#006「取るに足りない口喧嘩」
アラン「ホールの隅には、ロード・コーンのようなメガホンの前でニッパーがお座りしているマークが付いた、由緒ある蓄音機が鎮座しており、営業中の店内では、いつもレコードを流している。いま流しているのは、二十代で夭逝したヴァイオリニスト、貴志康一が作った曲で、その華々しい東洋的な旋律が、龍の踊る姿を表現しているとされている、非常に優美な曲だ」
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モブ壱「俺から言わせれば、女が可憐で、か弱い存在で、取り扱い注意だというのは、幻想にすぎない」
モブ弐「そうかしら? 殿方の腕力には敵いませんわ」
アラン(仮に今、彼が彼女のブランド物のハンド・バッグを掴んで逃げたとしても、死に物狂いで追い掛けないと言い切れるのだろうか?)
モブ壱「土壇場になれば、男も女もねぇよ。それでも、丁寧に扱われる女と違って、男はぞんざいに扱われても良いと思われてる」
モブ弐「あら、そうかしら。綺麗な言葉遣いや柔らかな物腰を求められるこちらと違って、殿方は汚い言葉遣いや乱雑な態度でも許容されやすいじゃありませんこと?」
アラン(それで喜ぶのは、ジゴレットくらいだろう。ジゴロが言う甜言蜜語と同じだ)
モブ壱「それを男らしいと思う人間は、とんだ勘違いだけで、大半は顰蹙を買って仕舞いだ。履き違えるな」
モブ弐「間違った思い込みをなさってるのは、殿方のほうですわ。無条件に家事、出産、育児、介護要員として期待される、こちらの身にもなってごらんなさい」
アラン(出産は、ともかく。あとは役割分担次第だろうに)
モブ壱「ヘンッ。調理師や栄養士、保育士や介護福祉士なんかの資格で能力を証明しなければ、男を主夫として認めないくせに」
モブ弐「それは当たり前でしょう? 自己申告だけでは、いくらでも言えますもの。それこそ、大坂にお城が建ちますわ」
アラン(大半の保護者は保育士資格や教員免許を持たず、大半の子供は介護福祉士資格を持たないが、育児や教育や介護をしない訳ではない。どうやら、家族と第三者を混同しているようだ)
モブ壱「そうやって社会的な自立や責任を強制され続けた男の末路が、どれほど悲惨なものか。自殺者や路上生活者には、圧倒的に男が多いんだぞ?」
モブ弐「だから何だと言うんですの?」
アラン(社会にとって必要とされていない人間だということを客観的に評価されたくないがゆえに、就学や就職を忌避する人間たちを指しているのだろうか?)
モブ壱「男は他人から手助けされるのを嫌がるという思い込みが、どこにも弱音を吐き出せないまま溜め込ませて、憂鬱に追い込むんだって話だ」
モブ弐「何のそれしき。尾篭な話を持ち出すようですけど、こちらの月々の苦痛に比べれば、物の数でないわ」
アラン(他に客が居ないので制止しないが、はたして、蓄音機の音色を掻き消すほどの大声で怒鳴る必要があるのだろうか?)
モブ壱「やっぱり、お前とは分かり合えない。これっきりにしよう」
モブ弐「元々、無理があると思ってましたわ。お好きになさいまし」
アラン(ひと夏の恋が終わったようだな。一時的に燃え上がっても、いずれは冷める。火力が強いほど、熱が一気に逃げる。焦らず、じっくり、コトコトと煮込むのが、円熟した良い風味を生むコツだ)
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アラン「レコードの手入れは面倒臭いものだ。埃を逆目にならないように拭ったり、回転数を間違えないようにしたり、数多くの手間隙が掛かる」
――アラン、レコードに針を落とす。
アラン「しかし、それを上回る乙な味わいを知っているものにとっては、論ずるに値しない程度の、微々たる苦労なのである」