第38話、本物の英雄
轟音と炎が消え、岩棚には静寂が戻っていた。
倒れ伏したワイバーンの亡骸は、巨体ゆえになおも岩盤を震わせている。冷気を帯びた鱗はひび割れ、黒煙を吐き出しながら微動だにしない。
その傍らでスノウは剣を下ろして深く息を吐いた。
額を伝う汗が頬を濡らし、絹のような白銀の髪がしっとりと肌に張り付く。
彼女の青い瞳は曇る事なく澄みわたり、呼吸を整えるその姿は、一人で竜を退けたとは思えぬ程に凛として美しい。
勝利の余韻に立つ少女は、見る者の胸を奪う程に気高く、そして眩しかった。
護衛の冒険者達が駆け寄り、口々に感謝を述べる。
「スノウさん……命を救われました!」
「本当に……本当に、ありがとうございます……!」
スノウは小さく首を振り、息を整えながら微笑んだ。
「わたしは……”やるべき事をやっただけ”です。えへへ……」
その言葉を口にした瞬間にスノウの胸の奥が熱く震える。
それはいつもカルが口にするものだった。
どれほど強大な魔獣を退けても、どれほど信じられない力を示しても、彼は驕らず淡々と「やるべき事をやっただけ」と告げる――その姿にスノウは幾度となく心を奪われてきた。
彼と同じように戦い、同じように守り、ずっと憧れてきたその言葉を言う事が出来た。
――その事実がスノウの胸を熱く震わせる。
憧れの人と肩を並べられたような誇らしさがこみ上げてくる。
(わたしも……カル様に少しは近づけたでしょうか)
嬉しさと誇らしさ、そして照れくささが一度に押し寄せてくる。
頬がほんのり赤く染まってしまうのを感じながら、それでもスノウは小さな笑みを浮かべた。
その時ちょうど、スノウの煌めく青い瞳と、カルの澄んだ黒い瞳がふっと重なる。
スノウの瞳を見つめながら、ただカルは静かに頷いた。
言葉を交わす必要はなかった。それだけで「よくやった」と告げられたのが分かったから。
スノウの頬は更に熱を帯び、けれど視線を逸らさなかった。
嬉しさが全身を満たしていく。
そのやり取りは、ほんの一瞬の出来事。
それは互いに言葉を尽くすよりも深く、確かに心を結ぶもの。
カルとスノウの間だけは、ひっそりと、しかし揺るぎない絆が築かれていた。
――そこへ。
岩棚の端からよろめく影が現れる。血に濡れた鎧、肩で荒く息をする青年。
イクスだった。
彼もまた、もう一体のワイバーンと死闘を繰り広げ、どうにか仕留めてきたのだろう。剣を杖にし、膝を震わせながら立っている姿は、確かに命を懸けた戦いの証を刻んでいた。
だが――。
彼の背後に広がる配信画面は閑散としていた。
コメントはほとんど流れず、視聴者数のカウントは見るも無惨に減少している。
かつて英雄に向けて満ちていた熱狂は、いまや見る影もない。
〈なんでスノウちゃん一人に任せてたんだ〉
〈結局、仲間見捨てて自分だけ戦ってただけじゃん〉
〈自分をかっこよく見せたいだけの配信だったんだな〉
〈なんか急に冷めたわ。氷姫様っていう本物を見ちゃったから〉
〈視聴者数見ろよ……みんなスノウちゃんの配信に行ってる〉
〈英雄ごっこはもう無理だろ〉
冷え切った言葉の数々が、かつて熱狂の舞台だったはずの画面を容赦なく突き刺す。
一方で、スノウの配信画面はなおも爆発的にコメントが流れ続けていた。
流れるのは賞賛の声、暖かな声援がいつまでも画面を埋めつくしている。
コラボ配信として二人は同じ場所に立っているはずなのに、その差は残酷なほど歴然としていた。
イクスは配信の画面を見やり、唇を噛みしめた。
どれほど自分が力を振り絞って竜を斬り伏せても称賛の声は戻らない。
視聴者は――気付いてしまったのだ。
ただひたすら仲間を守る為に命を懸けて飛竜に立ち向かった少女。
その真っ直ぐな姿を見た後では、もうイクスの戦いは虚飾にしか映らなかった。
ただ自分の栄誉の為に、ただ自分の名声の為に、仲間を見捨てて剣を振った。
その姿はもう、誰の心も動かさない。
胸を抉られるような敗北感がイクスを覆う。
震える手で剣を杖にし、ただ項垂れるしかなかった。
――その時。
「イクスさん」
柔らかな声が彼の耳に届く。
顔を上げれば、疲労の色を滲ませながらも、微笑を湛えた少女が立っていた。
スノウはゆっくりと歩み寄り、ためらいなくその手を差し伸べた。
額には汗が光り、絹糸のような髪が頬に張り付いている。
けれど青い瞳は澄み切り、誰も否定しない優しさを湛えていた。
「……ひとりで、もう一体のワイバーンを倒してくれたんですね。イクスさんは立派です、偉いです」
穏やかに笑む唇が、そっと続ける。
「イクスさんが無事に戻ってきてくれて……わたし、嬉しいです」
その声音は、誰を責める事もなく。
ただ真実を告げ、仲間を労うだけの澄んだ響きだった。
見上げた先にあった少女の微笑みは――眩しかった。
血に濡れた鎧を纏う自分など容易に抱きとめてしまう程に、清らかで、揺るぎなく、尊い。
(……女神、だ……)
イクスの胸にはその言葉しか浮かばなかった。
そして同時に己の愚かさに気付く――。
スノウを自分のものにしたいと欲していた。
彼女の隣に立てるのは自分だけだと驕っていた。
――それが間違いだった事に。
仲間を守る為に命を懸け、恐怖に抗って剣を振るった少女の姿は、あまりにも眩しかったのだ。
そしてイクスは堪えきれずに膝をついた。
胸の奥からせり上がってくるものが熱く、視界が滲む。
自分勝手な想いで戦場を乱し、無謀に突っ込んでしまった自分。
仲間を危険な目に遭わせ、愚かさを晒したはずなのに――。
それでもスノウは、責めず、咎めず、ただ心から案じてくれた。
そして無事を喜び、勝利を称えてくれた。
胸の奥で渦巻いていた独占の欲も、勝手な理想も、全てが一瞬で吹き飛んでいく。
(スノウちゃん……僕は間違っていたよ)
恋い慕う感情など、とうに越えていた。
彼の胸を満たすのは、限りない敬服と憧れ。
(いつか……いつか僕も、君のように本物の英雄になってみせるよ)
その誓いは、これまでの虚飾に満ちた欲望とは違う。
砕け散った心の底に、初めて生まれた純粋な炎だった。
――やがて。
状況を確認し終えたジンカが険しい顔で戻ってきた。
「……今日の配信はここまでにしよう。ワイバーンの想定外の襲撃にあった今、ダンジョン攻略を続けるのは難しい。ここで一時中断の判断を」
ジンカの冷静な進言に、スノウは静かに頷き、イクスも項垂れるように同意した。
他の護衛達も安堵と緊張の入り混じった声で賛同する。
「ああ、これ以上は流石に……」
「一度、安全が確保出来るエリアにまで撤収すべきだな……」
「では配信を中断しますね。イクスさん、二人で視聴者さん達に説明しましょう」
「そうだね……皆なら分かってくれるはずさ」
スノウとイクスは緊急事態の為、配信を中断するという報告を視聴者達に行い、そこで静かに頭を下げた。賑わいを極めたコメント欄も、画面が暗転すると同時に静まり返る。残ったのはまだ硝煙と冷気の漂う戦場だけだった。
――その喧噪の余韻が消えゆく中。
カルはただ一人、倒れたワイバーンの亡骸へと歩を進める。
そして冷たい眼差しで鱗を調べ始めていた。
「クロマくん……何をしているんだい? 撤収しよう、ここは危険だ」
訝しげに声をかけるジンカに、彼は淡々と答える。
「貴重なワイバーンの素材です。流石に異界の宝袋でも丸ごと運ぶ事は出来ませんが、皆さんの役に立つ希少部位くらいは回収しておこうと思いまして」
「なるほど。確かにワイバーンの素材はそうそう手に入るものじゃない」
ジンカは腕を組み、ふっと目を細めた。
「この緊急事態でも冷静に動けるとは……君は本当に頼もしいな。普通なら恐怖や混乱で頭が回らなくなるところだろうに」
その声音には驚きよりも、むしろ確かな信頼が滲んでいた。
「さすがだよ、クロマくん。君が仲間で良かった」
ジンカの言葉に、カルは軽く肩をすくめただけだった。
殊更に誇る事もなく、ただ当然の務めを果たすかのように。
「……これも荷物持ちの仕事ですから」
その淡々とした口調に、ジンカは思わず苦笑を漏らす。
「はは……そういうところも、実に君らしいな。まあ荷物持ちの仕事もあるだろうけど、あまりここに長居しないように。またワイバーンのような危険な魔獣が現れてもおかしくはない」
「分かりました。すぐに済ませます」
そうしてジンカが護衛の隊列に戻っていく姿を見てから、カルはワイバーンの亡骸に向かって再び手を伸ばした。
こうして魔獣の素材を回収するのも荷物運びの仕事だ。
異界の宝袋ですら収まりきらぬ巨体から素材を剥ぎとる為――常識に沿った理由付けは、もっともらしく響く。
だがその眼差しは、冷えた鱗でも、剥き出しになった骨でもなく、別の“痕跡”を探していた。
虚喰晶の痕跡――異質な魔力の残滓を拾い上げる為に、カルは亡骸の奥深くまで視線を巡らせていた。
血管に張り巡らされた魔力の流れが歪んでいる。
その不自然さを確かに感じ取り、カルは瞳を細めた。
(……間違いない。これは虚喰晶で召喚された魔獣だ)
その確信は重い。
――この場にいたのは、自分たち7人だけ。
周囲に他の人間がいた気配はなく、突如としてワイバーンの魔力が発生した。
(つまり、虚喰晶を使ってワイバーンを召喚した人間は……この中にいる)
撤収が始まり、スノウとイクス、護衛達が進み始めた直後。
隊列の一番後ろの離れた場所を歩きながら、カルはポケットからスマホを取り出した。
そして連絡先の画面を開いて通話の発信アイコンをタップする。
少し後、冷静な女性の声が応じた。
『こちらローズ。カル、調べはついた?』
「ああ。さっき出現した階層外のワイバーン。虚喰晶で召喚された個体だった。間違いない」
『そう。配信はこちらでも確認していたけど……やっぱりね』
「問題は、この場にいる誰かが、召喚者だという事だ」
短い沈黙後、すぐにローズが切り返す。
『私の方でも調べていたけど……やはりイクス・オルナットが首謀者の可能性が高いわね。これまでイクスが行ってきたダンジョン配信、その全アーカイブを確認して分かった事があるの。結論から言うと、あまりにも不自然な点が多すぎるわ』
受話口から響くローズの声は、冷ややかで迷いがない。
『イクスはヒーロー系ダンジョン配信者として今まで活動してきたのは知ってるわね。ダンジョンで偶然出くわした罠にかかった冒険者を助ける。偶然出会った怪我人を背負って救助する。偶然遭遇した魔獣から追われる人を救い出す……』
「それがきっかけでイクスは英雄と呼ばれるようになったんだよな」
『ええ。実際そういう場面が彼の配信には何度も映っていた。でも――そういうトラブルに遭遇する回数があまりにも多すぎるのよ。普通にダンジョンに潜っても同じ状況に遭遇する事なんて稀、それが彼の配信では繰り返されていた。これは異常と言っていいレベルね』
カルは黙したまま歩を進め、ローズの言葉に耳を傾ける。
『それで彼が“救助”した冒険者達の顔を一人ずつ照合してみたの。すると、奇妙な一致が見つかった。そのほぼ全てが――ある芸能プロダクションに所属する冒険者だったのよ』
言葉の一つひとつが、冷徹に真実を突き刺す。
『つまり、怪我人も、罠にかかった人も、魔獣に襲われていた人達も……全ては仕込み。イクスは彼らを演者として雇い、ダンジョンの中で“偶然の救出劇”を演出していた。自らが英雄と呼ばれ世界から慕われる為に、自作自演のやらせ配信を続けていたってわけね』
ローズの冷然とした断言が受話口から響く。
カルは沈黙を崩さなかった。ただ視線を落とし、歩みを緩める事なく黙考する。
(……やはり、そういう事か)
驚きはなかった。むしろ納得に近い感情だった。
薄々勘づいていた事だ。イクス・オルナットという男が、どう取り繕っても本物の英雄には程遠い存在であると。
カルの知る本物の英雄達の輝きと比べれば、イクスの存在はあまりにも薄っぺらで、空虚で、小物すぎた。
(あの男が“英雄”と呼ばれる為には……何か普通ではない事をする必要があると、ずっと思っていた。なるほど、全部が作り物だったわけた)
口元に皮肉な笑みが浮かぶ事はなかった。
淡々と、冷ややかに現実を受け止める。
ローズの声音にも怒りや侮蔑はなかった。ただ事実を告げる冷静さのみがあった。
『今回のワイバーンも、その延長線上にある可能性が高いわ。コラボ配信を盛り上げる為に虚喰晶を使って魔獣を召喚し、演出を過激にした――そう考えるのが自然でしょうね』
カルは静かに息を吐き、低く答える。
「……確かに、そう推理するのが妥当だな」
『でしょう。シャノワールからイクス捕縛の為に精鋭を派遣するわ。ズゴットの時のような大事件に発展する前に、早めに芽を摘む必要がある。そしてイクスから今度こそ虚喰晶についての情報を聞き出すのよ」
カルは歩みを止めた。
ワイバーンから剥ぎ取った一枚の鱗を見つめながら。
彼は思案の間を少し置いて静かに言葉を紡いだ。
「少し待って欲しい。その前に確かめたい事がある」
『……どういう事?』
「俺はローズと違う先を見ているようだ」
淡々と告げる声の奥には、確信めいた響きが宿っていた。
「スノウが光で照らしてくれたおかげで、本来なら闇に沈んでいた影が浮かび上がったんだ。俺が追うべきは、その影の正体だ」
『……そう。つまりあなたは別の答えに辿り着きそうなのね』
ローズの声音が僅かに和らぐ。
『分かったわ。こういう時は現場の判断を尊重する――それがシャノワールのやり方だもの』
「助かる。詳しい内容は後で連絡する」
カルは短く告げ、通話を切った。
ポケットにスマホを収め、彼は一度だけ息を吐く。
スノウは強い信念で世界を照らす光そのものだ。
誰もが憧れ、胸を震わせる程の輝きを放つ存在。
だが――光が強ければ強い程、必ずそこには濃い影が生まれる。
その影を暴き、断ち切るのは表舞台に立つ者の役目ではない。
(表舞台で輝くのはスノウの役目だ。そして俺は舞台裏で影を追う)
カルはそっと視線を上げた。
虚喰晶を操り、ワイバーンをこの場へと呼び寄せた黒幕。
その輪郭は既に彼の胸の奥で形を結んでいる。
(……ここからは俺の番だ)
歓声と熱狂の残響が遠のいていく中、影の戦いが静かに幕を開けようとしていた。




