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黒い糸  作者: 須永 梗太郎
邂逅編
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邂逅-外伝 緋の章 1

―――どうして、どうしてこうなるんだ?


廊下を走りながら、私は問うた。


新しいクラスもそれなりに馴染みやすそうで、なにより、美人でイジり甲斐のありそうな友人もできた。きっと彼女とはさらに仲良くなれそうな予感がしていたというのに。


そんなこと思いながら、私は階段を一段飛ばしで駆け下りていく。ワックスが塗りたてであるためか、独特な匂いが鼻腔を突き上げ、私は思わず顔を顰めていた。


―――なんとしてでも、今は彼女に見つかる前に帰らなきゃ


そんな切迫した決意の中、私は最後の階段を飛び降りると、再び全速力で玄関口へと走り出す。


私の中で大きな誤算が二つあった。


一つは担任の教師の雰囲気がどことなくあの人に似ていたこと。どこ、と言われればわからないが、同じものを感じたのだ。それは現に私を不安と苛立ちに襲わせている。


そしてもう一つが―――彼女、本郷藍子が既に伏見琴葉と知り合っていた、ということだった。同じ高校だから仕方ないとは言え、それはあまりにも早すぎた。こればかりは忌避しなければならなかった事態なだけに私の頭をひどく悩ませる。


―――あぁ、もう、なんで、よりにもよってあの子が


考えれば考えるだけ私の心中は混乱を呈してくる。私は慣れない校舎の中を走り抜け、辛々玄関まで辿り着くと、上靴を下足ロッカーに叩き込む。第六感が危機を感じ続け、出来ることなら一秒でも早くこの場から逃げ出したかった。


これはあの日と全く同じではないか、と脳内に喧しい警鐘が鳴り続けている。


「えっとメモ帳メモ帳……」


私は自らを落ち着かせるように何度も唱えながら、鞄を漁る。幸いにも横ポケットに仕舞われたメモ帳はすぐに見つかり、私は胸元に入れていたペンを紙上に定型文通り走らせる。


―――明日、藍ちゃんに説明しないとな


そんなことを考えながら自らの真下の下足ロッカーにメモ帳を入れておくと、ショートブーツに足を突っ込み、ガラス戸を抜ける。あとは速やかにこの敷地内から退避するだけだった。


しかし、辛くもその予定すら崩れ去っていく。


―――最悪だ


急ぐ私の目の前には、今、伏見琴葉に次いで、二番目に会いたくない人間がその切れ長の目を丸くしてこちらを眺めている。


「姫野さん……こんな時間まで学校にいたの?」


小野寺女史は眉をピクリと釣り上げると、少し驚いたような声を上げる。右脇には大きめなサイズの茶封筒を抱えており、校外での業務か何かを終え、今まさに学校に戻ってきたようだった。


入学式が終わってなお、この時間に生徒が出て来たのだから驚くのも無理はない。


「別に、忘れ物を取りに来ただけですから」


そう言うと、彼女はまた気を取り直したように、淡々とそう、とだけ返す。この冷淡に近い淡白さから見てもやはりサイボーグといった私のセンスは間違っていない。


「じゃあ、失礼します」


そう言うと、私は彼女の横を早歩きで通ろうとする。そんな私に小野寺女史は一瞥もくれず校内に入っていく、そんな予定だった。


「待って、姫野さん」


「……はい?」


彼女の凛と澄んだ声に、私は表情筋を引きつらせながら振り返る。どうやら今日ばかりは何をやっても上手くいかないらしい。これでは帰り道に伏見琴葉に出会してもおかしくないな、などと笑えない冗談すら浮かんでくる。


やはり朝の占いなど当てにならないようで蟹座は総合運第1位だという恩恵はさほど受けれていない。


「私、貴方に何か不快になるようなことした?」


「はあ……?」


「いや、私の思い過ごしならいいんだけど……急いでるのに引き止めてごめんなさいね」


女史の言葉に気の抜けた声が出る。もしかしたらこう見えて案外、周りをよく見ているのかもしれない。だが、その一面は却って今の私の神経を逆撫でる。


「……嫌いなんです、あなたみたいな教師」


「えっ?」


「それじゃあ、急いでるんで」


私はそう吐き捨てると、冷徹の仮面が外れたように呆然とする女史を振り切るように走り抜けていく。


伏見琴葉も、小野寺女史も大嫌いだ。ただそれ以上に、虚勢を張って、遠吠えして逃げることしかできない自分はもっと嫌いだった、あの日からずっと。




あれから、どれだけ走っただろうか。目の前には私の家の近所にあるスーパーへの案内板が示されている。それから察するに、高校から始まるこの急な坂道を10分は走り続けていたのかもしれない。その上に途中で足が挫け、私の右足は既に悲鳴を上げていた。


それでも何度も足が縺れながらも、私は走ることを止めなかった、いや、止めれなかったのだ。


どこまで走っても伏見琴葉の歪んだ笑顔が私の脳裏にこびりつき離れなかった。その腹立たしいほどに端正で美しい笑顔は、振り返ればすぐそこに立っていそうなほど、あの日から私を圧迫し続けている。トラウマとでも言うべきかもしれない。


息が切れ、視界が霞み始める。帰宅部で、体力に自信があるわけでもないくせに、無計画に走り続けたのだから酸欠を起こしていても何ら不思議ではないだろう。


それも然ることながら足にも限界が来てしまったようで、私の右足はまるで石化したかのように動かなくなった。バランスのとれなくなった私の体は膝から崩れると、ゆっくりと前に倒れていく。朦朧とした意識の中で、ただ溶けかけの雪の冷たさだけが身体に染み込んできた。


―――あぁ、無様だなぁ


四月、というには寒すぎる青空の下、そんなことを考えながら蘇るのは、あの日の走馬灯。


外から聞こえる雨音と夕立、窓から差し込む稲光、


私と彼女しかいない教室、体育館のほうから轟くバスケ部の掛け声、


目深に被ったフードの温もり、握ったパイプ椅子の冷たさ、


真っ青になった彼女の顔色、真っ赤な飛び散った鮮血、


その全てが詳細に、鮮明なまでに蘇ってくる。


―――ああ、あの時、私なんて言ったっけか


血塗れになっても尚、あの笑顔を崩さなかった少女に、一体私は何と言ったんだろうか―――




「……こんなところで寝てたら風邪ひくよ?今年は雪解け遅いみたいだし」


遠くから私を呼び起こす鼻にかかった甘い声。混濁とする意識でも分かった。


そしてそれはどうしようもない悪夢であって、救いようのない現実であることも。


「……しみ」


「うん?」


「……ふしみ……こ、とは……」


「……覚えててくれたんだ、朱音ちゃん」


伏せている私を覗き込むような格好で、彼女はあの日と同じ笑顔で私を見つめていた。


白い肌も、長い睫毛もあの日と変わっておらず、何より、呼び方までもあの日と変わらない事に戦慄すらも覚える。


「忘れられるわけ……ないじゃない……」


「……やっぱり恨んでるよね私のこと……許してもらえるなんて思ってないけどさ」


伏見琴葉はしおらしくそう言うと私の体を抱き上げる。


「久しぶりに、ちょっとお話しよっか」


口も思うように回らず、芯まで凍りついた体には抵抗する力も入らなかった。一体その華奢な体のどこに私を抱き上げられるような力があるのか、私の返答を待たず、彼女はそのままゆっくりとした足取りで歩み始める。


「……私は朱音ちゃんがこの先仲良くしてくれるならあの日の件はなかったことにしようかなって」


「……なんのつもり?」


私の抗論に伏見琴葉は態とらしく苦笑いを浮かべてみせる。その挙動で彼女の言いたいこともなんとなくわかった。無論、それは私にとって芳しいものではない。


「朱音ちゃんが私を恨む道理は勿論あるよ?でもね、私があなたを恨む理由だってあること、忘れてないよね?……恨み合うのはもう沢山だから」


彼女の柔らかな声に底知れぬ重みが篭る。体が強ばる感覚が嫌というほど伝わり、ねっとりとした悪意が私の体に絡み付き、抉るように心中を蝕んでいく。


「……癒えない心の傷と消えない体の傷ってどっちが辛いんだろうね」


私を抱えて歩く伏見琴葉がポツリと譫言のように宣う。そこには怨嗟や嫌味といった類の感情は含まれてはいないようだった。


「なんてね、恨んでるわけじゃないんだ……私は前みたいに二人で仲良くしたいな、朱音ちゃんが私をまだ友達として認めてくれてるのなら」


「……嘘」


喘ぐような私の言葉に、伏見琴葉の笑みが凍る。


凍りつき、引きつった笑顔ですらも、苛立たしいほどに美しい。


「……今度は、私から何を奪うつもり?」


「奪わないよ、もうなにも」


子供を諭すような口調だった。


伏見琴葉は恨めしく呻く私の目など見ず、只管に遠くを眺めている。その澄んだ瞳は、仄かに赤く腫れていた。


「……やっぱり、許してくれないか」


憂いを帯びたように彼女はそう言うと、私の頭を支えている左手で愛おしげに私の髪を梳く。その細い指は私のクセのある髪の間を滑るように抜けていった。


それは過ぎた、遠き過去の日々に行われていたように。


「……やめてよ、もう終わったんだから」


凍りついたように回らなかった口から、いとも簡単に口を突いた、私の憎悪を込めた突き刺すような言葉に、伏見琴葉は惜別を込めてか最後にもう一度ゆっくりと梳くと私の髪から指を抜く。


「……そうだよね、ごめんね……好きだったんだ、朱音ちゃんの髪、柔らかくて、でも艶々で、亜麻色も綺麗で……」


「やめてって」


彼女の言葉を遮って、心中から私の口まで無数の罵倒と非難の言葉が轟々と突き上がる。私はその口汚い言葉達を封じ込めると、数多の感情を濃縮するかのように一言だけ口にする。


「大っ嫌いなの、あなたなんか」


私の言葉に、伏見琴葉は表情を変えることなく、また黙々と歩み続ける。私は反抗する気力すらもなく、情けなくもこの世で一番嫌いな女の腕に抱かれ続けていた。




「……着いたよ、朱音ちゃん」


彼女の言葉通り、目の前には何の変哲もない二階建ての黄色の一軒家が聳えている。そこはもはや言うまでもなく私の家だった。


「……そう、その辺にでも投げ捨ててったら?」


「……足、まだ動かないの?」


私の悪口を遮った伏見琴葉の言葉に、全身が硬直する。先程までの会話で足を挫いたことなどは一言も言っていないし、意識的に素振りすら見せないようにしていたはずだというのに。


「……朱音ちゃんのことなら大体わかるよ、朱音ちゃんは嫌がると思うけど」


私はきまりが悪くなって、不貞腐れた子供のように顔を背ける。やはり、どうしてもこの女の何でもお見通しといったこういう調子は好けなかった。


「……なんで私に執着するの?」


「なんでだろうね?好きだからかな」


巫山戯ているようには思えなかった。抑もこの女が冗談を言うようなところを殆ど見たことがない。


だからこそ、不可解でいて、不愉快極まりなかった。彼女が私にしてきたそれは、好意というには有り余るような所業でしかない。


「……ここまででいいよ、あとは歩ける」


「そっか、わかった」


私の最後の意地に、伏見琴葉は素直にそう頷くと、慎重に私の体を地面に下ろす。改めて見える細い体躯からしても、ここまで私を運べるとはどうしても考え難い。


私は右足を庇いながら立ち上がると、伏見琴葉の方に向き直る。


「……ありがとう、助けてくれて」


私の言葉に伏見琴葉は照れたように口元を手で覆うと、小さく頷き返してくる。全くもってこの女の意図は分からないが、現に助力をしてもらったことには変わらない。


「あ、あのさ!」


「……なに?」


「……明日、から、その……学校……一緒に、行かない?ほら、その、足も心配だし!」


彼女の言葉に私は憮然とした表情を顔に貼り付けながら、ますます当惑する。


この申し出はお互いにとっても百害あっても一利なしと言っても憚られないようなものであった。流石にここまで来ると薄気味の悪さすらも感じてくる。


まず、彼女が私に固執する理由というのも解せず、かといって、好きだからという理由を鵜呑みにするほど私は馬鹿ではない。


「……考えさせて」


「う、うん!今すぐじゃなくてもいいから、うん!じゃ、じゃあ、また明日ね!」


彼女は嬉しそうに何度も頷くと、軽い足取りで来た道を引き返していく。


その後ろ姿を目の端で追いながら私はポケットから鍵を出すと、誰もいるはずのない家に入る。相変わらず清閑としており物音一つ起こりもしない。


私は玄関で靴を揃えると、右足を引きずりながらそのまま、居間へと足を進めていく。


「……ただいま、お母さん」


もう習慣にもなっていた、二度と口をきくことのない相手との挨拶を済ませると、私はソファに横に臥せる。


「……一体何のつもりなのよ」


私が一人、虚空に放った言葉も、居間の静寂の中に吸い込まれ消えていった。時間の止まった家の中で、対照的に針を鳴らす壁掛時計だけが一定のリズムで時を刻み続けている。


「……伏見琴葉」


大嫌いなはずの女の名を今一度呟くと、私はゆっくりと瞳を閉じる。


大嫌いだった、憎くて、恨めしくて、顔を合わせたくもない相手だった、はずなのに。


「……本当に今になってなんだって言うのよ」


捻った右足の痛みが今更になって、再び過剰に痛覚を刺激し始める。顔を顰める私の瞼の裏には、何をされても、どんなに憎もうとしても、心の底からは嫌いになれなかった女の姿が焼きついていた。


この世で一番嫌いでいて、愛おしくもあるというアンバランスで矛盾した感情を抱えながら、私はこびり付いた彼女の虚像を瞼から追いやる。




やっぱり私はあの女がこの世で一番苦手だった。

皆さんこんにちは、須永です。

さて、今回は外伝、ということで朱音の視点から物語を描いてみました。

この外伝というスタイルははどのタイミングで投稿するかはわかりませんが、物語に深みを持たせるスパイスとして今後も活用しようと思ってます。

今回の朱音編『(あか)の章』では朱音のキャラについて多少なりともみなさんにお披露目できたことと思います。はい。

次回は咲良の外伝を鋭意執筆中です。

それではまた、近いうちに縁があれば。

筆者:須永 梗太郎

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