intro
『Crap…ゴミ、クズ』
「俺の靴、返してよー!」
「ははは!誰が返すもんか!」
1981年…
「クソー!返してってば!」
「返してほしけりゃ、追いついてみろよー!
ほら、パスだ!グレッグ!」
「よっしゃ、任せろ!」
アメリカ、カリフォルニア州…
「う…うわぁぁん!ずるいよ!二人がかりでー!」
「おい!見ろよ、ロイ!
泣き虫エリックが泣き始めたぞー!」
「はは!本当だ!
やーい、泣き虫エリックー!」
コンプトン。
…
パァン!パァン!
突然の銃声。
「やっべぇ!近くにギャングスタがいるみたいだ!」
「逃げよう!急げ、グレッグ!」
靴を盗んで遊んでいた少年二人は、慌ててその靴を放り投げて駆け出した。
…
「ひっく…!ま、待ってよー!靴…返してよ!どこだよー」
取り残された一人のいじめられっ子は、靴を求めて辺りをキョロキョロと見渡す。
左右の足はどちらも裸足。
上半身は裸で、彼が身につけているのはボロボロなデニム生地のハーフパンツだけだった。
「ひっく…!靴ぅ…俺の靴…あぁっ!」
エリックは空を見上げて立ち止まる。
町の高い場所。
電線が、電柱と電柱をつないで、そこら中に張り巡らされている。
そこに…彼の靴は引っ掛かっていた。
丁寧に左右の靴を靴紐で結びつけられ、ぶらぶらと電線で揺れている。
「うわぁぁん!なんでわざわざあんなところにー!」
エリックはさらに大声で泣きじゃくる。
どう足掻いても、靴は彼の手が届くような高さでは無かったから…という単純な理由からではない。
「ど、どうしよう…冗談じゃないよぉ…」
エリックは、ひとまず靴の事を諦めて、近くの茂みに身を潜めた。
そしてガタガタと震えながら、靴の辺りを見つめる。
…
ガヤガヤと騒ぎが近くなる。
先程、いじめっ子の一人が『ギャングスタ』と言った連中。
彼等が近付いてきているのだ。
簡単にいえば荒くれ者の集まり。『ギャング』と呼ばれる集団に属する人間、その一人一人の事をギャングスタと呼ぶ。
彼等の姿が、エリックの視界に入った。
「あぁ!?なんだこりゃ!」
ギャングスタの一人が大声を上げる。
彼はエリックの靴を指差している。
「今日はここで売りがあるのか?」
また別の男が言った。
…彼等は、四人組。
青い靴や服を着た、いわゆる『クリップス』と呼ばれる連中だ。
電線に引っ掛けられた靴は、ギャングの集合場所、あるいはドラッグの取り引き場所の目印として使われる。
エリックが恐れていたのは、そういう理由からだ。
…
サイレンの音が遠くから聞こえ始める。
先程の銃声を聞き付けて、警察がやってきているのだ。
「おい!」
「分かってる!みんな逃げろ!」
ギャングスタ達はハッとなり、その場から去っていく。
「…」
エリックは息を殺してそれを見守る。
早くどうにかして靴を取らなければいけない。
ギャング達や、薬物中毒者が集まってきてしまう。
日が暮れたりすれば尚更だ。
彼がその場でオロオロしていると、いつの間にか一人の警察官が側に立っていた。
「ボウズ」
「…!」
声を掛けられてビクリと反応するエリック。
ガムをクチャクチャと噛みながら、その警察官は屈む。
幼いエリックと目線の高さを合わせる為だ。
回転灯がクルクルと光るパトカーが側に停まっている。
中にはもう一人の警察官。
「靴…靴が…」
「靴?」
彼が指差す空を訝しげに警察官は見上げた。
「あぁ。何かの目印だな」
「違うよぉ…俺の靴なんだよぉ…!うわぁぁん!」
エリックは泣きじゃくった。
警察官はやれやれと首を振る。
「そうか。そりゃ気の毒にな。
残念だが…俺達は銃声を追ってるんだ。誰か怪しい奴を見たか?」
警察官は淡々と用件だけを話し始める。
「靴…!俺の靴、取ってよ!」
「すまない。時間が無いんだよ。誰か大人を呼んで取ってもらいなさい。
それで怪しい奴は?見たのか?」
ガシリとエリックの肩を両手で掴み、今度は威圧的に警察官が言った。
「…」
エリックが恐る恐るギャングスタ達が走り去った方向を指差す。
「あっちだな…?分かった」
警察官は素早く立ち上がる。
「あっ…待ってよ…俺の靴を…!」
「おい!怪しい奴があっちへ向かったそうだ!すぐに追うぞ!」
パトカーに残っている相棒に叫ぶ警察官。
エリックの訴えは、その大声にかき消されてしまう。
「靴…」
パトカーが発進し、エリックは空しくも、その場にポツンと残されてしまった。
靴は、もはや彼の力だけではどうにも出来ない。
…
仕方なく裸足でトボトボと歩き始める。
「また…怒られるのかな…」
エリックはつぶやいた。
彼が今から帰る家には、母親が待っている。
兄弟はいない。
父親の顔は、知らない。
エリックの母親でさえも、父親が一体誰なのか分かっていないのだ。
その理由は、彼女がエリックを身ごもった時、複数の男性と肉体関係があったからだった。
エリックは…『望まれなかった子』。
結果、彼が母親から愛される事は無かったのだ。
彼は…たった一人の肉親から虐待を受けていた。
…
ガチャリ。
そっと家の扉を開くエリック。
彼の家は、動かなくなったキャンピングカーを利用した『トレーラーハウス』。
郊外の広い土地に何台もの動かないキャンピングカーがあり、そこに何世帯かの貧しい家族が暮らしているのだ。
「何時だと思ってるんだい?」
小さく、怒りを含んだ言葉が聞こえてきた。
「ごめんなさい」
エリックは声の主と目を合わせる事さえせずに、奥にある自室へ戻る。
家の中は、玄関から入るとすぐにダイニングキッチンがあり、その角に小さなバスルーム。
そしてもう一つ、隣りに小さな部屋があるだけ。
それがエリックの部屋だった。
…
「待ちな!」
突然、母親の口から金切声が上がる。
自室の扉を閉めかけていたエリックは「ひっ!」と短く驚いて、母親の方を振り返った。
ようやく彼の目が、母親の目と合う。
下着姿の彼女は、セミロングの黒髪にカーラーを巻き付けたままの、酷い格好だ。
「な…なに?」
「アンタ…靴はどうしたんだい?」
エリックの顔が、ギクリとする。
誰が見ても気付く程の反応。
「しまった」と、口で言っているようなものだ。
もちろん彼の母親が、それを見逃すはずがなかった。
「また無くしてきたのかい!それとも取られたのかい!」
母親が大股でエリックに近寄る。
そして、バシン!と大きな音を立てて、彼の左頬を平手で打った。
「ママ…待って…!靴は…!」
「どうしようも無いバカだね!
もう靴は買ってあげられないよ!ずっと裸足でいな!」
言いながら母親の手はエリックを打ち続ける。
彼の声は彼女には届かなかった。
エリックは倒れ込み、唇をかみ締めながら痛みに耐えるしかないのだ。
「うぅ…」
こうして、エリックが身につける物は一つずつ減っていく。
…
つまりこの瞬間から、彼が着る事が出来る物は、くたびれたハーフパンツだけとなったわけだ。
「はぁ…はぁ…」
母親が息を切らして、ようやくその手が止まる。
エリックは身体中が痛々しく腫れて、口や鼻からは血が出ていた。
母親の言葉からも分かるように、彼が着ている物を無くして来るのは初めての事ではない。
エリックは、家庭で虐待を受けている事に加えて、近所の子供達からもいじめられている。
彼等はエリックにケガを負わせるだけでは飽きたらず、近頃は彼の持ち物や着ている物を奪うようになったのだ。
それがさらに母親の怒りを買って、虐待はエスカレート。
そういう悪循環に繋がっていた。
母親は、他の子からエリックを守ろうとする事さえせず、彼を責め続けるだけ。
彼は『いつか自分は母親の手にかかって死んでしまうに違いない』と思っていた。
…
「さっさと寝な!当然だけど、アンタの晩ご飯は抜きだよ!」
母親が怒鳴りながらエリックの元を離れていく。
夕食を出してもらえない事など、いつもの事だ。
母親は、近所の薬局でパートタイムで働いているだけで、わずかな稼ぎしかもらっていない。
少しでも生活費を減らす為に、何かと理由をつけては、しょっちゅうエリックの食事を出さないのだ。
…
「お腹…すいた」
エリックは、自室の臭いベッドの上で空腹感と闘う。
シャワーなど滅多に使わせてもらえない。
クリクリの坊主頭はとても痒い。
『なぜ、部屋だけは与えられているのか』という疑問はそこで消え去るだろう。
…
「あらぁ…!いらっしゃい!」
夜中頃。
ようやく空腹感に打ち勝って眠っていたエリックは目を覚ました。
隣りの部屋で母親が誰かを迎える、わざとらしい猫なで声。
『男』だ。
先程、彼女がカーラーを巻いて髪型を作っていたのはそういう理由だったのだ。
…
カチャカチャと音を立てて、その客人が食事をとっている。
エリックには与えられない食事を。
彼は必死で耳をふさぐ。
またか、と思いながら。
食事の音が耳障りだからではない。
朝まで待てば、フレークくらいは食べさせてもらえる。
「…」
エリックは起きている事を気付かれないように、ポロポロと静かに泣いた。
もうじき聞こえてくる母親の喘ぎ声と、激しく肉体が擦れ合う音。
エリックはそれが大嫌いだった。