#008「リラクセーション」
アラン「青森檜葉は、木曾檜、秋田杉と並ぶ日本三大美林の一つ。節の無い部分を使って仕上げた木肌は、非常に美しい」
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コユキ「このお店は、淀川さんのお父さんのお店だったんですね」
ケイゴ「そうだよ、バイトくん。俺が高校生くらいまでは、親子三人で店に立ってたんだ。もう、五年以上前の話だけど」
コユキ「あれ? 栗子さんは?」
ケイゴ「ここでマドンナさんが働くようになったのは、マスターの両親が引退してからだ。それまでは、時々遊びに来る幼馴染でしかなかった」
コユキ「へぇ。栗子さんは、淀川さんの幼馴染なんですね」
ケイゴ「母親同士の仲が良いんだとさ。これ以上詳しいことは、マドンナさんに訊いてくれ」
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リツコ「亜嵐さんが生まれたとき、亜嵐さんのお父さんは本厄近かったのよ。だから、とっくに七十を超えてるわね」
コユキ「跡取り息子として、大事に育てられたんですね」
リツコ「お祖父さんを戦争で亡くしてから、戦後の高度成長期を、お祖母さんと二人で苦労しながら切り抜けてきたそうで、息子には辛酸を嘗めさせたくないという気持ちが強かったみたい」
コユキ「ひと回り年下の女性と結婚して、子供に恵まれて、郊外の一軒家で楽隠居。人生の後半から、大逆転ですね」
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アラン「元は、喫茶店ではなかったんだ。戦後に祖母と父が改装するまでは、西欧の田園地帯に建ってるようなサロンを模した建物でね。曾祖父が、英国人建築家に依頼して造らせたものだったんだ」
コユキ「あぁ、それで広いお庭があるんですね」
アラン「よくもまぁ、上流階級や貴族趣味への憧れを形にしたものだよ。過去の話だから、自慢に思わないで聴いて欲しいんだが、曾祖父は明治に生まれた士族の家柄を誇る人間でね。造船業で莫大な富を築いた豪傑だったんだ」
コユキ「いわゆる船成金ですね?」
アラン「そうそう。その典型だね。戦前は大地主で、ここから駅前まで、自分の私有地だけで歩いて行けたそうだ。山形の蔵王や神戸の六甲山には、別荘もあったらしい」
コユキ「桁違いに凄い人ですね。理解の範疇を超えてます」
アラン「しかし、美田を残したのが良くなかったようだ。家督を継いだ大正生まれの祖父は、病弱で生活力のない坊ちゃんでね。風流人で道楽者で、ことごとく身上を潰してしまったんだ」
コユキ「困った放蕩息子ですね」
アラン「まったくね。ただ、屋根に明り取りの出窓があったり、内風呂が完備されてたりするのも、祖父の発案によるものだから、そこは高評価してる」
コユキ「浴室だけ純和風なのは、後付けだからなんですね」
アラン「そう。青森檜葉を贅沢に使った浴槽なんて、よく考え付いたものだと思うよ。一種の遊び心だな。――もう、沸いたんじゃないかな?」
コユキ「そうですね。それでは、お先にお湯をいただきますね。いつも、すみません」
アラン「気にすること無いよ。オジサンのあとに入るのは嫌だろう?」
コユキ「そんなことありませんよ。淀川さんは、レディー・ファーストなんですね」
アラン「そういうのではないさ。ただ入浴中に、まだ上がらないのかと急かされたくないだけだよ」
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アラン「バンはフランス語で風呂、ビバはイタリア語で万歳。語学も、時に意外な場面で役に立つものだ。――おや?」
――アラン、天井の一点を見つめる。
アラン「この前、宮部くんの部屋にいたのは君かね? どこから入ってきたんだい?」