第3話、氷の姫
僅かな労働の対価にグリル・ボアサンドを受け取ったカルは、屋台から離れた公園のベンチで包み紙を開いた。
白く柔らかなパンに挟まれた分厚い肉は、鉄板の熱をまだ宿しており、切れ目から透明な肉汁がじわりと滲んでいる。
香辛料とハーブの香りが鼻腔をくすぐり、焼き目の香ばしさが更に食欲を煽った。
(……これが、現代の街の味か)
パンに歯を立てた瞬間、表面の柔らかさと肉の弾力が同時に押し返してきた。
噛み締めれば、濃厚な旨味と脂の甘さが口内に溢れ、熱い肉汁が舌の上に広がる。
その時にふと、四人の仲間達と焚き火を囲んで食べた硬いパンと干し肉の味を思い出した。
火加減も味付けもままならず、ただ空腹を満たす為だけに齧りついた、乾ききった肉と焦げたパン。
それでも、あの夜は楽しかった。
互いに背中を預け、冗談を飛ばしながら、少しの食料を分け合った。
あの笑い声も、焚き火の明かりも、今では遠い幻だ。
(……四人の仲間達は、もう生きていないだろうな)
彼らの痕跡が今も街に残っているかもしれないが、あれから信じられない程の長い時間が経っている。手掛かりを見つける事さえ難しいだろう。
胸の奥に重い鉛が沈んでいく。
自分だけが、見知らぬ時代に取り残された。
彼らの痕跡を探すべきか、それとも――。
「――いや、今は前を見て進むべきだ」
四人の仲間達と共にダンジョンの100層を突破し、ただ一人で更に奥深くへ挑むと決めたあの時。
己の選択の果てに孤独がある事は、とうに覚悟して、そして乗り越えてきたもの。
――過去を振り返れば足は止まる。
これはダンジョンの最深部、1000層を踏破した後の続き。
自分の冒険はまだ続いている。だからこそここで立ち止まるわけにはいかないのだ。
ならば今は、この世界を知り、生き延びる術を手に入れる事が先決だ。
何より重要なのは、この時代で立つ足場を得る事。
仲間達の痕跡を探すのは後でいい。
そう心の中で繰り返しながら、無言で、ひたすら咀嚼し、飲み込み、また齧る。
腹が温かさで満たされていく感覚に、カルはしばらく動くのを忘れた。
「……美味い」
静かに呟き、最後の一口を飲み下すと、手元には脂の染みた包み紙だけが残った。
それを名残惜しそうに見つめた後、カルは周囲に視線を移す。
公園には鮮やかな色の服を着た若者や、金属板――スマホと呼ばれる物を手に話し込む者達がいた。
ダンジョンにいた冒険者達もスマホを魔法で宙に浮かべて何かを行っていた。
きっとあれがこの街で生きる鍵なのかもしれない。
「そろそろ行くか」
腹は満たされた。次はこの世界でどう生きるかだ。
銀貨や銅貨は役に立たず、知る者もいない。頼れるのは己の腕と、かつての知識だけ。
「俺が出来るのはダンジョンに潜り、アイテムを持ち帰り、それを売って生計を立てる事だけ」
それが冒険者の生き方。
そしてカルはその生き方以外を知らない。
冒険者達の様子は随分と様変わりしているが、この街を支えているのは間違いなくダンジョンから入手出来るアイテム――それは昔も今も変わらないはずだ。
(ならば俺もまたダンジョンに潜るだけだ……今まで通りに)
屋台の男からもらったグリルボアサンドの肉も、ダンジョンの浅い層に出現するワイルドボアの肉を使っている。道を滑るように走る四角い金属の箱から出ていた魔力の霧、あれはダンジョンで採掘出来る魔石を燃料にしているのだろう。
時代が大きく流れても、この都市は今もなお、ダンジョンの恵みに依存している。
だからこそダンジョンへ再び潜りアイテムを集める。
それらを換金すれば、この時代の通貨となるものも、食い物も手に入るはずなのだ。
「よし……もう一度、隕石の迷宮へ戻るか」
浅い層で手っ取り早く金を稼ぐのが今はいいだろう。ダンジョンの奥へ潜ろうにも、既に1000層の攻略で物資は尽きている。手早く換金出来そうなアイテムも今は所持していない。
ダンジョンの深層で手に入った神話級のアイテムを売って金に替えるという手段もあるが……あれらは売るにはあまりにも惜しい代物だ。
「そうと決まれば善は急げ。ダンジョンに潜ってアイテムを集めよう」
狙いは回復系のアイテム。
需要が高く、冒険者達にとって必須の消耗品。
ヒーリングハーブ、ライフポーション、特に品質の良いものは高値で取引される。
(浅層なら魔獣も弱い。慣れた足で回れば、半日で相当数を集められるはずだ)
カルはベンチから立ち上がり、腰の剣の柄を軽く叩く。
刃は何度も鍛え直され、深層の神々さえ斬り裂いた相棒だ。時代は変わっても、これだけは信じられる。
視線を街の中心に向ければ、白い石造りの巨大な建物――ゲートが遠くに見えた。
人々の流れはそこへ集中し、冒険者達が次々と吸い込まれていく。
カルもまた彼らのように、迷いなくゲートへ足を向けた。
◆
――ゲート内の広場ではまた大勢の冒険者が賑わいを見せていたが、さっき来た時とは少し様子が異なっているようだった。
「……人だかりが出来ているな」
地上へ戻ってきた時、冒険者達は浮遊する金属製の板――スマホに向かって視聴者がどうだの、チャンネル登録して欲しいだのと騒いでいた。
だが今は広場の中央に向かって冒険者達が集まり、黄色い悲鳴と歓声が飛び交っていた。
人垣の向こうには――腰まで届く長い銀髪を揺らす少女が佇んでいて、彼らの歓声はその少女に向けられている事が分かる。
「うおおーっ! 氷姫様ーーッ! 今日も推してますーッ!」
「氷姫さまぁー! 回復魔法一回でいいからかけてー!」
スマホに向けて目立とうと必死になっていた冒険者達が、今はただ一様に少女を讃え、求めていた。
(……戦いの前の士気高揚、ではなさそうだな)
その光景はまるで舞台に立つ歌姫に向けられた熱狂そのものだ。
人垣の間から現れた少女は、雪のように白く清らかな姫騎士の鎧を纏い、胸元には淡く輝く水晶を抱いていた。腰まで流れる銀色の髪は光を浴びてきらめき、その周囲に柔らかな光を漂わせる。
年若く見えるその顔立ちは、まるで美の神が丹精込めて彫り上げた至高の彫像。桜色の唇は花弁のように柔らかく、鼻筋は滑らかに通り、輪郭は優美で曇りなき調和を描いていた。
瞳は磨き上げられたサファイアのように青く澄み、深い森の湖面を思わせる透明感を湛えている。その清らかな輝きを見つめれば、胸の奥に積もった淀みさえ洗い流されるかのようであった。
そして何より目立つのは――銀糸の髪の合間から覗く、しなやかに伸びる尖った耳だった。
(エルフの少女、か)
――エルフとはその長く尖った耳が特徴的で、メテオポリスより北東にある『聖王国』の森に住まう種族。
長命で魔法に秀で、特に回復と精霊魔法の扱いに関しては人間の追随を許さない。
カルの知る時代でも、エルフの治癒術士は王侯貴族すら頭を下げて迎え入れる存在だった。
(だが……あの少女は、エルフの中でもかなり特別な存在だろう)
少女の纏う光は、ただ魔力が強いというだけのものではなかった。
人々が自然と惹かれ、膝を折りたくなるような圧倒的な“格”がある。
そしてエルフの少女はそっと両手を胸の前で組み、祈るように瞼を閉じた。
「セレスティアル・ヒール」
次の瞬間、淡い金色の光が彼女の手元からふわりと広がり、周囲にいた冒険者達の身体を包み込む。
「うおおお……! 傷が……癒えていく……!」
「配信で疲れた体が、一瞬で……!」
「やっぱ氷姫様は神! まじ推せる!」
「うおおおっ! 今ので腰の痛みまで消えたぞ!」
カルはその光景を、静かに目を細めて見ていた。
(……回復系の大規模魔法か)
あの温かな波動は、ただの回復魔法で出せるものではない。ダンジョン深層で幾度も死線を潜ったカルの勘が告げていた。
(……強い。それも、相当だ)
氷姫と呼ばれた少女は、群衆に囲まれながらも全く動じず、一人ひとりに微笑みを返していた。
その周囲を、軽装備の護衛らしき男女が固め、群衆との距離を巧みに保っている。
「スノウ様、そろそろ時間です」
「分かりました。それでは皆さん、次は配信でお会いしましょう」
軽く手を振ると、群衆は一層大きな歓声を上げた。
スノウは護衛に囲まれながら、ダンジョンへと繋がる転移門の中へ消えていく。
残されたのは興奮冷めやらぬ冒険者達のざわめき。
「……あの女、何者だ?」
カルが呟くと、隣にいた中年の冒険者が目を丸くした。
「おいあんた、氷姫様を知らねえのか?」
「ああ、知らんね。氷姫って事はエルフの国の王女様なのか?」
「そういうのじゃねえよ。氷姫様ってのはファンからの愛称で、本当の名前はスノウ・デイライト。チャンネル登録数600万人のダンジョン配信者でレベルは36。Aランク冒険者に名を連ねる正真正銘の英雄だ」
「レベル? 今の冒険者はそれを競っているのか」
「んあ? レベルを知らねえって冗談だろ?」
「本当に知らない。今初めて聞いた」
「お前、歴戦の猛者みたいな雰囲気出してたのに……実は駆け出しの冒険者だったのかよ。まあいい、先輩として特別に教えてやる」
中年の冒険者は腕を組み、得意げに胸を張った。
「レベルってのは冒険者が何処までダンジョンを潜ったかを示していたな、たまに最終到達層って呼ぶ奴もいる。ダンジョンは奥に潜れば潜る程、出現する魔獣も強くなっていくだろ。それと同じように何処までダンジョンを潜ったかで冒険者の強さが分かる。つまりレベルってのは冒険者にとって一番分かりやすい物差しなのさ」
「確かに合理的ではあるな」
カルのいた時代では、どんな魔獣を倒したか、どんな依頼をこなしたか――実際の中身を見て冒険者の力量を測ったものだ。
だが今は違う。
冒険者の強さの証明は、誰にでも分かる数字に置き換えられていた。
レベル、チャンネル登録者数、動画再生数、収益化の金額など。
ゲートの巨大な転移門の脇では、それらを示した電光掲示板が煌々と輝く。
そこに並んで冒険者の名前が高らかに掲げられているのも、強さの証明が数字に置き換わったからだ。
今日もまた、群衆はそれを眺めて一喜一憂し、冒険者達を数字で語り合う。
「なるほど……数字か」
小さく呟き、瞼を伏せる。
力そのものよりも、力をどう魅せるかが重視される時代。
人々が注目し、喝采を送り、金と名誉が流れ込むのは、実力そのものではなく数字に裏打ちされた人気。
それはカルにとって理解し難い現実でありながら――同時に、残酷なほど合理的でもあった。
(彼らの言葉を借りるなら、俺はレベル1000の冒険者という事か)
カルは苦笑を浮かべながら、ダンジョンの中へ消えていったエルフの少女を思い出していた。
「そして彼女が、この時代の英雄……そして、ハイシンシャね」
カルの中で、二つの言葉が重く響く。
この時代の冒険者の在り方を象徴する存在――それが氷姫と呼ばれる少女、スノウなのだろう。
確かにカルの時代でもダンジョンの30層を越えられる冒険者はごく僅かで、彼らは歴史に残るような実績を打ち立てていたものだ。
「そんな英雄もこの時代ではハイシンを行っていると。本当にハイシンとは一体なんなんだ……?」
しかし、その答えを知ったところで今のカルがどうにか出来るわけではない。
まずはこの時代の金を手に入れる。
そして寝床を確保し、腹を満たし、それからだ。
(考えるのはいつでも出来る。だが金と食い物は今すぐ必要だ)
カルは視線をダンジョンへと繋がる転移門に向け直した。
スノウと呼ばれた少女の姿はもう見えない。だが、その背を追うように次々と冒険者達がダンジョンの中へと消えていく。
カルもまた、その流れに紛れるように歩みを進めた。