「俺の本当の任務は“階層外の魔獣出現の真相”を探ること。その為にギルド長からの推薦を受けたという形で、今回のコラボ配信に裏方として携わる事になりました」
「……ようやく合点がいった。君のような優秀な人間がただの荷物持ちであるはずがない」
ジンカは静かに笑い、肩越しにカルを見やった。
その目には驚きと、どこか納得したような色が入り混じっている。
「しかし、ギルドがそこまで把握して動いていたとは。最近、ダンジョンを騒がせていた階層外の魔獣騒動、その真相に辿り着く為に、君のような優秀な人間を潜入させていた。本当に驚いたな」
ジンカはそこで口を閉ざし、しばし湖面を見つめて動かなかった。
月光を映した水面がわずかに揺れ、風が二人の間を静かに吹き抜ける。重い沈黙が流れ、夜気が冷たさを増していく。
やがて、その静けさを破るようにカルがゆっくりと口を開いた。
「――そして、今回のワイバーン出現で確信に変わりました。イクスさんはダンジョン配信の演出に、階層外の魔獣を利用している、と」
ワイバーンの突然の襲撃は偶然ではない、必然であり予め仕組まれたものだとカルは言う。その告発は夜の冷たさよりも鋭くジンカの胸に突き刺さった。
「なるほど。クロマくんの話が真実なら、イクスは“やらせ配信”を行っていた前科がある。そして今回もワイバーン襲撃事件を意図的に引き起こし、スノウさんと共に行っているコラボ配信に“演出”を行った……と」
「――ええ」
カルは静かに頷き、言葉を継いだ。
「実際、ワイバーンの亡骸を調査したところ、召喚石が使われた痕跡が確認出来ました。あの場にいたのは俺達7人だけ。外部からの介入は不可能……つまり、内部の誰かが仕組んだと見るべきです」
夜風が枝葉を揺らし、葉擦れの音が重苦しい沈黙を一層際立たせる。
ジンカの瞳は細められ、底知れぬ静けさを湛えていた。
その重苦しい空気の中でカルは説明を続ける。
「今回は被害を最小限に抑える事が出来ましたが、イクスさんはこれからも配信を盛り上げる演出の為に、何度も階層外の魔獣を召喚するはずです。護衛班の皆さんも常に最高のコンディションを維持出来るわけではない。このまま30層を目指して配信を続けるとなれば、やがて甚大な被害に繋がるはずです」
ジンカは顎に手を当て、しばし考え込む。
やがてカルに視線を向け口を開いた。
「そうか。クロマくんはそれを私に伝える為に、ここへ来てくれたのか」
「はい、その通りです」
「私は護衛班のリーダーを任されている立場だ。配信者の二人、同じ護衛班のメンバー、そして荷物持ちのクロマくん、皆の命を守る責務にある。しかし階層外の魔獣の出現が続けば……いくら私達でも対処は不可能になる可能性がある……護衛班のリーダーとして、皆の命を預かる立場として、イクスの蛮行は捨て置けん」
ジンカは穏やかな声音のまま、断固として言い切った。そしてカルの目を真っ直ぐに見据え、深々と頭を下げる。
「クロマくん、話してくれて本当にありがとう。君のおかげで真実に辿り着けた。今ならまだ間に合う。皆を守る為に、イクスを止めなければならない」
ジンカは腰の剣に手を添えた。
その声音には迷いがなく、護衛班のリーダーとしての責務を果たそうとする決意が滲んでいた。
「奴は今、テントで休んでいるはずだ。……今のうちに動こう。証拠も揃っている。後は実行するだけだ」
「ええ。イクスさんを一緒に止めましょう。彼を捕まえてギルドに連行。それで一件落着です――」
カルは夜空を仰ぎ、静かに吐息を零した。
「――という簡単な話なら良かったんだがな。でも俺の追っている影はもっと厄介だった」
カルの吐息は冷え込んだ空気に紛れたが、その声色にはこれまでの柔らかさが欠けていた。
先程まで荷物持ちとして漂わせていた遠慮や自嘲は跡形もなく、代わりに氷刃のような気配が静まり返った空気に滲み出していた。
「……クロマくん、さっきと雰囲気が違うな。随分と“刺すような気配”を纏うじゃないか」
カルは目を逸らさず、月明かりを仰いだまま静かに答える。
「もう紳士な荷物持ちでいる必要がなくなったのさ。その影を追い詰める事が出来たから」
カルは腰に添えていた剣を抜き去り、その切っ先をジンカへ向けた。
闇に浮かんだ刃先が、息を詰まらせる程の冷光を放つ。
「それじゃあジンカさん――いや、ジンカ・レイゼイ。そろそろ本当の答え合わせといこうじゃないか」




