所以
カイラールは、続々と連なる迂の討伐軍を収容しつつある。比較的先行して入城した迂王子ガイナ・ルシュアは、城内で麾下三百の兵士の練磨を生真面目に努めていた。
そうでもしていないと昂ぶる気持ちをどうにも持て余す。焦りもあれば不安もある。十七の、初陣の若者故にやむを得ない。
兵士たちはよくその命に服した。さすがに兄王太子ナザル・クリューグにそれとなくながら選り抜かれた熟練兵主体の部隊であった。それは、彼らの体力の充溢を物語ると共に、彼らの練達が、息の抜きどころを十分わきまえるまでに達していることを意味していた。
そのことを看破するには、ガイナはまだまだ若かった。若いがために、指揮下の兵士らに自分の若さを苦笑をもって受け入れられていることの自覚もなかった。
そのうちに、ガイナの上長たる三千部隊の指揮官ヘルネムからの注意が入った。
「殿下。ご精励は結構。なれど度が過ぎると、肝心の戦で働けなくなることもお忘れなく」
ヘルネムは五十路に近い老巧の戦士で、叩き上げの兵士から三千長にまで出世した全身巌のような武人だった。黒き髪の王族たるガイナに対し、非礼は片鱗も示さぬながら、怯むこともない。その身に負ってきた傷跡と、その負傷を生んだ危地を跳ね返してきた自力とが、肉体以上に強固な自負をこの初老の人に与えているようだった。
ガイナは、従わざるを得ない。ヘルネムの武人としての実力を軽視できるだけの根拠は自分の中には何もないと、はっきりとした自覚が彼の中にあった。
「不慣れゆえに気負ってしまった。以後気をつける」
王族に陳謝され、頭を下げられても、ヘルネムは表情一つ動かさなかった。だが、その鋭い眼光はガイナの武人としての資質を見定めるように伸びてきて、程もなく満足の手ごたえをつかみ、眼光ばかりが幾分和らいだかのようでもあった。
「戦は、命のやり取りでござる。綺麗ごとではない。急もあれば緩もある。時には、弓弦を弓から外してやるようにして、麾下の兵士の気を抜き、憂さを晴らしてやることも必要でござる」
「心がける」
「軍律を決して乱さぬようにする、という折り目を乱してはならないが、その絶対の要件の中、気を抜き憂さを晴らさせる術として上手くいくものがありましてな」
「拝聴したい」
「酒と女、これに尽きます。程々に折り目をつけて」
さすがにガイナは鼻白んだ。ヘルネムはほんのわずかだけ、口元に笑みを浮かべた。
「それを濁であり醜と退けてしまえば、戦で人が人を殺すなどという魔に達することはできませぬ。無論、眼前の恐怖に対して、酒に逃げ、女に逃げてもならない。溺れることでごまかしてもならない。酒にせよ女にせよ、戦場で奮闘して、なおそこに更なる力が加わるようなかかわり方をしなければならぬものです」
それが麾下の統帥ということだとヘルネムは語ったが、ガイナにとってはいずれも不得手の話だけに苦い顔で聞いていた。ただ、生来の反骨心が、目の前の武人への畏敬と別に、つい口から飛び出た。
「その統帥を貴ばれるとのことだが、それでは上長も戦を前に酒色に程よく関わられるというわけか」
特に女の方について否と答えるだろうとの目星は、簡単に崩された。
「無論、わしはいい年ながら、酒も女もやります。胸中に熱きをもたらす酒にも、一時の安楽と癒しを与えてくれる女にも、拝む心地でありましてな。おかげで、迫る戦、渾身の働きができそうぞ、とな」
生硬な若者が老巧の人にあやされただけかもしれなかった。しかし意外な話を聞いたというのもまたガイナにとって事実であった。
己が部隊にそれを持ち帰り、宿舎で副長格のイーヴ、サザラネに小声で伝えると、中年男の二人は弾けるように大笑いした。
「いや、三千長にとんだお気遣いをいただきましたな」
「しかし殿下、無用のご心配でもある。我ら上手いこと、殿下のお目に留まらぬよう、酒も女もこなしておりますればな」
「そうなのか」
「下々には下々の戦う所以があり、戦い続けるための手管も、戦いとのつきあい方もあるものです。我らは熟練多ければ、まあそのあたり、命の洗濯は代わる代わる」
「その要領のよさが、強さの秘訣でござる」
そう言われて完全に釈然としないまでも、そんなものかともガイナは漠然と思ってしまった。自分で確実かどうか実感が得られない不確かさには鈍い苛立ちを覚えもするが、戦に臨むという彼にとって未知の未来に向けて、その不確かさはどうしてもやむを得なかった。
「任せる」
イーヴとサザラネはその言葉に上機嫌で一礼した。他愛もない指揮官だと思っただろうと、ガイナは腹の中でうなった。
その日一日は、ガイナはやや散漫に戦を前にした日常を過ごしながら、ぼんやりと考え続けた。
いつの頃からか、彼は夢想家であることを自分に禁止していた。王族としての処遇を受けるに薄い日々の中、何事も自分で今の現実と対し、自分の力で改めて行かねばどうにもならないということを痛感させられ続けていれば、否応なく気質はそうなっていった。
戦に出てきたのも、自分ならば大活躍できると根拠もなく確信していたのではなく、自分のできることに食いついて行かねば自分の未来などはどうにもならないという焦燥からそうしたのだった。
戦いは、戦わねばどうにもならない。機微も感覚もわからない。やるしかない。しかし、戦に向かうまでの今の時間は、本当に、わからないままで呆然と過ごす待ちでしかないのか。やれることはないのか。
一夜を浅い眠りのままに終えて、明くる日わだかまる眠気に苦労しながらも目覚めたガイナは、自分でも些細で、ささやかすぎるとしか思えないことをはじめた。
「やあ、おはよう」
生来社交的でもないこの男が、愛想顔には程遠かろうと、精一杯表情の険しさを緩めようと努めて、部隊の兵士たちに話しかけ出した。
ガイナも難渋したが、兵士たちの反応は気の毒でさえあった。不意打ちのように、それまで口をきいたこともない王族などという機種に話しかけられては、仰天して飛び上がり、脂汗を流して背筋をこちこちに伸ばし、ひどい者になると膝を折って額を地面にこすりつけようとさえする。
「違うのだ。楽にしてくれ。お前たちの話を聞きたいのだ。何故お前たちは戦うか、それを教えてほしいのだ」
壁は厚く、距離は遠かった。ひとつの会話、ひとつの言葉に穏やかさを込めても、その距離は容易に縮まるものではなかった。当たり前だとガイナ自身が思った。立場が逆であれば、自分は虚心に壁を取り払えるだろうか。
だがガイナは、その本質のところが執拗だった。兵士らと交流を深めることが戦を上手くする必然なのかどうかの確信もなかったが、未知のところに、顔も名前もろくに知らず、気心もまるでわからない人間たちと赴いて、ひとつ間違えれば死所を共にするような有様にはなりたくなかった。そうしたくなければ、そうならないために執拗になるのは、彼にとって当然のことだった。そして今の自分にその作業を分かち合う者がいない以上、王族だろうと何だろうと全てひとりでやらねばならないと当たり前に思っていた。だから兵士の名前から始まって、年頃、故郷や家族構成、妻子の有無、子のある者は子の名前まで、丹念に尋ねてはぽつりぽつりと思い口から返ってくる返答を懸命に聴いて、記憶に叩き込んだ。
次第に、彼らの会話はなめらかに、和やかになっていった。
ガイナは訓練もやった。規律や士気を乱さぬ範囲での兵士らの遊興も黙認した。多少の兵士らの喧嘩沙汰というのは日常茶飯事だったが、欠かさず仲裁に出向くようにした。
「トッドは戦で手柄を立てて、開拓農地を貰うのが目標なのか」
「大それた願いなんですがね。下の倅にも、少しでも畑を分けてやりたいんです。関内でなくとも、ぶん取った土地のどこかにでもねえ」
「ヤンティルは嫁だったな」
「なるべく綺麗な嫁がいいんだ。それで、活躍して、女っ娘たちにチヤホヤされんとさ。俺、頑張りますぜ。頑張って、よりどりみどりだ」
彼のささやかな部隊が次第に活気を増して来た頃、ガイナは伯父総司令のカルゼルの招きで、カイラール城内奥の軍枢機の会議に出向いた。たかが三百長には本来出席も発言も許されない上級将僚の集まりだけに、王族であろうともガイナは着座を遠慮し、部屋の片隅に立ち尽くして沈黙を通した。
伯父カルゼルは、ガイナのそのような折り目の正しさを、好意をもって評価したようだった。会議を終えて他の者が次々に去る中、ガイナは留まることを命じられ、がらんとした部屋の中の、伯父だけの残るその隣の席を勧められた。
「部隊の者の理解に努めているようだな」
カルゼルは二人きりになると、叔父甥の関係でガイナにそう語りかけてきた。平素は立場を慮り三百長程度の職務には容喙せず、そ知らぬふりの叔父であったが、存外細やかにガイナの日常を把握している様子だった。
また、カルゼルは苦労人でもあった。兄王をたてるために従に徹した労苦を漏らすことはなかったが、人となりや着眼点がその濃密な存在を物語った。
「誰もがみな、身分や地位、戦の腕前や経験に関わらず、夢があり、望みがあり、現実があり、苦しさがある。それがお前にも次第に見えてきただろう」
ガイナはうなずいた。カルゼルはガイナのその挙措、その相貌の内に宿る聡明さに満足し、言葉を続けた。
「各々の者らは、各々の理由、各々の都合で、戦に夢を見、勝利に夢を見、その先に希望を託して戦おうとしている。無論、中にはそれを叶えられず死ぬ者も出るだろう。或いは戦自体に負けてしまえば各々の者らの各々の夢の全てが失せる。ガイナよ」
「はい」
「お前は三百長として、その夢とその身命を三百背負った。もちろんその中にはお前自身のそれもある」
「はい」
「わしは総司令として、数万もの人間のそれを背負う。お前も、才覚と運命次第では似たような道をたどるかもしれんし、もっと別の、もっと過酷な運命を背負い、もっと数多くの夢や希望や、欲望や野心、命そのものを背負うことになるかもしれん」
「……」
「その全てを賭けものにして、勝てばそれらを得、負ければ全て失うのが戦だ」
「……恐ろしいですね」
ガイナは脳裏に、自分の部下たちの顔を浮かべた。小人数だけに、全ての兵士の顔が浮かんできた。その全ての夢と希望と、全ての命が、苦悶を経て消え失せる光景を想像した。
カルゼルは椅子から立ち上がり、ガイナの背を何度か穏やかに叩いた。
「恐ろしさを忘れるな。戦は恐ろしい。背負う命が増えれば増えるほど、その重みとその軋みにそう思わされる。それを忘れず、決して侮りを覚えることなく、誠実に戦うのだ」
「はい」
立ち上がり、ガイナは叔父に深々と一礼してその激励に感謝を告げた。