第34話、暖かな空気
「……ふぅ」
スノウは器を膝に置き、小さく息を吐いた。
頬はほんのり赤く染まり、青い瞳は夢心地のように潤んでいる。
「もう……お腹いっぱいです……」
両手でお腹を押さえ、満ち足りた笑顔をこぼす。その姿は、見ている者まで温かくしてしまう程に愛らしかった。
スノウがふと顔を上げた時、カルがじっと自分を見ているのに気付いた。
「……あれ、クロマさんどうしましたか?」
小首を傾げるスノウに、カルは苦笑を浮かべる。
そして手を伸ばして彼女の頬に指先をそっと触れさせた。
「え……えぇっ!?」
突然頬を触られて驚くスノウ。
そんな彼女に向けてカルは苦笑しながら続ける。
「いや。頬にご飯粒がついているから」
そう言って指先でやさしく摘み取り、何事もなかったかのように鍋へと向き直る。
スノウの心臓が小さく跳ねた。
頬に残る微かな温もりが消えず、青い瞳が大きく瞬く。
「っ……あ、あの……ありがとうございます……」
耳の先まで赤く染まり、思わずうつむく。
焚き火の光に揺れる銀糸の髪が頬にかかり、更にその照れ隠しを強調していた。
そんなスノウの姿に護衛達の表情も自然と和らいでいく。
「氷姫様が……あんなに幸せそうに……」
「なんだかこっちまで満たされた気分になるな」
「配信じゃ絶対見れねえな。裏方の特権ってやつだぜ」
笑い声が広がり、夜の遺跡には穏やかな空気が満ちていった。
そうして食事が終わりに近付いてきた最中、周囲の警備に当たっていた護衛の冒険者がカル達の元へ戻って来る。
「君達の会話を聞いていたら、随分と楽しそうで羨ましくなったよ」
落ち着いた声が焚き火の輪に響く。
戻ってきたのは全身を黒い鎧に包んだ長身の男――護衛達のリーダーを務めるAランク冒険者だ。
これまで彼は兜を深く被り、表情を一切見せなかった。だが今、その兜を外して焚き火の明かりに素顔を晒している。
精悍な輪郭に鋭い眼差し。
艶のある青い髪がさらりと流れ、焚き火の明かりを受けて深い群青の輝きを帯びる。
険しさの奥に誠実さを宿したその顔立ちは、護衛達の中でも一際目を引く程の整った容貌だった。
護衛のBランク冒険者の一人が立ち上がり、リーダーの男の前に立つ。
「ジンカさん、そろそろ見張りも交代の時間ですね。周囲の様子はどうでした?」
「周囲は異常なし。魔獣の気配もなかった。聖水の効果が効いている」
「分かりました。それじゃあ聖水の効果が持続している内は、あまり気を張らなくても良さそうですね」
「ああ、私も少し休ませてもらうよ。いい香りがするものだから、腹も限界でね」
ジンカと呼ばれた男は苦笑を浮かべつつ腰を下ろし、さっき立ち上がった護衛のBランク冒険者が見張りを代わってダンジョンの闇へと歩み出ていった。
そんなジンカに向けてカルはカレーライスを皿に盛り、にこやかに差し出した。
「お疲れさまです。熱いうちにどうぞ」
「クロマくん、ありがとう」
ジンカは短く礼を言い、スプーンを手に取る。
ひと口すくって口に運んだ瞬間、彼の鋭い眼差しが和らいだ。
「さっきの君達の会話は聞こえていたが、確かにこれは店で食べるよりも美味しい味だ。まさかダンジョンで、こんな本格的な料理にありつけるとは思わなかった」
ジンカは二口、三口とスプーンを動かしながら、思わず小さく笑みを零した。険しさの残る顔立ちに柔らかさが加わると、場の空気も自然に和らぐ。
「……クロマくん、君はCランク冒険者とは思えないな。料理も野営の準備も、まるで熟練の支援役だ」
「いえいえ。自分の出来る事をやっているだけです」
カルは肩をすくめ、気負う事なく笑ってみせる。その気さくさに護衛達の表情も緩み、スノウも安心したように頬をほころばせた。
そしてジンカはゆっくりと頭を下げる。
「……クロマくん。これまで君に失礼な態度を取ってすまなかった」
焚き火の灯りに照らされる横顔は真剣そのもので、軽い冗談やその場しのぎではないのが誰の目にも分かった。
「料理は店顔負けの腕前、野営の準備も見事で、聖水の使い方も的確だ。周囲に魔獣の気配は全くない。それに、異界の宝袋も本物だった。君は荷物持ちとして完璧だ。非の打ち所など一切ない」
言葉を区切る度、ジンカの瞳には確かな評価が宿っていく。
「正直に言おう。私は君を侮っていた。Cランク冒険者がダンジョンの30層を目指す配信に加わる事など、実力のない人間が名声目当てに混ざってきたと、軽薄な真似だと決めつけていた」
その声には後悔の色が滲んでいた。護衛という立場ゆえに警戒心を抱くのは当然だったが、それを越えて無礼に接していた自覚があるのだろう。
「だが……今日一日で考えを改めた。私が間違っていた。本当にすまない。君は己の役割を熟知し、仲間を支える力を持っている。少なくとも私は、もう君を“ただの荷物持ち”だとは思わない」
言葉は重く、真っ直ぐだった。
護衛達も頷き合い、同じ気持ちを抱いている事を表情に示す。中には「悪かったな」と小さく呟く者までいた。
スノウはそんなやり取りを見つめながら自然と笑みを浮かべる。カルの実力を理解し、彼を認める声が輪の中で広がっていくのが自分の事のように嬉しかったのだ。
カルはほんの僅かに目を細めただけで、殊更に誇る事もなく、淡々とした調子で応じた。
「ありがとうございます。そう言ってもらえるだけで十分です」
焚き火のぱちぱちと弾ける音が、穏やかな空気を一層際立たせていた。
ジンカは言葉を切ると、しばしカルをじっと見つめた。
その鋭い眼差しは、もはや敵意も警戒もなく、ただ真っ直ぐに相手を認める意思だけを宿している。
やがて彼は膝をずらし、カルに向かって身を乗り出した。
「自己紹介が遅れてしまって申し訳ない。私はジンカ・レイゼイという。Aランク冒険者で、レベルは34。護衛班のリーダーとしてイクス様に雇われた身だ」
名乗るジンカの声は真摯で、その眼差しには一切の驕りがなかった。
カルもまた、それを受け止めて小さく頷く。
「クロマ・カルダモンです。Cランク冒険者で、最終到達層は15層まで。……ただ、荷物持ちとしてなら雇い主の冒険者パーティーと共に27層まで潜った事があります」
気取らず、事実だけを告げるその声音は淡々としていながら、誇張も卑下もなく、率直さだけがあった。
カルの言葉を聞いたジンカは、しばし沈黙ののち口元に小さな笑みを浮かべた。
そして握手を求めるように右手を差し出し、真っ直ぐにカルを見つめる。
「これからは共にダンジョンへ挑む仲間として、よろしく頼む」
カルは一瞬だけ目を細め、それから静かに笑みを返した。差し出された手をしっかりと握り返す。
「こちらこそ。皆さんの力になれるように頑張ります」
力強く結ばれた二人の手は、焚き火の光を受けて温かく照らし出される。
その様子を見ていた護衛達は何処か安堵したように笑みを交わし合い、スノウもまた胸にほっとした温もりを覚えて、優しく微笑んでいた。
「おいおい、すげえな。リーダーがこうして誰かを認めるのなんて初めて見たぜ」
「確かにな。オレも何回か一緒に潜ってるのに、一度だって褒められた事ねぇぞ」
「ははっ、おれもだ。ジンカさんに認められるなんて、クロマくん大したもんだ」
焚き火の輪に軽い笑いが広がる。
ジンカは咳払いをひとつして「余計な事を言うな」と視線を逸らしたが、その口元は僅かに緩んでいた。
そしてカルとジンカが握手を交わす光景を見て、護衛の一人が立ち上がった。
「……よし、それならオレ達もだな。こういうのは全員でやるべきだろ?」
そう言って手を差し出すと、別の護衛も笑いながら続いた。
「順番に自己紹介してこうぜ。オレはBランク冒険者のバゼル。クロマくん、改めてよろしく頼む」
「おれはエント、回復魔法が得意だ。これからはクロマくんを単なる荷物持ちじゃなく仲間として見させてもらうよ」
「ドランだ。最初は馬鹿にしてしまって本当にすまん。本当に恥ずかしい事をしたと今は後悔しているよ。これからは仲良くしてほしい」
一人、また一人と握手の輪が広がっていき、焚き火の前で自然に笑顔が交わされていく。
その様子を見つめていたスノウは、青い瞳をぱちぱちと瞬かせた。羨ましそうに両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、小さな声を漏らす。
「……いいなぁ。みんな、楽しそうで」
その呟きに気付いたのはカルだった。
揺れる炎を映した青い瞳が、楽しげな輪を追いかけるように輝いていた。
「スノウ」
カルが穏やかな声で名を呼ぶと、スノウははっとして顔を上げる。
「よかったらお前も混ざるか? 遠慮する理由はないだろ?」
「……わ、わたしも……?」
目を丸くするスノウに、護衛達もにやりと笑いながら手を差し出した。
「もちろんだ。氷姫様にも握手してもらえるなんて、むしろ光栄だな」
「おれ達の方が緊張するかもしれねぇ」
「違いねえや。護衛のオレ達にとって憧れの氷姫様だからな」
スノウは頬をほんのり染め、おずおずと立ち上がる。
差し出された手を順に取っていく度、ぎこちなさの中に嬉しさがにじみ、次第に花が開くような笑顔を見せていった。その笑顔に護衛達の表情も緩んでいく。
そしてスノウは最後にカルの前で立ち止まり、青い瞳で見つめて小さく呟く。
「クロマさん、わたしも……最後にいいですか?」
「ん? 俺にも自己紹介したいのか?」
「いえ、その、わたし達は知り合いなので……自己紹介というか、ただ単にクロマさんと握手したいなと、思ってしまって」
おずおずと告げたスノウの頬が、焚き火の灯りに照らされてほんのり染まる。
その言葉に護衛達が思わず笑い声を漏らし「かわいいな」「氷姫様がこんな事を……」と囁き合う。
カルは少し驚いたように目を瞬き、やがて穏やかな笑みを浮かべて手を差し出した。
「全く。わがままなお姫様だな。ほら、どうぞ」
「……えへへ。ありがとうございます」
スノウはぱっと花が咲くように笑顔を見せ、両手でぎゅっとカルの手を握りしめた。
その小さな手から伝わる温もりに、カルは苦笑しながらも少し力を込めて握り返す。
「クロマさんの手、おっきくて……あったかいです」
思わずぽつりと漏れた呟きに、スノウ自身もはっとする。
護衛達が一瞬静まり返った後、すぐににやにやとした笑みを浮かべるのが視界の端に映った。
「スノウ。本人を前にそういう感想を言うか?」
カルが半ば呆れたように苦笑すると、スノウは耳まで真っ赤になって慌てて手を離した。
「っ……ち、違っ……! わ、わたし、そんなつもりじゃ……!」
青い瞳を潤ませながら必死に弁解する姿は、むしろ火に油を注いだようで、護衛達の笑いを更に大きくさせた。
「だはは、クロマくんの勝ちだわこりゃ」
「おれも家に帰って嫁さんと手を繋ぎたくなってきたぜ。あんな顔してくれるなら最高だ」
「バカ言え、お前んとこの嫁さんに怒鳴られるだけだぞ」
「はははっ、それもそれで幸せだって」
焚き火の輪にどっと笑い声が広がり、スノウは顔を両手で覆ったまま、ますます俯きがちになる。耳まで真っ赤に染まったその姿に、護衛達は更に楽しげに盛り上がった。
「おいおい、もうやめてやれ。スノウさんが完全に湯気吹いてるぞ」
「だな、あれ以上赤くなったら溶けちまう」
護衛達のからかう声にスノウは「もう……!」と小さく抗議の声を上げたが、その声音に怒りはなく、恥ずかしさと何処か嬉しさが滲んでいた。
カルはそんな彼女の横顔を見て、苦笑しつつも小さく頷いた。
「……まあ、悪くないな」
焚き火の爆ぜる音と共に呟かれた小さな言葉。
それは輪の中に広がる温かな笑い声に溶けていくのだった。




