第28話、イクス・オルナット
白亜の館の前で車から降りたカル達を、数人の執事とメイドが出迎えた。
磨き抜かれた制服と、規律の行き届いた動作でカル達に頭を下げる。
「ようこそお越しくださいました。イクス様が応接間でお待ちです」
玄関の大きな扉が開かれると空気が変わった。
重厚な絨毯、壁に飾られた油絵、ガラスケースに収められたトロフィーや勲章――その全てが英雄の栄光を物語っている。
「……眩しいくらいね」
ローズが小声で呟く。
カルもまた視線を巡らせて無言で頷いた。これ見よがしな栄誉の数々。その背後にどんな影が潜んでいるのか。
スノウは邸内の景色に目もくれず、一歩進むごとに心を引き締めていた。
ダンジョン配信者として表舞台に立つ氷姫の顔と、シャノワールとして虚喰晶を追う裏の顔。その二つを同時に使い分けなければならない。
失敗は出来ない、絶対に。
その重圧が肩へとのしかかり、胸の奥をじわじわと締め付けていく。
表舞台では“氷姫”として誰もが憧れる完璧な姿を見せねばならない。けれど裏では、虚喰晶を追うシャノワールの一員として冷徹に任務を遂行しなければならない。
求められるものは正反対で、そのどちらも中途半端には出来ない。
――たった一度の綻びが、全てを台無しにするかもしれないのだ。
スノウは小さく息を吐き、震えそうになる指先でスカートの裾をぎゅっと握りしめた、その時だ。
カルの静かな声がスノウだけに届く。
「……落ち着け、スノウ。表で目立つのはお前。裏で虚喰晶を追うのは俺の役目だ」
カルは言う。
今回の仕事は二人で成し遂げるものだと。
スノウは表の舞台で光を浴び、カルはその影に潜って真実を探る。
(そうだ、今のわたしの隣にはカル様がいる)
表の舞台では氷姫と呼ばれ、誰もが憧れと敬意の眼差しを向けていた。誰かと仲間を組もうとしても、その名声に萎縮されるか、利用しようと近づいてくる者ばかり。
裏の舞台でも彼女は独りだった。
シャノワールの仲間達は信頼出来る同士であり、アンゴーラやローズのような一流の実力者もいた。だがその他の力量はばらつきがあり、スノウと肩を並べる者は多くない。
そのため任務では常に人数を揃え、スノウを中心に動く形を取るしかなかった。仲間を否定する気はなく、皆が全力で支えてくれた事も分かっている。けれど彼女が望んだのは――互いの背中を預け合い、共に戦える相棒だった。
名声ゆえに孤立し、力ゆえに孤独を深めていく。
それが彼女の日常だった。
けれど今は違う。
「一緒にいきましょう、カル様」
スノウはそう呟いて、静かに目を伏せた。
ほんのひととき浮かんだ柔らかな表情に、カルは言葉を挟む事なく頷く。
信頼しているからこそ、言葉で返す必要はなかった。彼女が抱く想いも決意も、もう十分に理解している。余計な言葉を重ねるよりも、ただ頷くだけで互いに通じ合える――それが今の二人の関係だから。
互い交わした沈黙の頷きが、言葉よりも確かな絆を示す。
その静かな余韻の中、執事の案内でカル達は歩を進め――やがて重厚な扉が開かれた。
「やあ、よく来てくれたね!」
明るく張りのある声が、部屋いっぱいに響いた。
応接間の中央――英雄イクス・オルナットが待っていた。
彼の身を包むのは黄金に輝く鎧。過剰なまでに磨き上げられ、光を反射して煌めくその姿は、まさに英雄という称号を誇示するかのようだった。
スノウが頭を下げるとイクスは一歩前へ踏み出し、握手を求めるように手のひらを差し出した。
「スノウちゃん! ようやく会えたね! 今日はよろしく頼むよ!」
「はい、こちらこそ。配信を必ず成功させましょう」
スノウが応じるようにその手を取った――瞬間、イクスの分厚い手のひらが彼女の白くて細い指を包み込み、驚くほど強い力で握り締められる。
離す気配はない。
イクスの視線は微塵も逸れず、ひどく熱を帯びてスノウだけを見つめていた。
「ミノタウロス襲撃の件を聞いてからずっと心配していたんだよ、スノウちゃん。活動を少し休止する事になったと知って、毎日君の事ばかり考えていた」
「お気遣いありがとうございます。ご心配をおかけしてしまいましたね」
「いいんだ。スノウちゃんが無事に戻ってきてくれただけで。僕とのコラボ配信で元気になった君の姿を、世界中に見せつけてあげよう」
イクスは爽やかな笑顔で言う。
けれど決して手を離す事なく、今度は自分の胸の方へとスノウの手をぐっと引き寄せた。
まるで大切なものを手放すまいとするかのように、その白く細い指をゆっくりと撫で始める。
「僕が傍にいる限り、どんな脅威が相手でもスノウちゃんを傷つけさせはしない。君は、僕が必ず守る。だから安心して僕に背中を預けてほしい」
握り込む力が、瞳の熱が更に強まる。
スノウは氷姫としての笑みを崩さず応じていたが、胸の奥では小さな動揺が広がっていた。
距離が近い。
熱のこもった視線がまとわりつき、逃れたいのに、ここで振り払う事はできない。
「……ありがとうございます、イクスさん。頼もしいお言葉です」
困惑を隠し、礼を尽くす。
それを好意と受け取ったのか、イクスはますます頬を緩めた。握った手を離すどころか指先を絡めるようにして。
「女の子一人がダンジョンで配信を続けるだなんて大変だったろう。だから君もずっと探していたはずだ。自分を守ってくれる誰かの事を。これからは僕が守る。スノウちゃんと僕は、特別な関係になれるはずだ。今日のコラボ配信は、そのきっかけになるって僕はそう思っている」
言葉と共に彼の笑みの裏から熱のこもった執着が滲み出る。
スノウは氷姫の微笑を崩さぬまま応じたが、胸の奥で冷たい汗が伝うのを感じていた。
――限界。
その瞬間、横からすっと影が差し込む。
「はじめまして、イクス様」
カルが柔らかな笑みを浮かべながら歩み寄る。
その動作は極めて自然で、礼を欠かぬものだった。そして次の瞬間には彼の指先がさりげなくスノウの手を包み込み、イクスとの長すぎた握手をそっと解かせていた。
その一瞬の仕草に、スノウの胸の奥がふわりと温かくなる。
(カル様……)
――やっぱり言葉にしなくても伝わっていた。
自分が困っている事も、助けてほしい気持ちも、カルは当然のように汲み取ってくれる。
そして無理やりではなく、ごく自然に――けれど確かに自分を救い出してくれるカルの優しい手つき。
その優しさが心に触れて、ほんの少しだけスノウの頬に熱を帯びる。
氷姫の仮面の下で彼女は思わず目を伏せてしまった。
そんな彼女の変化をイクスは見逃さなかった。笑顔を崩さぬまま、しかし目の奥に露骨な色を宿し、カルの方へ視線を向ける。
「……君は何者だ? スノウちゃんの手を取るなんて、ずいぶん馴れ馴れしいじゃないか」
「今回のコラボ配信のスタッフとして携わらせて頂く、クロマ・カルダモンと申します。本日はこのような貴重な機会を頂き、誠にありがとうございます。配信が円滑に進むよう尽力いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします」
カルはそう言って名刺をイクスに差し出した。
クロマ・カルダモン――それはシャノワールが今回のコラボ配信でイクスに近付く為にカルに用意した偽りの身分だ。
Cランク冒険者としてギルドに登録されており、今回のコラボ配信では荷物持ちや雑務をこなす裏方としてスノウから雇われた――という設定だ。
そして偽っているのは名前や肩書だけではない。
シャノワールが編み出した高度な幻影魔法を用いて、その顔立ちさえも別人に見せかけていた。見る者が疑う余地のない程の精緻な幻影であり、たとえカルを知る者が目の前にいたとしても気付く事は不可能だろう。
シャノワールの制服である認識を阻害する黒衣はこういった潜入任務には不向きであり、『誰か分からなくなる』という曖昧な隠蔽は、むしろ怪しさを際立たせてしまう。配信スタッフの一人という役割を演じる以上、周囲に違和感を与えず自然に振る舞える姿が必要だった。
だからこそカルは黒衣を脱ぎ捨て、シャノワールが編み出した幻影魔法を纏ったのだ。
徹底した偽装――全ては虚喰晶に繋がる手掛かりを得る為の周到な備え。
イクスは差し出された名刺をまじまじと見つめ、何度かその名前を繰り返して呼んだ。
「クロマ・カルダモン……ふむ。失礼だが聞き覚えのない名だな」
「無理もありません。まだCランクになったばかりですから」
カルは控えめに笑ってみせるが、イクスの視線は冷ややかだった。
「Cランク冒険者、だって? この場に立つには少々、格が足りないんじゃないかい?」
爽やかな口調。
だが、言葉の端々に滲むのは露骨な不快感。
笑顔の仮面は崩さずに、しかしその眼差しは『歓迎していない』とはっきり物語っている。
「僕らが今回のダンジョン配信で目指すのは、ギルドが深層と呼ぶ30層の領域だ。僕とスノウちゃんのような超一流ならともかく、Aランク冒険者ですら容易に挑める階層じゃない。そこにCランクの君がついてこれるとは思えないね」
イクスはカルの名刺を軽く振り、鼻で笑うように言葉を落とした。
声は終始爽やかだったが、その視線はあからさまにカルを値踏みし、相応しくない相手と断じている。
場の空気が冷えかけたその時、ローズが一歩前に出て微笑むと、イクスの瞳が僅かに和らいだ。
「その件はどうぞご安心ください、イクス様。クロマを今回お連れしたのは、今回のコラボ配信でギルド長から直接の推薦を受けたからなのです」
「マネージャーのローズさん。……なるほど、そういう事情があったのですか」
ローズとイクスが顔を合わせるのは初めてではない。コラボ配信の準備段階で、進行やスポンサー関連の打ち合わせを何度も共にしていた。
実は彼女はシャノワールのボス、アンゴーラのパートナーとして組織を支える重要な役割についている。
普段は組織の事務作業を担い、依頼の管理やメンバーの調整を行っており、更には黒猫亭の店長として表と裏を繋ぐ窓口の役割までも果たしていた。
アンゴーラと共に現場に出る時もあるが、それ以上に組織を円滑に動かす要としての立ち位置が強い。
そして今回はアンゴーラの指示の下、スノウのマネージャー業務を進めてきた。彼女はスポンサーやギルドとの交渉や調整を引き受け、スノウが余計な煩わしさを抱え込まなくて済むようにしてくれたのだ。
ローズの有能さは打ち合わせを通じてイクスにも伝わっていたようで、彼女は既に信頼出来るスタッフの一人として認識されている。
そんなローズはにこやかに微笑みを浮かべたまま続けた。
「クロマは表向きこそCランクですが、現場での働きぶりは確かだとギルド長からお墨付きをいただいております。私も確認しましたが、荷物持ちや雑務だけでなく、裏方として細やかな気配りができる人材です。今回のような大掛かりなダンジョン配信には、むしろ適任かと」
ギルド長――それは冒険者ギルドの最高責任者にして、誰もが畏敬の念を抱く存在。今のギルド長は、現役時代にSランク冒険者として数々の偉業を成し遂げた伝説的な人物である。
そのギルド長が『推薦した』と明言する事は、単なる人脈やコネではなく、確かな実力の裏打ちを意味していた。故にローズの言葉は一種の保証状のように響き、カルという存在に否応なく重みを与える。
「なるほど、ローズさんやギルド長の推薦なら安心だ! やっぱりスノウちゃんは素晴らしい仲間に恵まれているね、本当に羨ましい限りだ!」
イクスは朗らかに笑い、手を叩かんばかりの勢いで場を盛り上げた。
応接間の空気も和らぎ、スノウも氷姫の微笑を崩さずに応じる。
だがイクスは周りに気付かれないよう、ふいにカルの肩へ手を回して軽く引き寄せる。そして耳元へと顔を寄せ、他の誰にも聞こえぬ声量で囁いた。
「……でもな、Cランク風情がでしゃばるなよ」
声色は笑っている。だが吐き出される言葉は刺々しい。
「ギルド長に推薦されたくらいでいい気になるな、荷物持ち。今回の配信に同席出来たのはただ運が良かっただけ。Cランクの雑魚がスノウちゃんに取り入ろうなんて考えるなよ。僕と彼女の間に割り込む事は絶対に許さない」
囁きながら指先に力が込められ、カルの肩に圧が加わる。
笑顔の奥に潜む冷酷な本性が覗いたような気がした。
次の瞬間には、イクスは何事もなかったようにスノウへ向き直り「さて! 準備は整っている、今日は最高の配信にしよう!」と晴れやかな声で言い放つのだった。
そしてカルはやれやれと、肩を軽く回しながら無表情を保った。
あからさまな敵意を突きつけられても、圧倒的な強者であるカルが動じる事はない。
むしろ心の内では――英雄と呼ばれる男の本性を垣間見た、と冷ややかに見定めていた。
スノウに執着する英雄イクス。
その笑顔の裏に潜む執念深さこそ、今回の任務で暴くべき影の一端なのだと。




