第25話、黒猫たちの朝
――シャノワールの朝は早い。
昨夜は盛大な宴会で笑いと拍手に包まれていたはずの面々も、朝日が昇る頃にはすっかり仕事の顔に戻っていた。
表向きは街角にひっそりと佇む喫茶店。
その扉の奥こそが彼らの拠点であり、影の組織シャノワールが集う場所。
開店前のテーブル席には既に湯気を立てるコーヒーの香りが漂い、カップを片手にカルが腰を下ろしている。その向かいでは真剣な表情を浮かべたスノウが、背筋を伸ばして座っていた。
彼女はコーヒーを一口だけ味わうようにして飲んでから、言う。
「……忘れてください。昨日の事は、全部」
そう告げるスノウにカルは肩を竦めてみせた。
「今日はやけに真剣な顔だな」
「……当然です。昨日のわたしは、大失態でした」
昨日の酒の席で見せた、自分らしからぬ姿が脳裏をよぎったのだろう。
スノウは言葉を選ぶようにしながら、吐息まじりに続ける。
「……初めてのお酒の席で、少し舞い上がってしまったのかもしれません。あんなに飲んでしまうだなんて。自分でも信じられないです」
「信じられないほど楽しそうだったけどな。特に、甘い物の話で止まらなくなった時なんか」
カルが茶化すように言えば、スノウの睫毛が微かに震えた。
表情は必死に平静を装っているが、カップを持つ指先には力がこもっている。
「今度、お前が好きだって言っていたケーキ屋にでも寄ってみるか。たしか……苺のタルトが一番だって、三回は力説してただろ」
「っ……! そ、それは……!」
スノウの声が裏返り、慌てて咳払いで取り繕う。
真っ直ぐに保とうとしていた姿勢が一瞬だけ崩れ、指先が迷うように動いた。
「……覚えていません。わたしは、そんな事……」
「記憶に残ってないなら、なおさら惜しいな。あんなに熱弁してたのに」
カルがわざと軽い調子で肩を竦めると、スノウはぐっと言葉を飲み込み、沈黙で返すしかなかった。
彼女はカップを口元に運ぶふりをしながら視線だけを逸らす。エルフ耳の先がほんのり赤いのを、カルは見逃さなかった。
「ま、次の仕事の打ち上げの時だな。俺も甘い物は嫌いじゃない」
そう言ってカルがコーヒーを啜る。
その無邪気な調子にスノウは深く息を吐き――そして、観念したように口を開いた。
「……打ち上げの時じゃなくても、いいです」
ぽつりと落とされた声は、さっきまでの張り詰めた調子とは違い、彼女の小さな声が空気に溶けるように響いた
「……行きたいんです。カル様と一緒に。ケーキ屋さんに」
スノウは俯いたまま、両手でカップを抱きしめて視線を上げられない。けれどその小さな声に宿った熱だけは偽りようがなかった。
そんなスノウの様子にカルはふっと表情を和らげて言う。
「なら近いうちに行くか。他にもおすすめあったら教えてくれよ」
さらりと言い放つカルの声音には、からかい半分と、本音が半分混じっている。
スノウは返す言葉を探すように一瞬口を開きかけ、結局こくりと頷いてカップの縁にそっと唇を寄せた。
そんなやり取りの後、小さなベルの音が店内に響く。
店の奥からローズが現れ、手にしたメモを軽く掲げながら告げた。
「二人とも、そろそろ顔を上げて。昨日の件について解析班から報告が入ったわ」
スノウは表情を引き締め、すぐに立ち上がる。
カルもカップを受け皿に戻し、肩を回してから歩き出した。
そうしてローズの声に促され、カルとスノウは奥の部屋へと進んでいく。
そこは一見するとただの物置部屋。
しかしローズが棚の一角を押すと、重たい音を立てて壁が横に滑っていく。
現れたのは地下へと続く階段だった。
魔力灯の照明が青白い光を放ち、下へと続く通路を照らし出す。
「手の込んだ隠し方だな」
「他の誰にも気付かれない事が、私達にとって何よりの武器よ」
ローズは唇に人差し指を軽く当て、悪戯めいた笑みを浮かべた。
「足元に気をつけて」
先頭に立ったローズが囁き、魔力灯に照らされた階段へと足を踏み出した。
硬質な靴底が金属の段を叩き、ひとつひとつ規則正しい音を響かせる。
カルとスノウも地下へと続く階段をゆっくりと降り、閉ざされた店内の温かな空気から、ひんやりとした地下の気配へと切り替わっていくのを感じる。
壁を走る配管の隙間からは冷気が漂い、地下へ降りるごとに世界が静寂に包まれていった。
ローズはちらりと後ろを振り返り、唇に微笑を浮かべる。
「ボスが待っているわよ」
ローズの言葉に、カルとスノウは無言で頷いた。
その先に待つものを思い、自然と背筋が伸びる。
金属の階段を降りきると、視界が一気に開けた。
そこに広がっていたのは、古びた喫茶店の雰囲気とはまるで正反対の、冷たい光に満たされた現代的な施設。
白い壁には魔法と科学が融合した制御パネルが埋め込まれ、液晶のような透明スクリーンがいくつも浮かび上がっている。
中央には円卓状のホログラム投影装置が設置され、青白い光で地図や数値が映し出されていた。無数の情報が空中に展開され、いかにも分析と作戦立案のための頭脳部といった様相を呈している。
壁際では解析班のメンバーが数人、無線型の端末に向かって忙しなく指を動かしていた。誰もが昨日の宴の余韻を忘れ、既に任務に没頭している。
低く唸る換気装置の音と、キーボードの打鍵音が、冷たい空気の中で反響していた。
カルは眉をひそめて呟く。
「……なるほどな。ずいぶんと本格的な“地下施設”ってわけだ」
ローズは横目で彼を見て、くすりと笑う。
「見かけは古風な喫茶店でも、中身は常に最先端よ。そうじゃなきゃ、私達の活動は維持出来ないわ」
その時、奥の扉が静かに開いた。
黒いガラスのような素材で造られた自動扉が左右に滑り、重厚な気配が流れ込んでくる。
中から現れたのはシャノワールの中心に立つ男、アンゴーラだ。
「来てくれたか、カル、スノウ」
アンゴーラの落ち着いた声が響く。
それだけで喧噪を切り裂くように場が静まり返った。
スノウは真っ直ぐに背筋を伸ばし、アンゴーラに向けて静かに頭を下げる。
「ボス、おはようございます」
アンゴーラは口元を緩めて、肩の力を抜いたように答えた。
「二日酔いじゃなさそうだな。その様子を見て安心したぜ」
「さ、昨晩はお騒がせしました……。以後、気をつけます」
「そう堅くなるな。お前にもたまには息抜きが必要だ」
アンゴーラは軽く片手を振り、椅子へ腰を下ろした。
「カル、昨日はよく付き合ってくれたな」
「ああ。酒の席は嫌いじゃない」
「そうか。楽しめたなら何よりだ」
軽い朝の挨拶を終えると、アンゴーラの表情がゆっくりと引き締まっていく。
「さて、仕事の話を始めるか」
――シャノワールの一日が、今日も慌ただしく始まろうとしていた。




