第15話、溶け始めた氷の瞳
カルとアンゴーラの会話を聞きながら、スノウは静かにカップを持ち上げた。
表情は相変わらず氷のように冷たいが――内心では落ち着きなど欠片もなかった。
口元が緩みそうになるのを、コーヒーカップの縁で必死に隠す。
(カル様、かっこいい……っ)
思わず心臓が大きく跳ねた。
胸の奥から、どくん、どくんと力強い鼓動がせり上がってくる。息を吸うのも忘れそうな程、視界の中心にカルの横顔が焼き付いて離れない。
(こんな人、今まで見た事がありません……っ)
あまりにも気高く、何物にも縛られる事はない。
力があるというのに誇る事なく、その様子はまるで青空のように清々しい。
金も、名声も、権力も、誰もが夢見る輝きすら、何の迷いもなく切り捨てるその姿。
彼の心の中には決して揺れる事のない確固たる信念があるのだ。
心臓が、どくん、ともう一度大きく鳴った。
胸の奥から熱がせり上がる。
(……どうしよう……)
スノウは胸に広がる熱を必死で押さえ込もうとした。だが、そんな努力など簡単にすり抜けて、鼓動は更に速く、強くなる。
目を逸らそうとしても――どうしても、カルから離せない。
涼しげな横顔。
確かな光を映す瞳。
何もかも見透かすような鋭さと、それでも不思議と感じられる安心感。
(昨日……あんなふうに眠ってしまったのも……きっと、この人のせい……)
あの時、眠りに落ちる瞬間、ずっと彼の気配を感じていた。
それは柔らかな毛布に変わって包み込んでくれるような――そんな安心感だった。
(わたし、任務中だったのに……)
プロとしてあるまじき油断。
でも、それを「失敗」とは思えない自分がいる。
むしろ――あの時間が、愛おしいとさえ思ってしまう。
指先がカップの取っ手を握る力を強めた。
熱いはずのコーヒーの温度が、妙にぼやけて感じられる。
ふと、カルがこちらに視線を向けた。
「どうした?」
「……っ、いえ、な、なんでも、なんでもないです……」
慌てて視線を逸らす。
それでも胸の奥が熱くなるのを止められなかった。
(あ……耳が熱い)
スノウは感情を顔に出すのがあまり得意ではない。ダンジョン配信中も常に落ち着いた様子で、そのクールさがいいのだと、視聴者達は声を大きくして言う。やがてその美貌と感情を表に出さない様子から“氷姫”という名で呼ばれるようになった。
けれど照れている時のスノウを見て、カルは言うのだ。
『耳が赤いぞ』
長いエルフ耳の先端が彼女の感情を露呈してしまう事を、スノウは今まで全く知らなかった。外から見たらすぐにでも分かってしまう、心の中が見透かされてしまう、あまりにも無防備な部分だと気付いていなかった。
今もまたカルの事を考えて、彼女は長い耳の先端をピンク色に染めている。もし見られてしまったらカルはすぐにでも指摘してくるだろう。そうしたらまた動揺して耳がもっと熱を帯びて、言い訳だって出来なくなる。
スノウは慌てて両耳を手で押さえたが、その動作は余計に不自然だった。
「……スノウ、どうした?」
「あ!? え、えっと……っ」
「熱いカップで指でも火傷したか?」
「は、はい……そうかもしれないです」
「火傷した時ってつい耳を触りたくなるよな。でも大丈夫か?」
「だ、大丈夫です。大した事はないので。ただ、び、びっくりしただけです」
「そうか」
カルが勘違いしてくれたおかげで、上手い具合に会話が繋がってスノウは事なきを得た。
ほっと息を吐いて、それから少しだけ力を抜く。
(なんでこんなに、わたしドキドキして……昨日からずっとそう)
ミノタウロスの襲撃から助けてもらった時から、その感情は確かに胸の中で芽吹いていたが――目の前で世界の全てを差し出すような誘いを、ただ一言で斬り捨てる彼の姿を見て、その芽は一気に膨らみ、胸の奥を圧迫していた。
氷のように冷たい青い瞳が、カルを見ているその時だけは、自分でも驚く程に熱を帯びてしまう。今も彼女の瞳はとろんと熱を含んだままカルの姿を映していた。
「スノウ、最高の相棒を見つけたじゃねえか」
ガハハと豪快に笑うアンゴーラの声で、スノウは一瞬にして我に帰った。
「は、はい……っ!」
肩がぴくりと跳ねた。
慌ててカップを口元へ運び、熱いコーヒーを一口含む。
苦味が舌に広がり、喉を通る感覚が、心のざわめきを鎮めてくれる。
(……危ない。完全に浮かれていました)
今はボスの前。仕事中。集中。落ち着いて。
そう何度か頭の中で繰り返した後、スノウは深く息を吐き、心の奥の熱を押し込めるようにカップを置いた。耳の熱もひいて、ようやく冷静さを取り戻す。
「さて――」
アンゴーラの落ち着いた声に、スノウの背筋が再び伸びる。
「カル、おれ達はお前を歓迎する。シャノワールの一員としてよろしく頼むぜ」
「ああ、俺もようやく働き口が見つかって安心した。金や権力には興味ないが、生活費は必要だからな。あと美味い酒もたまには飲みたいもんだ。ダンジョンから帰ってきた後は、酒場で一杯やるのが俺達の時代の楽しみだった」
カルの口元に笑みが浮かぶ。
その表情を見てアンゴーラも口角を吊り上げた。
「そいつはいい。お前とは美味い酒が飲めそうだ」
「わ、わたしもご一緒させてください」
スノウの言葉にアンゴーラが意外そうに片眉を上げた。
「スノウが? 珍しいな、任務中以外の話でそういう事を言うなんてよ」
「……だめでしょうか」
「ははっ、だめなわけあるか。お前みたいな堅物が酒の席でどうなるのか、逆に興味あるぜ」
豪快に笑うアンゴーラに、スノウは頬を赤く染めてうつむいた。
普段なら絶対に言わないはずの言葉が、つい口から出てしまった――それも、カルの笑顔を見た直後に。
またぽっと耳が熱くなり、スノウは慌てて視線を逸らした。
「しかしますます気に入ったぜ、カル。ただ単に欲がないわけじゃねぇってところも、逆に好感が持てるな」
「俺も息苦しいだけの組織かと思っていたが、案外と居心地は悪くなさそうだ」
「お堅い事ばかりじゃ組織は長くもたねえからな。おれ達は仕事の時は徹底的にやるが、それ以外は好きにしていい。仕事と私生活の境目がねえと人間はすぐ潰れる」
「いい考え方だな」
アンゴーラは満足そうに頷き、それから仕事の話をする為の真剣な表情に変わった。カルもまた、真剣な眼差しをアンゴーラに向ける。その鋭さが、周囲の空気をぴりっと引き締めた。
「カル、これからお前が影の世界で生きていくには偽りの身分ってのが必要だ。偽の戸籍、新たな冒険者ライセンス、別人としての身分証、それに過去の経歴やら色々とな」
「秘密の組織っぽくなってきたな」
「っぽくじゃねえ。秘密の組織そのものだ。シャノワールは表の世界じゃ存在しねえ事になってる。だからこそ所属する人間も表の世界には存在しねえ別人として生きてもらう必要がある。名前から出身地、過去の経歴から全て、新しく作り直す」
「それはちょうどいい話だ。俺は過去の時代の人間だからな。今の時代には存在しない人間になっている。戸籍やら冒険者ライセンスなんて元から存在しない。むしろシャノワールの方で新しく作ってくれるなら助かる」
「お前もやりやすいなら好都合だ。組織の方で上手い事やっておく。偽の身分証あたりはすぐにでも渡せるはずだ」
「随分と手際がいいな」
「こう見えても王家直属の組織だからな。すぐに用意出来るぜ」
「つまり仕事にもすぐ取り掛かれるわけだ」
「察しがいいな。カル、お前にはスノウと二人で早速やって欲しい仕事があるのさ」
アンゴーラは黒いスマホを操作して、仕事の内容をカルとスノウのスマホへと転送する。
ピコンという電子音がテーブル上に置かれたカルとスノウのスマホから鳴り響いた。その瞬間、二人は自然にスマホを手に取り、アンゴーラから転送されたメッセージを開く。
二人はスマホに意識を向けながらもアンゴーラの言葉に耳を傾けた。
「お前達の初任務、それは悪質なダンジョン配信者を”BAN”する事だ」




