第32話、英雄の激昂
夜のダンジョンはしんと静まり返っていた。
古代の遺跡に灯された焚き火だけが温もりを与え、ぱちぱちと木が弾ける音が暗闇に溶けていく。
焚き火の上で煮える鍋からは、複雑に絡み合った香りが立ちのぼっていた。
数種類の香草と乾燥させた果実を砕き、油で軽く炒めてから肉と共に放り込んだものだ。
焙じた時に広がる香ばしさと、煮込むうちに溶け出す甘みが混ざり合い、刺激的でありながらどこか優しい匂いを生み出している。
根菜は角切りにしてごろりと煮込み、肉は表面をこんがり焼きつけてから鍋へ。長時間火を通されたそれらは、今ではとろりと柔らかく、スプーンで軽く崩れる程になっていた。
鍋をひと混ぜするたび、濃厚な香りが焚き火の周囲にふわりと広がり、空腹の腹をじりじりと刺激する。
深い褐色に染まったスープは、光を反射して鈍く輝き、見るだけで食欲をそそる粘度を帯びていた。
――初日のダンジョン配信が無事に終了し、明日に備えて英気を養う時間。
野営の準備は荷物持ちの役割だ。つまりカルの仕事である。
既にテントやテーブルを並べ終え、火属性の魔石で薪を燃やして焚き火を安定させていた。炎は赤々と揺れ、遺跡の壁に影を踊らせながら、一帯に温かな光を投げかけている。
カルはその炎を使って今日の夕飯の支度をしていたのだ。
(こうして誰かに料理を作るのは、久しぶりだな)
彼が地上へ戻る前。四人の仲間達と共にダンジョンへ潜っていた時、荷物を持つのも料理をするのもテントを立てるのも、皆で分担していた。
ただ結局のところ一番手際よく器用にこなしてしまうのはカルで、いつの間にか「準備は任せた」と全員から押し付けられる事がよくあった。
剣を振るい、血に塗れながらも、戦いが終われば誰よりも早くテントを立て、傷付いた仲間の食事を整えた。仲間が安らげるように火を焚き、次の戦いに備えられるように荷物を点検し、道具を修繕する。
そんな生活をしていれば、料理人顔負けの手際も、野営の設営も、装備の整備も、どんな事でも嫌でも身についてしまう。
そして気付けばカルは、前線で戦いながら後方の雑務まで完璧にこなす、誰よりも頼れる万能の冒険者へと成長していた。
パーティを導くリーダーであり、最前線で戦う剣士、そして同時に後方支援の要。
まさしくカルは何でも出来るスーパー冒険者。
だからこそ今も、誰よりも自然に焚き火を操り、誰よりも早く食事を整え、誰よりも手際よく休息の準備を整える事が出来るのだ。
そうして夕食の支度を進めていると、背後からひょこりと影が伸びてきた。
「……くんくん……いい匂いがしますね」
焚き火の明かりに照らされて現れたのはスノウだった。
普段の凛とした氷姫の面影はそこになく、まるで子供のように小さく背伸びをして鍋の中を覗き込む。その仕草は清楚さよりも可愛らしさが勝り、銀色の髪がふわりと揺れた。
「もうすぐ出来る」
カルは金属製のおたまを動かしたまま淡々と答える。
しかしスノウは待ちきれないとばかりに鍋に視線を釘付けにし、湯気の向こうでとろりと煮込まれた肉や野菜に、青い瞳をきらきらと輝かせた。
「今日の夕飯はカレーですか?」
スノウの青い瞳がぱっと輝いた。
鼻をくすぐる香りと、鍋の中でとろりと煮込まれたカレー。角切りの根菜と柔らかく煮崩れた肉、その全てが甘くも刺激的なスパイスの香りに包まれている。
「ローズから少し前に作り方を教わってな。一度食べたら忘れられないくらいに美味かった。栄養価も高くて精がつく。ダンジョン攻略で疲れた身体にはちょうどいい」
カルはそう言いながら、おたまで鍋の底をさらうようにかき混ぜる。カレーのスープはとろみを増し、光を受けて艶やかに照り返した。
「ダンジョンの中で手作りのカレーを食べられるなんて思いませんでした」
氷姫と呼ばれる彼女の端正な顔に、幼げな少女らしい無邪気な笑顔が弾ける。
両手を胸の前で合わせ、今にも飛び跳ねそうな勢いで焚き火の前にしゃがみ込むその姿は、普段の冷ややかな気配など微塵もない。
「カレー、大好きなんです。あの香りも、あのとろみも……口に入れた瞬間に広がる幸せな感じ……」
まるで味を思い出すように頬を染めて言葉を紡ぐスノウ。
氷のように澄んだ青い瞳がきらきらと輝き、焚き火の赤と混ざり合って宝石のように煌めいていた。
「カルさ……いえ、クロマさんの作ったカレー……はやく食べたいです」
その声には隠しきれない期待がこもっていて、一人の少女が「大好きな料理」に出会えた喜びを心からあらわにしていた。
そんなスノウの姿を眺めながら、カルは思わず口元を緩めてしまう。
「酒の席で大好きな甘いものについて熱弁していた時と、全く同じ顔だな。子供みたいにはしゃいで、目をきらきらさせてさ」
カルが小さく笑みを含ませてそう言うと、スノウの頬が一瞬で真っ赤に染まった。
「そ、それは……忘れてくださいと言ったはずです……っ」
慌てて青い瞳を逸らすも、エルフ耳の先まで朱に染まっていた。
普段は冷ややかに氷姫と呼ばれる彼女が、カルの前では俯きながら指先を胸元で絡ませ、恥ずかしさに身を縮めていた。
「忘れてやらない。そっちの方がからかい甲斐がある」
カルは鍋をひと混ぜしながら淡々と告げるが、口元には明らかに意地悪な笑みが浮かんでいた。
「……うぅ、クロマさんの意地悪……」
スノウは弱々しい声で呟き、頬を膨らませる。その様子がまた子供っぽく、カルは喉の奥で小さく笑いを漏らした。
穏やかな炎の明かりに照らされた二人のやり取りは、どこか家庭的で、安らぎに満ちていた。
――だが、その柔らかな空気は唐突に断ち切られる。
石畳を踏み鳴らす硬い靴音が響き、焚き火の輪に新たな影が伸びた。
――英雄イクス。
眉間に深い皺を寄せ、握りしめた拳は怒りで血管が浮き出る程に力がこもっていた。
「クロマァ!」
鋭い怒声が遺跡に反響する。
スノウが肩をびくりと震わせ、護衛達が顔を見合わせる。和やかだった空気は一瞬にして張り詰め、焚き火の温もりすら冷たく感じられる程だった。
「貴様は荷物持ち失格だ!!」
イクスは吐き捨てるように叫び、焚き火の上で煮え立つ鍋を指差した。
赤い炎に照らされた黄金の剣士の顔は憤怒に歪み、その声は石造りの遺跡に反響して重々しく響き渡る。
「ダンジョンの中で……よりにもよってカレーを作るとは何を考えている! この強烈な匂いがどれほど危険か分からないのか!」
スパイスの芳香を、彼はまるで毒煙でもあるかのように手で乱暴に払う。
「ギルド長の推薦だからと渋々同行を許したが――! 常識を欠いた真似をするようでは話は別だ! カレーの強い匂いに釣られ、魔獣が群れで押し寄せてきたらどうする!? 僕ら全員を危険に晒すつもりか!」
黄金の剣士の怒声が焚き火を揺らす程の勢いで響く。
それは確かに正論ではあった。
魔獣は嗅覚に優れていて、僅かな血の匂いも鋭敏に察知する。ダンジョンの中で強い匂いを漂わせる行為は、冒険者ならば避けるべき愚行と断じられても仕方ない。
それを知るスノウも困惑したように視線を揺らして言葉を失ってしまった。
護衛達も視線を交わし合いながら戸惑いの表情を浮かべる。
――場の空気は一気にイクスの言葉に引き寄せられ、焚き火の赤が冷ややかに揺れた。
だが、カルは炎越しに黄金の剣士を静かに見据える。無駄に声を荒らげる事も、動揺を見せる事もなく、ただ淡々とした口調で口を開いた。
「魔獣が来る事はないですよ。既に対策済みです」
カルの声音は淡々としていて、無駄に感情を込める事もなかった。だがその一言が、場に漂っていた冷ややかな空気を揺らす。
「なに……?」
イクスが眉をひそめる。
カルは鍋をゆるりと混ぜながら静かに続けた。
「周囲には既に『神域の聖水』を撒いてあります。あれは魔を忌避し、獣を遠ざける効果がある。もっと下層の強い魔獣ならともかく、ダンジョンの5層に出現するゴブリン程度では、聖水の結界が張られた範囲には絶対近づけません。つまりいくら匂いを漂わせても大丈夫です」
「……っ!」
イクスはその言葉に一歩後ずさった。
カルは野営の準備を始める前に、ただ当たり前のように聖水を地面に撒いていた。
遺跡の床石の隙間に沿って薄く広がるそれは、目に見えぬ結界となり、焚き火を囲む一帯を守っている。それは冒険者にとって基本中の基本、経験豊富な者なら誰もが心得ている習慣だった。
では何故イクスは、そんな当たり前を見逃し、カルに向けて怒声を浴びせたのか。
その理由は単純だった。
彼の目には、焚き火のそばで談笑するスノウとカルの姿しか映っていなかったのだ。
スノウという世界中を魅了する圧倒的な美少女が、英雄と呼ばれる自分にではなく、荷物持ち風情に微笑みを向け、まるで家庭の一幕のように穏やかに言葉を交わす――。
それがどうしようもなく癇に障った。
だからこそ、鼻を衝くスパイスの匂いに苛立ちをぶつけ、当たり前の備えすら確認しなかった。
――結果、彼はスノウや護衛の前で赤っ恥をかく事になったのだ。
「……くそっ」
イクスの頬が引きつり、耳まで赤く染まる。
先程まで焚き火を揺らす勢いで怒鳴り散らしていた男が、今は言葉を失い、唇を噛みしめて俯くしかなかった。
護衛達が気まずそうに目を逸らし、ある者は小さく肩をすくめる。
「……結界が張ってあるなら問題ねえな」
「ったく、早とちりもいいとこだ」
「英雄様も、たまには確認くらいしてから怒鳴ればいいのにな」
囁きは小さいが、焚き火のはぜる音に混ざって確かにイクスの耳に届いていた。
黄金の剣士は、焚き火の輪から一歩、二歩と後ずさる。そしてまるでその光に焼かれるのを嫌うかのように、野営の隅に腰を下ろした。
うなだれた背中は、世界を熱狂させる英雄の姿ではない。
ただ一人、嫉妬に駆られて空回りした青年の惨めな影だった。
焚き火の輪から少し離れた隅で項垂れるイクスを横目に、場はようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
しかしスノウは未だ胸に引っかかるものを抱えていたのか、そっとカルの方へ顔を向ける。
「……あの、その……」
青い瞳が揺れ、少しだけ不安げに伏せられる。
「さっき……イクスさんのお言葉を聞いた時、わたし……てっきり、クロマさんが聖水を撒くのを忘れて、カレーを作ってしまったのかと思って……」
申し訳なさそうに眉尻を下げ、両手を胸の前で重ねる。まるで叱られた子供のように肩をすぼめる姿は、普段の凛とした氷姫とはあまりにも違っていた。
「……ごめんなさい。わたし、クロマさんの事を信じていたはずなのに……」
小さな声でそう謝るスノウに、カルは少しだけ目を瞬いた。
そして鍋を混ぜる手を止め、柔らかく微笑む。
「……あれだけ大きな声で怒鳴られたら、驚いて頭が真っ白になる事だってあるさ。お前が気にする事じゃない」
カルは声音を淡々とさせながら、ぽんぽんと優しくスノウの頭を撫でた。
白銀の髪がふわりと揺れ、焚き火の赤に照らされて柔らかく輝く。
「ク、クロマさん……」
不意の仕草にスノウの青い瞳が大きく瞬いた。
頬に熱が広がり、心臓が小さく跳ねる。
それは仲間同士のじゃれ合いのようなもの。
だがスノウにとっては衝撃に近い出来事だった。
今まで一緒に戦ってきた相棒――カル。
いつも冷静で、決して情をあらわにしない彼。
――そんな彼から、初めて頭を優しく撫でてもらった。
(……わ、わたし、カル様に……頭を……っ)
胸の奥がきゅうっと締め付けられ呼吸が浅くなる。
指先が無意識に胸元の布を握りしめ、耳の先まで熱を帯びていく。
撫でられた場所からじんわりと温もりが広がり、全身に甘い痺れのようなものが駆け巡った。
戦場で見せる鋭さも氷のような気配も消えて、少女の甘やかな顔が焚き火に照らされていた。
カルもふっと柔らかな表情を浮かべると、器を手に取って出来たてのカレーをよそい始める。
とろりと煮込まれたカレーが白いご飯の上で湯気を立て、スパイスの芳しい香りが広がった。
「さあ、出来上がりだ。冷めないうちに食べよう」
木の器を差し出すその声は、いつもの淡々とした響き。けれどスノウにとってその声の音色は、何よりも心を落ち着けてくれる、安らぎに満ちた特別な響きだった。
「……はいっ」
スノウは青い瞳をきらきらと輝かせ、器を両手で受け取った。焚き火の赤に照らされながら、二人の影が並んで揺れる。
こうして野営の夜は、温かな香りと共に静かに幕を開けたのだった。




