2. 糸をほどいてごらんいれましょうぞ
――ふしゅーっ、しゅっ、しゅーっ。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
だんだん意識が復活してくる。でも目は閉じておく。
だって、至近距離で奇妙な音がするし。これ、絶対に大型生物の鼻息っぽいし。たとえば、さっきのデブったドラゴンとか!
象サイズの異種族じゃあ、私の魔王設定は通用しな……てくれるかなぁ。仰向けに寝かされたまま、うっすら横目で窺う。
ふしゅ、ふしゅーっ。
どうやら鱗がボロボロの灰色竜は、こちらに背を向けて丸まっているみたい。息が不規則で、なんだか苦しそう。
満天のお星様が煌めく。しかも地上近くは青緑色のカーテン模様って……そっか、オーロラか! 向こうのは、彗星だよね。しゅーって尾を引いて……近いな。生で初めて見たよ。オーロラよりも明るい黄緑色だ。
数メートル先には背の高い針葉樹がうっそうと茂っているのに、私が寝かされた場所だけは草もほとんど生えていない。砂利石が散らばる固い土の感触が、極小の粒水晶みたいで気持ちいい。
でも。異世界なんだよねー。
心の中で盛大な溜め息をつく。今日はこれで何度目だろう。ネガティブ思考はよくないよ。それは解ってるんだけれども。けどさ。
――地球だったら、どこから空眺めたって、お月様が四つってことはないと思うわけ。
なんかおかしいよね、ここ。電灯が一つも無いのに周囲が明るい。オーロラや彗星に加えて、空全体を四方から照らすド派手な月光のせいだ。
ラベンダーのような薄紫の月に、
金糸雀みたいな黄色の月。
珊瑚のように赤い月に、
モルフォ蝶なみに青光りしている月。
何度数えても四つあるよ。……ははは。泣きたい。四つめでたく踊るぽんぽこりんだ。……私、ヤサグレていいですか。
あ、いや。現代科学が感知してないだけで、地球からも四つの衛星が見えた時代があるのかもしれない。うんと遠い過去とか、うんと遠い未来とか。……って結局、別の世界と同じことじゃん。
どこまで歩いたって、おじいちゃん家には戻れないよ。
人間って落ち込んで底の底まで到達してしまうと、もはや何も感じないのかな。悲しみも絶望も怒りも湧いてこない。私、もうどうでもいいや。
このまま竜の餌になっちゃうのかな。せめてひと思いに仕留めてくれないかな。
≪あの……≫
「わぁ!?」
私が叫んだせいで、ホコリまみれの巨体がビクッとたじろぐ。連鎖反応で私もビクついて、お互い距離を取りながら対峙することになってしまった。
≪こ、この子、あの、もしできたら、た、助けて……あげて……≫
巨大なイリエワニみたいな灰かぶりの鼻先が、そっと指し示したのは小さな……落ち葉色した……これまた薄汚れた毛糸玉?
四つん這いのまま、じりじりと近づく。さっきの大波ジェットコースターのせいで、身体のあちこちが痛みを訴えているのだ。
何かが分厚い糸でぐるぐる巻きにされちゃっている。多分だけど人間が不法投棄したんだわ。海亀に絡みついた漁網みたく、撚って結び合わせた人工の糸だもの。
楕円形の塊からちょこんと覗いてるのは、赤褐色の毛と細長い足裏。鼠系かな。ベビーピンクの肉球を軽く突いてみても反応がない。
「えっと……リュックから物を取り出します。助けるためだからね? 噛みつかないでね?」
傍らでうずくまったまま、じっと見守る竜に自分の行動を事前通知。ダチョウの卵みたいな糸の塊を腕の中に抱えると、竜と目をそらさずゆっくりと移動して、さっき私が寝かされていた場所にちょんと置いてあった藍色リュックから道具を出した。
ついでに魔グマ将軍のミーシュカも出す。心の中で、竜の牽制役に任命。
縫いぐるみじゃないか、という批判は受けつけない。これは極限状態における気持ちの問題なのだ。
ぐしゃぐしゃになった自分の髪の三つ編みもほどいた。時間がないので深緑の太ゴムを使って、後ろで一括りにする。
謎の毛玉生命体に暴れられた時の対策としては、まず全体をタオルで包んだ。真ん中っぽい所から、スイスナイフの尖端で糸を解しては引っ張りだし、千鳥さん型の携帯鋏で切断していく。
傷つけないよう、慎重に、慎重に。
~~なんだけど! 熱心に観察しつづけるボロ雑巾竜が気になって集中できない。人間のように上から瞼が降りてくる。でもトカゲの仲間なのかな、下からも別の瞼が上ってくるんだよね。そのまま真ん中辺りで瞼同士を完全に閉じてくれたらいいのに、むにょーんと半開きの目を凝らしてくる。
手元の糸は、ワイヤーみたいに固いし。おまけに迷彩色。森に同化しそうな茶色や深緑色が混ざって、一本一本が区別しにくい。絶対に人工だ、人間め。
あぁもう、心頭滅却! こういう時は歌でイライラを鎮めよう。
「(糸を巻いて、糸を解いて
引ぃぃ張って、引ぃぃ張って、ぽんぽっこぽんっ)」
幼稚園時代に教えてもらったフランス語の童謡。2番は、ほぼ同じ内容を英語版で。おじいちゃんと何度も歌ったっけ。
煌々と照らす四色の月明りの下、小声でぶつぶつ唱えながら作業に没頭する。少しずつ赤い毛皮が見える範囲が増えてきた。
これってお腹の辺りじゃないかな。触っても動かないけど、まだ温かい。このまま糸を地道に切っていくのは時間がかかりすぎる。
「(糸を巻いて、糸を解いて
引ぃぃ張って、引ぃぃ張って、ぽんぽっこぽんっ!)」
穴がそれなりに開いてきたところで、一気に中から引っ張りだすことにした。すかさず生成りのガーゼタオルの上に横たえる。
赤い月のせいか、ホントにすごく赤い毛色の栗鼠だ。立派なふさふさ尻尾は身体よりも長太い。
……生きてる、よね?
「うわっ!!」
急に栗鼠が跳び上がった。びっくりして声を上げたら、すぐ横の巨体も再びビクッと動く。そいで竜と私とで目があって、さらに二人してビクッとなって――あ゛、栗鼠が振り返りもせずに逃げてく。
≪えっと、その。あ、ありがとう≫
「ど、どういたしまして?」
竜が代わりにお礼を言ってきたよ。困惑していたら、向こうからも困り果てたような気配が伝わってきた。
≪さ、さっきから……な、なんて言ってるの?≫
「…………へ?」
森の中はしーんと静まったまま、冷気だけがゆらゆら降りてくる。動物の遠吠え一つしない。風すら止まってしまった気がする。
これまで私、どこで竜の声を聴いていたんだ?
音を発せずして、脳裏に響き渡る言葉。……テレパシー?
SFなんかじゃ高等エイリアンの通信手段だ。古代地球人もかつては駆使していたという説がある。現代でも軍隊が真面目に研究しているらしい。つまり人間にだって元から備わっている能力であり、訓練次第でちゃんと花開く。
ミーシュカ相手に何度も練習したじゃないか。おじいちゃんもトランプの当てっこで鍛えてくれた。相手の持つカードが赤色か黒色か、奇数か偶数かなら、かなりの高確実で判るようになったじゃない。
頭の真ん中の松果体で念じるんだよ。伝えたい内容をはっきりとイメージして、気持ちをこめて。でも力まずに、相手にぽーんと送る感じで。
≪あなたは誰?≫
つ、伝わったかな。ボロ雑巾みたいな竜を見上げると、まだ困り果てている。
≪あなたは、私を、食べ、ますか?≫
≪た、た、食べないです!≫
『誰』という疑問詞ではなく、『はい』か『いいえ』で答えられる質問文を投げかけてみたら、大慌てで否定してきた。
≪でも歯も爪もご立派だし、あなたは肉食獣ですよね?
私、無駄に逃げたりしないので! せめて一撃で仕留めて、気絶したまま、うちの熊と一緒に死なせてください≫
リュックの横でずっと睨みをきかせてくれていた、黒珈琲色のミーシュカを持ち上げる。
≪むりですっ! ボク、人間、し、仕留めるの嫌いです。熊も、苦手、です≫
えーと、竜だよね、きみ。もしもし?
≪でも、さっきの人たちの仲間なんでしょう? あの人たち、人間の子どもを多分、殺してた≫
≪あ……はい。あの人たちはします≫
ボロボロの灰色竜が悲しそうに項垂れていた。……ような気がする。現実に背骨が前屈したというよりは、テレパシー的になんだかそんな感情が伝わってきたのだ。
≪だけど、ボクはそういうの、嫌なんです。ダメなんです≫
頭の中で泣きそうな声が響く。
≪だとしたら、なぜあの人たちの仲間なの?≫
竜はしばらくの間、黙りこくっていた。それまで少しだけ上がっていた尻尾が、へにょんと地面に下ろされる。
≪あの人たち、ボクをこの山に閉じ込めてるの。だから逃げられない≫
なんですと!?
※糸巻の歌『Enroulez le fil』は筆者訳で。英語版は『Wind the bobbin up』です。




