11. 猫と会話していました
≪も……いちど……それ……≫
絞り出すような女性の声が微かに脳裏に響き、びっくりした私は、横でうずくまっているフィオに目をやる。緑竜は≪ボクじゃない≫と首を振った。
≪すず……もっと……≫
≪芽芽ちゃん、ひょっとして話しているの、あの猫じゃないかな。たぶん、なのだけど≫
爪先立ちしたフィオが黒い猫を眺めまわしつつ、遠慮がちに呟いた。
≪あれってお化け? それとも、まだ生きてるの?≫
私の視力では、猫というより黒い毛玉なのだ。不思議と死臭は漂ってこないものの、遺体のすぐ傍で延々話すのは躊躇われて、これまで若干距離を保ってたし。
≪多分、生きて、る? でも、動かない、よね≫
フィオも自信なさそう。とりあえず音叉を、もう一度鳴らしてみる。
≪芽芽ちゃん! 色が変わった!≫
フィオが興奮してミーシュカをしゃかしゃか鳴らすのだが、私には何が変化したのかよく判らない。
荷物は元の位置に置いたまま、直立不動な猫の横手まで移動して、目の前で手を左右に振った。髭はピンと張ったままだし、耳は片方だけ折れたまま固定されているし、まばたきすらしないぞ。
至近距離で、さらに音を鳴らしていく。
≪あ、ほんとだ。灰色になってきた!≫
全身真っ黒だった猫の毛の色が、灰色になっていく。おおう、イリュージョン!
≪これで十分よ≫
艶のある女性の声がまた響いた。え、濃い灰色から薄い灰色になったところだよ? 白くしなくていいの?
≪元々この色なの≫
猫さんてば、なかなか色っぽいメゾソプラノ音域。
≪で、貴方たちはそこの袋が欲しいのかしら?≫
≪はい。勝手は重々承知しておりますが、譲ってくださると非常に助かります≫
≪ひとつ確かめたいのだけど。貴女は魔道士よね?≫
まどうし。えーと、魔法使いってことだよね?
≪いえ、違います。魔法のない世界から昨日参りましたので、こちらの世界では無職に加えて無学歴無戸籍です≫
なんだか悪いことして先生に呼び出された気分だ。遺品狙いの身としては、猫がどれだけ唯我独尊で上から目線だろうが、大人しく答えるしかない。
≪あら、今わたしを浄化したじゃない。魔術でしょ≫
まじゅつ。魔法とは違うのかな?
≪えーと。これは浄化の道具なので、もし効果があるなら誰が鳴らしても一緒かと≫
ちっとも信じてなさそうな声音の念話で≪あら、そうなの≫と流しつつ、猫が私の周囲をぐるりと歩いて回る。気分は放課後の職員室、じゃなくて容疑者取り調べ室かもしれない。
猫の耳は灰色になっても、片方だけ付け根からへにょんと折れ曲がったまま。妙に気になって視線が追ってしまう。
≪あ、でも芽芽ちゃん、火の魔法使えます! あと、水の玉も出せます! 芽芽ちゃんスゴいですっ≫
ありがとう、フィオ。でも、ちょっと黙っていよっか。私はこの猫さんにあんまり警戒されたくないのだよ。昨夜の団栗の火がどういうカラクリなのかもはっきりしないしね。
名前を連呼するのもよしなさい。音的には猫に通じてないだろうが、精神衛生上悪いわ。
≪あと芽芽ちゃん、念話も完璧です! この山の魔法使いみたく、片言じゃありません!≫
だーかーら。フィオ、黙ろうか。……って、うん?
猫は≪さっきから話してるのだから、そんなの解ってるわよ≫と無碍なくあしらったが、私は引っかかったぞ。
≪え? フィオ、悪い魔法使いって片言なの?≫
≪え? だって、昨日もそうだったでしょ? 単語、ちょっとしか話せないの≫
そうだったっけ? 生贄儀式のオカルト現場は豚と思い出したくなかったから、すでに記憶の彼方へ投げ飛ばしてたわ。
えーと、昨夜の状況を紐解こう。
≪あー、そういえば……すんごい大音量で単語だけ叫んでたよね? あれってワザとじゃないの?≫
≪あの人たち、いつもああいう話し方≫
≪うわぁ、超メーワク≫
≪うん。ボクの話も片言しか通じてない。ちゃんとした文章で話すと全然通じないから、単語を思いっきりどーんとぶつけないといけないの、すごくしんどい≫
それは御愁傷様。私は労おうと、緑の肩を軽くぽんぽんした。
そういや『渡り人を食べる』ってのも向こうの勘違い暴走族だったっけ、と確かめると、しゅんと項垂れたフィオが小さい声で≪そう。ボク、人間なんて食べない≫と愚痴る。
よしよしよし。お姉さんは怒ってないから、元気出しんしゃい。
≪ってことみたいだけど、ねぇどうする?≫
私たちのやりとりと黙って眺めていた灰色猫が、いきなり誰かに話を振る。目線的にもしかして横の老人? 脈なんて触らなくても確実に死んでる顔色だよ、これ。
≪まぁ、虚言を弄しているようではないな。この結界はそこいらの魔道士では破れぬシロモノじゃし、異世界人であれば所持品や服装の奇抜さも説明がつく。
にしても竜を捕獲して開戦なぞ、あやつら更に悪事を重ねて月へ旅立つつもりか≫
ねぇ、だから話してるのは誰よ! 野太いしわがれ声が脳裏に響くのに、死体は微動だにしない。
≪ワシはこっちじゃ≫
突然、フィオがポトリと熊のぬいぐるみを落とした。なんか泣きそうな雰囲気が伝わってくる。緑のはぐれ小竜は、とっても怖がりなのだ。
≪もももしかして、この中、とかじゃないですよね?!≫
慌てた私は、地面に転がった黒珈琲色のぬいぐるみ熊を指さした。あくまで確認のためだ、確認の。
≪当たり、じゃ。そなたは筋がいいな。魔道士になれるぞ≫
≪いぃぃ~~~やぁぁ~~~っ!!!≫
なぜに老人がテディベア化するのじゃ。出てけ、私のミーシュカから出ていかんかいっ。ラブリー極まれり、我が愛しの熊殿を両手で掴み、がしがしと降る。
≪お、落ちつけい! 不可抗力じゃ! あの身体はもう動かぬ≫
≪だからって、ひとんちの熊に緊急避難するなぁぁぁっ≫
≪うむ。丁度よい入れ物があって助かったぞ、ここは何やら気が充満しておる≫
≪そりゃそーだよっ! 私が毎日可愛がってるんだからっ≫
向こうの世界で人間の友達なんていなかったけど、それでもやってこれたのはミーシュカという親友熊がいたからなんだよ。どこに行くときもバッグに忍ばせて、辛いときにはぎゅっと抱きしめて。
~~~見知らぬ老人を日々ハグする趣味はねぇっ!
≪ミーシュカから出てって!≫
≪故に取引じゃ≫
はいぃ? 私が熊を目の高さまで持ち上げてギロリと睨みつけても、老人は飄々と自分勝手に話を進めていく。
≪お前さんは、ワシの荷物が欲しいのだろう。遠慮なく持っていけ。おお、ついでにワシが身に着けている装飾品も全部取って構わぬぞ。
あとは、そーだな、なんだ。火か使えるのならワシを焼け≫
≪ミーシュカを焼けるかーっ≫
あ、どうしよう。殺意が湧いてきた。誰か熊を殺さず、中の老人だけ火炙りの刑に処す方法を伝授しておくれ。




