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作者: 板崖 好奈
掲載日:2018/03/03

 人の顔は一辺倒では計れない。これは俺の持論である。

 ただ、ここで言う「顔」とは顔面に張り付いているそれでは無く、他人に見せる表情や仕草の事だ。

 落差はあれ、様々な人間と関わるこの社会で、一貫して一つの顔を見せ続ける者などいるはずもない。

 どんなに長い付き合いの友人でも、俺に見せているこの顔は、こいつの極僅かな部分でしかないのだと実感することがある。

 家族もまた然りだ。

 相手の一部分のみを切り取って、その人物を理解したつもりになるなど烏滸おこがましい思い上がりなのだろう。

 だが人は、善意であれ悪意であれ、相手を知りたい、理解したいと思ってしまう。それがどんなに不可能な事だと判っていても、相手の言動や表情から情報を得ようとしてしまうのだ。

 そして、ある程度の情報が揃ってしまえば「ああ、こいつはこういう人間なのか」と判断してしまう。

 それが好転する時もあれば予期せぬトラブルを呼ぶ時もある。

 その度に思うのだ。

「ああ、俺はこいつを正しく認識していなかったな」と。

 人の意外性を垣間見る瞬間。それは、自身の傲慢さが露呈する瞬間でもあるのかもしれない。




 高校二年の夏休み。

 休みに入ってまだ二日目の昼下がりの事だ。今後の長期休暇をいかにして過ごすか、そんな事ですらも計画段階にあった俺は、正午近くまで惰眠を貪り、朝食兼昼食を済ませた後もただ安穏と時間だけを消費していた。

 寝起きの気怠さと夏の暑さに刺激され、朦朧とした意識の中でぼんやりと何をしようかと考える。

 不意に読みかけの小説があった事を思い出し、自室の本棚から文庫本を引きずり出して、涼しさを求めてリビングへと辿り着いたのがつい先ほどの事。

 ソファに深々と越し掛け、クーラーの冷気を感じつつパラパラとページを捲ってみるが内容が頭に入ってこない。

 気温で頭が回らないというのもそうだが、この本がファンタジー小説なのがそもそもの原因である。

 独特の世界観に個性的な設定、それら全てに後付けの様に加えられる解説が壮大過ぎて、頭がついていかなくなる。

 要するに、俺はファンタジー小説は苦手なのだ。

 そう言えばこの本も、世界観について行けなくなり読むのを止めた物だった。

 別の書物に変えようか、それとも読書を中断しようか、と悩み始めた時だ。

 意識を底から掬い取る様に電話の着信音が鳴り響いた。

 傍らに置いたままのスマホに目を向ける。俺の物が鳴っているのではない。

 台所で洗い物をしていた母がタオルで手を拭きながらパタパタと走り出した。どうやら鳴っていたのは母のスマホらしい。

 紛らわしいな。着信音を変えておこう。

 活字を追いかける傍ら内心でそう呟いた。本は開いたまま、耳を澄ませる。

 最初こそいつもの調子で「はい、もしもし」と応対していた母だったが、数回相槌を打つ声が続いたかと思うと、不意に途切れ、そのまま無言が続いた。

 誰からの電話だろう?

 違和感を覚え、本から視線をはずす。

 しばらく無言が続いたかと思えば、今度は突然、目で見て判る程にその肩が震えだした。

 何事かと思い様子を窺っていると、ぐずぐずと上擦った声でまた数回相槌を打った母は、驚くほど静かにスマホを置いた。

 泣いている……?

 微かではあるが、すんすんと鼻を啜るような音が聞こえる。

 ただならぬ予感を抱きながら、一向にその場を動こうとしない母に「どうかしたの?」と尋ねた。

 すると、一瞬迷ったような沈黙が下り、こちらを振り返った母は、口元を手で覆いながら抑揚のない声でこう言ったのだ。

「おじいちゃんが……死んじゃったって」

  絞り出すような力の無い声を発すると、母はそのまま項垂れる様に座り込んだ。

 言葉の意味が上手く理解できないと感じたのはこの時が初めてだった。

 柳場総志郎という存在になって十八年。人の死というものを初めて身近に感じた瞬間だった。

 母の父、つまりは俺の祖父である片岡源一郎は厳格で几帳面で、いつ見ても口を『へ』の字に曲げているような仏頂面の老人だった。

 笑顔が下手で、無理に笑おうとすると眉根に皺が寄るようなおかしな人だ。

 厳しさも優しさも併せ持った祖母が紡錘形なら、祖父はシンプルに武骨な正方形と言った印象だ。

 若い頃は製靴の仕事に携わっており、見かけによらず手先は器用なのだと祖母から聞いた事がある。

 そんな祖父が死んだ。

 死因は胃癌だそうだ。

 一年ほど前から入退院を繰り返していたと聞いたが、そこまで様態が悪くなっていたなんて、しばらく顔を合わせていなかった俺は知らなかった。

 いや、もしかしたら何度か聞かされていたのかもしれない。遠い県外に住む祖父の話しだと、自然と聞き流していたのかもしれない。

 夏休みに入ったら、祖父の見舞いも兼ねて新潟へ赴く予定だったが、その予定は最悪な形で成される事となった。

 祖父母の家、つまり母の実家に到着したのは電話のあった翌日の夕方だった。

 いつもなら笑顔で迎えてくれる祖母だが、その目元はまともな睡眠がとれていないのか真っ赤に腫れ上がっていた。感じたことのない緊張が胸を締め付ける。

 仏間に案内され、息を飲んだ。

 そこには、白い布を顔に掛けられた祖父が横たわっており。乾いた空気の充満したその部屋は、日常の光景からは切り離された別の空間の様で、言いようのない寒気を感じた。

 実感の湧かないまま、ゆっくりと近づく。

 母が、顔に掛けてある布を上げた。

 布の下には、確かに祖父の顔があった。やつれて、少し疲れたような表情で目を閉じている。

 それを見た母は、嗚咽にも似た声を漏らして立ち上がると、何も言わずにその場を離れていった。

 俺はと言うと……上手く感じる事が出来なかった。

 目の前に横たわっているのは確かに祖父だ。しかし、祖父ではない何か別の物を前にしているような奇妙な感覚に囚われ、ただ首を捻る事しかできず、血色のない顔を何度も確認した。

 死体と言うと聞こえが悪いだろうが。しかし、初めてそれを前にした俺は拍子抜けしていたのかもしれない。

 ドラマや映画で見るような、いかにも生物としての機能を失った死体を想像していたからだ。肌の色は変色し、一見して腐敗を感じ取れるような、そんなものを覚悟していた。

 だが祖父は、まるで眠りについているような綺麗な顔をしていて、今にも瞼を開き起き上がりそうな、いつもと変わらない表情である。

 不思議そうに見つめる俺の顔が可笑しかったのだろうか。

 隣に座っていた祖母が、意外にも小さく笑い、これは死化粧と言って、亡くなった人が生前と同じような顔つきになる様に業者がしてくれているのだと教えてくれた。

 それくらいは知っている。知ってはいるが、ここまで巧みなものだとは知らなかった。

 今にも目を覚まし、毎度の様に「おお総志郎、来たのか。ここに座れ。最近は何をしている。お菓子を食うか」と相変わらずの調子で喋り出しそうなほど、見慣れた表情をしていた。

 もしかしたら死んでしまったと言うのは何かの間違いで、本当はただ深い眠りについているだけではないだろうか……。

 そう思い、許されるのだろうかと思いながらも、恐る恐る祖父の頬に掌を当ててみた。

 冷たかった。それはもう、息を飲むほどに。

 体温という物が一切感じられない。

 まるで人形みたいに皮膚だけが柔らかく、その下の筋が固くなっていた。

 間違いない、俺の知っている祖父はもうここにはいない。

 そう思うと、あれほど親交が浅いと感じていたにも関わらず、自然と瞼が熱くなるのを感じた。

 鼻の奥がつんと痛くなり、息が詰まる。

 もう逢えない。もう、あの不器用な笑顔は見る事が出来ない。

 些細な出来事しか覚えていないくせに、祖父との思い出を手繰り寄せてはそれが鮮明に思い出され、俺の涙はしばらく止まらなかった。


 涙が引いてからは、実に慌ただしい時間が流れた。

 仕事の都合もあり、遅れて到着した父を加え、葬儀の準備が始まる。

 業者との打ち合わせ、親類縁者への連絡、訪れる人々の応対。

 どれも俺は蚊帳の外だったが、母や祖母、それに父が右往左往する様を見ているだけで疲れを感じた。

 そんな中で見る大人達の姿は新鮮だった。

 大切な人が他界した直後だと言うのに、母も祖母も気丈に振る舞っている。時には笑顔さえ見せて訪れる人達と談笑する場面もあった。

 精神的な強さだろうか。それとも、事を遂行するための義務感が、今は心情を上回っているだけなのだろうか。

 そう言えば、葬儀には親族に悲観する暇を与えないようにという役目も含まれているのだと、どこかで聞いた気がする。どこまで事実なのかは判らないが。

 しかし現に、母も祖母も、勿論俺も、悲しみに心打たれている暇などなかった。目まぐるしい時間だけが過ぎて行く。

 慌ただしく移り変わる場面と仕来り、それを遂行する為に神経は費やされ、疲弊し、気が付けば祖父の死から二日が経過していた。

 葬儀の為に、母から学校の制服に着替えるよう言われ、袖を通す。まさか、こんな事で制服を着ようとは、夏休みに入る前は想像もしていなかった。

 たまに道端で見かける『○○様葬儀会場』の看板に祖父の名前が書いてあるのを見て、ぼんやりと「ああ、そうか」と思った事も覚えている。

 葬儀が始まると、昨夜までの慌ただしさが嘘のように、厳粛な空気が俺達を取り囲んだ。

 数十分の葬儀の間はぼんやりと考え事をしていた。いつになるかは判らないが、俺が死んだ時も、こうして俺の知らないその後が展開されていくのだろうか。多くの人が参列し、俺の顔を覗き込み、時には涙し、時には眉を顰め、静かな時間が流れて行くのだろうか。

 それでも俺はそれを知る事は出来ない。俺の為に行われる葬儀を、俺が知る事は永遠にない。それは、何だが奇妙な事の様に思えた。

 あれだけ慌ただしく準備をしたと言うのに、葬儀そのものは案外あっさりと終了してしまった。

 出棺の際に泣き崩れて棺にしがみつく母が印象的だった。

 火葬された祖父の変わり果てた姿には目を剥いたが、不思議と、その段階まで来ると心が落ち着いていた。


 葬儀が終わり、翌日。

 母も祖母も今は落ち着いている。とはいえ、大事な人が他界した事実は変わらない、抜け殻のように疲れ切った表情のままだ。

 仕事の休みを半ば強引に取り付けてきたという父は、諸々が終わると心配そうな表情を残して帰路に着いた。

「総志郎、母さんとお婆ちゃんを頼んだぞ」

 そう言い残されたが、俺に何が出来る訳でもない。

 母と祖母、二人の様子を窺ってはただ心配する。それくらいが関の山だ。

 そんな二人は何を語るでもなく、黙々と祖父が過ごしていた和室の整理を行っていた。

「少し休んだら?」

 そう言ってはみたものの、二人の気持ちが落ち着かないのは十分過ぎる程感じていた。

 今ここで日常に戻ってしまうと、心がざわついて仕方がないのだ。誰かがいなくなるというのは、不安で仕方がない。心がいつまでもグラグラと揺れ動いているようで、不意にそれが崩れてしまいそうな危うさが心を更に不安にさせる。

 同じ心情とまでは言えないが、この時ばかりは柄にもなく、率先して二人の手伝いを始めた。

 部屋の整理と言っても、遺品整理という訳ではないらしい。

 祖父の部屋に何があるのか、貴重品や、事後処理が必要な物はないか。そういった物を確認する作業なのだという。

 なるほど探索に近いな。と思った。

 祖父の過ごしていた部屋は、さほど広くはない。

 畳み六畳分の空間に、巨大な本棚が一架。それより一回り小さな箪笥が並んで一棹。そして更にその隣には小さな台の上に置かれた小型のテレビと、その下にDVDプレイヤーが置いてあった。

 本棚には、歴史書や伝書が目立つ。

 物の量はさほどない。

 窓際には座卓があり。ノートやペン、葉書に便箋などが無造作に置かれていた。

 祖母から聞いた話だと、祖父には幾人かの史学愛好の仲間がおり、まめに連絡を取り合っては旅行を兼ねて名所を巡っていたそうだ。

 何度か同行したことがあるという祖母が机の引き出しに入っていた写真を見せてくれた。

 仲間達と共に撮影した写真だ。

 そのうちの何人かは、葬儀でも見かけた顔だった。

 晩年を共に過ごす仲間達。あの堅物の祖父にもそんな存在があったのか。意外だ。

 祖父は他人を寄せ付けないイメージが強かったので少しだけ驚いた。

 写真の中で仲間達と並ぶ祖父は、表情こそいつも通りだが雰囲気が柔らかく、見ているこちらの頬も自然と緩んでくる。

 人の中身は、見た目や言葉だけでは計れない。

 それがいかに近親者であろうとも、こうして意外な一面を知る事は珍しくない。

 ただ、もう少し歩み寄っていれば、祖父のこうした一面を見る事があったのだろうか。と、今更ながらに思う。

 後悔しても遅い、だが俺は、孫としてちゃんと接していられただろうか……。そんな疑念が脳裏をよぎる。

 淀みそうな気分を晴らすように、遺品をまとめる作業は機械的になっていった。

 史実をまとめた書物に、各地の名城の写真。大河ドラマや歴史ドキュメンタリーの番組を録画したDVD。

 ――本当に歴史が好きだったんだな……。

 生前の祖父はこの部屋で、子供の様に目を輝かせながら過去の出来事に思いを馳せ、浪漫に浸っていたのだろうか。

 どこを見渡しても、歴史に関する物で溢れた部屋。

 そんな中、一部分にだけ違和感を覚えた。

 箪笥の上で整列する数冊の書物。その横に並んでいたのは、この部屋には似つかわしくない幾つかの小さなお手玉だった。

 ――なんだこれ?

 近づいてみて判った。そのお手玉はそれぞれが動物を模した縫いぐるみのようで、数えてみると全部で十体、三列×三列の九体と、外れて一体がある。

 一番奥の三体、左から犬、猫、これは鳥……いや違うペンギンだ。

 手前に一列ずれて三体、蛇、雀、たわし……違うライオンだ。

 なかなか特徴を捉えているものの、手作りのようで判別しづらい部分がある。

 一番手前の列はは更に難解だった、しばらく観察してみてようやく判る。ああ、これは鯨と鼠と猿だ。

 そして一番手前に鎮座する一体を手に取る。これは……一見饅頭の様にも見えるが、体の色と特徴的な尻尾で合点がいった。恐らくリスだ。

 つまり、動物達の並びはこうなる

『イヌ 』『ネコ 』『ペンギン』

『ヘビ 』『スズメ』『ライオン』

『クジラ』『ネズミ』『サル  』

『リス 』

 整然と並んだその縫いぐるみの列は、なんだか異質に思えた。

 例えばこれが、祖父と祖母が共同で過ごす居間に飾られていたのなら何も感じなかっただろう。この家には誰かそういう趣味の人間がいるのだ。そう思うだけである。

 だが、この部屋で過ごしていたのは歴史好きの頑固な老人が一人だ。

 時代の魅力で満たされたこの部屋に、動物を模した縫いぐるみはあまりにも不似合いに思えた。

 不思議に思い、卓上を整理していた祖母を呼びつける。

 質問はシンプルに、縫いぐるみを指で示す。

「これなに?」

 尋ねると、それまで重たかった祖母の空気が和らぐのを感じた。

 口元で小さく笑みを浮かべる。

「ああ、これね。似合わないでしょ?」

 それについては大いに同感だが、頷く事はせずに次の言葉を待った。

「これはね、爺ちゃんに頼まれて婆ちゃんが作ったんだよ」

 目をむく程ではなかったが驚いた。あの祖父が、この可愛らしい縫いぐるみをわざわざ依頼して作ってもらったとは、にわかには信じがたい。

 俺の表情を見て察したのか、祖母はクスクスと笑いながらその時の話を聞かせてくれた。

 曰く、なかなか面白い出来事なのだそうだ。

 祖母が語る。

「あれは一年くらい前の事だった。お爺ちゃんはいつもみたいに部屋に籠って歴史の資料を眺めていたみたいだけど、夕飯の時間になっても部屋から出てこなかったの。

 その頃にはもう病院通いが続いていたから、まさかと思って心配になってこっそりと部屋を覗いてみたんだけど、お爺ちゃんはなんだか真剣な顔で机に向かっていてね。ああでもないこうでもないって独り言を言いながら、何か書き物をしているみたいだった。

 気になったんだけど特に大事は無いみたいだったから、出てくるまでしばらく待ってみようと思ってそっとしておいたの。

 そうしたらそのまま何十分も出て来なくてね、食事もすっかり冷めてしまった頃にようやく部屋から出てきたと思ったら、あの人、物凄く真剣な顔をして。

『大変かもしれないが、これの人形を作ってくれないか。縫いぐるみは得意だろ。材料なら揃える』って言って、紙を一枚よこして。最初は何を言われているのか判らなかった。

 何が書いてあるのかと思えば、あの人が縫いぐるみなんて……。それまで私の趣味にはほとんど興味をもっていなかったくせにね」

 クスクスと笑いながらそう語る祖母、しかし遠い目で、懐かしそうに、愛おしそうに語っていた。その瞳は少しだけ潤んでいるようにも見える。

 手渡されたその紙には、やはり幾匹かの動物が記されていたのだという。

 その時の紙がまだ残してあるのだと、祖母は居間へと向かっていった。

 それを待つ間、再び縫いぐるみに視線を向ける。

 リス、クジラ、鼠、猿、蛇、雀、ライオン、犬、猫、ペンギン。

 恐らく、祖母が渡されたという紙にも、同じ動物が書かれているのだろう。動物という括りで見れば違和感がないが、微妙に統一性が無い。

 犬、鼠、猿、蛇、雀を鳥と考えれば十二支と繋がって来るが、その他が全く無関係だ。なにか別の括りなのだろうか……。

 そんな事を考えていると、不意に横から母が現れる。

「それ、もしかしてお爺ちゃんの? 似合わないね」

 俺と全く同じ感想だが、実娘が容赦のない一言である。

「そうみたい」

「ふーん、動物の縫いぐるみ……しかも手作り?」

「婆ちゃんに頼んで作ってもらったらしい」

「うそ。お爺ちゃんが?」

 もっともな反応だ。やはり母でも驚きは隠せないらしい。

 そうしているうちに、祖母が戻って来た。

「これだよ、お爺ちゃんが私によこした紙は」

 どれどれ、と紙を受け取る。さすが夫婦、揃って几帳面である。折り目一つ付けずに保管されていたらしい。

 紙面を見る。

 横から母も覗き込む。

 当然、目の前にある十体の縫いぐるみと同様の動物が書き込まれているのだろうと思っていた、が、その内容は少しだけ違っていた。

 紙に記されているのは、龍、猫、犬、鳥、猿、鹿、牛、鼠、蛙、ペンギン。

 見比べてみると判る。

 龍、鹿、牛、蛙。

 この四体が縫いぐるみにはない。

 紙と縫いぐるみを見比べていると、母が横から口を挟む。

「あれ、縫いぐるみと違うよ」

 見れば判る事をいちいち口にするのが母らしい。

 聞き流しつつ考えに耽る。

 リストが先に作成されて、それから祖母が縫いぐるみを作ったのは間違いないようなので、それら四体が省かれ、追加されたのがクジラ、蛇、ライオン、リスという事になるわけだが、それらを見ても特に何も連想はされなかった。

 何か意味があるのだろうか?

 そう思って祖母に尋ねる。すると、またクスクスと笑いだした。

 言うに、ここからが面白い話なのだとか。

「あの人が縫いぐるみを作ってくれなんて、一体どういう風の吹き回しなのかと思ったよ。それまでは、私の趣味になんて目もくれずに、自分の趣味に没頭する人だったからね。

 私の趣味が人形を作る事だと覚えていた事に驚いたくらいだ。

 それでも、誰かに頼まれて作るのは初めてだったから、私もちょっと張り切っちゃってね。結構真剣に作り始めたのよ」

 遠い目をして祖母が語る。

 俺も母も、口を挟まずに祖母の話しに耳を澄ませた。

「最初に取り掛かったのは龍だった。

 とりあえず、その紙に書かれている順番で作ってみようと思ったんだけどね。

 龍なんて、私は見たこともないから、ぼんやりとしたイメージのまま作り始めたんだけど……私の作った龍は、どう見ても緑色の蛇にしか見えなくて、お爺ちゃんと二人で笑ったのよ。どう見ても龍には見えないってね。」

 言われて蛇……いや、龍の縫いぐるみに目を向ける。

 確かに、龍には見えない。どこからどう見ても、蜷局を巻いた緑色の蛇だ。

 祖母が続ける。

「そしたらあの人はひとしきり笑った後『ちょっと待っていろ』と言って、新しい動物をお願いしてきたの」

 ――それが、蛇とクジラとライオンとリスという訳だ。なるほど、完璧主義者だった祖父らしい出来事である。

「ちなみに、それは裏側に書いてあるよ」

 俺が手にする紙を指さして祖母が言う。

『それ』とは?

 不意に言われ、ピンとこないまま紙を裏返した。

 気が付かなかった。裏面に蛇、クジラ、ライオン、リスが追加された十体が書かれていた。

 祖父は新たな動物を裏面に書いたのだ。

 そしてこれを元に祖母が完成させた物が、目の前にあるこの十体という訳だ。

「最初失敗しちゃったから、残りはより慎重に作ったわ」

 確かに、蛇以外の縫いぐるみは割かし出来が良い、というよりは、個々の特徴をよく捉えている。

 大きな尻尾のシマリス。立派なたてがみのライオン。丸々として愛嬌のあるクジラ。どれもよくよく観察すればそれだと判る。

 これらの縫いぐるみが置かれた経緯は判明した。

 しかし、やはり理由が判らない。

 なぜ祖父は、こんな縫いぐるみを自室に飾ろうと思ったのか。

 祖母に尋ねてみても、それは判らない。と首を傾げるだけだった。

 この中では最も事情を把握している祖母が判らないと言うのだ。ここで話を切り上げて作業に戻るのが普段の俺だ。しかし、この時ばかりは、なぜだか妙に気になった。

 そこに並べられた縫いぐるみには祖父の意志を感じるような気がしたのだ。何か意図があってこの動物達はここに置かれている、そう思えて仕方がない。

 しかしそれが判らない。祖父が残した最後の思いなのかもしれないと考えれば考える程に歯痒さが増していく。

 屈託を抱えた気持ちが顔に現れていたのだろうか。

「あ、総志郎見てごらん。そういえば、さっき凄いのを見つけたんだよ」と、なだめる様な口調で母が言う。

 襖の奥を指さされ、言われるままに、渋々半身をすべり込ませて中を覗きこんだ。

 暗い。

 特に何も無いよ。と言いかけたところで探っていた手が何かに触れた。

 冷たくて硬い……鉄製の箱があった。影になっていてよく判らないが少し大きめの箱だ。それが隅に寄せて置いてある。暗闇に目が慣れてくればそれが小型の金庫だとすぐに判った。

 襖の奥から身を引き、とりあえず問う。

「なに、これ」

 母が答える。

「金庫でしょ」

 見れば判る。聞いているのはその中身だ。しかも問いかけている相手は祖母だ。

 改めて、次は指名した。

「中身はなに? 婆ちゃん」

「さあ、金庫なんてウチにあったかねぇ」

 祖母も認識していない金庫、という事は共同で使っていた物ではなく、祖父の私物だろう。

「へそくりかな」

 母が言う。

 視線を向けられた祖母は黙ったまま首を傾げた。

 もしそうだとしたら、やはり回収が必要だろうか。

 そう思い、とりあえず金庫を引きずり出そうと手をかける。

 しかし、やはりというか当然というか、無機質で冷たいその箱は予想以上に重く、膝をついた体制も相まって、引きずり出す事は不可能だった。

 確かに、簡単に動かせるようじゃ金庫の意味がない。やる前に気が付くべきだった。

「なにしてるの総志郎?」

 母が問う。

 見れば判るだろう。無理な事を無理だと確認したところだ。

 さて、と考える。

 動かすのが無理なら、金庫の位置はそのままに次は扉に手を掛ける。

 ノブを回すが案の定ロックが掛かっていた。

 当然だ、金庫の鍵を開け放しておくはずはない。もしかしたら扉を閉めるのと同時に施錠される仕組みなのかもしれない。むしろそちらの方が自然である。

 金庫を相手にバールでこじ開けるような真似は愚かというもの。そもそも俺にはそんな腕力は無い。

 残った手段は正当な方法での開錠という事になる。

 手元を見てみると電卓と同じ並びで数字のキーがあった。

 上から9~1までが3列並んでおり、0だけが一つ外れてエンターキーの横に配置されている。

 この数字の組み合わせでロックは解除されるようだ。

 問題は、その数字の組み合わせが如何なるものなのか。それが解らない以上、この金庫はただの堅牢な鉄の箱である。

 何かヒントはないだろうか。

 祖父もだいぶ高齢だったのだ、金庫の暗証番号をいちいち記憶に留めておくのは難しいはず。どこかにメモらしき物が残されている可能性は高い。

 金庫の周辺を見回していると、徐に横から手が伸びてきた。

 その手が番号キーを押す。

「爺ちゃんの誕生日じゃない?」

 そう言って、祖父の誕生日『1125』が母の手によって入力された。

 安易に押すのは止めた方が良いと思うが、これが正解なら有り難い。

 だが、金庫は『ピピッ』と短い電子音を鳴らしたきり音沙汰がなく、ロックが解除された感じはしない。

 ノブに手を掛けてみると、やはり扉は開かなかった。

「あれ、違ったか……」

 項垂れる母をよそに、俺は再び金庫の周辺を観察した。

 金庫の周辺には物が無い、少し離れて布団の束が積み重ねられているくらいだが、それが何かのヒントになるはずもない。もしかしたらと思い、布団の下に手を突っ込んでみるが特に何もなかった。

 次は金庫の上に目をむける。

 おや、と思った。

 最初は気が付かなかったが、紙の束がチラリと端を覗かせていた。

 手に取ってみるとそれは小さな冊子だった。ご丁寧にクリアファイルの中に保管されている。

 微妙に埃をかぶっていることが気になるが、とりあえず内容の確認だ。

 冒頭に太字で『当製品について』と印字されているので恐らく取扱い説明書、もしくは注意書きだろう。

 暗唱番号のヒントがあるとは思えないが、開錠するにあたって一通り目を通しておくべきだろう。

 冊子を開く。最初のページには目次が記されていた。

 当製品の使い方。

 当製品の特徴。

 注意点。

 使い方は大体判る。特徴については特に気にする箇所はないだろう。となると、読むべき項目は注意点だろうか。と、パラパラと冊子を捲っていると今度は祖母が声を上げた。

「もしかしたら、1600かしら」

 言われてしばらく考える、がピンとこない。仕方なく尋ねる。

「それ何の数字?」

「関ヶ原の戦いよ。お爺ちゃんが最後に友達と旅行に行ったのは、確か岐阜県だった。あの人近況に影響されやすかったから、もしかしたら……」

 なるほど。

 ならば。とすぐに試したい所だが、しかし、一つ気掛かりな事がある。二人はそれに気が付いているのだろうか。

 そう思っていた矢先だった。

 相変わらず、思考と行動が直結している母が迅速かつ余計な動きを見せる。

「1600ね……」

 止める間もなく、その手は躊躇なく番号を入力した。

 なす術もなく、ただ口をポカンと開け、息を吐くように「ああ」と漏らす事しか出来なかった。己の無力さを痛感する。

 番号を打ち終えた母がエンターキーを押すと、やはり開錠はされず、再び聞こえた電子音に母も祖母も短く息を漏らした。

 だから安易に押すのはよした方が良いのだ。

 こういう金庫の場合。暗証番号には恐らく入力できる回数制限がある。ダイヤル式ならばともかく、連続で間違えれば何が起こるのか判らない。

 俺は冊子の最後の項目『注意点』のページを二人に見せる様に開いた。

 探す必要もなく、それは注意点の第一に記されていた。

「設定された四桁の暗証番号を三回連続で間違えると、防犯の為二重ロックが起動します。二重ロックの解除には本人確認が必要となりますので、下記の番号へご連絡下さい」

 読み進めると、ページの下にサービスセンターの連絡先が記されていた。

 本人確認とはまた面倒な。

 深い溜息が漏れる。当の本人がすでに他界しているのだ。その場合はどうなるのか、途方もない手順が必要になる事は容易に想像できた。

 しかしそれは、面倒な手続きが多いというだけの事、不可能ではない。いざという時にはその面倒な手順を踏むことを視野に入れておかなければ……いや、すでに二回のチャンスを棒に振ったのだ、そうなる結末の方が今は色濃い。

 流石の母も、チャンスが残り一回という状況では軽率な行動はとれないらしい。腕を組んで金庫を睨みつけている。

 策を練るのなら、今が絶好の機会だ。

 目を閉じ、鼻で目一杯息を吸い、それを口から吐き出す。

 深い深呼吸だ。これをすると不思議と集中力が増す。テストの前や、ここぞという時には必ず行うようにしている所作である。

 ルーティンが終了すると一度その場を離れ、部屋の中央に立ち隅々に目を向けた。

 見落としが無いかの確認だ。心当たりは幾つかある。それらを繋ぎ合せれば、恐らく結論に辿り着ける。

 まずは金庫のキーを改める。電卓と同じ並びの9~1までの数字。その下に0が一つ。

 この形を覚えたまま、次は箪笥の方へ。目指すのはそう、あの縫いぐるみ達だ。

 ようやくこいつらの意味が判った。

 三列に並んだ三体の動物。そして手前にもう一体。どうだろう、正に金庫のキーと同じ並びだ。

 恐らく祖父は、この縫いぐるみの配置を組み替える事で金庫のロックナンバーをメモしていたのだろう。

 問題はその配置が意味する事だ。

 金庫のキーと当てはめると、0はリス、1はクジラ、2はネズミ、3はサル、4はヘビ、5はスズメ、6はライオン、7はイヌ、8はネコ、9はペンギン、という事になる。

 その事を二人にも説明すると、母も祖母も口を揃えて言った。

 曰く、祖父は犬が好きだったらしい。

 犬、という事は7か……しかし、数字は4桁を揃えなくてはならないのだ。

 他に、何かヒントは無いものか。注意して観察してみる。

 ふと、先ほどの祖母の話しが脳裏に浮かんだ。そういえばこの縫いぐるみは当初の予定とは違う動物の入れ替えが行われているのだった。

 確か、祖母が失敗した動物は『龍』。それが『蛇』に置きかえられている。いや、それだけじゃない。

 元々作られる予定だった動物は他に『牛』『鹿』『蛙』があったはずだ。しかし、それらも龍と同様に『リス』『クジラ』『ライオン』と変更されている。

 龍を失敗して蛇に置きかえたのは納得がいくが、その他を入れかえる事には何の意味があったのだろうか。

 恐らくその理由こそが、結論へと繋がっているのだろう。

 深く追求していく必要があるようだ。

 祖母から受け取った動物達のメモと、実際に置かれた動物達を何度も見比べる。

 手応えを感じる。もう少しで何かが掴めそうな気がするのだ。

 喉元に何かが引っかかる様なこの感覚が、自身の考えが間違いではないと告げている……。

 ああでもない、こうでもないと幾つも考えを巡らせている矢先だった。

 水面に小石をぽつんと投じる様に、閃きは突然やって来る。と同時に、事の単純さに微笑が漏れた。

 なんだ、そう言うことか。判ってしまえばなんて事は無い、深く追求するまでもなかったらしい。

 金庫を開錠するために必要な要素はたったの二つ。

 入れかえられた縫いぐるみ、と『しりとり』である。


「しりとり?」

 母が声を上げる。

 そう、言わずもがな、単語の頭と尻を繋ぎ合せていく遊びだ。

 祖父はこの縫いぐるみの中にしりとりで繋がる動物を混ぜた。その組み合わせと番号キーを重ね合わせて四桁の番号のメモとしたのだ。

 二人に説明をする前に、自分の頭の整理も兼ねて、もう一度だけ自分の中で事の経緯を思い返し、それから口を開く。

「まずは爺ちゃんが最初に依頼した動物のリストだ。あれにはここに置かれている動物とは違った物が記されていた」

 母が付け加える。

「龍と牛と鹿と蛙でしょ……あっ」

 どうやら母は気が付いたらしい。そう、その除外された動物はしりとりで繋がっている。

「爺ちゃんは最初、その動物達をしりとりで繋げて暗唱番号のメモに使おうとしていたんだよ。だけど、そこで一つの事件が起きた」

 言いながら、祖母に視線を送る。

 祖母も察したらしく、合点のいった様子で言葉を引き継いだ。

「私が、龍を失敗して蛇にしちゃったんだ」

 思わず笑みが零れる。

 そう、祖父はその蛇を龍だと言い張る事も出来た。しかし、そこは完璧主義の祖父らしい。改めて、蛇を組み込んだ新しいしりとりの組み合わせを考案したのだ。

 それが『蛇』と『リス』と『ライオン』と『クジラ』を入れた、今の動物の組み合わせだ。

「あれ? でも、その四体じゃどうやってもしりとりは成り立たないよ」

 珍しく母が鋭い切込みを入れる。

 実を言うとその通りなのだ。蛇とリスとライオンとクジラではしりとりは成り立たない。

 これには俺も随分と悩まされた。

 恐らく、それは祖父も同じ事だっただろう。最初の組み合わせ以外でしりとりが成り立つ動物を考えるのは難しい。ましてやそれを縫いぐるみにしてもらおうと言うのだ。

 イメージが沸き辛い動物や、形が複雑な動物では製作者である祖母に負担をかけてしまう。

 だから祖父は、苦肉の策に出たのだ。

 それは祖父の優しさでもあり、俺の知らない祖父の一面でもある。そこに辿り着けた事が、今はなんだか誇らしい。

 俺は動物の一体を手に掴んだ。

 件の龍……いや、蛇である。それを掌に乗せて二人に聞いた。

「蛇は英語で?」

 そう、スネークである。


 昔から重要な役目を任される事は苦手なのだが、母より、お爺ちゃんの思惑を紐解いたのは総志郎なのだから自分で番号を押しなさい。との有り難いお言葉を頂いた。

 キーを押す指先が微かに震える。

 当然だ、既に後が無い。どこかの誰かが安易に番号を入力してくれたおかげだ。

「大丈夫よ。間違いないから」

 祖母の言葉に後押しされて、思い切って最初のキーを押した。

 しりとりで始まると考えれば、リス、(スネーク)、クジラ、ライオン。ライオンが『ン』で終わる事も考えれば、この順番で間違いないはずだ。

 番号に置きかえると、それは0416となる。

 番号を押し終えた掌は、見なくても判るほどに、汗でじっとりと湿っていた。

 ピーと、ここまでには聞いていない電子音が鳴る。

 成功だ。

 肩の荷が下りる。力なく座り込むのと同時に、俺は掌を拭った。

 俺に変わり、母が扉を開く。懐中電灯で照らされたその先には、書類の束と数冊のファイル、それと本だろうか、ファイルとは違う分厚い図鑑の様な物が、それも数冊置かれていた。

 山積みとは言わないまでも現金の束が置かれている事を想像していた俺は、肩透かしをくらったような気がした。我ながら安易な発想である。

 母が中身を取り出して床に並べる。

 書類とファイルは、やはり歴史に関する物のようで、中には、いつの時代の物かも判らない、古い紙質の物もあった。

 金庫に保管するほどなので、恐らく貴重な代物なのだろう。触れるのも恐ろしく、母がすぐに金庫に戻した。

 残った分厚い本の一冊を手にする。

 それはどうやらアルバムのようだった。

 なぜアルバムを金庫に?

 そう思い開いてみて『なるほど』と思った。祖父はどこまでも予想を裏切る人物である。

 そこに綴じられていた写真はどれも、祖母と祖父が二人で写っている写真だった。

 楽しそうにピースをし、時には手を繋ぎ、また別の一枚では熊本城を背景に腕を組んだ二人が写っている。祖母と二人で撮影した写真だけを抜粋して保管していたようだ。

 もう一冊のファイルには、母が幼少の頃に撮影したであろう家族写真や、最近撮影したらしい母の写真、それらの片隅に俺が幼い頃に祖父と撮影した写真もあった。

 歯を剥き出しにして笑う俺を重そうに持ち上げている祖父は、どこかまだ若々しい。

 その他も全部、祖父が生きて来た思い出の写真ばかりだった。

 そうか、この金庫は……。

 特別な物、大切な物だけを保管した鉄の箱。

「お爺ちゃんの宝箱だったんだね」と母が言った。

 宝箱、確かにそうかもしれない。

 俺の見てきた祖父は、厳格で几帳面で実直な古い老人だった。しかし、それは片岡源一郎を祖父として見てきた俺の視点だ。

 実際の祖父は、きっと、少しだけ違っていたのだろう。

 沢山の仲間と夢中になれる物を共有し、大切な家族と時間を過ごし、特別な物をこれでもかと言うほどに抱えて人生を終えた。

 そんな祖父を『厳しい人だった』という言葉だけでは語れない。人の顔は一辺倒では計れないのだから。

 そんな当たり前の事を、俺はこの時、自分の胸に刻みつけた。


 翌日、葬儀後の諸々も落ち着いてきて、お役御免となった俺は自宅へと戻る事になった。

 まだ少し祖母の様子が気にかかるという母は、もうしばらく残ると言う。

「お父さんは仕事で忙しいと思うから、総志郎、洗濯と掃除お願いね」

「……へいへい」

 母の運転する車に乗せられ駅へと向かう道中、流れて行く景色をぼんやりと眺めていると、ふと、疑問に感じていた事を思い出した。祖母は同乗していない、祖父母宅で別れてきた。母なら解るだろうか。

 そう思い、口を開く。

「そういえばあの時、婆ちゃんはどうして『間違いない』と言えたのかな?」

「んっ、あの時って?」

「俺が金庫の番号を入力した時だよ」

 あの時、俺が少しだけ躊躇いを見せたら、祖母は「大丈夫、間違いないよ」と言い切った。今思えば、あの自信はどこから来ていたのか不思議でならない。

 しかし、そんな俺の葛藤をよそに、母はクスクスと笑いだす。

「人が真剣に考えているのに……」

「ごめんごめん、そっか、総志郎は知らないんだっけ?」

「何を?」

「あんたが解いた暗証番号は、爺ちゃんと婆ちゃんの結婚記念日だよ。四月十六日」

「ああ……」

 思わず声が漏れる、と同時に体の力が抜けていくのを感じた。

 あれ、でもそれって。

「爺ちゃんは、暗証番号を忘れない為に縫いぐるみのメモを使ったはずだよ。でも、記念日を暗唱番号にしていたなら、わざわざメモする必要はなかったんじゃない?」

 口を突いて出た疑問に、母は少しだけ顔を歪めた。

 そして、訥々と語り出す。

「……爺ちゃんは最後、本当に体が弱っていてね。婆ちゃんもお母さんも、いつかこうなるって覚悟を決めていたんだよ。

 でも、現実は残酷でね、半年くらい前に爺ちゃんは認知症の症状も出てきたの。最初のうちは、その日の日付を何度教えても尋ねてくるくらいだったけど、最後の方は酷くなって、ある時はお母さんの事も忘れそうになっていたのよ。ようやくお母さんだって判ると嬉しそうに笑ってね……その時には、もう病院で寝たきりだった」

 震える声が耳を突く。祖父は、俺の知らない所でずっと自分の体と闘っていたのだ。

 祖父が入院していると母から聞かされたのは去年の今くらいだったと思う。

 その時は「まあ、老体なのだからもう無理は出来ないのだろう」と、他人事のように呟いたのを覚えている。

 そして一年が経ち、ようやく逢いに行ってみようかと思った矢先に祖父は他界した。

 タイミングの問題だったとは思う。しかし、一度でも俺が逢いに行っていたのなら、少しは励みになっていたのだろうか……。

 そう思うと、胸が締め付けられるようだった。

 座席の背もたれに身を預け、青々とした空を仰ぐ。

 徐々に弱っていく体と記憶、祖父はきっと早いうちに死を予感していたのだろう。

 なら、あのメモの意味は少しだけ変わってくる。勿論、最初は鍵付きの宝箱を開けるために用意したのだろう。しかし、徐々に命と思い出が薄れていくのを恐れた祖父は、忘れたくない数字をメモしたのだ。

 自分の大切な記憶を、家族との思い出を、縫いぐるみや、金庫の中に残したのだ。自分の記憶を切り離す事で、死を受け入れようとしたのかも知れない。

 本当に、どこまで予想を裏切る人である。

 きっとまだ、俺の知らない祖父は沢山いたのだろう。

 しかし、それを知る事も、見る事ももう出来ない。

 仰いだ空には入道雲が流れていた。

 夏はまだ始まったばかりだ。

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