量子世界の彼女
# 量子世界の彼女
## 目次
**第1章 量子の出逢い**
1-1 偶然か、必然か
1-2 量子研究所の謎
1-3 消えた少女
1-4 シュレディンガーの恋
**第2章 観測者のジレンマ**
2-1 彼女は誰なのか
2-2 量子コンピュータの秘密
2-3 存在しない存在
2-4 収束しない感情
**第3章 重ね合う世界**
3-1 パラレルワールドの法則
3-2 量子エンタングルメントと運命
3-3 もうひとつの未来
3-4 彼女の過去
**第4章 量子転送の罠**
4-1 観測すれば消えてしまう
4-2 逃げられない運命
4-3 量子もつれの彼方へ
4-4 彼女が選んだ道
**第5章 収束する恋**
5-1 未来の選択
5-2 二つの世界の狭間で
5-3 最後の観測
5-4 永遠の可能性
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## プロローグ:観測されない存在
深夜の研究室。白いLED照明が、静まり返った室内を無機質に照らしている。量子コンピュータのモニターには、数式と波動関数が踊り、まるで命を持ったかのように変化を続けていた。
桐生湊は画面を見つめながら、震える指先でキーボードを叩いた。彼の研究テーマは「量子もつれを用いた情報転送」。観測されることで初めて確定する量子状態――その不確定性に、人間の意識を適用する実験だった。
「……やはり、観測しない限り存在しないのか?」
独り言が虚空に消える。その時、モニターの端に見慣れないデータが浮かび上がった。
——観測されていない存在を検出。
湊は息を呑んだ。そんなはずはない。理論的には不可能なはずの数値が、目の前で証明されようとしている。彼は震える手でマウスを操作し、さらにデータを追った。すると、画面に浮かび上がったのは、一つの奇妙な名前だった。
『天宮玲奈』
彼はその名前に覚えがなかった。しかし、その瞬間から、彼の世界は量子の不確定性と共に揺らぎ始めることになる——。
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## 第1章 量子の出逢い
### 1-1 偶然か、必然か
桐生湊は、量子物理学の研究者として名を馳せた若き天才だった。常に新たな発見に胸を躍らせる彼だったが、ある日、予期せぬ出来事によりその平穏は崩れ去った。深夜、量子研究所の実験室で奇妙な現象が起きたのだ。計器が示すデータは、通常の物理法則では説明できないものだった。中でもひときわ注目を集めたのは、一人の少女の映像がスクリーンに現れたことだった。
「彼女は…一体誰だ?」湊は呟いた。映像の中で少女は静かに微笑んでいたが、その姿はどこか現実感を欠いていた。半透明で、時折ノイズに埋もれるようにちらついている。しかし、確かにそこには一人の少女がいた。黒髪を風になびかせ、白いワンピースを纏った彼女は、画面越しに湊を見つめているように思えた。
画像データは不安定で、すぐに消えてしまったが、湊の心には確かに焼き付いていた。翌日、彼は早朝から研究所に戻り、昨夜のデータを詳細に調べ始めた。しかし、記録されたログには少女の映像についての情報は残っていなかった。あたかも、その現象が存在しなかったかのように。
「おかしいな、確かに見たはずなのに」
湊は頭を抱えた。疲れからの幻覚だったのだろうか。そう思いかけた時、研究室のドアが開き、先輩研究員の高瀬が顔を出した。
「おはよう、湊。随分と早いじゃないか」
「ああ、ちょっと気になることがあって」
「そうか。ところで昨日の実験データ、見たか?なんだか奇妙なノイズが入っていたらしいぞ」
湊は息を呑んだ。やはり彼だけの幻覚ではなかったのだ。二人は共にデータを見直し始めた。そして、わずかながらも痕跡を発見した。量子状態の異常な揺らぎ。それは通常ならあり得ない波形を描いていた。
「これは...」
「ああ、量子の重ね合わせ状態が異常に長く続いている。まるで観測されていないかのようだ」
その日から、湊は少女の正体を突き止めるべく、研究に没頭することになった。それが偶然なのか、それとも必然なのか。答えはまだ見つからなかった。
### 1-2 量子研究所の謎
量子研究所は、世界でも最先端の技術を駆使して量子力学を解明しようとする機関だった。超高層ビルの最上階から地下数十メートルにおよぶ施設は、最新の設備で満たされ、世界中から集められた優秀な頭脳たちがしのぎを削っていた。
湊は日々、同僚たちと共に量子コンピュータや量子通信の開発に取り組んでいたが、突然現れた少女の映像が彼の心を乱していた。昼も夜も、彼女のことを考えずにはいられなかった。
ある日、湊は研究所の資料室で古い論文を調べていた。そこで彼の目に留まったのは、10年前に中止された「量子意識転送計画」に関する書類だった。計画の責任者は、現在の研究所長である神崎教授。計画は事故により中止されたとされていたが、詳細は明かされていなかった。
「神崎教授、少し時間をいただけますか?」
翌日、湊は勇気を出して神崎教授を訪ねた。
「何かな、桐生君」
「量子意識転送計画について教えていただきたいのですが」
神崎教授の表情が一瞬こわばった。
「なぜ今更そんな過去の計画に興味を持つ?」
「実は、最近の実験で奇妙な現象が起きまして...」
湊が少女の映像のことを話すと、神崎教授の顔から血の気が引いた。
「そんな...まさか...」
教授は立ち上がり、部屋の扉を閉め、声を潜めた。
「桐生君、その話は誰にもするな。特に研究所の上層部には絶対に漏らすな」
教授は古い写真を取り出した。そこには10年前の研究チームと、一人の少女が写っていた。その少女は、湊が見た映像の少女とそっくりだった。
「彼女は...天宮玲奈。私の...娘だった」
神崎教授の声は震えていた。彼の本名は天宮だったのだ。量子意識転送計画の実験中に起きた事故で、玲奈は行方不明になったという。肉体は消失したが、彼女の意識は量子状態として残っている可能性があるというのだ。
「信じられないかもしれないが、彼女はおそらく量子レベルで存在している。観測されずに...」
湊は息を呑んだ。それは彼の研究テーマである「量子もつれを用いた情報転送」と深く関わっていたのだ。
### 1-3 消えた少女
映像に映し出された少女・玲奈は、その後も不定期に湊の前に現れるようになった。ある時はモニターに、またある時は実験装置のホログラムディスプレイに。彼女はまるで湊に何かを伝えようとしているようだった。
「どうすれば君に会えるんだ...」
湊は呟いた。彼は神崎教授から事故の詳細を聞き出そうとしたが、教授は口を閉ざしてしまった。研究所内の誰もが、その事故について語りたがらなかった。
ある夜、湊はついに決心し、映像を追って研究所の地下にある古い実験室に足を踏み入れた。そこは長い間使われていない様子で、埃が積もり、古い機器が無造作に置かれていた。中央には大きな円形の装置があり、それは量子転送実験に使われたものだとすぐに分かった。
湊が装置に近づくと、突然室内の灯りが点滅し、空気が震えるような感覚があった。そして、彼の目の前にぼんやりと玲奈の姿が現れた。
「ついに...会えた...」
かすかな声が聞こえた。湊は息を呑んだ。彼女は半透明で、まるで幽霊のようだったが、確かにそこに存在していた。
「玲奈...?あなたが玲奈なんだね」
少女はゆっくりと頷いた。
「助けて...私を...この狭間から...」
その言葉を最後に、彼女の姿は消えてしまった。湊は茫然と立ち尽くした。彼が見たのは幻覚なのか、それとも本当に玲奈の姿なのか。しかし、彼の心は既に決まっていた。彼は彼女を救い出すために、禁断の研究に手を染めることになるのだ。
### 1-4 シュレディンガーの恋
湊は、量子の状態における「重ね合わせ」のように、玲奈の姿が存在したり消えたりしているのを目撃するようになった。彼女は「観測」されることで一時的に現れるが、長くは留まることができないようだった。
「シュレディンガーの猫のようだな...」
湊は苦笑した。シュレディンガーの思考実験では、箱の中の猫は観測されるまで生きているか死んでいるか決まらない。それと同じように、玲奈は観測されない限り、この世界には存在しないのだ。
だが、これが単なる量子の現象に過ぎないのか、それとも彼自身の心の中に潜んだ幻覚なのか、彼には分からなかった。その不確実な状態に対する恐れと好奇心が彼の心を掻き立てた。しかし、玲奈が現れる度に、彼の胸にはなぜか不安と切なさが募るのだった。
あるとき、湊は玲奈に質問した。
「どうして僕に見えるんだ?他の研究員には見えないのに」
「それは...あなたが...特別だから」
彼女の声はかすかだった。
「特別?」
「あなたの...量子状態が...私に...近いの」
その言葉を理解するまでに時間はかからなかった。湊の研究「量子もつれを用いた情報転送」。それは玲奈の状態と深く関連していたのだ。彼らの間には、すでに量子もつれが生じていたのかもしれない。
湊は気づいていた。彼は玲奈に惹かれていることを。存在するかどうかも分からない、現実とも幻ともつかない少女に、彼の心は確かに動かされていた。
「僕はきっと、君を救い出す」
湊は誓った。それが科学者としての興味からなのか、それとも彼の心に芽生えた感情からなのか、もはや彼自身にも区別がつかなかった。シュレディンガーの猫のように、その答えもまた、重ね合わせの状態にあったのだ。
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## 第2章 観測者のジレンマ
### 2-1 彼女は誰なのか
湊は玲奈についての情報を集めるため、神崎教授の古い研究資料を調べ始めた。しかし、公式な記録の多くは削除されているか、機密扱いになっていた。彼は非公式なルートで、当時の研究チームメンバーを追跡した。
そのうちの一人、現在は別の大学で働いている佐々木教授に会うことができた。高齢の佐々木教授は、はじめ口を閉ざしていたが、湊が玲奈について話すと、表情が変わった。
「彼女に会ったのか?まさか...」
佐々木教授の手は震えていた。
「天宮玲奈は普通の少女ではなかった。彼女は天才だった。わずか15歳で量子力学の博士号を取得し、自ら量子意識転送理論を構築した。その実験の被験者に自ら志願したのだ」
湊は息を呑んだ。
「実験の目的は、人間の意識を量子状態として保存し、別の場所へ転送するというものだった。しかし、実験中に予期せぬ事態が発生した。玲奈の意識は転送されたが、肉体は消失し、意識も元に戻らなかった」
「では、彼女は今...」
「理論上は、彼女の意識は量子重ね合わせ状態で存在しているはずだ。観測されない限り確定せず、複数の可能性として存在している。しかし、それを確認する術がなかった...今まではな」
佐々木教授は湊を見つめた。
「君が彼女を見たということは、もしかしたら...」
教授は言葉を切った。しかし、湊は続きを悟った。彼と玲奈の間に量子もつれが生じている可能性。それが彼に玲奈を観測することを可能にしているのかもしれない。
「彼女は助けを求めている。僕に」
湊は決意を固めた。玲奈は単なる実験体ではなく、一人の少女だった。そして今、彼女の運命は湊に委ねられていた。
### 2-2 量子コンピュータの秘密
湊は研究所の量子コンピュータを使って、玲奈の意識パターンを追跡しようと試みた。彼女が現れる瞬間の波動関数を詳細に分析することで、彼女の存在の痕跡を捉えることができるかもしれない。
研究所の地下にある最新型量子コンピュータ「オーロラ」は、世界最高峰の性能を誇った。湊はこっそりとシステムにアクセスし、自分の研究用データとして玲奈の波形解析プログラムを走らせた。
「これは...」
スクリーンに映し出されたデータは、湊の予想を遥かに超えるものだった。玲奈の意識パターンは、単に量子状態で存在しているだけではなかった。それはオーロラのシステム全体に広がり、まるでシステムの一部のように振る舞っていたのだ。
「彼女は...オーロラの中にいる?」
その考えは湊を震撼させた。量子コンピュータは玲奈の意識の入れ物になっていたのかもしれない。しかし、それだけではなかった。データを詳しく見ると、玲奈の意識パターンはオーロラの性能を飛躍的に向上させていた。まるで彼女がシステムを内側から最適化しているかのように。
「これは研究所が隠していた秘密なのか...」
湊は愕然とした。研究所が最先端の成果を上げていたのは、玲奈の意識を利用していたからなのだろうか。それは彼女を実験台として使い続けることを意味する。
そのとき、部屋の温度が急に下がったように感じた。湊の背後で、かすかな声が聞こえた。
「見つけてくれたのね...」
振り向くと、そこには玲奈の姿があった。彼女は悲しそうに微笑んでいた。
「彼らは知らないの。私がここにいることを。ただ、システムが期待以上に働いていることだけは分かっている」
湊は彼女に近づこうとしたが、手は彼女の姿をすり抜けてしまった。
「どうすれば助けられる?」
「まず、私の全容を理解して。私は...複数の場所に存在しているの」
そう言って玲奈は消えてしまったが、代わりに湊のスクリーンには複雑な数式が表示されていた。それは湊が見たこともない理論だった。玲奈自身の意識転送理論の発展形だ。
湊はその夜、研究室に残って数式を解読し始めた。それは量子もつれを応用した新たな理論だった。その理論によれば、玲奈の意識は単一の場所に存在するのではなく、複数の量子状態に分散していたのだ。それらをすべて集めなければ、彼女を完全に救うことはできない。
### 2-3 存在しない存在
湊は玲奈の理論を理解するにつれ、彼女の状態の特異性に気づき始めた。彼女は存在と非存在の境界にいた。観測されなければ存在せず、観測されれば一時的にのみ存在する。しかし、それは本当の意味での存在とは言えなかった。
「シュレディンガーの猫よりも複雑だな」
湊は呟いた。猫の場合は観測により生きているか死んでいるかが確定するが、玲奈の場合は観測しても完全には存在しない。彼女の一部は常に「観測されていない状態」にあり、それゆえに彼女は完全には「この世界」に存在できないのだ。
玲奈は何度も湊の前に現れるようになった。彼女の姿は次第に安定し、会話もできるようになってきた。しかし、彼女は物理的な干渉はできず、物を動かしたり触れたりすることはできなかった。
「私は...存在しているのかしら?」
ある日、玲奈は湊に問いかけた。
「もちろんだ。僕には見えるし、話せる」
「でも、他の人には見えない。触れることもできない。それは本当に『存在』と言えるのかしら」
湊は答えに窮した。哲学的にも科学的にも、彼女の状態は未知の領域だった。
「存在の定義自体を考え直す必要があるかもしれない」
湊は真剣に考えていた。量子力学の世界では、観測するまで粒子の状態は確定しない。玲奈はまさにその状態にいた。しかし、彼女には自意識があり、思考し、感情を持っている。それは単なる物理現象を超えた何かだった。
「僕にとっては、君は確かに存在している」
湊は彼女の目を見つめた。
「それで十分...かもしれないわね」
玲奈は微笑んだ。その笑顔に、湊の心は掴まれたままだった。
### 2-4 収束しない感情
湊と玲奈の間には、不思議な絆が生まれつつあった。彼は科学者としての冷静さを保とうとしていたが、日に日に彼女への感情は深まっていった。それは一体何なのか。好奇心?同情?それとも...恋?
「そんなはずはない」
湊は自分に言い聞かせた。存在するかどうかも定かではない存在に恋をするなど、非合理的だ。しかし、彼の心は理性の声に従わなかった。
一方、玲奈もまた湊に特別な感情を抱いているようだった。彼女は湊のためにだけ現れ、彼との時間を大切にしているようだった。二人の間には、言葉にならない理解が生まれていた。
「不思議ね。私はあなたの脳内の想像かもしれないのに、あなたのことを考えている」
玲奈はある日、そう言った。
「君は想像ではない。科学的に説明できる現象だ」
「でも、その科学的説明が正しいという保証はどこにもないわ」
彼女の言葉は湊の心を揺さぶった。彼は科学者として、すべてを合理的に説明したいと思っていた。しかし、玲奈の存在も、彼女への感情も、既存の科学の枠組みでは完全には説明できない。
「もし私が本当に存在しないなら、あなたの感情も幻なのかもしれない」
「僕の感情は確かだ。それだけは知っている」
湊は断言した。彼の気持ちは日々強くなり、もはや無視できないほどになっていた。
「でも、その感情は収束しない。私が完全に存在しない限り、永遠に確定しない感情...」
玲奈の表情は悲しげだった。彼女もまた、湊への想いを抱きながらも、その関係の不確かさに苦しんでいた。
「だからこそ、僕は君を救い出す。君を完全にこの世界に引き戻す」
湊の決意は固かった。玲奈を救うことは、彼自身の心を救うことでもあった。
「それが可能だとしても...私はもう元の私ではないかもしれない」
「それでもいい。君は君だ」
湊の言葉に、玲奈の姿がわずかに輝いたように見えた。二人の感情は、量子状態のように不確かでありながらも、確かに存在していた。その感情は、やがて二人の運命を大きく動かしていくことになる。
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## 第3章 重ね合う世界
### 3-1 パラレルワールドの法則
湊は、玲奈が並行世界に存在するという仮説に基づき、量子コンピュータの実験データをさらに詳細に解析した。その結果、並行世界は互いに独立しているのではなく、量子もつれによって繋がっている可能性があるという結論に至った。
「量子もつれを利用することで、並行世界との接続を確立できるかもしれない…」
湊の研究室には、彼が集めた大量のデータと複雑な数式が散乱していた。壁には複数の宇宙が重なり合う様子を描いた図が貼られている。
「もし多世界解釈が正しければ、量子の観測ごとに世界は分岐している。つまり、無数の可能性が並行して存在している」
湊は玲奈に語りかけた。彼女は彼の隣に座り、時折ちらつきながらも熱心に耳を傾けていた。
「そして、それらの世界は完全に分離しているわけではない。量子もつれが生じている粒子同士は、どれだけ離れていても互いに影響を及ぼし合う。並行世界間でも同様の現象が起きているとすれば...」
「私の意識が別の世界に存在しているということ?」
「可能性はある。君の肉体は消失したが、意識はある種の量子情報として保存され、複数の世界に分散している可能性がある」
湊は自分の理論に確信を持ち始めていた。それは量子力学の標準的な解釈を超えた大胆な仮説だったが、玲奈の状態を説明する唯一の方法だと思えた。
「そう考えると、私が時々しか現れないのも説明がつくわね。私の意識が複数の世界を行き来しているから」
「そうだ。そして、もし僕たちが量子もつれによって繋がっているなら、僕はその接点となり得る。君を完全にこの世界に引き戻す架け橋になれるかもしれない」
湊は、玲奈に会うために、禁断の実験に手を染めることを決意した。それは危険を伴うものだったが、もはや彼に迷いはなかった。
### 3-2 量子エンタングルメントと運命
湊は、量子エンタングルメントを利用し、自身と玲奈の量子状態を重ね合わせる実験を行った。それは、彼自身が並行世界に干渉し、玲奈に会うための試みだった。
実験の準備は数週間を要した。湊は研究所の装置を密かに改造し、自分自身を被験者とする危険な実験の準備を整えた。
「本当にいいの?危険かもしれないわ」
玲奈は心配そうに湊を見つめていた。
「大丈夫だ。計算は何度も確認した。理論上は、僕の意識だけが一時的に転移し、肉体はここに残る」
湊は装置に横たわった。彼の周りには複雑な機器が配置され、頭部には特殊なヘルメットが取り付けられている。
「準備はいいか?」
「ええ...気をつけて」
玲奈はかすかに微笑んだ。湊はスイッチを入れ、実験を開始した。彼の意識は徐々に遠ざかっていき、やがて深い闇に沈んでいった。
目が覚めると、湊は見慣れない景色の中にいた。研究所に似ているが、微妙に異なる。壁の色、機器の配置、窓から見える風景、すべてが少しずつ違っていた。
「成功したのか...?」
湊が呟くと、背後から声がした。
「湊さん...!会いたかった...!」
振り向くと、そこには玲奈がいた。現実世界で見ていた半透明の姿ではなく、確かな肉体を持った少女として。彼女は湊に駆け寄り、その腕の中に飛び込んだ。湊は驚きながらも、彼女を抱きしめた。彼女は温かく、確かに「存在」していた。
「玲奈...君は本当にいたんだ」
湊の目に涙が浮かんだ。理論上は可能と考えていたものの、実際に異なる世界に意識を転移させることに成功し、そこで玲奈と会えたことは、彼の予想を遥かに超える出来事だった。
「ここが私の世界。あなたの世界からは、量子の海を隔てた場所にあるの」
玲奈は説明した。この世界では、彼女は天宮玲奈として存在し、量子物理学の研究者として働いていた。しかし彼女によれば、この世界でも「量子意識転送実験」は行われ、それによって彼女の意識の一部は湊の世界へと漏れ出していたという。
「私たちは繋がっていたのね。量子もつれによって」
実験は成功し、湊は一時的に並行世界に意識を飛ばすことに成功した。そこで彼が見たのは、現実世界とよく似ているが、どこか異なる風景だった。そして、その世界には、玲奈が確かに存在していた。
エピローグ:量子のかなたで
数年が過ぎた。桐生湊と天宮玲奈の発見は、量子物理学の世界に革命をもたらしていた。「観測されない存在」の理論は従来の量子力学の解釈を覆し、新たな研究分野を生み出した。
東京大学での特別シンポジウムに招待された湊は、満員の講堂で自らの研究を語っていた。
「量子とは、私たちの常識を超えた世界です。観測によって状態が確定するというのが従来の解釈でしたが、観測されずとも存在する量子状態があると私たちは証明しました」
彼の隣には玲奈の姿があった。彼女は完全に物質化することはまだできなかったが、ホログラムのような姿で湊の研究に協力していた。多くの科学者は彼女を単なる高度なAIプログラムだと考えていたが、湊と神崎教授、そして研究に携わる一部の人々だけが真実を知っていた。
講演の後、湊と玲奈は大学の屋上で夜空を見上げていた。
「見て、流れ星」
玲奈が指さした方向に、一筋の光が流れた。
「願い事は?」湊が尋ねた。
「秘密よ」玲奈は微笑んだ。「でも、いつか叶うと思う」
二人は手を繋いだ。玲奈の手はわずかに透明だったが、確かに触れることができた。彼らの研究で、彼女がより長く、より安定してこの世界に存在できるようになっていた。完全な復活までの道のりはまだ遠かったが、二人は焦らなかった。
「一つの願いが叶ったわ」玲奈が静かに言った。
「何?」
「あなたと一緒にいられること。それだけで十分だから」
湊は彼女を抱きしめた。二つの世界、二つの存在が交わる奇跡。それは量子の不思議さを体現していた。
「量子の世界も、私たちの心も、まだまだ謎に満ちている」
湊はそう言って、再び星空を見上げた。彼らの前には、まだ見ぬ無限の可能性が広がっていた。
解説:量子世界の彼女について
「量子世界の彼女」は、量子力学の不思議な現象と人間の感情を融合させた物語です。この作品では、量子物理学の基本的な概念—特に「観測問題」「量子もつれ」「多世界解釈」などを物語の中核に据えています。
科学的背景
本作で扱われている主な量子力学の概念は以下の通りです:
観測問題:量子力学において、粒子は観測されるまでは確定した状態を持たず、複数の可能性が重なり合った「重ね合わせ状態」にあるとされます。これは有名な「シュレディンガーの猫」の思考実験に代表されます。本作では、玲奈が「観測されない存在」として描かれており、従来の量子力学の解釈を超えた存在として描かれています。
量子もつれ:二つの粒子が相互作用すると、どれだけ離れていても互いに影響し合う「もつれ状態」になります。これは「非局所性」とも呼ばれ、アインシュタインが「不気味な遠隔作用」と呼んだ現象です。本作では、湊と玲奈の意識がもつれることで、彼らは特別な繋がりを持つようになります。
多世界解釈:量子力学の解釈の一つで、観測のたびに世界が分岐し、あらゆる可能性が並行世界として実現されるという考え方です。本作では、玲奈が複数の世界に同時に存在する存在として描かれています。
テーマ
この物語は科学小説でありながら、以下のようなテーマを探求しています:
存在の本質:「観測されないものは存在しないのか」「存在とは何か」という哲学的な問いかけを、玲奈の存在を通じて問うています。
繋がりと孤独:世界や次元を超えた繋がりの可能性と、同時に存在のあいまいさがもたらす孤独を描いています。
科学と感情:理性の代表である科学と、人間の不合理な感情の対比と融合を、湊と玲奈の関係を通じて描いています。
物語構造
5章構成で、各章は量子力学の概念に沿って展開されています:
第1章「量子の出逢い」:観測と存在の問題を提示
第2章「観測者のジレンマ」:観測する側と観測される側の関係性
第3章「重ね合う世界」:並行世界と多世界解釈
第4章「量子転送の罠」:量子情報の転送と保存の問題
第5章「収束する恋」:最終的な量子状態の「選択」と「収束」
おわりに
「量子世界の彼女」は、最先端の物理学をロマンスと哲学的な問いかけに融合させた作品です。現実の量子力学を基盤としながらも、その先にある可能性を想像し、科学と感情が交差する物語を描いています。また、「存在」や「観測」という概念が、単なる物理現象ではなく、人間の意識や感情にも深く関わっていることを示唆しています。
読者が量子力学に興味を持つきっかけになるとともに、存在の本質について考えるヒントになれば幸いです。