プロローグ(地球)
『芽芽! もし今日いっぱいで死ぬとしたら、たっぷり遊んで、にっかり笑って、がっぽり元取らにゃな! これぞメメント・モリよ!』
懐かしいな。朝起きる瞬間、おじいちゃんの陽気な声が脳裏に響いた。こういう言い方をするのは、大概がロクでもないことを思いついたときだった。
なんせド変人の中のド変態。
心霊スポットに突撃して体調崩してお隣の神主さんに這って泣きついたり、尿を飲むのが健康法だと聞いて近所の女子大生にお願いして回し蹴りされたり、深夜の裏山でUFOと交信しようと踊って遭難しかけたり。巻き込まれては、散々な目に遭ったものである。
『えー……ぼんやりまったりしたい』
と私が引き気味に返したら、『てええいっ、もっさり蝸牛め! 熊饅頭にしてくれるわ!』と布団やミーシュカごと、ぐるぐる巻きにハグされるのが朝の定番だった。
今では一人ぼっち。無表情のまま食べる朝ご飯は味がしない。
「みか、じゃなかった。そこの、取って」
今日初めて耳にした肉声は、こっち。
食卓で立ち上がりかけだったけどさ。掴んでいた空っぽのお皿を置き直し、向こうのブランド物の革製キーケースめがけて小走り。
私は『めぐみ』だ。『みか』じゃない。
まぁ、うん、親だってお腹を痛めて産んだ子の名前を言い間違えることもあるよね、頻繁すぎるけどね。でもだったら、せめて謝りませんかね?
いつも明るく『めめ』って呼んでくれた猪突暴走おじいちゃんは、もういない。
芽って漢字を二つ並べるんだよ。愛称だから、愛情こめる気なければ、これまで通り、使ってくれないままで……全然、平気の河童巻きだもん。
今、地味に痛いのは、右足の小指をリビングのドア枠にぶつけたせいだ。
忙しい忙しい、と愚痴りながら出勤する女の人の後ろ姿を無言で見送る。『いってらっしゃい』と言ってあげてもいいのだけど、どうせ返事はないから省エネで。
普段ならば、ここにいる三人は別々のタイミングで台所をうろつき、買い置きした総菜だのビタミン剤だのを各々で漁り、勝手に家を出て行く。
それを学期がもう終わったからと、まとめて同じものを用意してみた。パンはバターを塗ってからトーストしたし、卵はフライパンで調理した。一応の義理は果たしたと思う。
母のお皿を持ち直した私は、横の空いたお皿も引き寄せる。じゃがいも焼きに山盛りかけたケチャップの残りと、隠元豆のトマト煮の汁に親指が汚れそうになって、「おとと」と声を上げてしまった。
「…………」
皿の持ち主である男の人は、無言で目の前のスマホ画面を睨んだまま。こちらも間もなく出勤する。つけっ放しのテレビからアナウンサーが時刻を告げると、ガタリ、と椅子から立ち上がった。
自分の朝食の片づけをしてくれるなら『ありがとう』だし、誰かが慌てていたら『大丈夫?』だよね。と父に説いても無駄なのは何度も証明済み。私も無言でお皿を食洗器に入れた。
ちなみに今日の私は、空港に行って、国際線の飛行機に乗る。一日かけて日本のおじいちゃん家に帰るのだから、流石に一言くらいあるかなと身構えていた私が馬鹿だった。
高校を卒業したばっかりの未成年だぞ。一人娘だぞ。『気をつけて』くらい言ってほしかったな――なんて期待はもうしないけどさ。
「…………てええい、熊饅頭でいっ」
両親が消え、しーんとした家の中でテディベアを抱きしめる。ホントにこんなの、平気の河童巻きだもん。
だって私の周りは、天の川銀河のダイヤモンド結界が守ってくれている。その正体は、河原で拾っただけの、四粒だけの、ほんの小さな握り石だけど。
ちゃんと日光浴させてるからね。人間の肉眼で見えなくたって、この子たちなりにキラキラ光っているはずだ。
おじいちゃんに教えてもらった、星のエアー座布団。「ないしょの魔法だよ」って笑いかけてくれた本人は、一年前に死んじゃったけど。
それでもまだ、唯一無二の親友だっているじゃないか。
陸上最強の肉食獣、ホッキョクグマのテディベアを誕プレにリクエストして、『ミーシュカ』って北国風の名前まで用意していたのに、大雑把なおじいちゃんが勝手に連れてきた謎の熊系モッフモフ体だ。
目の周りだけ狸みたいにカラメル色で、鼻口部は薄クリーム色なのは、たぶんクマ科最弱のマレーグマ。胸元の白く細い三日月模様は、マレーグマというよりツキノワグマ。黒珈琲色の長毛に覆われた耳と、長く湾曲した爪はどう見てもナマケグマ。全体的に南国出身っぽいくせに、足裏の肉球周りまで毛で覆われるというホッキョクグマの特徴も併せ持つ。
『この子…………何グマ? ちなみに、謎グマだとか、語呂狙いの適当返しは受け付けないから』
『うぐっ…………そ、そやつは、魔王軍最強の魔グマ大佐なのだ! 魔力を込め続ければ、いつかは噴火するかもしれん!』
後期高齢者が厨二病返しとは、いかがなものか。しかも熊でマグマの駄洒落とは、安直すぎる。最終的に、熊ごと毛布で丸め込まれて、ほら見ろモフリ心地は最強だと説得されたから引き取ったけど。
私の誕生日をスルーしたうちの両親は、熊饅頭ごっこも知らないんだろうな。
おじいちゃんの肉体が寿命を迎えた後も、いつもの毎日が続く。
学校から帰っても誰もいない無機質な家。
冷えたご飯の置かれた味気ない食卓。
こわい夢から覚めても闇に沈んだままのベッド。
それでも、魔王熊のミーシュカは必ず傍にいてくれた。
だから話しかける。噴火ならぬ返事はまだないけど、そこは気にしちゃダメだ。
きっといつか喋るんじゃないかと待ちつづけている。人間と同じ哺乳類なんだし、鉱物に属する守り石たちより難易度は低いよ、きっと。
いつもどおり二人っきり。本当はちょっと淋しいけど、仕方がないのだ。
元気の気。癒しの心。寄り添う愛。この世という着ぐるみには、科学では掴みきれないものが詰まっている。でも『普通』っていう外側の、綻びに気づいてしまったら最後なんだって、変人おじいちゃんが言ってた。
『普通』に弾かれないよう、熊のぬいぐるみを抱えて丸まっているのが私。明日も明後日も明々後日も変わらない。
四つのお星様の結界越しに、無慈悲な『普通』がやって来ては過ぎ去っていく。――はずだった。
※芽芽が理解しているのは、マグマ=火山噴火。某「マ〇マ大佐」なるロボットは知りません。祖父とのジェネレーションギャップです。
そして祖父は、駄洒落の重ね掛けだったのだぞ、とご満悦。大佐が人類の敵だったか味方だったか、記憶違いしていることに気付いていません。
そういうところが似た者同士。




