第33話、カレーライス
「――おいしいですっ!」
スノウの青い瞳がきらきらと輝き、頬がとろけるように緩む。
器を抱えたまま小さく身を震わせ、口いっぱいに広がる幸せを堪能していた。
今はダンジョン5層の遺跡エリアで、焚き火を囲ってカル達は夕食の最中だ。
カルは食事を摂りながらも、焚き火の様子に目を配り、火が弱まれば手際よく薪を足していた。
器を片手に持ったまま、当たり前のように細かな仕事を続ける姿は、まさに野営の雑務を一手に引き受ける荷物持ちそのものだった。
カルと険悪なムードだった護衛達の姿もあり、疑いの色を隠さぬまま無言で器を受け取っていた。
配信では氷姫と呼ばれ、常に無表情を崩さなかったはずのスノウは――今は夢中で「あふ、あふ」とカレーライスを頬張っている。
ご飯とルーを口いっぱいに頬張っては、もぐもぐと幸せそうに噛みしめ、時折「ん〜っ」と小さく声を漏らす姿は、見ているだけで癒されるものだった。
「ほっぺた、落ちちゃいそうです……! クロマさんのカレー、すごく美味しい……!」
普段の凛とした姿は何処にもなく、その無防備な可愛さに、護衛達は思わず視線を奪われていた。
「あの氷姫が……あんな顔するのかよ」
「なんか……見てるだけで腹が減ってきたな」
ごくり、と誰かの喉が鳴った。
すると我慢出来なくなったように、一人、また一人とスプーンを手に取り、カレーを口へと運んでいく。
途端、焚き火の輪に驚きの声が広がった。
「な、なんだこれ……!」
「……う、うまい」
「とろける……こんなの、野営の食事じゃないぞ」
驚きと感嘆の声が続き、険悪だった空気が嘘のようにほどけていく。
半信半疑だった視線は、次第にカルへと向き直り、確かな評価へと変わっていった。
「ダンジョンで食う飯って基本的にはレトルトとか、まあ簡単に済ませるのが普通だわな」
「あとは現地調達したくせぇ魔獣の肉を、塩で焼いて無理やり食えるようにしたりな」
「このカレー。保存食どころか、街の食堂よりずっと美味いじゃねえか」
口々に漏れる声はもう不満や警戒ではなく、純粋な驚きと感心に満ちていた。スプーンを動かす手が止まらず、次の一口を欲しがるように器を抱え込む姿は、まるで空腹な子供そのものだ。
「飯も旨いが……野営の準備も手際よくて驚いたぜ」
「テントも焚き火もあっという間だったな。あれだけ段取り出来る奴、そうそういねえ」
「それに異界の宝袋の話も本当だった。びっくりしたぜ、小さなリュックの中から立派なテントにテーブル、折りたたみのキャンプ用の椅子に、でかい寸胴鍋まで出てくるなんてよ」
焚き火の明かりに照らされながら、護衛達の視線は自然とカルに集まっていく。
先程まで警戒と不信で険しかった瞳が、今は確かな評価を宿していた。
その輪の中でスノウは幸せそうに頬を緩めている。
「ん〜……ほんとに、しあわせです……」
「おかわりもあるからな、スノウ」
「本当ですか? それなら、おかわりお願いしますっ」
カルに言われてスノウは空になった皿を差し出した。
その無邪気な姿に、焚き火の周りの空気はますます和やかに変わっていく。
だが、その温かな雰囲気の中に――ただ一人、姿を見せぬ者がいた。
英雄イクス。
彼は輪に加わらず、テントの中で器を抱えて一人食事を取っている。
焚き火の笑い声と、漂うカレーの香りは布越しにも届くだろう。
だがそれは彼にとって、心を温めるものではなく、ただ苛立ちを募らせる雑音でしかなかった。
先程、スノウや護衛達の前で恥をかいたのが、まだ胸の奥に燻っていた。
怒鳴り散らした自分の言葉をあっさりと覆され、しかも護衛達の心までカルに傾いてしまった。
(……僕は、英雄だぞ……!)
そう心の中で何度繰り返しても、耳に届くのはスノウの弾んだ声と、護衛達の楽しげな笑い声。
焚き火の外にいる自分だけが、別の世界に取り残されたような疎外感に苛まれる。
スプーンを進める手は重く、口に運んでも味など分からなかった。
香辛料の匂いは腹を満たすどころか、彼の自尊心を逆撫でするだけだ。
テントの外から聞こえる「おかわりお願いしますっ」というスノウの無邪気な声に、拳が震え、膝の上でぎりと握りしめられた。
(スノウちゃんは……なぜ、あんな荷物持ちなんかに……)
――イクスはスノウに恋焦がれていた。
彼女をコラボ配信にずっと誘い続けていたのもそれが理由だ。
イクスがスノウを知ったのは、ほんの偶然だった。
初めて配信で映し出されたその姿を目にした時――息が詰まる程に見惚れた。
月明かりに溶ける銀色の髪、氷のように澄んだ青い瞳。
凛としたその横顔は何処までも美しく、可憐な少女の輪郭を持ちながら、次の瞬間には魔獣を斬り伏せる苛烈な剣の輝きに変わる。
斬撃は流麗で、無駄なく、美しい。だが、ただ美しいだけではない。
その剣は躊躇なく命を絶ち、血飛沫すら舞う花弁のように見せてしまう。
見る者を魅了しながらも背筋を凍らせる――可憐さと苛烈さを併せ持った存在。
(……美しい。なんて、美しいんだ……)
氷の仮面を張り付けたまま、誰にも心を開かぬ少女。
だが、その冷たさの奥に確かに見え隠れする一瞬の陰りや、時折滲む幼い少女のような危うさ。
それが彼女をただの剣士ではなく、手を伸ばさずにはいられない存在へと変えていた。
(僕なら――彼女の氷を溶かせるはずだ。可憐で、美しく、そして苛烈で儚い彼女を……僕だけのものに出来る)
英雄である自分にしか、それは許されない。
そう信じて疑わなかった。
――だというのに。
彼女が氷の仮面を外し、頬を赤らめ、少女らしい笑顔を零すのは、英雄である自分の前ではなかった。荷物持ちと蔑んでいたクロマという男の隣でだけ、無防備に心を許している。
(なぜだ……どうして僕じゃないんだ……!)
胸の奥を嫉妬が焼き尽くす。
氷の姫が、英雄の自分ではなく、荷物持ちのクロマだけに微笑む。
その事実が、イクスを英雄ではなく、ただの嫉妬に狂う男へと変えていくのだった。
けれどイクスの胸に渦巻く黒い影は、焚き火を囲う輪の中には届かない。
――スノウも護衛達も、その嫉妬の渦を知る由もなかった。




