第14話、アンゴーラ
カルは椅子の背に手を掛け、アンゴーラの正面にゆっくりと座る。
相手を値踏みするような視線を真正面から受け止めながらも表情は崩さない。
「カルだ。よろしく頼む」
「アンゴーラだ。話はスノウから聞いている」
男は新聞を畳み、テーブルの端に置く。
その仕草ひとつにも、熟練の戦士特有の無駄のなさがあった。
「スノウ。お前も立ったままじゃ何だ、座れ」
「はい」
スノウは静かにカルの隣に座ったが、背筋は一直線に伸び、任務中の空気を崩さない。
それからカウンターの向こうにいた金髪の女性が近づき、カルに穏やかな笑顔を向けた。昨日、黒猫亭を訪れた時に接客してくれたあの女性だ。
「歓迎するわ、カル。私はローズ。昨日も何度か顔を合わせたわね」
「ああ、覚えてる。あんたの淹れるコーヒー、美味かった」
「そう言ってもらえて嬉しいわ」
ローズは穏やかな笑みを崩さず、テーブルに湯気の立つカップをカルとスノウの前に置く。
「サービスよ。朝のブレンド。深煎りだから、目も冴えるわ」
香ばしい匂いが広がり、カルはカップの縁へ視線を落とした。
表面に薄く漂う泡が、店の落ち着いた空気に溶け込んでいる。
軽いやりとりの間にも、アンゴーラは腕を組み、カルを観察していた。その鋭い眼差しはまるで心の奥底まで覗き込むようだ。
「ミノタウロスを瞬殺した冒険者。どんな人間か……興味があった」
「それで、見てどう思った?」
「底知れねえな。力だけじゃねえ、場を読む嗅覚もある」
「どうも」
「スノウの報告によれば、隕石の迷宮の真の最深部、1000層を攻略したと。……本当か?」
アンゴーラの低い声が、テーブル越しに重く響く。
「事実だ」
カルはあっさりと返す。
その声には誇示も虚勢もなく、ただ平静さだけがあった。
アンゴーラの眉間に深い皺が刻まれる。
「……隕石の迷宮の最深部は100層だと伝わっている。しかもそこに到達した連中は伝説に名を残す”四英雄”で、奴ら以外に100層へ到達した冒険者は誰一人としていねえ」
「スノウの話だと冒険者の間で技術が確立して、ダンジョン攻略は容易になったんだろう。今の時代の人間でも100層到達は難しいのか」
「100層到達なんぞ不可能だ。一流のAランク冒険者でさえ、50層の先は生還例すら無い。最強のSランク冒険者さえ100層到達は……無理だろうな。100層到達の伝説は過去から現代へ語り継がれてはいるが、実際には挑む者さえいねえ。未知の領域だ」
アンゴーラはカップに手を伸ばし、深煎りの香りをひと息吸い込んだ。
それから低い声で呟く。
「だが……お前はその先を行った」
「今は帰ってきたって方が正しいな」
カルは淡々と答える。その声音には自らの偉業を誇る色はない。
ただ事実としてそこにあった出来事を述べているだけだった。
アンゴーラは目を細めた。
その視線には、疑念と興味、そして確かめたいという戦士の本能が混じっている。
「……スノウ、お前はどう見た」
「虚言ではありません。カル様はわたしの目の前で、常識では考えられない力を示しました」
スノウの声は揺らぎなく真っ直ぐだった。
ミノタウロスという怪物を、まるで通りすがりの障害物でも片付けるように葬った。その戦いは一瞬で終わり、気が付けば怪物の巨体が崩れ落ち、その命の灯火は静かに消えていたのだ。
そしてカルは息一つ乱さず、その場に立っていた。
その報告を聞いたアンゴーラはカップをテーブルに戻し、ゆっくりと身を乗り出した。
「しかも今回確認されたミノタウロスは、より凶暴な亜種だった。ギルドによれば……ミノタウロス亜種の単独討伐に成功した事があるのはSランク冒険者くらいだ。つまりどれだけ低く見積もっても、カルにはSランク冒険者に匹敵する実力がある」
アンゴーラの声には、戦士としての興奮と同時に、慎重な警戒が滲んでいた。
「今活動しているSランク冒険者は全部で8人。どいつもこいつも国家や大企業に請われて、専属契約を結んでいる連中だ。名実ともに現代最強の戦力だな。ダンジョン配信を行えば何百万、いや何千万人もの視聴者を集める。文字通りの英雄で、この世の全てを手に入れたような連中だ。人々からの羨望、湯水のように湧く富、権力者すら一目置く発言力――それらを当然のように握っている」
アンゴーラはカップの縁に指をかけ、黒い液面をゆっくりと揺らした。
「つまりカル。お前もそいつらみたいな生活を送る事が出来るってわけだ。望めば、金も名声も女も権力も、好きなだけ手に入る。世界の上で笑っていられるだろう」
アンゴーラの低い声が、コーヒーの香りに混じって胸に響く。それは単なる称賛ではなく、試すような響きを含んでいた
「お前なら……おれの命令にはいはい従って、忠実に任務をこなす必要なんざねえ。他のSランク冒険者のような、自由気ままな暮らしだって選べるはずだ」
アンゴーラの言葉は、甘い誘いのようだった。
カル程の圧倒的な力の持ち主が影の世界に身を置いて、わざわざ命令に従い、危険な仕事を引き受ける必要などない。
生涯使い切れぬ程の富を抱え、望む土地に豪邸を構え、指を鳴らせば世界中の珍味や宝飾、絶世の美女達が集まる。高層ビルの最上階から都市の夜景を眺め、政財界の大物達と杯を交わす事も出来るだろう。
戦うのは己が望む時だけ――危険も、義務も、他人の命令も遠い世界の話になるはずだ。
そんな暮らしをアンゴーラはカルの前にぶら下げたが、カルの黒い瞳は少しも揺れなかった。
「興味はない」
短く、平坦な声。
それは誘惑を切り捨てる剣のように鋭かった。
アンゴーラの口角が微かに上がる。
「理由を聞いてもいいか?」
「退屈そうだ」
カルの最低限の言葉には何の迷いも含まれていない。
アンゴーラは喉の奥で笑い、深煎りの香りをもう一度吸い込んだ。
その笑いには侮りも怒りもなく、むしろ同じ戦場を知る者だけが抱く静かな共感があった。
「……なるほどな。権力や金じゃ釣られねぇ口か」
アンゴーラはしばし無言でカルを見据えていたが――次の瞬間、肩が小さく揺れた。
「……くくっ……」
低く漏れた笑いは、やがて抑えきれずに喉の奥で弾けた。
「はははっ……あー、だめだ。久しぶりに腹の底から笑ったぜ……」
片手で額を押さえ、もう片方の手でカップを支えながら、アンゴーラは笑いを噛み殺そうとする。しかし無理だった。
心底愉快そうな響きで笑うアンゴーラの様子にスノウは目を瞬かせる。
いつも鉄のように無表情なボスが、こうして声を上げて笑う事など滅多になかったからだ。
アンゴーラはようやく笑いを落ち着かせると、口元にまだ笑みを残したままカルへ身を乗り出した。
「……カル、最高だぜ。その面の皮の厚さが気に入った」
「厚いつもりはないがな」
「謙遜すんな。大抵の奴は”世界をくれてやる”って言われたら、鼻の穴を広げて飛びつくもんだ。それを一刀両断だ。……ははっ、そりゃ笑わずにいられねぇだろ」
カウンター越しに様子を見ていたローズも唇の端を僅かに上がる。
アンゴーラは肩を揺らし、深く椅子の背にもたれかかった。
その姿は、カルに対して完全に「仲間」として認めた男のものだった。




