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5000文字習作

作者: ガレオン

 5000文字練習作、タイトルにある通りこれは小説作品を書くにあたって文章を書く為の練習を目的とした習作である。執筆の練習とはどのような事をすれば良いのかは皆目見当もつかないが、ダラダラととりとめのない文を書くだけで上達するとも思えないので、この練習に取り組むにあたって自分なりにどのような姿勢で取り組むのかを考えながら、その都度適宜反映や修正を行いたいと思う。詰まる所、行き当たりばったりとも言うであろうが所詮素人にすぎないので、失敗を恐れず寛容な心持ちで挑んでいけたら、と思う。




 世の中に文字を主な媒体とした素晴らしい作品は多々あり我々の日常に深く浸透しているため、極めて身近に感じられるそれらは一見何でもないような、ともすれば平凡で特別に評価するに値しない取るに足らない作品に感じられる事があるかもしれない。何を隠そう私自身がそのように思い、うぬぼれていたのであるから。しかし、ただ漫然と受動的に消費するだけで諸々の作品群をさも知悉しているかのように錯覚したままでは、では能動的に作品を製作できるかと、行動を起こした時に思わぬ差異、強烈な違和感と共に明確に自身の稚拙さを痛感してしまうのである。文字を扱う事は私にも可能だ、私に限らずとも日本で生まれ育ち、国語として日本語を学び今日に至るまで活用してきた我々は皆文字を扱える。他者が記した文を読み解き、自身の考えを文として他者に知らしめる、ついでとばかりに文字記号を音と紐づけ、口語発声もできる(どちらかといえば順序は逆であるとは思うが)。であるならば、著名な作品を生み出した彼ら彼女らと同様に私にもと、考えるのは誤りなのであろうか。今はその疑問に正誤の判断を下すことは保留にしようと思う。




 小説、私が今書いているのは紛れもなく小説であると固く自負するところであるが、はたして小説とは上手い下手で良し悪しが判断されるものであるだろうか、そもそもの話として小説を書くのが上手いという状態・様相がどのようなものであるかを私は推測することもできないでいるが、読んだ本が面白いか否かの判断は容易にできるものである。ではその判断基準はなにかと問われれば答えに窮してしまう私は言語化して理由を明確にする事を目標にしようと思う。面白い作品は面白いから面白いんだよ、といった考えを私は否定しないが一読者から筆者へ変貌を望むのであれば解決しなければならない問題であるとも思う。




 小説全体を評して上手い下手といった評価は無いが、小説を構成する文章には上手い下手があると私は考える。では文章の上手い下手とはどのようなことを指すのかと考えた時、私はそれを表現している内容のわかりやすさが指標ではないかと考える。ただ平易な言葉回しで話を進めるという意味ではなく、場面毎の情景や登場人物の心情・機微などを、筆者の心中のみならず正しく読者にも伝えるための工夫・構成が文章の巧拙において肝要なのではないかと目星をつけている。自身の考えを委細漏れなく他者に伝えることは存外に難しい事であるという事実を我々は見落としがちであるが、言葉で対話するのではなく文章で伝えるのであれば、筆者が詳細に記述する手間を惜しまない限りは十全に可能であると言えよう。自身が理解していることを改めて表現しようとすると思わず過程を省略しがちになると思われるが、焦らず丁寧に一から十までを詳細に記述することが大切なのだと推測する。勿論、敢えて記述しないことで浮き彫りにし表現する事もあるであろうがそれら技法は枝葉末節であり、本筋を蔑ろにしてまでこだわる必要のないものである。特に小説等は読者から見て二次情報であるので慎重に過ぎるくらいが丁度良い塩梅であると思われる。




 前段落では文章に正しく意図した情報を添加することの重要性について言及したが、具体的な例を挙げると『今日、私は散歩をした。』と『今日は天気が良く、散歩に出かけたら楽しい気持ちになった。』が異なる印象をうけるように見せたい状況や行動、風景などを読者と共有できるように頭の中で思い描いている光景を文章として正確に出力できるように常に心掛けておくといった、ある種の思いやりの事である。




 では他に面白い本を書くにあたって重要そうな要素は何であろうかと考えてみると、文章以前の問題だが、物語の流れ、因果関係が筋道通っていて納得できるかという要素があるように思われる、所謂起承転結といったものの事である。物語の導入がありその世界においての主人公がどのような人物で、普段はどのように生活しているかなど主人公にとっての日常を紹介する部分から始まり、次に主人公の日常を深堀し成長や成功していく様を描写する、そして転にあたる部分で大きく物語を揺さぶり主人公がそれに対してどのように対応あるいは翻弄されるかを表現していき、最後に物語を一定の方向へ収束させる。おそらくではあるが、これらは書き始める前に入念に各種設定を考えて物語の進行上必要な出来事を導きたい結末から逆算して要所要所に導入していく形で物語を構成しなければ難しいと思われる。初期設定だけ考えてその後は行き当たりばったりの展開で進めていくと同一作品内でなにがしかの矛盾が発生してしまうのではないかと危惧される。




 物語の構成と文章について述べたが、これだけでは面白い作品足りえないだろう。一番重要なのは何についての物語かである、大別して人と人との物語か人と物との物語かの二種類に分けられる―物と物との物語はおそらく人間が読んでもあまり面白いとは感じないだろう―大前提過ぎて意識した事も無いかもしれないがこの点を曖昧なままにしてをくと作品内で焦点のような、一番伝えたい部分があやふやになり結局何が言いたかったのかよくわからなくなる可能性が出てくるだろう。主題というものは二つも三つもあれば煩雑に感じてしまうだろうから、複数の要素を取り入れたい場合は明確に優先時順位をつけなければならない、それも作品を象徴する一番目の主題をより素晴らしく飾り立てるような、側面的に関連している要素に限定するべきである。類似した要素が複数あれば一つ一つが薄くなるし、関連性の無いものであれば突飛に感じて意味が分からなくなるだろう。筆者が物語の中心から遠ざかってしまえば読者は一体どこへ行けばよいのだ。




 ここで小休止がてらなぜ5000文字を目標として執筆しているかについて語ろう、といっても大した理由ではないが単純に切りが良いからである。小説作品を書く以上目標とする所はやはり書籍化であろう、出版社を通して印税をもらい自儘に暮らす、夢のような生活に妄想を膨らませるのは仕方のないことだと思う。賞に応募する気力があるかはさておいてライトノベルは普通150,000字前後で本となるらしいので150,000の約数で切りの良いかつ、どうにか書き上げられそうな一話当たりの文字数として5000字を目標としたのである。単純計算で30話で本一冊と考えると、なろう作品を基準にすると小綺麗に纏まっているが一般書籍にしては話数が多すぎてぶつ切りになった小話の集まりに感じられると、今この文章を書いている最中にふと思ってしまった。が、ネット小説という媒体ならば一話毎の文字数が多いと些か読みづらく思うこともある上、そもそも作品を書いてもいないのに出版時の事を考えるのは流石に捕らぬ狸の皮算用と言われても仕方のない無意味な憂慮であることをここに反省します。




 今私は5000文字の小説作品を書きあげようとしている、理由は上記の通りだがもう一つ狙いというか目論見があり、それは規定文字数における内容の密度とでも言えようか、どの程度の文字数でどのくらい話の内容を進められるかを計るための試金石としても用いている。限られた文字数であっても言葉の選び方や話の進め方で語られる内容の密度は異なってくる、今私は並程度の密度で文章を書いている。薄めて膨張させたり、端折って圧縮したりもしていない、自身が何も考えず読みやすく書きやすいと思える並程度である。ここまでで3000文字を記入したが文字数における内容密度に対しては程よいのではないかと思われるが、書いたのも読んでいるのも私自身である以上程よいと私自身が感じるのもまた当然なのかもしれない。第三者による客観的評価がなければ正しく自身の評価はできないのであろう。付け加えて言及するならば時間当たりの執筆文字数も大雑把にだが計測しており、現状3、40分で500文字前後だと思われる。500文字書き上げるたびに休憩を挟んでいるのでこのような分かりにくい数値になっている。




 執筆するにあたって気づいたこととして空白を挿入するための改行の重要性が挙げられる。当然だが自身で書いた文章を最初に読むのもまた自分自身であるから、プレビュー機能で度々読み返すと段落を変えるための改行と一字空けだけでは全体的に文字列が塊のように見えて、どこで一息つけばよいかわからなくなって非常に読み難さを感じてしまった。今は段落を変更する際に空白を挿入し、物理的に文字列を離し文章の内容がひと段落することを見やすくしているが、より段落と段落の差が視覚的に強調される事になるので各段落の内容や変更する際は十分に留意しなければならない。




 小説を書こうと思った理由についても触れておこうと思う、これもまた単純な話なのだが自分が読みたいからである。世の中に作品は数多あれど真に自分の趣味嗜好と合致したものはおそらくほとんどないと思われる、その嗜好を形成するうえで影響をうけた作品は多いかもしれないが。勿論、探せばそれこそいくらでもあるのかもしれない。しかし今日の社会では情報が氾濫していて私のようにうまく取捨選択できない者は十全に活用できているとは言い難いのだ。ならばいっそのこと自分で作ればいいのではないかという短絡的な思考と行動に由来するのである。




 小説を書く、それ一事をとっても容易ではないがさらに他の作品群と比較してなお面白いと思えるものを作ろうと思ったら一体いかほどの高さにハードルが設置されているのであろうか。小説家になろうという本サイトは長いこと利用してきたが今まで書くことがこれほど難しいことだとはつゆも思はず、つまらない作品ばかりだなぁと馬鹿にしていたことを恥じ入るばかりである。しかし、目標は書籍化だと先程述べたが、本質的にはそれはあくまで副次的なものであって真に重要な原動力とも言える執筆意欲は、自分が納得できる最高に面白い小説を書きたい、あわよくばそれを他人に褒められたいというものだろう。なので、相対評価で面白い作品を目指す前に自分自身の絶対評価において最高の作品作りを目指すべきであるし、そうであるならば他人の評価は今は気にする必要もないと言える。従って、自由に気ままに好きなだけ自分を探求し表現できるように今は励む事を優先すべきだと思う。




 不思議なもので、今まで自身の考えとしてこうといったものが在ったが果たしてそれは本当なのだろうかと文字に起こした際にふと思う。いや、考え自体は間違えなくあったのだがいかにも曖昧でフワフワとした要領を得ないものであったが、こうして文字に起こそうとすると不明瞭なままではうまく言語化できず、なかなか言葉選びに苦労もしたが、いざ実際に入力した文字をモニター越しに眺めるとそういう考えだったのかもなぁと妙に納得してしまう自分がいたりもする。




 さて、残す所もあと400字となったのでそろそろ本作の締めに取り掛からなければならないのだが、ここまで書いてきた内容に一貫した主旨というものは無く、只その時々で自分が思った事を予測を踏まえつつ徒然と書き連ねただけなので、「結論としてこうだ。」とは纏められないのが残念ではある。

 こうなればいいのに、という願望は得てして叶わないのであろうし、希望と目標を同一視してもならないのであろう。準備し実行し反省をして初めて「行った」というのだろう。自分自身耳が痛い話ではあるのだが、日々の生活習慣と人格形成において上記の行動を当たり前に出来る人にとっては挑戦は挑戦ではなく、只目標する未来と現在の状況があり、その差異を埋める為のトライアンドエラーを機械的に熟しているだけなのだろう。考えるという行動を考える事無く行っている、と評する。ここまで書いてきて最後の締めの言葉として思い浮かんだ言葉が、小学生の時分に先生に言われた「当たり前の事を当たり前に出来る奴はすごいんだぞ!」である。




 以上をもって本作を終える、末尾までの拝読に感謝します。

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