Bitch better have my Money
『Bitch…メス犬、悪女』
時間は少しさかのぼる。
…
バーのカウンター。
キャンディの探し人を聞き出したマスターは、一つのメモ用紙にサラサラと簡単な地図を書き始めた。
「これは…?」
「ドラッグディーラーに武器商。そんな奴等を探してるっていうんだろう?」
「何の地図だときいてる」
キャンディの声は少しイラつきを含んでいる。
「ちょっと待ってくれ…よし。
ここが、ウチの店だ」
「あぁ」
地図が完成し、ペン先でその説明を始めたマスター。
キャンディは頬杖をついてそれを見る。
ざっくりと町全体を表した地図のようだ。
「この路地を左に入って、しばらく真直ぐ歩け。少し距離があるが、徒歩がイイ」
「そこに、ディーラーが?」
「おそらく。いや…分からん」
マスターは肯定とも否定とも取れる返事しかしない。
「何があるんだ?そして誰がいる?」
「とにかく危ないエリアだ。
売人は知らない。しかし、クスリや武器は常にこの辺りから出てくると聞いた事がある。誰かが…いる」
「そんな曖昧なことじゃ困るな…
常連には色んな人間がいるんじゃ無かったのか?」
随分と氷が溶け出して、まろやかになった酒をキャンディが舐める。
「いる。しかし、今日はそういった人間に繋がりがある客は来てない。
売りをやってる当人までは分からないしな」
マスターが顔を上げて、店内を一度チラリと見た。
「不満か、兄さん?
このくらいしかしてやれないが」
「いや。何も知らないよりはマシだ。
ありがとう。助かったよ」
彼はガタンと椅子から立ち上がった。
地図を親指と人差し指でつまむ。
「気をつけてな。アンタとはまた会いたい」
「俺もだ。ごちそうさん」
心にも無い言葉を吐きながら、キャンディはポケットから10ドル札を一枚取り出して、カウンターに置いた。
「奥さんにも言っといてくれないか。『イイ店だから、また来る』とな」
「分かった」
妻はテーブルにいる客達と話していたが、キャンディが立ち上がったのに気付き、軽く右手を上げる。
キャンディはそれには応えず、扉から外へと出て行った。
…
…
「立ち話もなんだよ。ウチに入らないかー」
「断る」
「ま、そう言うと思ったけどね。あはは!」
女は笑い、キャンディの横腹を指でつついた。
「やめろ」
「アンタ、見るからに変わり者だ。
見れば見る程不気味だぜー。
でもさ、アタシを探してたのはそっちだろ?別にアタシはどっちだってイイんだ。
まさか逃げ腰になるとは予想していなかったけどさー」
会話が成立っているとは考え辛いが、キャンディは女の言葉を理解した。
「お前。名前は?」
「無い。んー…じゃあ『アンジー』でイイよ。
名無し同士、仲良く出来そうだなー」
女が適当に思い付いた名前を名乗る。
「ふん。妙な感じだ」
「あはは!自分の顔を見て同じ言葉を言ってみなよ」
「…!」
キャンディは女に素顔を見せてはいない。
どこからか、彼女にキャンディの情報が流れ着いているのは本当に間違いないようだ。
「それじゃ、こっちだよお客さん。面白い話、きかせてくれー」
笑顔のまま、アンジーがキャンディを家へと案内する。
容認したつもりは無いが、彼が彼女の家に行くのは決定らしい。
…
アンジーの家は、二階建ての一軒家だ。
玄関を開けて、中に入る。
「…」
すぐにキャンディはその様子に目を奪われた。
いや、目を奪われる物が無い事に目を奪われたというのが適当だ。
つまり、何も無かったのだ。
例のごとく、彼はキョロキョロと壁や天井を見るが、薄緑色の壁紙と、水色に白のドット柄の天井があるだけ。
装飾品や生活用品がまったく無いので、彼がアンジーに多少の親近感を抱きそうではあるのだが。
「アンジー。情報屋にしては、素敵な家だな」
「どういう意味だー?」
彼の皮肉は通じなかった。
「もっと色んな物であふれているかと思ってな。情報を扱う仕事に媒体は必要不可欠だろう」
「あはははは!
もしそうなら、アタシがアンタを家に上げてる時点で商売あがったりだぜー!
この部屋だよ、アイス・キャンディ」
「ふん。やはり通り名くらいは知ってたか…」
部屋は玄関から入って右と左に一つずつと、正面に二階に上がる階段がある。
二人は、向かって左の部屋に入った。
「かけなよ」
「どこにだ?」
通された部屋にも当然、ほとんど何も無かった。
テーブルはおろか、戸棚や椅子も無い。
しかし、窓にだけはしっかりと真っ黒いカーテンが張ってあった。
外からは電気の明かりさえほとんど見えないだろう。
「それ」
アンジーが指差したのは、一つだけ部屋に転がっていたダンボール箱。
何か中に物が入っていなければ、人が座れるはずもない。
「大丈夫さ。見た目よりも頑丈な箱だから」
「チッ…」
ドスッ!
彼女の言葉を信じてキャンディが座ると、箱は簡単に潰れてしまった。
尻が箱の中に落ち、何とも滑稽な姿になっている。
「おい!からかうな!」
立ち上がりながらキャンディが怒鳴った。
「あはははは!壊れちゃったなー」
「遊びに来たんじゃないんだぞ!」
アンジーは手を叩きながら大口を開けて笑っているが、キャンディはカンカンだ。
「まったく…!
アンジー、お前は俺に情報を回してくれるんだろう?
先に額をきこう。もちろん後払いだ」
「もう仕事か?せっかちだなー」
お互い立ったまま、本題に入った。
…
…
「やべぇ!見ろよ、ダグ!」
「あん?」
リッキーが指し示したのは、レモンの車。
「ペースカーの奴等、レモンに張り付いて行きやがった!」
「何?上手く逃げ切れてくれればイイが…」
「大丈夫だと思うよ。俺達はお咎め無しみたいだね」
ドープマンは呑気にあくびをしている。
リッキーの車がパトカーから追いかけられる事は無かった。
ギャラリーはすぐに解散を始めたので、警察はレースに参加していた車を挙げようとしているのだろう。
「レモンとはどうやって合流する、ドープ?」
これはダグだ。
「レモンなら必ずペースカー達を振り切ってくるよ。
少し時間を置いて、彼の家に向かってみたらどうかな?」
「だが、どうやって奴を誘うんだ?
順位だけ見れば『俺よりも速い奴がまだまだいたじゃねーか!』と言われるのがオチだぞ」
「素直に言うだけさ。間違いなく彼が最高のドライバーだよ。違うか?」
…
駅前から離れ、彼等は自分達の居住区である住宅街へと戻った。
レモンはチェスター・クリップのメンバーではないが、もちろん地元は同じなのだ。
幼い頃から互いをよく知っている。
「さぁ着いた」
リッキーが車を停車させた。
家の前。
もちろんレモンの家だが、その家に隣接している大きなガレージの中には彼の車は停まっていなかった。
「まだ帰ってないみたいだね」
ドープマンが言った。
「少し待つか」
リッキーがインパラのライトを消し、エンジンを切る。
…
三十分。
一時間。
…
レモンは帰ってこない。
「おい。さすがに遅すぎやしないか?」
しばらくは三人で談笑していたが、ついにダグがそう言った。
…
その時。
パッと路地が明るくなった。
車のヘッドライトだ。
一台の大きな車が、レモンの家の方へと走ってきている。
黄色いボディ。
「おっ、来たな!レモン!」
リッキーがインパラから降りて、両手を大きく振っている。
レモンが彼等のすぐそばまでやってきた。
「なんだよ、お前ら!
何か用か!」
「レースを見たんだ!」
ドレッド頭のレモンが窓から顔を出し、ドープマンが後部座席から言った。
「は!だろうな!笑いに来たんだろう?
わけが分からんオヤジのせいで、まったく散々だ!」
彼はレースの途中で運んでいた客らしき中年男性の事を言っているのだろう。
「レモン、後ろにいるのは誰だ?」
ダグがレモンの車の後方を指差す。
「何!?またか!…ん?誰もいねぇぞ?
ダグ!てめぇ、俺様をだましたな!」
また誰かが勝手に乗車しているのかと後ろを振り返ったレモン。
三人はゲラゲラと笑っている。
「しっかり商売人じゃないか」
「うるせえな!からかいに来たんなら早く帰れよ、マザーファッカー!
あと、その変なあだ名で俺を呼ぶな、ダグ!」
「じゃあバナナか、パイナップルはどうだ。
ともかく、お前の走りは最高だったよ。俺達はそれを言いたくて来たんだ」
ピーッ!
クラクション。
二台の車がドンと並んで道をふさいでいるので、通行車の邪魔になっているのだ。
レモンはアクセルを踏んでガレージへと車を乗り入れ、リッキーも車に戻って路肩にそれを寄せた。
…
不機嫌がるレモンがガレージから出て来る。
彼はドープマン達の方へ歩いて来ながら車のキーについているリモコンを押した。
カーセキュリティが何か言ってすぐに沈黙したが、窓は完全に開いている。
何がしたいのだろうか。
「ご覧の通り、俺の走りはクソみたいだった!一番になったヤロウはスカウトできたか、ドープ?」
「いや、してないよ」
「どうしてだ?腕利きを探してただろう」
「速いと上手いじゃ質が違うんだ。
なんてキレイに車を転がす男なんだ!やっぱりお前がイイ!一緒に面白い事やろうよ!」
ピクリ、とレモンの眉間にしわが寄る。
「待て、ドープ。
おい、ダグ!お前、さっきまた変なあだ名つけただろう!
俺をうまそうに呼ぶな!俺はスティーブだ!」
彼は、突如話を色んな方向へ飛ばすらしい。
ダグが「分かった分かった」と両手を上げた。
「レモン。とんでもなく面白いんだ!お前の力を貸してくれ」
すかさずドープマンがレモンをドライバーとして勧誘している。
「うーん、確かに話はすごいものだ。でも、俺は…おい!ドープ!お前もレモンって言ったな!くたばれ!バーカ!バーカ!」
幼稚な罵声を叫びながらも、少し彼の気持ちは揺らいでいるようだ。
「レモン!俺からも頼むよ!
確かにお前の腕が一番だった!それを、あのレースで思い知らされたのさ!
一緒にやろうぜ!」
リッキーがさらにレモンをあおる。
「バカヤロー!俺は一着じゃなかったんだぞ!?適当な事を言うんじゃねぇ!
だからその名で呼ぶなよ、リッキー!
お前ら三人揃ってバカばっかりだ!」
レモンは首を縦には振らなかったが、顔がゆるんでニヤけているのは誰が見ても明らかだ。
「やろうよ!『スティーブ』!」
「な…!」
ドープマンの一言で、レモンの顔がパッと明るくなった。
彼の作戦勝ち。
…
…
「もう一度、言ってくれないか?
俺の聞き間違いではないだろうか」
シンとしているのは、部屋に何も無いせいではない。
「五千万ドル」
「調子に乗るな!」
つぶれたダンボールを蹴り上げて、キャンディが怒りを露にした。
「えー!出血大サービスだぜー?
そのくらいは軽く手に入る話だ。違うかー?」
「それとこれとは話が別だ!お前はこっちに情報を回すだけだろう!
自分が危険を冒すわけでも何でも無い!それで五千万だと!
ふてぶてしいにも程があるぞ」
…
一歩。
アンジーがキャンディに近付くと、彼は身構えた。
彼女を怒らせては何をされるか分かったものではないが、こちらの意見を言わないわけにもいかなかったのだ。
「とにかく、アタシがアンタに回すのは…腕利きのドライバーと車、それから武器の仕入れ先、警察との内通者か買収できる警官。それから…ルートの確保。そんなもんかい?
そんだけアタシを使えば当然の額さー」
「待て。ドライバーは必要ない」
「…そうか?そんじゃあ四千九百万に値引きしてやるよー」
「…」
キャンディは言葉も出ない様子だ。
「誰か、あてがあるのかー?」
アンジーが言っているのはもちろんドライバーの件だ。
「ある」
「へぇ。軍人?それとも元レーサー?」
「なんだ。やけに突っ込んできて。
仕事が減るのが悔しいか?」
やはり彼の言葉には、いちいち皮肉が含まれている。
「別になんだってイイだろー。気になっただけだぜー」
「ふん。確か、タクシードライバーじゃなかったかと思う。ドープマンがそっちを当たってる」
間違っている。
しかし、レモンに対してそういう印象が残るのは仕方の無い事だ。
「あはははは!タクシードライバー!?
凄腕のイエローキャブドライバーがいるのかー!それはおかしい!」
「それはそうと。お前が吹っ掛けてきた額。
それ相応の働きがお前に出来るのかが疑わしい。
情報屋の手前、それを確かめるには過去の客から訊くしかないな」
「なんだ。後払いだとか自分で言ったじゃないかよー」
アンジーは怒る様子もなく、ずっとニコニコと笑っている。
「どういう意味だ?」
「実際にアタシの仕事ぶりを見ればイイじゃないかって事ー」
「それではダメだろう」
キャンディがぴしゃりと言い放つ。
「ん?」
「絶対に失敗は許されない、ということは分かっているはずだ。
なぜ、そんな一大事でお前を試せようか。
それに、仕事ぶりを見て俺が金を出し渋らないとでも?」
「じゃあどうするんだよ。アタシはアンタの未来に興味があるよ」
アンジーが上目で彼を見る。
妖艶だ。
「…チッ。一人、過去に情報を回した客を紹介してくれ。もちろんその情報の内容までは訊かないが、なるだけデカかった仕事がイイ。ソイツがお前の事をどう言うかで判断する」
「あははは!何ともクソ真面目なガキだぜー!
イイよ。それでアンタが納得するんならさ、名も無き男」
彼女は口は悪いが、非常に協力的だ。
「…アンジー、呼び方は一つにしてくれ」
「あはははは!
何て呼んで欲しい?」
「アイス・キャンディが妥当だ。俺の身体に染み付いてる」
アンジーは「そうかいそうかい」とつぶやいてキャンディにさらに近付いた。
お互いの息が顔にぶつかる程の距離。
「…」
イイ女だ、とキャンディは改めて思う。
「よく知ってる」
「何の話だ?」
「アタシの客をアンタに紹介しなくちゃならないんだろう?
ソイツの事をさ」
「そりゃ、よく知っていてもおかしくは無いだろう。
お前は情報屋だ。違うか?」
フードを深くかぶる。
至近距離なので、キャンディからもアンジーの顔が見えなくなる。
「よく知ってるのはアンタだよ。キャンディ」
ペロリ。
唇を舐められたような気持ちが悪い感触がして、キャンディは一歩退く。
「ドープマンか」
「いや、違う。クリスティーナの方だ」
「嘘だろう?彼女に何の情報を渡す必要が…」
「そこまでは訊かない約束だろ?行こうか」
アンジーは玄関へ向かって歩き始めた。
…
…
アンジーとアイス・キャンディは、徒歩でクリスティーナがいるドープマンの家へと向かう。
なかなかの距離だが、二人共乗り物を所有してはいないし、タクシーをつかまえようともしなかった。
…
途中、先程と同じようにチェスター・クリップのメンバーから何度か絡まれた。
しかし、彼等はもちろんキャンディに気付くと何も出来ない。
「見ろ。女連れだ」とひやかしながら二人が去るのを見守るしかないのだ。
幸い、アンジーの家の近くで出くわした連中とは出会わなかった。
奴等だけは平気でキャンディを襲い兼ねない。
もっとも、アンジーが彼のすぐ横にいるのでそれは難しいはずだが。
…
「着いたぜー」
「あぁ、分かってる。
もう早朝だ。彼女は寝ているだろうな」
「へぇ。そうは思えないけどー」
さらに近くまで行くと、『確かに』とキャンディも思い直した。
部屋の電気はついていない。
だが、家の中からいくつかの声が聞こえてきたのだ。
家の前にはリッキーのインパラがドンと停まっている。
「そういう事か」
「ギャングのクソガキ共かー?」
「あぁ。大方、家の中で酒でも飲みながら騒いでいるんだろうよ」
キャンディはふぅ、とため息をついた。
「んー。クリスティーナに用があるんだがー」
「ドープマンが帰ってきているとは予想外だったな、アンジー。
しかし大丈夫だ。彼女だけ外へ連れて来ればイイんだろう」
「分かった。じゃあ、アタシはここで待ってる。頼んだぜー!」
「もし連れ出せなくても、その場でお前の事を彼女から聞き出せばイイしな」
だがアンジーは首を振った。
「それは無理だぜー。アタシの客は、絶対にアタシの事を口外しない。だから一緒に来たのさ」
「ご立派な仕事ぶりだな。少し待っててくれ」
…
キャンディはそっと、扉を開いた。
ドープマン達に見つかっては、必ず酒の席に強制的に連れて行かれてしまう。
まずはクリスティーナがドープマン達と離れている事を祈る。
まるで泥棒のように、忍び足で家の中を歩く。
…
「あはは!マジか、レモン!」
「おうよ!俺の手にかかれば…おい!リッキーのクソったれ!
俺はスティーブだ!バカヤロー!」
レモンとかいう、あのタクシードライバーがいるらしいな、とキャンディは思った。
スカウトがどうなったのかは分からないが、こうして仲良く騒いでいるのを考えると、おそらく成功したのだろう。
「あぁ!まったく騒がしいね!朝までわぁわぁ言ってさ!寝てられないよ!」
「…!」
キャンディが反応する。
クリスティーナの声だ。
ドープマンが仲間をつれてきている事を快くは思っていないらしい。
しかし、声がどこから聞こえたのか、玄関付近にいるキャンディからは分からなかった。
…
パタパタ。
すぐに、床を歩く足音が聞こえた。
…
「マズいな…」
「…ん?アイス・キャンディ?」
彼はその人物から見つかってしまった。
…
しかし、ホッと胸を撫で下ろす。
「クリスティーナ…ちょっとイイか?」
…
…
「ちょっと…どうしたのさ!
あぁ!ハニー!」
拒否したクリスティーナを、半ば強引に連れ出すキャンディ。
口を割らないと分かっている人間に、いちいち状況を説明するわけにもいかない。とにかくアンジーの顔を見せればそれで済む。
クリスティーナはドープマンを呼んだが、ドンチャン騒ぎをしている彼にその声は届かない。
…
その小柄な身体のどこから出てくるのか、というぐらいの強い力で、キャンディはクリスティーナを外へ連れ出した。
「もう!なんなんだよ、アンタ!
少しはまともな性格してるのかと思ってたら、あのギャングスタ達と何ら変わりないね!」
「俺がまとも…?ふん。
俺よりはリッキー達の方がまともだと思うぞ」
「はぁ?」
クリスティーナが首をかしげる。
「まぁイイ。手荒な真似をして悪かったな。
ほら、お客さんだ」
「え?」
「ハイ、クリスティーナ」
そこには、手を振りながらニコニコと笑うアンジーが立っていた。
「まさか…ジル…!?」
「えぇ。しばらくね」
「…?」
キャンディの頭の中に疑問が生まれる。
しかし、それはクリスティーナがアンジーを別の名前で呼んだ事などではない。
アンジーが名前をいくつか使っていても、何ら不思議ではない。
クリスティーナと一緒にいる間は、アンジーの事を『ジル』と呼んでおくのがイイだろう。
…
それよりも、キャンディが不思議に思ったのはアンジーの話し方。
キャンディと話している時のような男っぽくてお転婆に感じるようなそれではなく、どこか落ち着いたような印象を受けた。
さらには『声』。
耳に響く甲高い声などではなく、トーンの低い、小さな声。
文字通り、アンジーは『声変わり』したのだ。
まるで別人だ。
…
「どうして、アンタとアイス・キャンディが…
とにかくイイわ。場所を変えよう。誰かに見られたら大変だよ」
クリスティーナはアンジーと一緒にいる事を見られるのを恐れているようだ。
つまり、二人には情報屋と客としての繋がりが…ある。
…
…
朝日はすでにのぼっている。
三人は連れ立って、アンジーの家へとやってきていた。
話せる場所は無いかとウロウロと散策して回るより、少しくらい距離があってもこちらの方が手っ取り早かったのだ。
「どうぞかけて、クリスティーナ」
「いや、つぶれてるよ…」
三人がいるのは、先程までキャンディとアンジーがいた部屋。
アンジーがクリスティーナにダンボールの椅子をすすめたが、当然彼女がつぶれた箱に座るわけもない。
「クリスティーナ。だいぶ家から離れている所まで歩いてきてしまったが、ドープマンは大丈夫なのか?」
「酔いつぶれてみんな寝てしまってるか、まだ騒いでるかのどちらかだよ。
ハニーはあまり酒は飲まないけど、場の雰囲気で酔うんでね」
「そうか。それなら心配なさそうだ」
「あぁ。心配ないよ」
キャンディの問い掛けに、クリスティーナはため息をつきながら答えた。
「ところで、アン…いや、ジル。
お前の仕事ぶりをききたいのだが?」
「えぇ、そうね。ご希望の『大きな仕事』とは言えないかもしれないけれど、クリスティーナの依頼内容はユニークなものだったわ」
アンジーとキャンディの視線がクリスティーナに向けられる。
「そう。ジルの与えてくれた情報、回してくれた人材は確かなものだったよ」
クリスティーナが語り始める。
「あれは…ちょうど一年くらい前だね。
アタシはジルに『ハニーを救ってほしい』とお願いしたのさ」
「救う?何から?」
「…クソみたいな人生からさ」
うつむいてポツリと言葉をこぼした。
「彼は…今でこそ、おっとりしているように見えるけどさ。昔はそりゃあ酷かったんだ。
毎日毎日、ギャングの仲間達と一緒に人を傷つけ、金を奪い、時には傷つけられたりブチ込まれたり…アタシにも散々、手を上げてさ」
「それほど驚きはしないな。ドープにはそういう影が見える」
「アタシはもう嫌気がさしてた。殺してやりたいくらいに彼を憎んだ。
でもそれ以上に、愛していたんだ」
…
その後、短い沈黙。
破ったのはキャンディだ。
「愛か。羨ましく思う。
人を愛せる事も、愛される事も…な」
虫酸。
彼の身体に虫酸が走る。
人を愛せないのは本当でも、それを羨む気持ちなど微塵も無い。
「寂しい男だね、アイス・キャンディ。
とにかく…アタシはハニーがギャングのメンバーから抜ける事を望んだのさ」
クリスティーナはタバコを取り出して火をつけた。
「結果としてはどうなんだ?」
「アシは洗ってる。でも、最近あぁやって元のメンバー達がやってくるんだ。
でも大丈夫さ。悪さはしない。
なにせ、自由に『脚』が動かない」
「…!お前…!」
キャンディがフードの奥でカッと目を見開く。
それを皮切りに、クリスティーナは声を上げて泣き始めた。
「あぁぁぁ!!ごめん…!ごめんよぉぉ!」
ただただ、みにくい。
「ふん、理解出来ないな。
…ジル、お前。気は確かか?」
「えぇ、もちろん。それよりもクリスティーナの方が心配だわ」
わぁわぁと泣き叫ぶクリスティーナを指差して、アンジーはにこりと微笑んだ。
「お前自身は何も、感じなかったのか?」
「どういう意味かしら?」
アンジーは笑顔を崩さない。
「心が痛まないかと訊いている」
ガラでも無い質問。
アイス・キャンディとしてのそれか、役としてのそれか。
何が本当で、何が嘘なのか分からなくなる。
「私は情報を与えて人を回す。それだけよ」
「報酬は?」
「もちろん」
クリスティーナは、声こそ小さくなったが、まだすすり泣いている。
アンジーが彼女にそっと近寄って「大丈夫?」と一声かけた。
「分かった。ジル、仕事は…いや、姿勢は本物だ。仕事に対して無駄な感情を無くすのはなかなか出来る事ではない。
だが、きっかけは私情で俺に絡んできたからと言って、そこを緩めてもらっては困る」
「心配ないわ。貴方もね、アイス・キャンディ?
何があっても、私達のせいにしたりしないように。
精一杯、自らの力を奮いなさい」
「…」
ただ一つ言えるのは…人道的に外れた話であろうと、彼女には何の問題もないということだ。
…
「クリスティーナ。貴女、少し休んだ方がいいわ」
「うっ…うっ…」
何と話しかけても鼻をすするだけで、何の役にも立たなくなってしまったクリスティーナ。
彼女の肩を抱いて、アンジーが隣りの部屋へと連れて行った。
優しい微笑みはまるで聖母マリアのようだ。
「休んだ方がイイ…?ふん、どうせダンボールか床に転がる他は無いんだろう」
キャンディがブツブツと小言をつぶやいていると、アンジーがすぐに戻ってきた。
「さーて!これで少しはアタシと仕事する気になったかー?
ま、あの女ほとんど役に立たなかったけどなー!あはははは!」
「分かった。しかし、やはり…高すぎるぞ、アンジー」
「アンタはそれ以上のものを得るんだぜ!」
「チッ。お前…見事な変わり身だったぞ」
やはり金は負からないと分かり、キャンディは話題をスイッチした。
「変わり身ー?」
「『ジル』だ。別人のようだった」
「あー…アタシはさぁ、何が自分で、何が自分じゃないのか分からなくなってしまってるんだよなー」
そう。
まるで、キャンディ自身だ。
自分が何者なのか分からない。
しかし、キャンディはそれを自身に強く感じているわけではない。
「『演じている』だとか『作っている』ものは、分かるんじゃないのか?」
「そりゃあもちろん分かるさー。『素』になってる時が自分なんだってな」
「では問題ないだろう」
アンジーがうなる。
「うーん…でもその『素』が、本当にアタシなのかは分からないぜー。
『素の自分』を演じている自分なのかもしれない。生まれた時に元々持っていた人格からは、絶対にかけ離れてるからなー」
「…人格は何かあるごとに、その都度更新しながら形成されていくものだ。
さて…それよりも、クリスティーナが帰ったら、さっさと仕事に取り掛かりたいのだが」
キャンディがクリスティーナがいる部屋の方を指差しながら言った。
「あははは!本当にせっかちだね!
もちろんだよ。アンタに必要な情報と人材は、ある程度アタシの頭の中では固まってる」
…
…
十分後。
ヨロヨロと、おぼつかない足取りのクリスティーナが、二人のいる部屋にひょっこりと顔をだした。
「ごめんね、ジル。もう大丈夫」
「あら、クリスティーナ。心配したわ。
お家まで送りましょうか?ベッドでぐっすりと眠った方がイイと思う」
「いや、大丈夫。問題ないよ。
さぁ、アイス・キャンディ!さっきの話の…」
キャンディが右手を上げた。
「なに?」
クリスティーナが言葉を止める。
「もう、ドープマンの話は聞かなくてイイ。
とにかく、アン…いや、ジルとお前が手を組んだ時の話はもうたくさんだ。
俺は彼女を信用する事にした」
もちろんキャンディはアンジーの事など信用してはいないが、クリスティーナを早く帰らせる為に嘘をついたのだ。
「そうか」
クリスティーナは少し肩を落とした。
ようやく話す事が出来るようにと決心をしたら、話さなくてイイと言われたから当然だと言えば当然なのだが。
…
…
「じゃ、アタシは帰るよ」
「ドープマン達は家でまだ騒いでるのか?」
「さぁねぇ。とにかく…掃除をする身にもなってほしいよ!
いつもいつも散らかしっ放しなんだからさ」
クリスティーナはその後すぐに、誰にともなく悪態をつきながら帰っていった。
…
本題に入る。
「さて…アンジー。何から詰めていくんだ?」
「あははは!そんじゃ始めよう。
…まずは、アンタに会わせたい人間達がいるんだ。
というよりは会わないと先には進めないぜー」
先程までの『ジル』の顔は『アンジー』に早変わりしている。
「ほう」
「ドライバーを探すだけがアンタの仕事じゃないだろうからよー。
まずはアタシが必要だと思った人間達に、アンタが会ってみる事さー」
アンジーは「リストがある」とキャミソールの胸の谷間から紙を取り出した。
キャンディがそれを受け取り、目を通す。
ズラリと名前や住所、どういう役割で使うつもりなのかが明記してある。
「多いな」
「候補だからなー」
「それで、俺に一人一人に会ってまわれと?」
アンジーがうなずく。
「お前もついてくるのか?」
「まさか。アタシはそこに書いてある人間達と面識は無いぜー」
「分かった。だが少し時間がかかりそうだな。
お前はその間何を?」
何を思ったのか、アンジーはつぶれた箱に腰を下ろした。
「あ…」
「…」
すぐに立ち上がる。
「あはは!
そうだなぁ。アンタの言うタクシードライバーを見て、チェスター・クリップの連中の情報でも調べておくぜ。バカな彼等の役目も考えなきゃならないからなー。
あ、これはドープマンには内緒だぜー」
「分かった。しかし…リストにはサンフランシスコやシアトル、マイアミにフェニックス、挙げ句にデトロイトやセントルイスまであるぞ。
全米から猛者を掻き集めてくるのか?」
「飛行機で行けば簡単だろ?
金貸しが必要なら紹介してやるよ」
にこにこと笑いながら、アンジーはキャンディにピタリとくっついた。
キャンディの腰に手を回し、その顔を彼の胸辺りにうずめている。
「離れろ」
キャンディが言った。
「金貸しは?」
「必要ない」
「飛行機代はどうするのさ?」
「そのくらいの金ならその都度生み出せばイイ。
どうしたんだ?妙な心配をするものだな」
キャンディの言葉にアンジーがはにかんだ。
「あはは!アタシが気に入ってる男だぜー。少しぐらい心配させてくれよ」
「よく言えたものだ」
キャンディはアンジーの肩に手を置いて、やんわりと身体を離した。
今まで突き飛ばしてばかりだった彼の行動から考えると、かなり優しくなった様に感じる。
「クスリでもさばくのかー?」
「いや…少し前までは多少のブツはあったが、もう底をつきてる。
それにドープマンと一緒にいるからといって、チェスター・クリップから流してもらってるわけでも何かのアガリをもらってるわけでもない」
「やっぱり余所じゃ、ハスラーでもやってたんだな」
「余計な詮索をするな、アンジー」
…
キャンディは部屋の扉を開けた。
「どのくらいで戻れそうだい」
「一か月」
「案外早いね。連絡先を。
ちょっと待っててくれー」
アンジーがキャンディの横をすり抜け、二階へと上がって行く。
そして、戻ってきた彼女の手には紙とペン。
「アンジー、携帯電話は持っているか?」
「いーや」
「そうか。俺もだ」
元々あったキャンディの手荷物は、ほとんど盗られてしまっている。
「これが、アタシの番号。こんな家でも、電話だけは必需品でね」
アンジーが電話番号と名前を走り書きして、キャンディに渡した。
おそらく二階が彼女の居住スペースで、ある程度の物は備わっているのだろう。
「こちらの連絡先は今のところ教えられないが…
出先で宿をとったらその都度、追って連絡先と滞在予定日数を伝える事にしよう」
「それで構わないぜー」
「じゃあ行くぞ。ドープマン達にはクリスティーナづたいにでも、俺の事なら心配いらないと伝えておいてくれ」
…
玄関から出る。
いつの間にか、冷たい雨が降っていた。