第一話 =終わり始まり=
「――――――と、今日の授業はここまでだ」
日本魔術学院、午後4時30分。
4講義目終了の合図と共に、「魔術思想学」の講義は講師のその一言で終わりを告げた。
「今日は水瀬優次郎について考察してみたが、今聞いた通り、コイツにはまだまだ不明な点が多い。これほどまでの知識、能力を持っていたにも関わらず、この様な道を選んでしまったのは何故なのか、お前たち自身で考えてみるのも良いだろう。
一人の魔術師の生き様を見て、今後自分がどう言った道を進みたいのか見直してみる事は、学生にのみ与えられた特権だし、この授業の意義でもある。
最も、水瀬優次郎の様な道を進もうとする者なら、俺たちとしても全力で阻止する所存だがな……じゃあ、また来週」
そう言って、講師の男性は退出していった。
ノートを取っている生徒はそのまま作業を続け、終わっているものは教材などをしまって帰路に着く。よくある、日本魔術学院の風景だ。日常と言っても差支えない、変わらぬ情景がそこにはある。イレギュラーを挙げるとすれば、普段この授業は数人の著名な魔術師を取り上げ、その言葉や生き方を見つめているのに対し、今回は水瀬優次郎という人物だけで90分を終えた、という事だろうか。
先に男性講師が言っていた通り、水瀬優次郎は謎だらけの存在だ。
彼が殺人を行ったという事は、疑い様のない事実である。実際、水瀬優次郎が人々に伝えた殺人対象と場所、時刻まで全て一致している。一時期は、ただ真犯人が自身のフェイクとして雇った人物だとも言われていたが、彼を拘束ないし殺害しようとした者は、全て返り討ちにあっている。
水瀬優次郎に傷一つ与える事も叶わずに、だ。
いくら人間離れした魔術師であったとしても、著名な魔術師を束で相手取って無事でいられる筈はない。それが事実、現実、当然―――――。
だが水瀬優次郎は、新たな事実たちを重ねる事で、それまでの思想を塗りつぶしたのだ。
そんな力を、彼はどの様に会得したのか。
何故、それほどの才能を持っていながら、「表の世界」で「天才」と持て囃される事が無かったのか。
何故――――――「表の世界」に背を向ける事を選んだのか。
全員の板書が終わり、1人の女生徒が丁寧に黒板を消していく様を見つめながら、日本魔術学院1年生、月城雪菜は考える。それがいかに無駄な事であるかを知った上で。
将来は『違法魔術師取締委員会』に属したいと考えている彼女も、所詮はまだまだ「表の世界」しか知らない人間なのだ。「狂人の世界」など知る筈もないし、ましてや狂人の思想、思考を教えてくれる様な狂人も知らない。
「どんな人……なんだろう、水瀬優次郎さんって」
独り言が、小さく教室内に零れた。
理由は分からない。彼の様になりたい等と言う思想も毛頭ない。むしろ彼の様な存在を真っ向から否定する組織を目指しているのだ。
世に蔓延る狂人たちを拘束、極めては抹殺する事が、違法魔術師取締委員会なのだから。
だが。だからこそ――――――
「もう、救えないのかな……」
彼女は彼を、水瀬優次郎を救いたいと心から願ってしまっているのだ。
雪菜が取締委員会を目指す最大の理由。それは狂人たちを「拘束するため」でも「殺害するため」でも無い。その極限は、「救済するため」である。
彼らがそうなってしまったのには、必ず何らかの理由がある筈だ。
もし、自分が力になれるのであれば、彼らの心を癒したい。
愛に飢えているというのならば抱きしめてあげたい。
感情の捌け口が無いのならば、自分が彼らの捌け口になってあげたい。
「狂人」とは「狂った人」と書く。狂ってしまった者の感情は分からなくとも、人としての感情ならば、同じく人である自分にもわかる。
ならば、狂っているからと言う固定概念に捉われず、彼らの奥底にある人の心と会話が出来れば、救う事だって出来るかもしれない。
それが、17年間で雪菜が抱いた持論である。葬るのではなく、救う事で世の中から狂人がいなくなってくれれば、これ程うれしい世界は無い。
この先の人生で、彼女はまだまだ変化を繰り返すだろう。だが、きっとこれだけは変わらないし、変えない。例えどれだけ遠い目標だとしても。
「ねぇ」
そこで、雪菜の世界は再び成りをひそめた。
きっかけは、彼女の耳から侵入してきた、小さくもよく通る女声。思わず肩を震わせてそちらを見れば、黒のセミロングヘアを右の耳元だけ小さく三つ編みにした、見るからにクールで人付き合いが苦手そうな美少女がこちらを見ている。
先ほどから丁寧に黒板の文字を消していた、綾瀬川瞳だった。
「あ、は、はい!」
彼女にとって一つ上の先輩であり、雲の上の存在でもある彼女に突然声を掛けられ、思わず必要以上に大きな声を出してしまう。
見れば、彼女の背後にある黒板の片側半分に、まだ文字が残っていた。終了間際に書かれたものだ。
「もう、こちら側も消していいかしら?」
「え? ……あ、はい、大丈夫です。すみません」
一瞬何のことかと考えてしまったが、すぐに瞳の意思を読み取り、返答する。瞳はそれを聞くと、」「そう」とだけ呟いて、残った文字を消しにかかった。
どうやら、自分がまだ無意識に黒板を見つめていたのを、ノートを取り終えていないと考えて、わざわざ聞いてくれたようだ。
多少の罪悪感に苛まれつつも、雪菜は机の上のものを鞄にしまい込み、席を立つ。
時計を見れば、講義終了から既に10分経過していた。その間ずっと水瀬優次郎の事を考えていたのかと自覚すると、思わず顔を赤らめる。本当に、水瀬優次郎と言う男は考察すれば切がない男だ。
「―――――ねぇ。あなた」
「ふぁ!?」
またもや、不意打ちで声を掛けられ、今度は不思議な声が漏れてしまった。
声の方向を見ると、再び瞳が自分へとその黒の瞳を向けていた。唯一、後ろの黒板から綺麗に白が無くなっているのが先ほどとの違いだろうか。
「今まで、水瀬優次郎の事考えたの?」
「え……は、はい」
どうして分かったんだろうか。もしかして口に出てしまっていたのか。
「そう……どうだったの?」
「どう、とは?」
瞳と会話して、何度目かの疑問形。
彼女には主語を省略する癖でもあるのだろうか、などと考えてしまう。人の話し方にまで口を出せる様な人間では無いが、他の人と会話をする時は是非付け加えていただきたいものだ。
当然、そんな雪菜の心中などどこ吹く風で、瞳は表情を変えずに口を開く。
「水瀬優次郎についてよ。あなたは、彼を一体どういう人物だと推測したのかしら」
「そ、そうですね……」
まさかここまで深く追及されるとは思ってもみなかった。雪菜の中で、まだ彼に対する明確な印象があるわけではないが、瞳の目が早急な解答を求めているため、とりあえずの答えを、雪菜は口にした。
「まだ、よく分からないんですけど……でも、『救いたいな』って思います」
「救いたい?」
予想外の答えだった様で、瞳はほんの少しだけ首を傾けた。
「はい。確かに、今日の講義を聞いた限りでは凄く怖い人だと思いますし、行った事は非道だとも思います。
でも……えと……なんというか、その……」
雪菜は自分の中にある答えをどう言葉に変換すれば良いのか分からず、口ごもってしまった。
だが瞳は、そんな彼女を咎める事も無く、ただじっと次を待つ。
「あの……うまく言えないんですけど、私はどうしても、水瀬さんが、その……『根っからの大悪党』とは思えないというか……」
瞳の目が、一瞬だけ細められた。それを感じ取り、雪菜の肩が今一度震える。
「あの、き、気分を害したんなら、すみません……」
「大丈夫よ。そのまま続けて」
「は、はい……あの、水瀬さんが殺人を起こしたのって、18歳の頃なんですよね?」
「えぇ。確定では無いけれど、一般的にはそうされているわね」
「もし、水瀬優次郎という人間が根っからの大悪党だったんなら、もっと前に何かしらの事件を起こしてても良いんじゃないかなって思うんです。それに、それまでは水瀬優次郎って名前が取り上げられる事も無かったわけですし……だから、18歳の時に『何か』があって、それが水瀬さんを狂人にしてしまったんじゃないかって」
遠慮がちに語られる雪菜の推論に、瞳は黙って耳を傾ける。
彼女の言う事は最もだろう。もし生まれつきの大悪人であったなら、もっと前に、殺人とはいかなくとも、強盗事件か何かを起こしていても不思議じゃない。そう言った悪人は、快楽のためだけに行動するからだ。
だが、それ以前に水瀬優次郎の名前が一般的に出回る事は無かったし、違法魔術師取締委員会も全くのノーマークだったのだ。
だとすれば、彼女の推論はわりかし的を射ている。
「なるほどね。あなたの推論は、まぁ感情論も多いとはいえ、突飛とは言えない内容だわ」
「あ、ありがとうございます」
「なら、あなたは先ほど『救いたい』と言っていたけれど、どうやって彼を救うというの?」
雪菜が瞳と会話をしてから、初めてすんなり答えが出る問いだった。
何故なら、それは彼女自身の夢であり、目標であるものなのだから。
「愛が欲しいのなら、私なりに精一杯愛します。家族が欲しかったのなら、私が妹代わりになります。寂しいんだったら、傍に寄り添います」
その言葉に、雪菜の全てが詰まっていた。
これ以上の説明は必要ない。そう考えたのか、瞳はゆっくりと目を閉じ、一度ふぅ、と息を吐く。
「そう、分かったわ。答えてくれてありがとう。長々と付き合わせてしまってごめんなさいね」
「い、いえ! とんでもありません!」
謝礼や謝罪を言われるなど思っても無かった雪菜は、慌てた様子で頭を下げる。
その後、瞳は自分の鞄を取り、雪菜のいる扉の方へと向かう。
「それじゃあ、私はこれで。気を付けて帰ってね」
「は、はい! お疲れ様でした! ……あの、私からも良いですか?」
扉に手を掛けていた瞳の手が、ぴたりと止まり、そのまま背中で雪菜の問いを待った。
「あの、失礼でしたらすみません。えっと……綾瀬川先輩は、水瀬優次郎さんはどういう人だと思いますか?」
しばし、静寂の時が訪れる。瞳は背中を向けたまま動かず、対する雪菜も、彼女の背中を見つめて返答を待った。
やがて、ガラッと音を立てて瞳が扉を開く。
そしてそのまま教室を出る直後、雪菜に答えを告げた。
「さぁ……どうかしらね」
たった一言、それだけ告げて瞳は去っていく。
その背中を、雪菜はしばらくじっと見つめていた。
■ □ ■ □
同じ頃、本館2階から続く渡り廊下の先にある研究棟では、先ほど魔術思想学の授業を終えた男性教師が、本日の講義内容をまとめていた。
自身の研究室では無く、帰り支度を済ませた上で共同研究室で行っているのは、本人曰く癖なのだそうだ。ここにいれば、様々な分野に精通した講師たちとコミュニケーションが取れるため、授業内容を客観的にみる機会があるのがメリットだろう。
その期待通り、今日も1人の講師が、彼に声を掛けた。
「精が出ますね。福原先生」
だが、今日の相手は少しばかり意外な人物だった。柔らかな女声に顔を上げれば、そこにはゆるく巻いたセミロングの黒髪と、おっとりした温厚な瞳が特徴の女性が、自分を見て微笑んでくれている。
今年で四十を迎える無精ひげを生やした強面の自分とは、正に美女と野獣だな、などと下らない事を思いながら、男性講師、福原義信は苦笑まじりに返事を返した。
「お疲れ様です、学院長」
「はい。お疲れ様です」
その女性とは、日本魔術学院の学院長をつとめる「世界最高の魔術師」、綾瀬川叶だった。
まだ25歳と言う若さにも関わらず、様々な魔術に精通し、知識・実力共に世界最高峰の能力を持っている、正に「完璧超人」である。
見るものを癒す優しい笑みで義信の言葉に答えると、そのままゆっくりと、彼が書き記している本日の講義内容を記したノートに目をやった。
「へぇ……今日は、水瀬優次郎についての講義ですか」
「えぇ。魔術の持つ可能性、危険性……それを伝えるには、題材として彼が適切かと思いましてね」
納得です、と叶は再び微笑む。だが、義信にはそれがとても寂し気で儚いものに見えた。
まぁ、無理もないか――――。
1人義信は思う。彼女と水瀬優次郎の関係は、義信もよく知っている。何せ、彼を牢獄へと導いたのは、他ならぬ叶なのだ。その時に何があったのかは知らないが、あれ以来叶は、あまり彼の話をしたがらない。「水瀬優次郎を捕まえた」と誇る事も無ければ、それまで口癖のように言っていた言葉も言わなくなった。
何があったのか興味が無い、と言うわけでは無い。だが、それを彼女から聞き出すには、自分はあまりにも無力である事を、義信は知っている。
「魔術には様々な側面があります。人を救う手にもなれば破滅させる手にもなるし、新たな可能性を示す手にもなれば全ての未来を排除する危険な手にもなる。
それを教えるには、なるほど彼ほどの「教材」はありませんね」
義信の真正面の椅子に腰かけ、叶は独り言の様に言った。
「…………後悔はありませんか?」
「え?」
突然放たれた義信の言霊に、叶はしばし面くらう。
「例の事案に対してですよ。学院長が発案し、『アイツ』に依頼した訳ですが……本当に良いのかと思いましてね」
「あら。福原先生だって、私に賛同して下さってたじゃ無いですか」
「…………まぁ、それを言われると痛いですがね」
苦笑する義信。今だ悲しい笑みを崩さない叶。
「ですが、あの事案にはまだ反対する者も数多くいます。それに、生徒には事前に何も知らせていませんし、混乱するのも目に見えてますよ」
「当然です。初めてでしたからね、「学院長権限」をあそこまで大っぴらに振りかざしたのは」
自虐的に言う叶に、義信は真摯なまなざしをぶつけた。
「その振りかざした刃は、いつかアナタの手を離れ、アナタ自身……引いてはこの学院そのものを切り裂いてしまうかもしれない……反対した者が最も恐れているのは、この事です」
「それも覚悟の上です。私も、身を守るものを何も着けずに刃を持って戦場に赴くほど、愚鈍ではありませんよ」
そこで、義信は察する。彼女は本気だ。本気で、他の連中が言う「馬鹿げた事案」を完遂するつもりなのだ。その刃がいつか自分に向けられ、そして――――――。
それも全て承知の上で、それだけの覚悟を以て発案したのだ。
ならば、これ以上自分が何を言っても仕方がない。この日本魔術学院のトップが言うのであれば、自分も付いていこうではないか。
義信は声に出さず、1人そう決意したのだった。
そんな彼の覚悟を知ってか知らずか、叶は音も立てずに立ち上がり、窓の前に立って空を見上げた。
「もう、春も終わりですね」
すっかり枯れてしまった校庭の桜の木を見上げながら、叶は1人呟いた。