第23話、勝利を祝って
「カルの初任務の成功を祝って――乾杯!」
アンゴーラが力強く掲げたガラスのジョッキが、店内に飾られたアンティーク調のランプの灯りを受けて琥珀色に煌めいた。
その声に応じ、カルとスノウも立ち上がり、手にしたジョッキを高く掲げる。
「乾杯」
――カチン、と心地よい音が、木の温もりを感じさせる黒猫亭の空気に広がった。
夜の黒猫亭は喧噪を遠ざけた大人の空間。昼間は落ち着いた喫茶店として客を迎えるが、陽が沈めばアンティーク調のランプが灯り、琥珀色のグラスが並ぶ小さなバーへと姿を変える。
カルの任務成功を祝ってシャノワールの仲間達が次々とジョッキを掲げ、店内に乾いた音が弾ける。泡立つビールの香ばしい匂いと、スパイスを利かせた料理の匂いが混ざり合い、黒猫亭の夜は賑やかさを増していった。
「よくやったじゃねえか、カル、スノウ。お前達、大手柄だぜ」
「ええ、初任務とは思えない功績よ。素晴らしいわ」
アンゴーラは腕を組んで豪快に笑いながら、何度も「よくやったぞ、カル、スノウ」と声を張り上げる。
黒猫亭を切り盛りしながら組織の事務仕事をこなすローズも、柔らかな微笑みと共に言葉を添えた。
そんな二人からの惜しみない称賛を受け、スノウは少し戸惑いながらも、胸の奥から湧き上がる達成感を噛みしめていた。
「想定外の事態が続きましたが……カル様の活躍で、無事に任務を果たせました」
スノウが控えめに言葉を紡ぐと、カルは苦笑を浮かべて首を振る。
「俺はやるべき事をやっただけだ。それより、あの場にいた冒険者達に被害を出さずに済んだのは――スノウの冷静な判断のおかげだ」
その言葉にスノウの頬が淡く朱に染まる。
カルに褒められると何故だかとてもむず痒く、けれど誇らしさも同時に込み上げてきて、何と返せばいいか分からず俯いてしまった。
――と、そこでローズが笑みを深めてビールが並々注がれたジョッキを差し出す。
「さあ、スノウ。あなたも乾杯に参加しなさい。今日は特別な日、あなたもじゃんじゃん飲むのよ」
アンゴーラもジョッキを掲げ、ぐいと豪快にビールをあおってから唸るように言葉を吐き出した。
「堅物のスノウが酒席に加わるとはな。いい機会だ、ぐいっといけ!」
「は、はい……!」
スノウは緊張した様子でジョッキを両手で包む。
実のところ、スノウがこうした席に顔を出すのは初めてだった。任務一筋の彼女にとって、仲間達とジョッキを掲げるのはどうにも不慣れな事。だがカルが「いつかシャノワールの仲間達と酒を楽しみたい」と口にした時、彼女は思わず「わたしも隣でご一緒します」と答えてしまったのだ。
――カルの隣で同じ酒を酌み交わしたい。その一心で、スノウは初めて酒の席に姿を現したのである。
周囲の視線を受け、スノウは意を決したように小さく息を吸い込み、ジョッキを口に運ぶ。
冷えたビールの泡が唇に触れ、ほろ苦い香りと強い炭酸の刺激が喉を駆け抜けた瞬間――。
「……けほっ、けほっ……に、苦いです……!」
むせながら涙目でジョッキを置くスノウ。
その唇には白い泡が小さく残っていた。
そんな彼女の姿にカルは少しだけ驚いた。
「お、おい、スノウ、まさかビールを飲むのは初めてなのか?」
「……は、はい。カル様とご一緒に、と思って。初めて挑戦してみました」
「それで初めてのビールの味に驚いたってわけか」
カルが苦笑すると、スノウは恥ずかしそうに俯いた。任務の場では決して見せない表情に、周囲の仲間達も思わず顔を見合わせる。
それにスノウの唇の端に白い泡が残っていて、小さなヒゲのようになっていて。彼女の生やした白い泡ヒゲに気付いたカルは、思わず目を細めて笑みを漏らした。
「泡がついてるぞ、スノウ」
「ふぇ……? あ、あの……っ!」
慌てて口元を手で拭おうとするが上手く取れず、周囲の仲間達が「ひげだひげだ!」と囃し立てると、スノウのエルフ耳が真っ赤になって両手で顔を隠してしまった。
「ち、違うんですっ……! ビールを飲むの、わたし、初めてで……!」
しどろもどろになりながら抗弁するその姿は、戦場で常に冷静沈着だった面影とはまるで別人だ。恥じらいに震える声と、必死に隠そうとする仕草がかえって可愛らしさを際立たせる。
カルはそんなスノウを見つめながら、自然と頬を緩めていた。
「可愛いからそのままでいいじゃないか」
カルが笑いを含んだ声でそう言うと、スノウは大慌てでぶんぶんと首を横に振った。
「か、可愛くなんてありませんっ……! は、恥ずかしいだけですからっ!」
けれど両手で必死に隠そうとすればするほど、その様子がおかしくて周囲からは笑いと歓声が巻き起こる。
アンゴーラは腹を抱えて大笑いし、ローズは手を口に当てながらも目尻を下げて微笑んでいた。
「もう酔っちまったのか、スノウ。顔が真っ赤だぞ!」
「スノウ、似合ってるわよ。まるで……そうね、小さな雪のおヒゲをつけた妖精みたい」
アンゴーラとローズがからかうと、店内にどっと笑いが広がった。
もともとスノウは、ダンジョン配信だけでなく仲間達の間でも“氷姫”と呼ばれるほど表情を見せない事で知られていた。どんな任務でも涼しい顔を崩さず、淡々と指示を遂行する姿は、誰もが近寄りがたい冷ややかな美しさを纏っている――そう噂されていたほどだ。
そんな彼女が仲間達に見せる初めての一面に、酒の席は大盛り上がりだった。
「スノウが酒の席に加わるのは初めてだが、普段のクールビューティーがこうも崩れるとはな」
「そうね。いつもは氷みたいに冷静で何があっても眉一つ動かさないのに。意外だわ。可愛いわよ、スノウ」
ローズが楽しげに言葉を添えると、仲間達の笑い声はますます大きくなった。
スノウは居心地が悪そうに両手で顔を覆ったまま、隙間からちらりとカルを見上げる。けれどカルはごくごくと冷たいビールを飲むばかりで助け舟を出す気配はない。
カルは昔の濁った麦酒を知っているだけに、現代の澄んだビールの美味さに頬を緩めるばかりだった。
「カ、カル様……助けてください……っ」
小さく震える声で訴えかけるスノウ。
しかしカルは肩を竦めてそっけなく答えた。
「助けてと言われても、俺にとっては見慣れたスノウだからな。むしろなんでこんなに騒がれてるのかよく分からん」
カルの言葉にアンゴーラとローズ、そして他の仲間達も一瞬ぽかんと目を瞬いた。
「それ本当か、カル。お前と一緒にいる時はこれが普通なのか?」
「ああ。任務の時は冷静に見えるだろうが、普段はよく照れて耳を赤くするし、落ち着きなく慌てたりもする。俺にとってはいつもの事だ」
そのあまりにあっさりとした告白に、仲間達は一瞬言葉を失い、そして同時にざわめき立った。あの“氷姫”がカルの前では普通の女の子になる――その事実に、仲間達は驚きと羨望を隠せなかった。
「な、なんだってぇ!?」
「カルといる時だけ、そんな顔をしてるの……!?」
スノウは更に真っ赤になり、両手で顔を覆ったまま小さく身を縮める。
「か、カル様っ……どうして今それを言うんですか……!」
声は震えていたが、耳の先から首筋まで真っ赤に染まっているその姿は、氷のような冷静さを崩した“素”そのものであった。
アンゴーラは大きな声で笑い飛ばす。
「おいおい、普段は氷の妖精みたいなくせに、カルの前じゃすっかり溶けちまってるじゃねえか!」
「ほんと、意外だわ」
ローズもくすくす笑いながらジョッキを傾けた。
囃し立てられたスノウは、もう耐えられないとばかりに顔を俯けたまま、カルの袖を小さく引っ張る。
「……カル様、わたし……もういたたまれません……」
震える声に、カルはようやく口元を緩めて小さく笑った。
「気にするな。仲間に見せるくらい、いいじゃないか」
その言葉は、スノウの耳に届いた瞬間、からかいの喧噪とは別の温かさを残した。
アンゴーラはそんな二人を眺めながら、ゴクリと喉を鳴らして残りのビールを一息で飲み干した。そしてジョッキを卓に置き、にやりと笑みを浮かべる。
「それにしても今回の依頼、お前達に任せて正解だったぜ。もし別の仲間に割り振っていたら対処は出来なかったかもしれねえ」
「そうね。新顔への初任務として簡単な仕事を割り振ったつもりだったのだけれど、予想以上に事態がこじれてしまったわ」
ローズはグラスを指で軽くなぞりながら、少し真剣な表情を浮かべる。
「本来ならズゴットを捕縛するだけで済むはずだった。けれどサンダーバード、ブラッドスコルピオ、フレイムバジリスク、フロストドラゴン、上位ランクの冒険者でさえ手を焼く魔獣が立て続けに現れるなんて」
ローズはグラスを軽く揺らしながら、静かに言葉を続ける。
「特にフロストドラゴンは、Sランク冒険者でさえ単独での討伐記録が存在しないわ。そんな存在が、よりによってダンジョン10層に現れるなんて。スノウから報告を聞いた時、正直背筋が凍ったわ」
その場にいた仲間達も一瞬笑いを引っ込め、重い空気が落ちる。だがアンゴーラがジョッキを机に叩きつけるように置き、豪快な笑みを浮かべた。
「だからこそお前はすげえのさ、カル!」
アンゴーラは拳で机をどんと叩き、満面の笑みを浮かべた。
「フロストドラゴンが現れた時点で、本来なら達成不可能な依頼に変わってたはずだ。だが――お前がいたから状況はひっくり返った!」
アンゴーラは笑いながらカルの肩を叩いた。
「全ての階層外の魔獣を始末しただけじゃねえ。ターゲットのズゴットは指示通りに生け捕って、証拠になるスマホもしっかり回収した。依頼の条件はすべて満たしてやがる」
アンゴーラは誇らしげにジョッキを掲げ、声を張った。
「普通なら途中で全滅しててもおかしくねぇ状況だ。そしてダンジョンは閉鎖されて冒険者達は立入禁止。そうなればダンジョン攻略はストップして王都の経済にもでかい打撃だっただろう。だが――お前らのおかげで最悪の事態は防がれた」
場が大きく盛り上がる中、皆の視線がカルに向けられる。
「やるべき事をやっただけだ」
カルは肩を竦め、ジョッキを傾けて淡々と答えた。大袈裟に語るつもりもなく、それが当然の事だと言わんばかりに。
まるで目の前の大騒ぎとは無縁であるかのような静けさ。しかし、その落ち着きが逆に仲間達の胸を打つ。
「自分がやった事の価値を、ちっとも分かってやがらねぇ。ったく惚れ惚れするぜ」
アンゴーラが呆れたように笑うと、周囲からもどっと笑いが起こった。
誰もが驚きと称賛を口にする中で、本人だけが当然のように肩を竦める――その姿が、スノウにはとても眩しく映った。
(……カル様は、やっぱりすごい方です)
胸の奥にふわりと広がる高揚を抑えきれず、スノウの青い瞳は自然ときらきらと輝きを帯びる。ほんの少し飲んだビールが体を温め、頬も心なしか緩んでいた。
カルが周囲の喝采など意にも介さない事が、かえって尊く思える。無欲さと確かな強さ――それが酔いで揺れるスノウの視界にはひときわ大きく映っていた。
スノウはジョッキを胸元に抱きながら、まるで秘密を守るように小さく呟いた。
「……カル様は、本当に……素敵な方です」
声は酒に溶けるように小さく、けれど耳にした仲間達は思わずにやりと笑みを交わすのだった。
スノウは自分の口から漏れた言葉に気づいた瞬間、はっとして肩を震わせた。
仲間達のにやけ顔が視界に入り、羞恥で頬がじんわりと熱を帯びていく。
「……っ、い、今のは、その……!
必死に否定の言葉を探しながらも、余計に言い訳すればするほど墓穴を掘ると直感する。
どうにか誤魔化さねばとスノウは視線を逸らし、両手でジョッキを掴む。
――とにかく、飲んでしまえばいい。
ジョッキに入っていたビールを一気にあおり、ごくごくと喉を鳴らす。
「ぷはっ……! お、おかわりください……っ!」
スノウは空になったジョッキを卓に置き、頬をほんのり桜色に染めながら声を上げた。耳まで赤くなっていて、少しとろんとした瞳が潤んでいる。
そしてローズが運んできたおかわりのビールを、スノウは勢いよく受け取った。
グラスの中で黄金色の液体がきらめき、泡がふわりと立ちのぼる。
「いい飲みっぷりね、スノウ。ほら、じゃんじゃん飲みなさい」
「がはは! スノウ、いい調子だぞ!」
「は、はい。ビールたくさんのみます……っ」
アンゴーラやローズに囃し立てられ、スノウは耳まで赤くなった顔でこくんと頷いた。
泡が唇にふわりと触れ、喉を通る度に胸の奥がほんのり温かくなっていく。
ぐびぐびと喉を鳴らしてビールをあおるスノウ。けれど酒に強いわけでもない彼女には、その一杯はずいぶん効いてしまったらしい。
「……っ、ふぁ……あつい……」
グラスを空にすると、スノウはふらりと体を揺らし、頬を桜色に染めたまま両手で顔を仰ぐ。とろんと潤んだ瞳は普段のきりりとした面影を失い、どこか幼げで儚い雰囲気を漂わせていた。
その様子に周囲は大笑い。
宴の空気に押されて、スノウもつい笑顔を浮かべてしまう
だがカルだけは眉をひそめ、じっと彼女を見ていた。頬の赤さも、揺れる視線も、ほんの少し危なっかしい。
「飲みすぎだ、スノウ」
落ち着いた声がかけられると、スノウははっとしてカルを見上げる。潤んだ青の瞳が揺れ、照れ隠しにグラスを胸に抱き寄せた。
「だ、だいじょうぶです……! カル様の前で……よわいところなんて……見せられません……っ」
スノウは必死にそう言いながらグラスを胸に抱きしめる。けれど耳まで赤くなった横顔は、強がりよりもむしろ――可愛らしい拗ね顔にしか見えなかった。
それに彼女の中には、仲間達と一緒にカルの健闘を讃えたいという気持ちがあるのだろう。だからこそ、ふらつきながらもグラスを手放そうとしない。
「わ、わたしもカル様すごいって……ちゃんと、かんぱいしたいんです……!」
ふわふわとした声でそう言いながら、スノウはグラスを高々と掲げようとする。だがその動きはぎこちなく、危うくこぼしそうになるのをカルが慌てて支えた。
「ほら、やっぱり危ないだろ」
「……っ、し、失礼しました……でも……」
スノウはカルに支えられたまま、うるんだ瞳でじっと彼を見上げる。その視線には酔いの勢いに任せた素直さが滲んでいた。
「カル様が……わたしのとなりで、たたかわれて……ほんとに、すごかったんです……だから……いっしょに……」
「全くもう。スノウはずるい奴だな」
「……ずるい、ですか?」
「そうだ。そんな顔で言われたら、止めるに止められなくなる」
スノウはきょとんとしたまま瞬きを繰り返す。
けれどやがて、頬を赤く染めて小さく唇を噛んだ。
「……じゃあ、もう一度……カル様と乾杯、してもいいですか?」
か細い声でそう尋ねるスノウに、カルは少しだけ肩を落としてから、結局は静かにグラスを掲げた。
「仕方ないな。ほら、改めてだ」
「は、はいっ……!」
スノウの笑顔がぱっと花開く。
その眩しさにカルも自然と口元を和らげた。
初めての任務で協力し合い、勝ち取った確かな勝利。
その達成感と共に、二人のグラスが軽く触れ合い、澄んだ音を立てる。
それはスノウにとって――そしてカルにとっても、忘れがたい一瞬となった。




