初日-10
食事後すぐに入った風呂から上がると、私はリビングのソファで横たわり、母が再開したFPSをぼんやり眺めていた。
時刻はなんだかんだで八時半を少し回ったくらいを示しており、物理のノートを取り直すくらいしか今後のやることの予定も特にない。
「藍子、もっと強い武器ないの」
「強いって火力?」
「そう」
「あるけど……それより30くらい装弾数落ちるけどいい?ブレも大きくなって精度も若干落ちる」
「じゃあこれでいい」
母はそう言うとまた前線に出でて悪鬼のごとく敵部隊を蹂躙している。突撃だけでは芸がないとは思うのだが、母は楽しそうなので放っておく。
何度も言うがそれは私のゲームだ。やりたかったなら半額だしてほしいものである。
「ああ、そういえばあんたがお風呂入ってる時、晴香ちゃんから電話来てたわよ、留守電残ってるし」
「……出なかったの」
「交戦中」
気持ちはわからなくもないが、人として出るべきだろう。まあ幸いにも晴香であったのなら別によいのだが。
晴香も晴香で相変わらず携帯電話の意味を持たない女である。私は冷凍庫からアイスの捜索をやめると電話の方へ向かい、幾度となくかけた番号をプッシュする。
ワンコール目を遮るように、ガチャ、と回線が繋がる音がして、夜でもお構いなしの煩い声が私の鼓膜を揺らす。
『もしもし藍子?』
「……出るの早くない?」
『私も今かけようと思って電話とったの!凄くない!?』
「あーすごいすごい」
何が楽しいのかはわからないが晴香は頗る上機嫌である。昨日の咲良と比べてもテンションの差は凄まじい。咲良と比べても仕方ないけれど。
「……で?どうしたの?」
『ん?ああ、えっとね……さっきの藍子調子悪そうだったから心配で』
「何それ、大丈夫だよ」
『そーならいーけどさー、風邪には気をつけなよー』
晴香にも心配をかけていようとは。なんだか物凄く自分自身が居た堪れないような心地になる。
『あ、そうそう!明日こそは私も仲間に入れて!昼休み酷い目に―――じゃなくて色々あったからさ』
「うん、伏見さんも会いたがってたし、明日一緒に食べよっか」
私の提案に晴香はそうするー、と気の抜けた返事をしたあと、思い出したようにああ、と漏らす。
『そうだそうだ、伏見さん?ってどんな子だった?』
「うん、性格良さそうで可愛らしい子だったよ」
『私とどっちが可愛い?』
めんどくさい彼女か、お前は。
「伏見さん」
『藍子は女を見る目がないなぁ』
「切るよ」
『冗談冗談!それでね……』
十分程度、私は晴香の取り留めのない話を聞き続けていた。
さっき見たテレビの内容とか、煌一さんがバイトのシフトの都合で帰ってこれなかったから晩御飯が親子丼になったとか、そんな明日会えばできるような話。
でも晴香が今、私に電話してきたのはきっと、私が心配だったからなわけで。
『それでお兄ちゃんがね……』
「晴香」
『……なーに?』
「いつもありがとう」
『……えっ?何が?』
電話の奥で団栗眼をさらに丸くする晴香の様子が想像できた。晴香は相変わらず晴香のままである。
「いや、なんでもないや」
『そっか……じゃあ、眠いから寝る!また明日ね!』
「うん、お休み、晴香、寝坊するなよ」
『りょうかーい、お休みー』
電話が切れ、部屋には機銃を連射する銃声だけが薄型テレビから聞こえてくる。
「お母さん」
「何」
「お母さん、大切な友達っている?」
「突然何」
「なんとなく」
母は一度呼吸を置くと、いるけど、と応える。背中越しには表情は読めず、ただ両手の指だけが忙しなくコントローラーの上を這っていた。
「その人のこと、好きになったことってある?」
「好きじゃない友達なんかいないと思うけど……普通じゃない意味でってこと?」
普通じゃない意味で。
なんとも、知らないうちに私の傷口を抉ることにかけてこの母は天才的である。帰り、見送ってくれた時の咲良の顔が脳裏を過ぎっていく。
「そう、なるね」
「……あったわよ、あんたと同じぐらいの時期に」
「えっ」
頭ごなしに否定されると思っていただけ、予想だにしなかった答えに、喉の奥に声が絡まって出づらいような心地だった。
「隣にいるのが当たり前だって思ってたけど、その感情が異質なものだって気づいたのはあんたと同じ頃、自分でも訳分かんなかったわよ」
「……それで、どうなったの?」
母の触手のように動いていた指がピタリと止まる。画面への集中も失せたように、画面上で構えていた銃はだらしなく地面に銃口を向けた。
「どうにもならないに決まってるじゃない、そんなの」
いつもの冷たい声音に僅かに感情が篭る。今までに一度も聞いたことない母の声だった。
高い銃声と共に視点は横に倒れ、自身の死亡を知らしめる。
「私も、相手も普通の男と結婚して普通の主婦として暮らしてる、それだけよ」
「今でも、好きなの」
「……もう私たちは、大人だから」
そう言って自嘲するように母は鼻で笑う。その笑いに深い意味もきっとあるんだろう。
「……とでも言えば満足かしら」
「えっ」
「嘘に決まってるじゃない、抑も友達なんかそんなにいなかった」
母はもう一度鼻で笑うと、コントローラーの○ボタンを押しリスポーンする。この笑いに含まれるのは、明らかに人を馬鹿にした嘲笑。
「気の迷いよ、アンタは昔から本やゲームの世界に影響されやすいんだから、差し詰めよく分かんない少女漫画でも読んだんでしょ」
「……そんなことないよ」
「じゃあ、本気で咲良ちゃんのことが好きって言えるの?」
「それは……」
母は語調を強めながらも、声音は至って冷たく平静で、答えに窮して口篭る私との間に一瞬の沈黙が訪れる。
しかし、何かが妙だ。
「……なんで咲良って」
「あんたの仲がいい友達って咲良ちゃんと晴香ちゃんくらいでしょ」
ご尤も、と私は心中で自らの交友関係の狭さに呆れかえる。悔しいが反論の余地はない。
「出来ないことはするもんじゃないわよ、変な優しさは相手を傷つけるだけだし、何も守れない独り善がりな勇気はただの蛮勇」
「……そうだよね」
「そう」
突き放すような口調だった。
別に同調して欲しかったわけじゃないが、刺さらないといえば嘘になる。
ただそれと同時にハッキリとした。
この感情は、きっと、気の迷いだ。新しい環境への不安故に私が作り出した幻だ。
「……ありがとう、スッキリした」
「じゃ、さっさと寝れば」
「ノート写してから寝る」
「あっそ」
母は生返事をしながら今度はサブマシンガンを縦横無尽に撃ち続けている。無駄撃ち甚だしいが、何回言ったってやめないので放っておくしかない。私はリビングを後にすると自室へと向かう。
リビングの出入り口辺りの棚上の写真立てに飾られているのは若かりし母と、美人な同級生と思わしき女性。ガラスに反射した自分の顔とその母の容貌は、やはり似ているかもしれない。
そして、真横の麗人。母は多くは語らないが、なんとなく察しはついている。
「……さ、物理のノート写そ」
私は扉を開けると、一路、自室へと足を向けた。少しだけ、足取りが軽くなった気がした。
その夜、夢を見た。事実無根で、荒唐無稽なただの夢。
場所は多分、東景中の第二音楽室。
少し雰囲気は違っていたけど、大まかな作りは一緒だ。私は、指揮壇に腰を下ろして笑っていた。
手に持っていたのは、中文連の優勝トロフィー。あの重さと質感は夢の中でも忘れられそうにもない。
不思議なことに、自分でも夢だとわかった。ただ、そんなこと、どうでもいいくらいに私は笑っていた。
この空間で四人の見覚えのある人たちも私と共に笑い合っている。咲良と、晴香と、朱音と、そして伏見琴葉。でも、何だかあべこべだ。
咲良の背丈は今の半分位で、腰まで伸びた栗色の髪にはクリクリの天然パーマが掛かっている。
ずっと昔の、私の背中にくっついて離れなかった、幼稚園時代の咲良に他ならず、嘗てのように私の服の袖を強く握っている。
その隣にいるのは晴香で、こいつもまた、初めて会ったときと同じくらいの背丈で、短く切り揃えられたショートヘアが風に揺らいでいる。
晴香はいつもの様に、私の膝の上で朗らかに笑っていた。
それとはまた矛盾するように、目の前には昨日あったばかりの朱音が、旭陽の制服を身に纏ってこちらに微笑みかけてくる。
その端正な顔立ちは、初めて話しかけてくれた時の笑顔と微細の相違もない。
そして私の横には、伏見琴葉が座っていた。
彼女の姿は、あの日見た柏丘の制服で、色素の薄めな黒髪を左右二つに結わえている。他三人と比べてぼんやりとしか見えないのは、きっとこの姿が私の記憶と空想の中で象られた贋作だからなのだろう。
セーラー服を着た彼女は、聖女のように笑っていた。
「大好きだよ、藍子」
伏見琴葉は、私に寄り添うように体を傾けると、頭を私の肩に預ける。
「大好き」
伏見琴葉は確かめるようにもう一度言うと私の肩に、その細い腕を回す。熱を帯びた身体が、制服越しに伝わってくる。
『ダイスキダヨ……』
伏見琴葉の甘い声が、脳幹をドロドロに溶かしていく、そんな心地だった。
目の前の咲良が、晴香が、朱音が、眼前の世界が。ぐにゃりと歪み、禍々しい渦になって消えていく。
それでも伏見琴葉は笑っていた。
全てが暗い渦の中に飲み込まれ、私の体は無数の蜘蛛の糸のようなものに拘束されていく。その漆黒の糸の一筋一筋が意思を持ったように私に絡みついては離さない。
『ダイ……ス……キダ……ヨ……』
もう、そこにあった物の全てが既に渦に呑まれてなくなっていた。目の前に広がるのは、深く、晴れることのないような暗い、真っ暗な闇。それでも、彼女の甘い声だけが私の鼓膜を震わせる。
理由は、分かっていた。
何故なら、彼女は既に私に纏わりつく漆黒の繭の中で私の中に取り込まれていたのだから。
私に溶け、全てを蝕むように私と一体化した彼女は笑っていた。
笑いながら何度も同じ言葉を口にした。『大好きだよ』と。
夢にしては、酷く気持ち悪く、それでいてこの感触はあまりに現実臭い。視界が段々と黒く染まっていく。
『……ダ……ヨ……』
その甘い声ですらも、遠くに聞こえてくる。闇の中に体が溶けていく、そんな感触だった。
朦朧とする意識の中、私は、最後に、伏見琴葉を探して、右手を伸ばした。
柔らかな、温かい何かが指先に触れ、そして消えていった。
無くなったのはそれか、私の指先だったのかは分からない。また、それが伏見琴葉の残滓だったのかも。
でも、多分そうだったのだろう。私の中に沸々と満足感が込み上げてくる。
私は、笑っていた。
自分が消えることも分かっていながら、ただ、笑っていた。
私に纏わりつき、私自身を喰らっていた糸はいつしか黒い茨に変わり、溶け切らない私の体を突き刺した。
痛みはあったが、それでも私は笑っていた。私の身は既に闇に消えていき、意識は暗澹として、視界は更に暗く、狭くなる。
『大好きだよ』
私の目の前で、一輪のバラが散っていった。
真っ暗な、深い深い闇の中でも見留めることができるくらい一際輝く、漆黒の花弁を持つ奇麗な真っ黒なバラの花。
その花弁が、ゆらゆらと闇の中を漂い、やがて私の目の前に墜ちた。
『ずっと、ずっと、ずっと一緒だよ?』
最後に私が見たのは、闇に溶けていくバラの花弁と、どこまでも果てしなく広がる深い闇。
でも不思議と怖くはなかった。これもきっと私の運命、ふと、そう思えた。
自身という概念も曖昧な中、私は狂喜し、ただただ笑った。
それが、夢の最後だった。
これが私たちの些細で、取り留めのない出会いの話。
そして、この夢はその私たちの物語の序曲の一部に過ぎない。でも、確かに、少しずつ、私の平穏と日常は狂い始めていた。
きっと私もいつか、解るときがくるのだろう。
これは私と伏見琴葉の歪な物語。歪な運命の物語。
その最後の日を迎えるまで、ゆっくりと確実に、時計の針は進んでいた。
その始まりの一刻は―――
お久しぶりです、須永です。
またまた一ヶ月、申し訳ないです。
さて、宣言通りと言いましょうか、10部にして初日編完結です。
そして、全体の物語の導入が終了といった感じですね。
まず、ここまでお付き合い頂きましてありがとうございます。
そして、今後とも拙作『黒い糸』を暇潰し程度に見ていただければ作者冥利に尽きるものです。こんな作者ですが、頑張って書いていきますので、何卒よろしくお願いいたします。
さて、次回では三部の外伝の後、本編では部活を決定していきます。
藍子、咲良、晴香の三人が踏み出す新たな道とはどうなるのでしょうか。
……次話、早く書きます。
御覧になっていただきましてありがとうございました!
須永 梗太郎




