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1000年ぶりに目覚めたお嬢様、ぬいぐるみメイドを連れてダンジョンを脱出!

作者: われさら

 夢を見ていた。ミミ・フェアフィールドは今、そうとは知らず心地よい眠りの中にいる。いつか行ったことがあるような、しかし見たこともない広い湖畔で、うらうらとした天気のもと、群生しているシロツメクサがそよと吹く風に揺れる姿を眺めている。艷やかな金色の髪をかきあげ、公爵家の娘として恥のないよう背筋を伸ばし、静かに立っていた。そんな彼女を、そばに立つメイドのクレアが呼んでいる。


『お嬢様、ミミお嬢様』


 ──何度も呼ばずとも充分ですわよ、クレア。


『お嬢様──』


 ──あ……これは夢ですのね。


 夢と(うつつ)の境目に立っていることに気がついたミミは、それでも夢の世界にしがみつこうとして寝返りをうつのだった。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「──様、ミミお嬢様」


「ううん……」


「お嬢様。起きているのならば起きてください」


「ぁ……もう……なあに、クレア……朝から騒々しい……」


「朝ではありませんよ、ミミお嬢様」


「……ふぇっ!?」


 次の瞬間、ミミ・フェアフィールドは身を横たえていたベッドから体をガバリと起こした。寝坊をしたのかと思ったのだ。「どうして早く起こしてくれなかったの」と文句を言いかけた彼女はしかし、脇にいるモノに驚き「きゃあっ!?」と素っ頓狂な声を上げることしかできなかった。


 ──たしかに、わたくしを目覚めさせた、クレアのいつもの声がしたのに……


 彼女のそばにいたのは、一体のぬいぐるみだった。彼女が幼少の頃に可愛がっていた茶色いクマのぬいぐるみ。80cmほどの大きさのあるぬいぐるみを、幼い頃のミミはよく抱きしめて眠ったものだった。今、そのぬいぐるみがもこもことした手足をのそのそと動かし、「とうとうお目覚めですね。ミミお嬢様」と、喋っているのだ。幼い頃より彼女に仕えていたメイドであるクレアの、いつも通りの淡々とした口調で。


「何はともあれ、おはようございます。この時をずっとお待ちしておりました」


 目の前のぬいぐるみがお喋りをしている光景にぽかんとして、ミミは目を何度もしばたいた。そして、きっとまだ夢を見ているのだわと思うことにすると、目を閉じゆるゆると体を横にし、ベッドに沈んだ。


「ごめんあそばせ、クレア。わたくし、早く起きすぎたみたい……きっとまだ夢の中にいるのですわ」


「そんなことありませんよお嬢様。いえ、それどころか、という話になります」


「ああ、どうしてぬいぐるみがぺちゃくちゃと……」


「お嬢様、気をしっかりもって聞いてください。あなたが眠りについてから今日まで、おおよそ1000年もの年月が過ぎました」


「……え? せん……?」


「ミミお嬢様。落ち着いて目を開け、よく身の回りをご覧になってください」


「お祖父(じい)様にいただいたクマさん……」


「私ではなく、その目をしっかりと開け、今いる場所をよくご覧になってくださいと申し上げているのです」


「ん……?」


 恐る恐る目を開け周囲を見渡したミミは、自身のいる環境に気がつき──そしてようやく、思い出した。


「どうしてわたくしはこんな薄気味悪い空間にいるんですの!? 神殿で眠りについたはずですわっ!!」


 明かりのない、暗い迷宮(ダンジョン)のような空間に彼女たちはいる。少なくとも、ミミはこのような場所に見覚えはなかった。


「ええ、仰る通りです」


「一体何があったんですの!?」


「経緯をすべてご理解いただくためには、およそ1000年分の歴史をとくと語る必要がございますが」


「巻きで教えてちょうだい!」


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 およそ1000年前、17歳のミミ・フェアフィールドが眠りについたその時代。世界は、人類と魔族が血で血を洗う醜い争いを続けていた。一進一退の終わることない熾烈な版図争いに終止符を打つため立ち上がったのが、女神イストリアである。それまでも女神は聖女を通じて言葉を語り人類を導くために干渉を重ねてきたが、あくまで間接的にという形を取ってきた。そんな女神がこの時はじめて現世に降臨をし、直接人類に影響を及ぼしたのだった。


 そして人々の前に現れた女神はまず手始めに、人類から一人を選びだしその者に膨大な魔力と強力な結界を張る固有魔法を与えた。その選ばれた人物というのが──


「ミミお嬢様に祝福を授けた後、女神様は神の力を使い果たされてしまったためお休みに入られてしまいました」


 クレアは肩に掛けていたカバンから数枚のビスケットと携行用のボトルを取り出すとミミに与えた。小ぶりな瓶の中には飲み水が入っている。


「1000年ぶりの食事ですわね」


「本来ならばお嬢様のお目覚めを祝し豪華に、といきたいところですが。なにせこのような場所ですので、ご容赦ください。それでいかがでしょうか。女神イストリア様が仰った言葉、覚えていらっしゃいますか」


 「もちろんですわ」とビスケットをかじり水を口に含みながら、不満たらたらにミミは答えた。


「あのへっぽこ女神……『初めてだからさじ加減間違えちゃった』とか『神の力が回復するには100年かかります~』とかのほほんと…… わたくしたちの女神様ながら、とんだポンコツでしたわね」


「それでお嬢様は次に──つまり100年後に力を与えられる人物と共に魔族に対抗するため、強力な結界を張った神殿に一人で眠られたのでした」


「ええ」


 クレアはミミの背後に回ると、カバンから取り出したクシでサラサラと流れるような彼女の金色の髪を整え始めた。


「安心しました。どうやら互いの記憶に齟齬はないみたいですね。さて、お嬢様が眠られてからの経緯をざっくり申しますと、あれから数ヶ月後、ミミお嬢様は神殿ごとドラゴンに連れ去られたのです。ドラゴンは物好きですからね。あの豪華な神殿が珍しい宝物のように見えたのでしょう。彼らは霊峰ペリマリオ山まで神殿を持ち去ったのです。しかし何かの拍子に、ドラゴンたちはミミお嬢様が張られていた結界の強さに驚いたようで。彼らは神殿ごとお嬢様を投げ捨て──」


「ちょちょちょ……! 投げ……ですって? 神殿ごと!?」


「お嬢様、急に振り向かないでください。申し上げました通りです。山頂からポイっと。その衝撃で神殿は木っ端微塵に崩壊、唯一無事だったのは結界が特に強力に効いていた眠るお嬢様の周囲……早い話がベッドだけで。お嬢様はそのままベッドごと山を転がり川に落ち、どんぶらこっこどんぶらこと川を流され海まで出ると、風の吹くまま海の流れに大波小波、魔族たちの領土へと流れ着いたのです」


「え゙」


「ここは、魔族たちがお嬢様を封印するために作った迷宮(ダンジョン)なのですよ。当初は彼らも無防備に眠るお嬢様を害そうとしたかもしれないのですが……結界があるため悪意ある彼らではお嬢様には触れるどころか近づくことすらできず、かといって放置しておくこともできなかったのでしょう。魔族たちは地下をせっせと掘り抜いてここを作ったようです。お嬢様を目覚めさせないように」


「触れられないのなら、どのようにしてわたくしをここに?」


「お嬢様には触れなくとも、間接的にならベッドに触ることができたのではないでしょうか。たとえば長い棒を用意してベッドを押しやるように運ぶとか」


「人をばっちいものみたいに……」


「実際はどうやったかわかりませんけどね。なにせこの迷宮(ダンジョン)の情報が魔族側にまったく残されていなかったのです。それどころか、お嬢様が魔族側の領土に流れ着いた、という情報の痕跡すら残されておりませんでした。関係者の記憶も記録も──おそらく当時の魔王自身の記憶からも──魔法で抹消し、隠蔽されてしまったみたいでして」


「はぁ……臭い物には蓋、というわけでして?」


「人類にお嬢様の居場所が突き止められないよう徹底したのでしょう。この迷宮の入口も巧妙に偽装し隠されていたので、発見できたのはほとんど奇跡でした。さあお嬢様、ベッドから起き上がれますか? 続きは外へ向かいながらお話いたしましょう」


 1000年ぶり──といっても、結界の内側にいたミミにとっては眠りについた翌日に目が覚めたようなもので、足腰になんら不自由はない。


「ええ大丈夫ですわ。ところであなたはクレア……なのよね?」


「はい。このような(なり)ですが。フェアフィールド家に仕えておりました、お嬢様がよくご存知の、メイドのクレアで間違いありません」


「一体全体あなたの身に何が起きてぬいぐるみのクマさんになったのかしら」


「それも順を追って後で説明いたします」


 少し急かすように、クレアはベッドの端に括り付けてあった荷袋をミミに手渡した。幸いなことに中身は無事で、彼女の私物である小物や貴重品が1000年の時を越えて収納されていた。履物もそこに入れてある。


「わかりました。お腹も少しは満たされましたし、行きましょうか。クレア、案内をしてくれる?」


「はい。もちろんです」


 クマのぬいぐるみのクレアはペコリとお辞儀のような動きをすると、明かりの灯った小さなランタンを手にトコトコと歩き出した。まさかぬいぐるみのメイドさんが起こしにくるだなんて、などとミミはのんびりと思いながら、その後をゆっくりとついていくのだった。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 「まさに、ここは迷宮(ダンジョン)ですわね」


 通路はうねうねと曲がりくねり時に上ったり時に下がったりしている。それだけでなく幾つもの別れ道があるせいで通路は複雑に入り組んでいた。立ち止まり別の通路を覗いてみても、そちらも先では通路が枝分かれをしているようだ。


「はい。万全を期し、侵入者が忍び込んだとしてもお嬢様のもとへたどり着けないように、お嬢様が一人で目覚めたとしても外へ出られないように、複雑怪奇な造りにしたようです。隠し通路もある上、それ以外の妨害要素もあったのでそれはもう厄介でした。経路を把握した今はもう、入口からここまでまっすぐ向かえば半日ほどかかるだけなのですが」


 そう言ってクレアは茶色い足でトントンと地面を叩いた。二人の歩く地面には赤いラインが引いてあり、薄暗闇の中ぼんやりと灯っている。


「私はこのように魔道具でマッピングをしつつ、時折仕掛けられているトラップを解除しつつ……とお嬢様の探索を行いましたので。ダンジョン発見から今日までおおよそ50年ほどかかってしまいました」


「ご……!?」


「このダンジョンを発見するまでの苦労を思えば、大したものではありません」


「……ありがとうクレア。もしあなたがわたくしを迎えに来なければ、この迷宮の中でずうっと眠り続けていたのですわね」


「それが違うのです、お嬢様。後になって女神様より言葉を授かった聖女様によると、お嬢様は1000年後にひとりでに起きてしまう、ということだったのです。つまりもし、私がお嬢様の目覚めに間に合わず、あなたお一人でダンジョンを彷徨ってしまった場合──」


 クレアは口をつぐみ先の言葉を言わなかったが、ミミには続く言葉を容易く想像できた。


「……非常に危うい状況でしたのね」


「はい。正確な期限(タイムリミット)はあと16日でした。とにかく間に合ってよかったです」


 ミミはゾッとして体を震わせた。知らぬ間に刻一刻と死が迫っていたかと思うと、目眩(めまい)もした。


 ──もし、ひとりぼっちの状態で目覚めていたら、何より寂しさに耐えられませんでしたわね。


「本当にありがとう、クレア」


 立ち止まり深々と礼をしたミミを振り返り、クレアは首を横に振った。


「構いませんよお嬢様。これが私の勤めなのですから、お気になさらないでください。さあ、先を急ぎましょう」


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 しばらく歩き続けて、ミミはずっと気になっていたことを尋ねた。


「クレア、魔族との戦争は結局どうなったのかしら。あなたがここにいるということは、最終的に人類が勝ったの?」


「……お嬢様には少々酷な話かもしれませんが」


「負けたんですの!? あっ……! まさか魔族は、制圧した人類を魔法でぬいぐるみへと変えてしまったのではなくて!?」


「落ち着いてください。人類も魔族も、勝っても負けてもおりません。色々あって和平を結んだのです。私のこの体も自ら望んでなったものです」


「あ、そうでしたの」


 危うくスコンと膝から崩れ落ちそうになるほど、締まりの無い結末にミミは脱力した。それならば自分が眠りにつく必要はなかったのではないかと憤りたくもなったが、人類が滅ばずに平和な世になったのであればよしとするべきなのだろう。そう思い改めると、大きく息を吐き「色々って?」と先を行くクレアに尋ねた。


「お嬢様がドラゴンに連れ去られてから1年ほど経った頃でしたか。当時はまだお嬢様がどうなったかもわからず、私たち──旦那様や奥様、ミミ様の御兄妹はもちろん使用人たちも皆──は日々、お嬢様の行方を追っておりました。藁にも縋る思いで出所の怪しい噂話に付き合ったりもしましたね。そんな時、女神様はいわゆる『転生者』をこの世に送り出し始めたのです」


「猛烈に嫌な予感がしてきましたわね……」


「後の時代になってから女神様のお言葉を頂いた聖女様曰く、外注だったそうで。要するに、力が回復していない女神イストリア様は、代わりに他の世界の神に助力してもらい、余所の世界の方たちをこちらの世界に次々と転生させることにしたのだそうです。彼らはお嬢様のように固有の魔法を与えられ、元の世界の記憶を保ったままこの世に誕生してきました」


「なるほど。それで人類が優勢になり、和平を結ぶに至った……というわけですわね」


「そう単純な話ではないのです。転生者は人類側だけでなく、魔族側にも現れましたので」


 ミミの「はぁ?」といういささか品のない呆れ声を無視して、クレアは続けた。


「先程の聖女様曰く『だってあの時はまだ力が戻ってなかったから、誰がどこに転生するのかなんて制御できなかったんだもん』とのことです」


「あのすちゃらか女神、邪神として滅した方がいいのではなくて?」


「まあまあ。とにもかくにも、転生者たちからすると馴染みのない世界で見知らぬ種族のために命がけで戦えと言われる事態で、素直に『はいかしこまりました』とはいきませんでした。その上、同郷の者が敵陣営にもいるのです。彼らからしたらやってられませんよ」


「でしょうね」


「結局、いえ、情けない話ですが、幼い転生者たちが率先して和平を結ぶよう動いたわけです。説得と交渉の末に、お嬢様が眠られてから10年後、和平は無事結ばれました。この体はその頃に魔族側に転生してきた方に用意していただいたものです」


 さらりと言って、クレアは自身の身体をぽんぽんと叩いた。


「機械仕掛けの動力と魔法による魂の転移──難しい話は私もよく理解していないのですが、当時最先端の科学と魔法の技術がこの体には詰め込まれているのですよ。大きな損傷がなければ半永久的に動き続けることができます」


「ただのぬいぐるみにしか見えませんけれど、すごいのね」


「すごいですよ」


 パチパチと(まぶた)を上下したかと思うと、クレアの眼から光が放出され先の空間を明るく照らした。


「まあ!」


 真昼のように迷宮内を照らす白色の明かりを戯れにチカチカと点滅させて、クレアは「ふふ」と笑い声を上げた。ぬいぐるみで表情こそ変わらないものの、彼女が心から楽しんでいるのがミミに伝わるほど声が弾んでいる。迷宮の壁や天井をぐるりと照らし、感心したミミが「すごいですわね」とため息と共に褒めると、クレアは眼光を消した。


「バッテリーを浪費してしまうので明かりはもう消しましたけど、他にも機能はあるんですよ」


「ばって……? それにしても、たった10年で目覚ましい進歩をしたのですわね。1000年後の今はもう、もっともっと発展しているのでしょう?」


「いえ、ところがそういうわけでもないのです」


「そうなの? ──って、あら」


 二人の視線の先、明かりに照らされた空間に魔族がいた。こちらに背を向けている魔族はちょうどミミの背丈ほどで、肉体は胴長。褐色の毛に覆われている。その姿は、短い手足を器用に使い地中を這い進むモグラ型の魔族、モールグレイブだった。


「第一魔族発見ですわ。おーい、おーーーーい!」


「お、お嬢様っ──」


 クレアの「待ってください」という静止は遅く、ミミのモールグレイブへ呼びかける声は迷宮内をワンワンと反響する。響き渡る彼女の声に反応し振り返った魔族には──友好的な気配など微塵もなかった。


「グギギギギギギギギ」


 ミミを怯えさせるには充分なほど、モールグレイブは禍々しい敵意を剥き出しにして(うな)っている。


「……え? あの、クレア? あの方、とても人類と和平を結んだ種族のようには見えませんことよ?」


 そう言いながらもミミは気がついた。モグラ型の魔族に典型的な、触れるだけで人肌など裂いてしまう鋭く長い爪がない。爪そのものはある。しかし、それはひどく短く歪な形をしていた。


「どうやら彼らは、ここを封印する際に万が一の侵入者への対策として中に残ることを選んだ、モールグレイブの中でも非常に好戦的な者たちの子孫のようで……封印されたまま時が経過し、いつの頃からか正気を失い己がここにいる意味も理由も失念したのだと思います。子孫にいたってはご覧の通り、対話すら能わずといったところで」


「そういうことは早く言ってくださいましっ!?」


 ミミの大声に反応を示し、モールグレイブは「グギゴギャ!」と喚き散らすと二人の方へと突進してきた。1000年前のモールグレイブは弱い視力を補うために嗅覚が優れていた。しかし刺激のないこの暗闇の迷宮(ダンジョン)に長くいた結果、それらの感覚器官すら退化し役目を果たしていないらしい。汚泥のような毛並みを揺らし、モールグレイブは音を頼りに向かってきている。


「ぎゃああああっ!!」


 モールグレイブの雄叫びよりもけたたましい悲鳴を上げて、ミミは両手を前に突き出しあらん限りの魔力を使い身を守るための結界を張ろうとしたが──


「あえ?」


 先程も感じた目眩が強まって、足元が揺れるような感覚に陥りミミはその場に尻もちをついた。目眩だけではない。鈍器で頭の内側を殴られているような頭痛もする。


「け……結界が出せませんわ……」


「いけません、お嬢様っ」


 その場で目を回しているミミをひょいと抱えると、クレアはトトトと走り来た道を戻り逃げ出した。ぬいぐるみながら彼女の脚力は並外れていて、ミミを抱きかかえているにも関わらず追いかけてくる魔族をどんどん引き離していく。モールグレイブはランタンの揺れる明かりからみるみる間に外れていった。


「お嬢様、あなたはご自身の途方もない魔力で強力な結界を1000年近くも張り続けていたのです。期限(タイムリミット)というのはつまり、あなたの魔力が尽きるということで。今はもう、新たに結界を発動できるほどの魔力は残っていらっしゃらないのでしょう」


「そういうことも、早く、早く言ってくださいまし!」


「申し訳ありません。ご自身の魔力のことならばお気づきになっているものかと。魔力が充分に回復するまでは魔法の発動は控えてください。あと、もうおわかりのようにこの迷宮(ダンジョン)内の魔族たちは暗闇に慣れすぎて視力が非常に弱いです。物音を立てずにいればやりすごせますよ」


 クレアは充分にモールグレイブから距離を取ったことを確認すると、赤いラインのある通路から外れて脇道に逸れ、二人はそこで息を潜めた。


 ──まさか、ぬいぐるみに抱っこされる日がくるなんて思いもしませんでしたわ。


 驚き、バクバクと脈を打つ心臓の音が迷宮内に響きそうなほど高鳴っているものの、クレアがそばにいると思うだけで恐怖感は抜けていった。でも、とミミは思う。クレアはたった一人で、この迷宮を50年も探索していたのだと。


 ──あなたには感謝してもしきれませんわね。


 ぎぃぎぃと鳴きながら追ってきていた魔族が脇道に逸れた二人に気づかずに素通りすると、やがて邪な気配は消えた。


「もう大丈夫ですよ、お嬢様。あれが単独で行動していたのはツイてましたね」


 クレアは周囲を伺い安全であることを確認すると、抱きかかえていたミミをゆっくりと下ろした。


「いかがでしょう。もう立ち眩みなどはしませんか?」


「ええ大丈夫ですわ。危うく永眠につくところでした」


 ミミはしゃがみ込みクレアと目線の高さを合わせると、感謝の気持ちを込めてぎゅっと抱きしめた。


「クレア、あなたには本当に、本当に助けられてばかりですわね。ありがとう。何度お礼を言えばいいのかわかりませんわ」


「ふふ。お嬢様にそう言っていただけるとは、メイド冥利に尽きるというものです。1000年近くミミお嬢様を探し続けた苦労なんてどこへやら、という具合で」


「まあもっとも? あなたのどこか抜けているところは1000年経っても相変わらずみたいですけれど。注意点があるなら先に言っておいてくださいまし」


 チクリとミミが指摘すると、クレアはミミの腕の中で抗議するようにモゾモゾと動いた。


「ミミお嬢様。あの頃は私が2つ年下で身長も低かったので色々頼りなかったかもしれませんが、お嬢様が1000年もお眠りになっている間に私の方は成長していますからね。それはもうぐんぐんと。今やもう、私の方が年上ですよ」


「そうだといいのですけど。……ん? ならばあなたは今、1015歳になるということ? クレアおb──」


「姉さん」


 クレアは少し声を張るとミミの言葉を遮った。その様が愉快で、ミミはクスクスといたずらっぽく笑うと更にからかった。


「自分でぐんぐんと成長したと言ったじゃありませんの。ね、クレアお」


「姉さん」


「ですが1000年も生きたのですから。長幼の序を大切にするべきと今さっきあなたも言ったじゃありませんこと?」


「お姉さん、です。もう、あまり意地悪を言わないでください。それによく考えたら、このぬいぐるみの体で『年を取った』と言っていいのかもわかりませんしね。本来の私の肉体であった年数だけ計算して、今はミミお嬢様より8歳だけ年上の、お姉さんです」


 ウンウンと一人で納得して頷いているクレアにミミが「え~?」と笑うと、クレアもミミに抱きしめられたまま「ふふ」と笑い声を上げた。


「……久しぶりにこうして笑った気がします」


「まったく。わたくしがいないと駄目駄目なんだから」


「ふふ──あ゙」


 クレアは不意に黙りこくると、「どうかしましたの?」と不思議そうな顔をしているミミに告げた。


「……お嬢様。大変申し訳ないのですが、このまま抱きしめ続けてもらえますか」


「へっ? ええええっ!?」


「お嬢様」


 驚き大声を上げた女主人をたしなめると、クレアはミミの首筋に両腕を回し抱きつく姿勢をとった。


「クレア?」


「いえ、先程のお嬢様を抱えての全力疾走で少……無茶をして……まったようで。バ……テ……ー……が……れ…………」


 突然声が途切れ途切れになったクレアに驚き、ミミは息を呑んだ。


「驚か……てしま……申し……ありません。足……赤いライ……辿っ…行けば、外へ…られ……ので」


「クレア!? 一体何が──」


「……嬢さ……だ………………陽射し……浴び……………………」


「クレア!!」


 ミミに掴まったまま、クレアは停止した。


「クレア! 嘘ですわよね!? クレア、クレア!」


 突然物言わぬ状態となったクレアは、ただのぬいぐるみと変わらない。ミミが揺さぶっても、ガクンガクンと首が揺れるばかりだった。


 ──わたくしはどうしたら……


 しばらくミミはその場で呆然としていた。「クレア」と何度呼びかけても、彼女が応じることはない。ミミが呼びかける声は虚空に飲まれていく。孤独感が去来し諦念が彼女の胸の内を曇らせた。もういっそのこと、このまま息絶えるまでここに居続けようかともミミはちらりと考えた。


 しかし、ミミの腕の中にはクレアがいた。1000年近い間、ミミのことを探し求めていた従者が。今ここで彼女がすべてを諦めてしまうことは、ミミ自身の手でクレアの努力を水泡に帰すのと同じだった。それに──


「……きっとまだ、終わったわけではありませんよね。あなたは一時的に身動きやお喋りができなくなっただけで、必ずやまた、動きだしますよね」


 無論返事はない。しかし、僅かでもその可能性があるならば、ミミのやることは決まっていた。彼女にはぬいぐるみがどのような仕組みでクレアとして生きているのかわからない。だが、仕組みがあるならばきっと誰かが癒せるだろうと推測した。人を病から救う医者がいるように、クレアを救うことができる何者かもきっといるだろうと考えたのだ。


「しっかりしなさい、ミミ・フェアフィールド! わたくしのためにこれほど尽くしてくれたメイドを救えずして、何が公爵家の娘ですの!」


 自身を叱咤すると濡れていた目尻を拭い、クレアが持っていた小さなランタンを手にして、ミミは赤い線が引いてある道を再び歩き始めた。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 改めて歩み始めたその道は、クレアが50年の歳月をかけて作った出口までの最短ルートだった。一体どれほどの苦労をしたのだろうとミミは思う。50年。仕掛けられていたトラップの残骸が積まれている空間もあった。隠し通路を突破するために掘った土砂や瓦礫が壁際に盛ってある空間もあった。クレア一人ならば、小さくすばやく動ける体を駆使して罠も隠し通路も必要最小限の労力で突破できただろう。だが彼女はそのようなことはせず、主人であるミミのために一つ一つ丁寧に取り除き道を築いていたのだ。


「……わたくしは果報者ですわね」


 幼い頃に祖父の住まいの館で、今と同じようにしてこのぬいぐるみをぎゅっと強く抱きしめ歩いたことをミミは思い出していた。当時既に隠居し別居していた祖父の館はミミにとって不慣れで、眠れないベッドを抜け出し真夜中に一人で歩く廊下は心細く、外を吹く風が揺らす窓や壁にかけられている絵画や装飾品がひどく恐ろしかった。当時すでにメイド見習い兼ミミの遊び相手としてフェアフィールド家に仕えていたクレアの名を呼びながら、ミミは暗い邸内を彷徨ったのだった。


 あの頃は新品で汚れ一つなかったぬいぐるみだが、今は違う。手足は汚れ擦り切れ、ふわふわと柔らかだった胴体は少しくったりとしぼみ弾力を失っていた。クレアの肉体には、彼女がぬいぐるみとして生きた1000年近い年月が蓄積している。


「あなたの苦労には必ず報いてみせますからね!」


 ミミは、確かな足取りで引かれた線をたどり続けた。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 やがてミミは足を止めた。前方に開けた空間が広がっており、奥の壁には上部から縄ばしごが降ろされている。蛍光の赤いラインはそこで止まっていて、その縄ばしごを登り上がった場所がこの迷宮の出入り口だということを示していた。はしごは垂直に5m以上はあろうか。それを登らなければいけないと思うとミミは肝が冷える思いを抱えた。しかしそれ以上に彼女を困惑させたのが、その空間にモールグレイブの集団がいたことだった。


「これは……」


 離れた位置から身を潜め様子を伺い、ミミはどうするべきか考えた。


 視力の弱いモールグレイブたちは縄ばしごに特段の興味を示しておらず、ただ、たむろしているだけだった。しかしいくら視力が弱いとはいえ、密集しているあの群れの中をかき分けて進むような真似はできない。結界を発動させようにも、それだけの魔力はまだ回復していなかった。


 ──クレア、あなたなら一体どうやってここを切り抜けますの。


 きつく抱きしめたクレアにミミが顔を埋めたのは、弱り果てたせいだけではない。そこには、強烈な臭いが漂っていた。モールグレイブたちの吐く息は凄まじく、吐瀉物を煮込んでいるかのような生温い熱を持った臭いが満ちている。その上、互いに互いの唸り声に興奮し奇怪な鳴き声を共鳴させているものだから、怯えたミミの思考は散り散りに乱れた。


 ──どうしましょう……


 しかしそうこうしている間にもモールグレイブは続々とこの空間に集まりつつあった。彼女のいる通路だけでなく別の方角にある通路からも、群れの放つ引力に誘い出されて薄汚い毛並みのモールグレイブがのそのそと向かってきている。このままでは、岩陰に潜んでいる彼女の存在がモールグレイブたちに気づかれそうなほど、数が増えつつあった。


 ──ああもう、迷っている余裕なんてありませんわ……!


 ミミは自身の荷袋とクレアのカバンの中を漁ると、瓶や硬貨など壁にぶつければ音が派手に鳴りそうなものを手に取った。そして覚悟を決め吐き気を催す空気を大きく吸い込むと、次から次へと手当たり次第に、それらを迷宮の奥の方へ強い願いと共に放り投げた。


 ──お願い、あっちに行って!


 ミミの手から放たれた物たちはランタンの明かりの届かない闇の方へと飛んでいき、派手な音を立て残響を残す。その瞬間、モールグレイブたちは一斉に音のした方を振り向くと、迷宮の奥へ向かって駆け出したのだった。すぐさまミミは身をかがめ息を止め目を閉じた。


「ギャギャギャ!」


 ミミが潜む岩陰のすぐそばを、モールグレイブたちが荒々しい鳴き声を上げながら通り過ぎていく。悲鳴をあげないように口元を押さえ堪え、ひたすら彼らの気配が遠ざかるのを待った。


 やがて周囲が静かになったことを確認すると、ミミは恐る恐る目を開けた。明かりを向けると、あれほどいたモールグレイブの群れは消えている。縄ばしごのそばの一頭を残して。


「う……まだ……」


 しかし、ミミの手元にはもうモールグレイブの注意を引くことができるような物はない。そのうえ悪いことに、一頭だけ残っていたモールグレイブは自身を見つめている何者かの気配に気がついたらしい。突如鼻をひくつかせたかと思うと、見えないはずの目を彼女の方に向けて「ギギ……」と唸りだした。


 ためらっている余裕などなかった。逃げるという選択肢などなかった。向こうが襲いかかってくるよりも先んじて、ミミは大声を上げ縄ばしごを目指し走りだしていた。


「だああああっ!」


 公爵家の娘だとか淑女だとか女神の祝福を受けたとか救世の少女だとか100年眠るつもりが1000年近く眠っていたとか人類だとか魔族だとか、ミミには関係なかった。


「あああああっ!」


 彼女にはクレアを助けなければという使命感があり、それが希望でもあった。そして、自身のためにもクレアのためにも迷宮を脱出しなければという渇望が、ミミの命運を紙一重で(たす)けたのだった。


「ぎいいいっ!!」


 モールグレイブは近づいてきている獲物を傷つけることしか頭になく、また、獲物も自分を攻撃するために向かってきていると錯覚していた。振り下ろした短い爪が紙一重で交わされた時、モールグレイブは獲物からの反撃を予測し一瞬身構えたのだ。


 だがミミは、モールグレイブになど構わず、縄ばしごへとためらわずに手を伸ばしていた。


 それが、すべてだった。


「あなたがたは1000年でも2000年でも、好きなだけこの迷宮(あなぐら)で生きてゆけばいいのですわ! わたくしは──わたくしたちは、もうこんな場所に用はありませんの!」


 言葉は通じずともミミに(なじ)られたことだけは理解したのだろう。足元の方で縄ばしごを登れもしないモールグレイブが雄叫びを上げている。ミミは振り向かずに全速力で縄ばしごを登ると、駆け出した。岩盤をくり抜いて「通路」と呼べるほど人工的だった迷宮内の道は、次第にゴツゴツとした岩が自然な状態のまま転がっているようになり、洞窟と呼べるような空間になった。


「もうすぐ……!」


 明かりが差し込んできて、ミミの足は自然と早まった。洞窟は海のそばにあるらしく、道の端には海水が入り込んできていて転がる岩の下で微かに揺れている。転ばないよう、それでも足を止めることなく進んでいくと、彼女はとうとう迷宮の外へと出たのだった。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 「あ……」


 そこはミミの知らない景色だった。海が視界いっぱいに広がり、風が潮の香りを運んでいる。絶えず打ち寄せる波が1000年ぶりに地上へ現れた彼女の噂話でもするように、ちゃぷちゃぷと音を立て海面をきらめかせている。迷宮の入口は海岸の崖下にできた洞窟のようだった。かつてはここが塞がれていたのだろう。入口周辺の岩には人為的に砕いた跡が残されていた。


 視線を転じれば離れた位置に砂浜が見え、見上げた空は天高く、太陽が座しはるか上空より大地を見守っている。


 たしかにミミはこの場所を知らない。かつて魔族の支配下であった土地のことなど知るはずもない。いや、もし仮にこの地が彼女に(ゆかり)のある土地だったとしても、1000年もの歳月があればそこは知らない土地となっていただろう。


 しかし海も大地も空も、彼女が眠りについた時と何ら違わなかった。陽光は砂浜を熱くし、靴を通してミミの足も温めた。波打ち際をカニが横歩きに悠々と進んでいる。砂浜から高台へと登る道を見つけると、ミミは疲れをものともせず坂道を駆け上がり高台へと出た。


 そこは周囲を一望できる場所で、水平線が遠くに見える。自生した草花たちが風に揺れている高台の中央にミミは仰向けになると、点々と雲が浮かぶ空を見上げた。


「っはーーっ!」


 陽の昇り具合からして、正午頃だろう。胸の内の空気をすべて入れ替えるかのようにミミが大きく深呼吸をしていると、抱きしめたままだったクレアがぴくりと体を動かし、「さすがですね、お嬢様」と声を発した。


「クレア!? 直りましたの!?」


「直ったと言いますか、私のエネルギー……つまり動力は日光なのですよ。あの迷宮の中では陽の光が届かないので、1日が活動限界だったのです。それなのに駆けたりお嬢様を抱えたりしたものですから、予想より早くバッテリーが切れてしまい、あのように。こうして日光を浴びていれば、多少不足していてもエネルギーを蓄えつつ稼働できます」


「もう! それならそうと先に言っておいてくれれば……もしわたくしが貴女を見捨てていたら……もし、もし、わたくしが悲観してすべてを投げ出していたら、どうするつもりでしたの!?」


「お嬢様はそういうことをするお方ではないと私は知っておりますので。簡単に心が折れて諦めるつまらないお人なら、私はこんな姿にまでなってお嬢様を探し求めたりはしませんよ」


「たとえそこに信頼があったとしても、きちんと言葉にして伝えておくべきですわよ! (おび)にあらずんば(たすき)にあらずと言うでしょう」


「言いませんよ」


「言いましてよ!……もう……本当に、心細かったんですから……」


「……申し訳ありません。お嬢様を傷つけるつもりはなかったのです」


 それからしばらく二人は他愛のない言葉を時折交わしながら空を見上げていたが、やがてクレアは抱かれていたミミの腕の中から起き上がり「お嬢様」と改まった声を発した。


「実は旦那様方より、あなたへの伝言を預かっております」


「お手紙?」


「いえ。私の内部に旦那様たちの音声を記録してあります。なので僭越ながら私もその内容を知っておりますし、また、お嬢様にお聞かせする際には私もおそばにいなければなりません。それでもよろしいですか?」


「そういうこともできるのですわね。構いません。ぜひ、聞かせてちょうだい」


 クレアは手頃な場所を見繕いそこへミミを腰掛けさせると、彼女の目の前に立ち「では」と1000年前の記録を再生し始めた。興味深げにミミがじっとクレアを見つめる中、彼女の口からサー……とノイズが漏れてきたかと思うと、軽く咳払いをする音がする。お父様だわ、とミミはすぐに察した。


『──あー……もういいのかな。ああ。ありがとう。私の名前はダグラス・フェアフィールド。第6代フェアフィールド家の当主だ』

『その妻のアリス・フェアフィールドです。ミミちゃん、聞こえてるかしら』

『これから話す言葉は、我らが娘ミミ・フェアフィールドに届くことを願い、メイドであるクレアに託すものだ。ミミ。お前が聞いているものとして語ろう』


 父親はそこで一旦言葉を切ると、ミミにもはっきりと聴こえるほど、大きく息を吐いた。


『緊張するなこれは』 


 『ぶっつけ本番ですもの』と母親の声がして、小さな声で『あなた』と先を促している。


『……これをお前が聞いているということは、クレアと無事に合流できたのだと思う。我々が話している“今”は、お前が眠りについてから10年経った“今”だ』

『ミミちゃん。クレアちゃんから聞かされていると思うけど、人類と魔族は和平を結んだの。転生者と呼ばれる子どもたちがね──』

『待ってくれ、母さん。それはクレアから直接語ってもらえばいい。それよりも』

『え、ええ。そうね。ごめんなさい。(わたくし)も緊張して、ミミちゃんにお話したいことがたくさんあって』

『大丈夫だ。互いにちょっと落ち着こうか』


 少し沈黙した後に、ミミの母親であるアリス・フェアフィールドは厳かに語りだした。


『ミミ・フェアフィールド。あなたは、(わたくし)たちの誇りです。女神様より大いなる力を授けられても、あなたは(おご)らずにその力を世のため人のために使うと心に決めましたね。(わたくし)たちはそんなあなたを心より愛おしく思っています』

『我が娘ミミよ。お前が100年の眠りにつくと決めた時にも充分語ったように、人の親として、私たちは複雑な思いだった。お前が眠りにつけば、もう私たちが生きている間に言葉を交わすことができない。そして次に目覚めた時は、お前が知る者は一人もいない世界が待っている……それが世界のためだとはいえ、あまりにも寂しいことだ。あまりにも、辛い……』


「……」


『……繰り言だったな。すまない。もう聞かされているだろうが、お前はドラゴンに攫われ行方知れずとなってしまった。ドラゴンに食われもう死んだのだと断ずる者もいる。しかし、あれほど強力な結界だ。お前は必ず──必ず生きていると、私たちは信じている。今はまだ糸口も見つけられていないが、私たち自慢の娘は必ず無事で、いずれどこかで目を覚ます時がくるだろうと私たちは確信している。ならば私たちは、その時のためにお前へ残すものを用意しなければならない』

『ええ。皆でよく話し合いましたね』

『……笑わないで聞いてくれ。私たちは、お前が目覚めたその時に寂しい思いをしないように、大勢の者たちが住みよい世を作ることに尽力しようと思う。公爵家とは言ってもできることなどたかが知れている。だが志を共にする者たちと連帯をしていけば、必ず、平和な世を作りだし、それを永く維持できるはずだ』

『あなたが目覚めた時に、安心して暮らしていける世界を皆さんと共に作っていきますからね』

『無論、私や母さんだけじゃない。お前には兄妹たちもいる』


 父親に『さあ、お前たちからも』と声をかけられて、ミミの兄妹──兄のアランと妹のレイチェルは、せきを切ったように話しだした。


『お姉様。 レイチェルはお姉様が心穏やかに暮らせる世になるよう、頑張ります。だからどうぞ、お姉様も笑顔でお過ごしください』

『僕も父様や母様──それにレイチェルとも同じ気持ちだよ、ミミ。家を守りつつ、より多くの者が幸せになれる世を作ることを誓おう。そしてきみが目覚めた暁には、僕らが精一杯貢献した社会の中で暮らしてほしい』


 ミミが眠りに入る時は6つも年の離れていた妹は、10年の歳月で成長し姉よりも年上になり落ち着いた声で語っていた。だが、姉との思い出を反芻してすぐに泣き出してしまったらしい。静かに泣き母親にすがりついているらしく、アランの語る背後で消え入るように『お姉様』と嘆いていた。母親のなだめる声が聞こえている。


『ああそうだな。アランの言う通りだ。ミミ。お前は、お前自身の幸福のために精一杯生きなさい。それが我々の望みでもあり幸福でもある』

『ミミちゃん、愛してるわ』

『わたくしも。 お姉様のことは今もとても大好きです!』

『僕には無い、賑やかさがミミの良いところだからね。きみのそばにいる人を──もちろんクレアも──笑顔にさせてあげてくれ』

『うん。クレアのこともよろしく頼む。彼女の覚悟があったからこそ、我々はこうやって前向きに進みだすことができたのだから』

『本当にそうですわ。ミミちゃん、クレアちゃんと仲良くね。よく言うことをきくのよ』

『……あの、差し出がましいようですが、私のことは構いません。どうぞご家族としてミミお嬢様にお言葉を』

『構うさ』

『もう家族と変わらないのだからね』

『あ、そうでした。ミミお姉様。クレアったら、それはもう可愛いらしいクマのぬいぐるみになったのよ! それでね──』

『ですが皆様、そろそろ時間が──』

『そうか。あいわかった。ではミミ、本当に別れの時だ。幸せになりなさい』

『元気に暮らすのよ。それだけが母の望みです』

『もし僕らの孫やひ孫に会えたら、その時はよろしくしてやってくれ』

『お姉様、レイチェルは絶対お姉様のことを忘れたりしませんから! だからどうか、お姉様もレイチェルのことを……!』


 やがて、皆がミミに『さようなら』と別れの言葉を告げ終えたところで、音声は終わった。


「──以上になります。録音の中で皆様は敢えて語っておられませんでしたが、旦那様たちはミミ様を捜索するために睡眠時間を惜しみ何年も何年も情報収集に費やしておられました。中々思うようにお嬢様の行方を辿れない中、それでも常にあのように明るく振る舞われていたのです」


「そう……父も母も皆、わたくしの幸せばかり……あの人たち自身は幸せだったのかしら」


「従者の身分で畏れ多いことですが……きっと。旦那様も奥様も、苦労はされても笑顔の絶えない方でしたから」


「アラン兄様やレイチェルは?」


「旦那様がお隠れになった後はアラン様が家を継ぎ、フェアフィールド家の名に恥じぬ立派な業績を残されております。特に人類と魔族の交流への貢献は計り知れません。形だけの和平ではなく、文化的、経済的にも繋がりを深め、今や『交流』という域に留まらず『一体』と呼んでも差し支えない世の中です。その礎を作ったのが、アラン様でした。あなたの兄君は公爵家の人間として、魔族とも人類とも、よく語りよく笑い合っておられました」


 クレアはミミの隣にくると、膝の上に置いている彼女の手にぬいぐるみの手を重ねた。


「レイチェル様はあれから海運の事業を起こし、その事業の傍らあなたの行方を探っておられました。私もレイチェル様の船に乗り各地の港で情報を収集したりしましたね。残念ながら当時あなたの行方はわからずじまいでしたが……時代がくだってレイチェル様の孫の代にあたる方が海洋学者となり、広大な海を流れる海流の構造を明らかにしようと試み始めました。その研究の果てに、あなたの流れ着いたであろう候補地が幾つかに絞れ、闇雲に探し求めていた時代は終わりを告げたのです」


 ミミは、俯いたままそれを静かに聞いていた。しかし静かに流れる涙は隠しようがなく、頬を濡らしていく。


「……差し支えなければ、私は暫しこの場を離れましょうか。縄ばしごを回収しあの迷宮を封じておかねばなりませんし」


「ううん。急ぎでないなら、今はここにいて。わたくしのそばに……」


「かしこまりました」


 ミミはクレアを抱きあげると、ぬいぐるみのお腹にぎゅっと顔を沈めた。


 わかっていたことではあった。想定外に1000年も眠っていたが、もし仮に予定通り100年眠っただけだったとしても、彼女の知っている人物は皆この世からいなくなる。そんなことはミミもわかっていた。だからこそ、眠りにつく前に充分に別れを告げてきた。一人ひとりと向かい合い、手を握り、時に抱きしめ、別れを告げたのだ。


 一方でミミは、自身が孤独に取り残されるという単純な事実からは目を背け気がつかないふりをしていた。


 そして今、改めて自身の家族も友人も知人も皆──クレア以外は──死んでしまったという事実に思い至り、どうしようもなく胸の内で寒々しい隙間風が音を立て吹いた。流れる涙は暖かく、また、顔を(うず)めたクレアのお腹もほんのりと暖かった。しかし、愛する者たちが自分を置いてこの世から去っている悲しみは尽きることのない虚しさと寂しさを運んできて、体の内側から指の先まで凍えるのではないかと思うほど、がらんと空いたミミの心を吹き荒んでいく。


 クレアは静かに涙を流しているミミを、ただ黙ってそっと抱き返していた。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 しばらくミミは黙ったままクレアを抱きしめていたが、やがて立ち上がると宣言した。


「よし! もうジメジメするのはおしまいにいたしますわ!」


 ミミは泣き腫らし赤くなった目尻を隠しもせずクレアに呼びかけた。


「ねえ、クレア。 あなたには、これからしたいことってありますの?」


「いえ……ですが、私の仕事はお嬢様にお仕えすることですから」


「でしたら、これからもわたくしについてきてちょうだい。それで、一緒に暮らしましょう?」


「無論です。ミミお嬢様はいかがなさいますか。せっかくお目覚めになられたのです。何かやりたいことなどございませんか?」


「ええ! もちろんありましてよ!」


 はつらつとした笑顔を見せ、ミミは咲き誇り風に揺れる花のように楽しげに体を揺らした。


「二人でパン屋さんを開きましょう! ぬいぐるみのパン屋さん! それって、とっても素敵だとは思いませんこと?」


「お、お嬢様、それは……」


「なぁに?」


「大変申し上げにくいのですが、私、パンを焼いたことなどありません。それにこのぬいぐるみの体になってからというもの、食事という概念すら曖昧になっております。つまり、率直に言って、パン屋を開業するにあたり私がどれほどお嬢様のお役に立てるか……」


「大丈夫ですわよ! わたくしもパンなんて焼いたことありませんわ!」


「ええ……」


「だからこそ、ですわよクレア。素人二人でたくさん失敗して、たくさん挑戦して……きっと不格好なパンをいっぱい焼くでしょうね。とても口には入れられないような、パンとは呼べないものまで作ってしまうかも」


 ふふ、とミミはクレアに微笑み言葉を紡いだ。


「でもいつか美味しいパンが焼けたら、それまでの苦労が全部笑い話になると──そうは思いませんこと? いいえ、わたくしたちなら絶対、苦い記憶も愉快な思い出として語り合える日がきますわ。ほら! もう楽しみになってきたでしょう?」


「……お嬢様には敵いませんね」


 わざとらしくため息をつくふりをして、ミミは「仰せの通りに」と呟いた。


「お嬢様にやりたいことがあるのならば、それが一番です。それに生きていくためにも、お嬢様には生計を立てていただかねばなりませんから」


「ふふ。いつの日か、あの頃に負けない立派な邸宅を立てて見せますわよ」


 希望を語るミミの声色は明るく、クレアはこっそり心から安堵していた。今までの苦労はすべて、彼女の笑顔をすぐそばで見るためだったと思うと感慨深いものがあり、報われる思いがした。


「ところでクレア? あなたは本当にやりたいことはありませんの? わたくしに遠慮なんかせずともよくってよ? 長い年月をわたくしのために費やしてくれたのですもの。あなたに報いるためなら、わたくしのことなんて二の次三の次ですわ」


「寂しいことを仰らないでください。それに、ミミお嬢様には私へのお給金を支払っていただかねばなりませんからね」


「……ん?」


「ざっと1000年、お給金が未払いとなっております。それに今後もおそばに仕えるのであれば、それらの分もいただかねばなりません」


「んん!?」


「まさかお嬢様、あなたに忠誠を尽くすこれほど愛らしく素晴らしい有能なメイドを、無給でこき使おうなどとは思っておりませんよね?」


「うぐぐ……ええ! もちろんお給与はたんと出しますわよ! ただ、収入が無いことには支払うこともできませんわ!」


「それで結構です。利息などつけませんので、どうぞ、ごゆっくりお支払いください」


「もう……そういうことは後にいたしましょう! 今はとにかく、パン屋を始めるための準備ですわよ!」


「お嬢様が目覚めた時のために旦那様より資産を幾らか預かり保管しております。それらを開業資金に充てませんか。たしかそれに土地の権利書も含まれていたと思います。ただ、相当古いものですので、どれほどの有効性が残されているか未知数ではあるのですが……」


「僅かでも可能性があるのなら、それだけで充分ですわよ。ではクレア──」


「はい」


「今後とも、よろしくお願いいたしますわね」


「こちらこそよろしくお願いいたします。ミミお嬢様」


 ぬいぐるみに「よろしく」と言うのも言われるのもくすぐったく感じ、ミミは照れ笑いを浮かべた。クレアも表情こそ変わらなかったものの、気恥ずかしさを覚えたらしい。


「そうと決まれば善は急げですね」


 と、くるりと身を翻すとミミに背を向けて先に歩きだした。


「あ……待ってクレア!」


 ミミもすかさずクレアに駆け寄り隣に並ぶと、歩調を合わせる。


「あなたが先導して歩む必要はもうありませんわ。共に参りましょう。それに、わたくしが眠ってから今まで、あなたが何を見てどう感じてきたのか知りたいんですの」


 差し出された手にクレアは腕を伸ばし重ねると、じっとミミを見つめた。


「そうなると、およそ1000年分の私の身の上話をとくと語ることになりますが」


「ええ。わたくしはそれが聞きたいの。ぜひ、じっくりと教えてちょうだい!」

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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