第10話、王都の夜
スノウとの交渉を終えた後、カルは宿へと案内された。
立派な宿だった。滑らかな石材で出来た外壁は光を反射して白く輝き、入口には磨き込まれた真鍮の取っ手が光っている。扉を押し開けると、ほのかな香木の匂いが鼻をくすぐった。
カルのいた時代では考えられない程の清潔さと豪奢さだ。床は厚い絨毯で覆われ、靴音すら吸い込まれてしまう。壁には柔らかな色調の絵画が掛けられ、廊下に並ぶ花瓶の花は新しい。
まるで王族が滞在する迎賓館のようだった。
エントランスの天井は高く、シャンデリアが温かな光を放ち、廊下の隅々まで柔らかく照らしている。壁際には控えめながらも高級感のある家具が並び、手入れの行き届いた木の艶が、ここで過ごす者の身分を暗に示しているように見えた。
「このホテルもシャノワールの活動拠点の一つです」
隣を歩くスノウが何気ない調子でそう言った。
「へえ。組織はこんな場所を宿にして寝泊まりする事があるのか」
「宿にして寝泊まりする、というか、このホテルもシャノワールの所有物です。重要な施設の一つとしてわたし達が管理・運営しています。支配人から料理人、清掃係に至るまで、全員がシャノワールの構成員か、その協力者なのです」
「こんな王族の迎賓館みたいな場所を拠点にしているって……本当か?」
「確かにここは立派なホテルですが、メテオポリスに立ち並ぶ宿泊施設の中では特別目立つ存在ではありません。観光客の方からすれば一般的な水準のリゾートホテルといった印象でしょう」
「一般的の基準が高すぎるだろ……」
カルの常識では考えられない事だ。
冒険者が使う宿と言えば木造の質素な建物で、扉の立て付けは悪く、床板は軋み、夜になれば外の喧騒や風の音がそのまま部屋まで響いてきたものだ。
虫や小動物が忍び込む事も珍しくなく、宿泊費を安く抑える代わりに、不快な出来事は自分で解決するのが当たり前だった。
冒険者は宿代よりも自分の装備や食料に金を回すのが常で、寝床は最低限雨風を凌げれば十分――それがカルの知る常識だった。
目を丸くしてホテルのロビーを見回すカルの反応が面白かったのか、スノウはくすりと小さく笑ってそれから少しだけ肩を竦めた。
「メテオポリスは世界でも名だたる観光名所ですから。世界中から冒険者だけではなく多くの観光客が集まります。王都の宿泊施設は、そうした需要に応える為、競うように豪華さと快適さを追求しているのです」
「メテオポリスが観光名所……か。冒険者の街がそんな呼ばれ方をする時代になるとはな」
カルはゆっくりとロビーを見渡しながら呟いた。
目に映るのは豪奢な調度品と、ゆったりと過ごす上品な服装の客ばかりだ。革鎧も剣も見当たらない。ここにいる人々は、血の匂いとは無縁の世界に生きている。
「かつての街の姿を知っているカル様には、随分と違って見えるでしょうね」
スノウは受付の女性に何事か告げながら視線だけをカルに向けた。
「ダンジョン配信も経済の重要な柱ですが、観光業も王都にとって重要な収益源です。巨大なクレーターの中央に築かれた大都市、メテオポリスはその立地自体が観光資源です。地形の迫力や歴史的価値を目当てに訪れる観光客が後を絶ちません」
スノウは受付で渡された宿泊カードをカルへ手渡しながら、淡々と説明を続けた。
「ダンジョン配信を生業とする冒険者はもちろん、観光客や、歴史研究家、好事家……。あらゆる人々がこの街に集い、滞在する。それに応える為の宿泊施設は、王族の客を迎える水準まで引き上げられました」
「……時代が変わったもんだ」
カルは宿泊カードを受け取りながら、もう一度だけエントランスを眺める。
大理石の柱に囲まれた吹き抜けのホール、温かな光を散らすシャンデリア、足元で柔らかく沈む絨毯。
ふと耳に届くのは、人々の笑い声とカップの触れ合う軽やかな音。
剣戟や怒号、血の匂いなど、ここには微塵もなかった。
「……平和ボケした街ってわけだ」
カルの口調には皮肉が混じる。
だが同時に、そこにはほんの僅かな羨望もあった。
命を削らずに生きられる世界――彼が知っている時代には存在しなかったものだ。
スノウはカルの皮肉を受け流すように小さく笑い、廊下へと足を進めた。
ロビーを抜けると、長い廊下の先に静かなエレベーターが待っている。磨き上げられた真鍮の扉が、まるで宝飾品のように光を返していた。
「これはエレベーターです。ええと……魔力を用いた自動の昇降装置で――」
「――つまり、部屋ごと上下に運んでくれる仕組みだな」
カルが途中から説明を引き取るとスノウは目を瞬かせた。
「……ご存知なのですか?」
「まあな。俺のいた時代にも似たような仕組みはあった。もっと原始的で、鎖や滑車を使っていたが」
そう言ってカルは真鍮の扉に軽く触れた。磨かれた金属は冷たく、指先に微かな魔力のざわめきを感じる。
扉が滑るように開き、広々とした箱の内部が現れる。内壁は深い色の木目で覆われ、四隅には魔力灯が柔らかく光っていた。
「……まるで小さな応接間だな」
「乗ってください」
スノウが静かに促し、カルが中へ足を踏み入れる。
扉が音もなく閉じると、スノウが壁に設けられたパネルへ指を触れた。そこには数字と古代文字が並び、小さな魔法陣が淡く輝いている。
「階層は魔力反応で選択します。今回は最上階へ向かいます」
「……最上階。一番高い部屋なんじゃないか、それ」
「はい。このホテルで最も広く、設備も整った部屋になります」
「それを出会って間もない俺の為に用意したのか」
「はい。これはカル様への恩返しでもありますから」
スノウの言葉は淡々としていたが、その声音には確かな誠意が滲んでいた。
「恩返し、な」
カルは壁に背を預けて軽く腕を組む。
「ミノタウロスを片付けた件か?」
「はい。それと――」
スノウは少しだけ言葉を切り、視線を正面に向けた。エレベーターは魔力の振動と共に、静かに上昇していく。
「カル様を仲間に迎えるなら、最初の印象は大事です。粗末な部屋に押し込むのは、わたし達のやり方ではありません」
「なるほど、信用の種まきってわけか」
カルの口元に皮肉めいた笑みが浮かぶが声には妙な温かさも混じっていた。
やがて柔らかな鐘の音と共に扉が開いた。
そこは、まるで別世界だった。
廊下の先、重厚な両開きの扉を開けると、広々としたリビングが目に飛び込む。壁一面の窓からは、月夜に染まるメテオポリスの街並みが一望でき、遠くには王都を囲むクレーターの縁がまるで闇の海原のように浮かび上がっていた。
分厚いソファとガラスのテーブル、暖炉の上に飾られた古い地図。奥には寝室があり、天蓋付きのベッドが柔らかな白布に包まれていた。
「……王城の客間より豪華じゃないか」
カルは部屋の中をゆっくりと歩き、窓際で立ち止まった。見下ろせば、そこには夜の王都が広がっていた。
「まるで夜空が落ちているみたいだ」
カルの視線の先、王都の街は夜の闇の中で輝いていた。
まるで眩い星々をちりばめたかのよう。
黄金色の街灯が星座のように連なり、大通りをゆるやかに縁取っている。
時折、屋台の灯りや広場の噴水を照らす照明が、夜風に揺らめいて光の輪を描いた。
遠くに見えるクレーターの縁は、闇の中に黒々とした影を落とし、その外側には月明かりに照らされた山々が淡く浮かんでいる。
風は高層の窓に柔らかく触れ、小さな音を響かせた。
「気に入って頂けましたか?」
背後から届いたスノウの声は、控えめながらも微かな期待を含んでいた。
カルは振り返らず、夜景を見下ろしたまま小さく息を吐く。
「……悪くないな。まるで宝箱を開けたみたいな気分だ」
「宝箱、ですか」
「ああ。中身は金銀財宝じゃなくて、綺麗な夜景だけどな」
「素敵な表現ですね。わたし達シャノワールはそんな宝箱の中身――この美しい景色を守る為に戦っています」
「それを教える意図もあったわけか」
「はい。仲間に加わってくれたカル様にも――わたし達が戦っている理由を知っていて欲しかったのです」
「そうか」
カルは夜景から視線を外さず、低く呟いた。
煌びやかな光の群れ。
その向こうにあるのは、彼のいた時代には決して見る事のなかった“平和”という名の宝だった。
「さて……そろそろ宿泊する為の準備を進めましょう。ずっと立ち話をしているのも落ち着きませんから」
スノウは軽く手を打つと持っている荷物をテーブルの上へ静かに置いた。
革製の鞄は無駄のない造りで、金具には細やかな彫刻が施されている。彼女が留め具を外すと、中には彼女が使っているであろう日用品や宿泊に必要な小物が整然と収められていた。
「何をしている?」
「宿泊する為の準備を進めています」
「……まるで一緒の部屋に泊まるような雰囲気じゃないか」
カルが眉をひそめると、スノウは小さく瞬きをしてから、当たり前のように答えた。
「そうですが?」
「……は?」
「この部屋は二人用ですよ。当然、わたしもここで休みます」
あまりにもさらりと言い切ったスノウにカルは言葉を失った。
まるで「今日は天気がいいですね」と同じくらい自然な響きだった




