初日-外伝 緋の章 2
朝方、時刻は七時半を少し過ぎた辺り、私はテレビを消すと、玄関の窓から空を仰ぐ。黒々とした積乱雲の覆う空は、奇しくも今日の私の心情に酷似していた。
なんとも酷い空の色だ。
積乱雲が雷雲の異名をとるだけ、私は家を出る前に折りたたみ傘を鞄に忍ばせる。
このまま何事もなく終わればいいが、なんて私の二つの意味を込めた願いのうちのひとつは、扉を開けた瞬間に粉々に打ち砕かれた。
「おはよう朱音ちゃん」
「……朝から嫌がらせに来るなんて生徒代表も相当暇なんだね」
「昨日の約束、忘れちゃった?」
「忘れた」
私は無愛想に吐き捨てると、彼女を無視するようにさっさと歩き出す。
抑も同じ柏丘とはいえ、この女の家は旭陽を挟んで真逆にある。だというのに、態々私の家まで出迎えにくるメリットは一つも感じられない。
「足、まだ痛む?」
「もう大丈夫だから、明日から来なくていいよ」
「じゃあ、今日は一緒にいってもいいってことだよねっ?」
彼女に言葉尻を留められ、私は仕方なく勝手にすれば、と吐き捨てる。煩わしいが今日だけの辛抱だ。
それに対しこの女はどこ吹く風と、嬉々として私の横に並んで歩き始める。
「……何分待ってたわけ?私の家を出る時間なんてわかんないでしょ?遅刻したらどうするつもりだったの?」
事実、私の家から旭陽までは徒歩で上り片道20分前後であり、それも計算して少し早めに家を出たつもりだった。しかし彼女はさも当然のように玄関に待ちわびていたわけで。
「うーん、30分くらいかな……朱音ちゃんならなんとなく早く出てきそうな気がしたから」
「……こんな寒い中?30分も?」
「あはは、確かにちょっと寒かったかも」
そう苦笑する伏見琴葉の頬は勿論、鼻の頭まで寒さで真っ赤になってしまっている。
恩はおろか、恨んで然るべき私のためにここまでできる彼女の神経は全く理解できない。
「何でもっと着込んでこなかったわけ?天気予報とか見ないの?」
「見なかったなあ、朱音ちゃんのことで頭がいっぱいだったから」
「……気持ち悪」
「えー、そんなこと言わないでよー」
彼女を前にしても、普通に会話している自分に気付く。
もし伏見琴葉が許してさえいるのなら、このまま時効でもいいだろうか、なんて浮かんできた甘い考えを私は丸めて潰して心の隅に放り投げる。
それが出来れば、楽なのかもしれないけれど。
でも、私はそんな心の広い人間ではない。
「……これでそのトナカイみたいなアホ面隠しなさいよ」
これが最後だと思い、私は悪態を付きながら自分の首元に巻いていた赤チェックのマフラーを外して、伏見琴葉に渡す。
流石に頼んでないとは言え、私のせいで風邪を引かれては後味が悪いし、面倒な負い目は負いたくない。
「いいよっ!朱音ちゃんが寒くなっちゃうじゃん!」
「私は寒くないからいいの」
「でも……」
「うるさい、いいから少し屈んで」
少し強引だが、渋々屈んだ彼女の、色っぽく鎖骨の浮き出た華奢な首元にマフラーを巻きつけていく。その間、彼女は抵抗はせず、気恥かしそうに私の方を眺めていた。
悔しいがマフラーが私より似合っている気がする。やはり中身がどうであれ、顔が可愛いのは得だ。
「ありがとう、優しいね朱音ちゃんは」
「……うるさい」
真正面から褒められるのに慣れてない上、相手も相手なだけ、私はその一言で片付ける。
伏見琴葉、相変わらず何を企んでいるのか全く見当もつかない女である。
「……ねえ、朱音ちゃん、もう一つだけ気持ち悪いこと言うね」
「……何」
「朱音ちゃんの匂い、落ち着くな」
「想像以上に気持ち悪い、生理的に受け付けられない、吐き気を催す」
「そんなに言わなくても!?流石に傷つくよー……」
情けなくヨロヨロと付いてくる伏見琴葉を無視して、私は先へと歩を進める。
やっぱりあの女は嫌いだ。
どんな言葉をかけられたって、私の、伏見琴葉への心象は変わらない。変わるはずがないのだ。
変わるはずがないのに、なぜ私に擦り寄ってきては、甘い言葉を吐くのか、私には理解しがたいのだ。
「朱音ちゃんに嫌われても私は好きでい続けてやるんだからー……」
後ろで放たれる愛の告白―のつもりだろうか―も私からすれば呪怨のようなものだ。
それに本気で言ってそうだし、事実やりかねないから余計に質が悪い。
「……私以外に友達いないわけ?」
「そんなことないよ、ただ、朱音ちゃんがいいだけ、それが運命だから」
「運命?なにそれ」
嘗ては信じていた陳腐な言葉を私は一笑に付す。
運命論は嫌いだった。
あの楽しかった日々すらも、崩壊のあの日までの決められていた運命だなんて思いたくなかった。
「そんな顔しないでよ、私と朱音ちゃんが離れられないのは運命、だと思わない?」
「運命じゃなくて因縁でしょ」
「そう、かもね」
そう言って伏見琴葉は微笑む。
運命なんてアホらしい、そう吐き捨てる代わりに、私は彼女を振り切る様に先を急いだのだった。
私と伏見琴葉の確執は今に始まったことではない。
小学校から私たちは笑えないことに九年もの間、同じ教室で過ごしてきた。だが、名家の令嬢として蝶よ花よと育てられた彼女に対して、男手一つで育てられた私が噛み合うはずもなく、私たちはよく喧嘩した。
俗に言う水と油というやつで、彼女の行動全てが気に食わない私と、そんな私に対し無神経な言葉を放つ伏見琴葉が喧嘩を起こさない日はなかった。
その頃から今まで、私と彼女の関係は変わっていない、筈なのに。
「ねー朱音ちゃん、新しいクラスどう?」
「別に、たかだか一日でどーこー測れる人間ばっかじゃないでしょ」
結局私の後ろをしつこく付いてきた伏見琴葉はご尤も、というように苦笑しながら頭の後ろを掻く。
華奢な指の間から髪が靡く都度に、爽やかなシャンプーの香りが朝の冷たい風に乗ってこちらまで飛んできた。不快というわけではないが、何となく気に障る。
「……そういえば、藍ちゃんってそっちの界隈では有名だったの?」
「藍ちゃん……って本郷さんのこと?」
「ああ、うん」
そういえば本郷って名字だったな、などと思い出しながら私は曖昧に頷き返す。
本郷藍子、やはり字面も響きも綺麗で、なんだか女優っぽい。
「勿論!東景の本郷藍子を知らない吹部はいなかったよ!あの凛とした姿に、奏でられるクラリネットの優美な音、そして東景をあそこまで導いたあのカリスマ性……!あぁ、格好よかったなぁ……!」
「へ、へぇ……」
恍惚と、さも恋人を語るような惚気口調に私はただ苦笑いを浮かべる他ない。
こんな熱烈なファンがいるなんて聞いてないぞ藍ちゃん。
「んー甲子園の優勝校のピッチャーが有名になるのと一緒?」
「……ごめん、甲子園みないからわかりにくいかな」
「野球くらい見なさいよ」
「ご、ごめん……」
野球は父の趣味で気がつけば物心付いたあたりから見るようになっていたが、そんなことは今、至極どうでもいい。私が閉口すると会話が途切れ、無言で坂登りが再開される。
この辺に住んでいると慣れたが、やはり他地域からの出身者は苦しむことになるのだろう。
「……朱音ちゃん、本郷さんと仲いいよね」
暫くの無言の後、再び伏見琴葉が口を開く。言われてみればだが、伏見琴葉の指摘には少し驚かされる。
「確かに、まだ一日しか経ってないのにすごい馴染んでる」
「藍ちゃん、朱音って呼び合うなんて羨ましいな、私ですらも朱音ちゃんのこと呼び捨てにできないのに」
「あんた抑も人を呼び捨てにしたことないでしょ」
「あはは、そうかもね」
確かに私からしても藍ちゃんは伏見琴葉の好きそうな言葉を借りるなら『運命』を感じるような思いがしたのは確かだ。
理由こそは分からないが、きっと彼女の心の底にある芯の強さと同居する脆い儚さに惹かれている、と言ったら変だが、そうなのだろうと自己の中では妙に納得を覚えている。
それといわば真逆とも言えるのはこの女だ。
屈託なく笑っているように見えるこの女は昔からこうだった。フレンドリーな様子を示しておきながらも、決して自分の相手の間に割り込ませない何か、見えない壁のようなものを作っているのかもしれない。
故に、彼女は他人のことを名字にさん付けでしか呼ばないのだろう、と私は勝手に考えている。となると私を含め二人ほど例外はいるのだが。
「でも朱音ちゃんが仲良くできる相手がいてよかったな」
「あんたほど性格は悪くないつもりなんだけど」
「私そんなに悪いかなー……」
性格が変に真っ直ぐだからこそ余計にタチが悪い、とは言わないでおいた。
その点こそが、この女の最も胡散臭く、気味の悪い部分であるということも。
寧ろ根っからの悪人であれば嫌うことも簡単であったし、このアンビバレントな感情に苛まれることもなかったというのに。
「あんたは私の人生史上、類を見ない大悪人よ」
「朱音ちゃんの人生史に名前を残せるなんて私って幸せ者だなぁ」
「やっぱりあんたは嫌い、何があっても絶対に」
この女にもう何も言うもんか、そう決めて私はまたも伏見琴葉を引き離すように早歩きになる。
もう二度と好きになんかなるものか。
そんな心に何度目かもわからないような揺らぎやすい決意を胸に秘めて。
あれから時間は流れ、昼食を食べ終えた昼休みの終わりのことだった。
教室に入ろうとする私の目線の端で見覚えのある少しパーマがかった綺麗な栗色のボブカットが揺れる。
「あ……」
彼女も私を見留めたようでお互いに視線がぶつかり一瞬気まずい雰囲気に陥りそうになる。
「えと、西野咲良ちゃん、だよね」
「は、はい!西野です!」
大きく頷く彼女の姿は宛ら小動物のようで可愛らしいな、と思う。私より背丈は大きいはずなのに萎縮している分小さく見える訳で。
彼女の手に下げられているバッグには旭陽の決してデザインといいとは言えないある意味前衛的なジャージが入っている。改めて見ても途轍もなくダサい。
「これから体育?」
「は、はい……姫野さんは?」
「次は古典、って名前覚えててくれたんだ」
「朝挨拶してくれた時名乗ってくれたので……あの時喋れなくてごめんなさい」
「いいよ全然、藍ちゃんからは人見知りだって聞いてたし」
そう言って微笑みかけると、彼女も笑顔で返してくれる。
育ちの良さそうな、というか見る者に癒しを与えてくれるような、そんな感じの笑顔。
その辺りは本当に育ちの良い某令嬢の胡散臭い麗笑とは違う。
「あの、姫野さん」
「ん?」
「……姫野さんと伏見さんって仲悪いんですか?」
げっ、と思った。心中を見透かされた心地だが、事実昼ご飯の時から露骨に空気を濁していた以上、聞かれるのも当然だ。
なんと答えようかと悩む間に西野さんはワタワタし始める。
「あ、あの!?スイマセン!そんな深刻なこととは知らず私なんかが勝手に立ち入って!」
「いや全然そういうのじゃないんだけど」
そうは言っても事実そういうの、だ。頭をひねり、なんとか煙に巻く答えを用意する。
「ほら、友達同士だと喧嘩がつきものっていうか、ほら西野さんも藍ちゃんと喧嘩したこととかない?」
「ない……ですね」
マジですか。それは失礼しました。
「とにかく!普段はそんなに仲悪くないから!変な心配かけてごめんね?」
「いえ、こちらこそ!そうなら良かったです」
にこやかに笑う西野さんは何かふんわりしてて可愛いな、と思った。
藍ちゃんと並ぶと相乗効果で更に絵になることだろう。
「逆に藍ちゃんと西野さんは仲良さそうだよね、少し妬けちゃうくらいに」
「そんなことないですよ、私はただ藍子の後ろに隠れてるだけですから、依存してるんです、きっと」
彼女はそう言って少し寂しそうに俯く。こんな可愛い子に依存されるなら悪くない、なんて私の見当違いな意見はとりあえず黙っておこう。アレに付きまとわれるよりはずっといい。
「藍子ってあんな淡白そうに見えて、実はすごい友達思いで、人のことよく見てて、優しくって、弱い人のこと放っておけないんですよ……凄いですよね、ただ少し不器用で、甘え方を知らないから人付き合いができないんです、だから姫野さんみたいな人が友達になってくれてよかった……私じゃきっと、藍子を支えることなんてできないから」
ありがとうございます、と頭を下げる彼女だが、実際、本郷藍子の理解者は彼女を置いて他にはない、そんな気がした。
これも数年来の付き合いと彼女の性格の成せる技だろう。
「……あっ、私ばっかり喋ってごめんなさい、退屈、でしたよね」
「ううん、寧ろ西野さんって喋れるんだなぁって感動してた」
そう冗談めかすと彼女も同調して笑ってくれる。花のような笑顔だった。きっとこの子とは上手くやれそうな気がする。藍ちゃんの親友だというのなら尚更で、これは希望であり、直感だ。
「じゃあ、私そろそろ行きますね」
「うん、じゃあね」
そう言うと彼女は体育館へと向かっていく。その背中を見送ると、私も教室へと戻ったのだった。
またまた時間は少し経って五時間目の授業中。
おじいちゃん先生の授業に耳を傾ける生徒はそう多くなく、各々が好き勝手なことをして昼食後の授業の暇を潰しているようだった。無論私たちもその限りではない。
話す内容は、奇しくもまたあの女のことである。
「さっき、琴葉って呼んでたよね、伏見さんのこと……ホントは嫌いじゃないんじゃない?なんか、無理して嫌ってる、ような気もする」
藍ちゃんの突然の言葉に私は焦燥を隠せなかった。
図星か、と言われれば微妙なところではあるが、それでも一笑に付すには余りに私の心を揺さぶりすぎた。
額に手を宛てがいながら思考を巡らしても、終着点は見当たりそうもない。
無理して嫌っている。決してはそんなことはなく私は心の底からあの女が嫌いなんだ、と思ってもそれすらも疑う自分がいた。
ただ一つ言えるのは、少なくとも藍ちゃんにはそう見えている、ということだ。真実がどうであれ、彼女の中ではそれが一時的なものとは言え事実であることに変わりはない。
この本郷藍子という少女―少女というには大分落ち着きすぎてはいるが―が見ている姫野朱音という存在は余りに私の思う姫野朱音よりも、真実に近いのかもしれない。
「……藍ちゃんには何でもお見通しって感じなのかな」
「そんなことないよ、今のはただ、朱音が可哀想に見えたから」
「……えっ?」
彼女のまたも意表を付く言葉に、私の手からシャープペンが降落する。
可哀想、というのはきっと彼女風に言えば、無理して伏見琴葉を嫌っている本心を示しているのかもしれない。或いは、それ故に、自らを嘲るように話さねばならなかったことか。
そう見られていることは多少不本意だが、大まかには間違っていない。私はきっと、可哀想な人間なのだろう。自分ではよくわからないけれども。
西野さんの言っていたことはどうやら本当らしい。別に疑っていたわけじゃないけれど。
「喋りたくないことは喋らなくていいけど、私に気遣って言わないでおくってのはやめてよ、友達なんだからさ」
彼女は足元のシャープペンを拾い上げると私に手渡す。その手は私よりも少し大きくて、頼もしく見えた。
彼女は不器用なりに私のことを心配してくれている、それだけで私には十分だった。
昨日とは立場が真逆だけど、本来、本郷藍子とはこう言う姉御肌で頼りがいのある人間なのだろう。
「朱音の言いたい話だけでいいからさ、気が向いたら教えて欲しいな、朱音のこと、私はもっと朱音のこと、知りたいし」
「……ありがとね、藍ちゃん……なんか、お姉ちゃんみたい」
「ふふっ、朱音みたいな妹なら歓迎するよ?」
そう言って少し不器用に笑う藍ちゃんの笑顔はどこまでも暖かく感じた。
もう少し、もう少しだけ彼女に甘えてもいいだろうか、などと本当にほんの少しだけ思ってみたりして。
妹という言い回しも存外、嫌ではなかったり。
「……ありがとう」
万感の思いを込めて、一言だけ感謝を口にする。
きっと私はこの先何度も、彼女に同じ言葉を言い続けることだろう。
ただ、なんだか久しぶりに心から笑えた、そんな気がした。
「ちょっとそこ授業聞いてますかー」
先生に咎められ、名残惜しくも私は前に向き直る。その時に藍ちゃんにウィンクをしたのは少しのサービスだ。
彼女、本郷藍子なら私を導いてくれる。あの日まで私を支えてくれたあの人のように。
窓から入る冷たい風が私の頬を撫でた。春はきっと、もうすぐ来るだろう。
そしたらまた昔のように皆で笑いあえるだろう、きっと。
あけましておめでとうございます。
今年も何卒宜しくお願い致します。
さて、外伝三部作の一として、この度、緋の章をリリースさせていただきました。
この初日編という大きな導入の中で、彼女たちが何を思っていたのか、
そんな事が書ければいいな、と思いまして、執筆に至った次第です。
緋・春・桜それぞれをお楽しみいただければ幸いです。
それではこのへんで。
今年こそは執筆速度を上げたい 須永梗太郎




