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黒い糸  作者: 須永 梗太郎
初日編
17/27

初日-6

「……ごめんなさいっ、私が無神経なこと言ったなら謝りますから……っ!だから……だからっ……!」


背中越しに聞こえる透き通った甘い声が私の鼓膜を震わせる。


背中に当たる彼女の細い体躯が、回された白い腕が、乱れた呼吸が、鼻を掠める甘い香りが、その全てが私を包み、引き止める。


彼女の突発的な行動の意図など私には分かるはずもない。


「行かないでください……っ!まだっ……まだ本郷さんの話が聞けてないです……っ!」


彼女の声に、私の脈拍は上がっていた。それは雑踏すらも遠く聞こえるほどに。


それほどに、彼女の行動は妙で、異質で、奇怪といってもいい。


「私の……話?」


雑然とした空間から隔てられたように、周囲のノイズが消失していく。


寂寞の無音の中、それを切り裂く研ぎ澄んだ刃のような声。


「そうですっ!本郷さんがどんな思いであの場に立っていたのか……理解したいなんて迷惑ですか?」


彼女がどんな表情でこの台詞を吐いたのかは分からない。ただ、彼女が私を包むその弱々しいほどに細い腕に、力が入ったことだけは感じた。それが、彼女なりの誠意であることも。


―――敵わないな


私は落胆と共にフッと息を吐き出す。晴香には溜息が癖になると幸せが逃げるからやめろ、とよく怒られるが、今日のは少し意味合いが違うかもしれない。


「……大した話じゃないから、そのまま聞いてて」


彼女を座らせなかったのは私の、最後の意地だ。


また目を合わせて喋れば、きっと私の表情は見れたものじゃなくなってしまうだろうから。


これ以上、尊敬などしてくれている彼女の前で格好の悪いところは、見せたくなかった。そんな意を汲んでか、彼女は首肯の代わりに力んでいた腕の力を緩める。それを合図に私は口を開いた。


それは今まで、明かさなかった胸中。


「私はさ、優勝したかったんだ……全道、夢だったから」


東景は柏丘のように勝利を基礎代謝にしているような学校ではなく、俗に言う『勝ち方』というのも知らない。それでも、顧問の最後の花道に、行けるところまでは連れて行きたかった。


それに、私達自身にしてもあれが引退を賭した最後の大会であり、その終着点が全道や全国は疎か、支部通過だけでも大金星だと思っていた。


だというのに―――奇しくも、私たちは勝った。あとは、彼女も知っている通りだ。


「先生がさ、寒河江(さがえ)先生って言うんだけど、私たちが最後の生徒だったんだよね、先生の定年まで、それまで一回も全道進んだことなかったから」


「それで、全道を目標に?」


「うん、それだけだったんだ、最初は」


私は一度言葉を切ると、呼吸を整える。思い出されるのは懐かしい景色と日々。


「でも、私に部長なんて大職任せて……志を託してくれた先輩がいて、私を信じてついて来てくれた後輩がいて、熱心に指導してくれた先生がいて、なにより支えてくれる仲間がいて……私はこの人達のために勝たなきゃって思って、今思えばただの思い上がりなんだけどね」


「それが本郷さんの強さ……ですか」


伏見琴葉に比べれば、私の背負うものなんて些末で軽いものかもしれない。


それに彼女の言うほどに私は強くなんかない。


それでも、私たちが全道まで進めたのは多分、運とかそんな蒙昧なものじゃ説明のつかない何かがあった、と私は今でもそう思っている。


「強さなんて大袈裟だよ」


「いいえ、本郷さんは強いです、私はそれをすべきだったのに、出来なかったから」


虚無感を噛み締めるように、その澄んだ小さな声で彼女は呟く。


私は漸く理解できた。


私と彼女は境遇も思考も目標も全てが正反対といってもいい。だからこそ私は伏見琴葉に惹かれ、彼女もまた私に敬意を表してくれるのだと。


そして彼女は、光と影ほどに相反する私を受け入れ、認め、前に進もうとしているのだと。


なのに、私は―――


「……伏見さん」


「はい?」


「私のやって来た事は、間違いじゃないのかな」


これだけは聞きたかった。


彼女の目に映る私の姿が、あの日彼女と相対した私の姿が、彼女には私がどう見えているのか。


「……正しくはないけど、間違いではないと思います」


「……そっか」


彼女の澄んだ声の刃は再び私の心臓を抉る。ただ、悪い気はしなかった。


きっと彼女のしてきたことも正しくはなくとも間違ってはいないのだ。


そう思うと、絡みついていた劣等感が少しずつ剥がれ落ちていく。私は伏見琴葉に敵う要素は極めて少ないかもしれない、でもそれでも、私のしてきたことは間違いではなかった。


それだけで少し、報われた気がした。


「でも、本郷さんが部長で私が副部長だったら結構いい部になったかもしれませんね」


「そうかもね、中和されて丁度良くなるかも」


「中和ですか、確かに、私も本郷さんも思考が偏ってるのかもしれませんね、だからこそ、惹かれるのかも」


私が振り返ると、そう言って彼女は可憐に笑っていた。


その笑顔は大輪の花のようで、私はこの笑顔をまた見たいと思った。惹かれているのはきっとお互い様、という奴だろう。


「本郷さん、やっと笑ってくれた」


「えっ?」


「私、本郷さんの笑顔、昨日も今日も見てないんですよ?」


言われてから気がついた。私は、彼女の存在に怯懦し、恐れるあまりに愛想笑いですらもできていなかったのだ。彼女はあんなにも微笑みかけてくれたというのに。


「やっと見れて良かったから、その、これからも仲良くしてください」


彼女が一歩下がって左手を伸ばすと、肩に掛かっていた艶やかな黒髪が流れていく。


その場に漂うのは芳しいシャンプーの香り。


「こちらこそ、よろしくね」


私はか細く、彫像品のように美しい彼女の手を取ると壊れてしまわぬよう、包み込むように握手する。


伝わってくる仄かな体温や柔らかい肌が余計に私の拍動を加速させた。


「……時間とらせちゃってごめんなさい、もう行きますよね?」


「……うん、じゃあまた明日」


そうアッサリと口を突いた『マタアシタ』の五文字が、不思議な感じで、でも明日も明後日もその次の日も彼女に会えるわけで、


でもこの一瞬がなんだかとても愛おしくて、私は名残惜しくも、彼女の左手から手を離す。


「あのっ!明日も!」


一歩目を踏み出していた私を静止するように、彼女の甘くも、透き通った声が私に向けて放たれる。


「そのっ、明日も一緒にご飯食べようっ、藍子!」


少し上気した紅色の柔らかそうな頬が雑然とした空間の中にも彩度高く映える。


今までの芸術的とも言える彼女の顔の造りとはまた違う、極めて人間的な表情だった。その仕草の全てが弄らしい。


「う、うん、明日あけとくね」


「あ、ありがとう!じゃあ、また明日っ!」


思わず見蕩れ、適当な相槌をうっていた私に対し、伏見琴葉は慌ただしく椅子にかけてあった茶色のダッフルコートを羽織ると階段を駆け降りていく。その後ろ姿には、なんだか庇護欲を掻き立てられる。


―――何なんだ、この感情は


今までにこんな事例がなかっただけに、私の心中はますます焦燥に駆られる。落ち着かせようとすればするほどに心拍数は上昇して息苦しい。


思い当たる節がないわけではないが、それはあまりにも俗的で、突飛で、馬鹿げているとしか言えない事案。


「……恋?」


そう呟いてから、私はその下らない考察を一蹴する。


なにせ、私も、伏見琴葉も女なのだから。


そんな禁忌を犯すほど、私はおかしいのだろうか。


目の端で追っていた伏見琴葉の背中はもう見えなくなってしまった。掲げられた壁時計の示す時間はもう進んでいて、そろそろ校門で咲良と晴香と落ち合う時間になっている。


待たせたらまた晴香が煩いしな、そう思いながら私もカバンを右手に伏見琴葉の下って行った階段に続いたのだった。




時間は四時を回ったところで、外の天気は朝からさほどの好転もなく天空は雲に満たされている。そんな中でも市内を一望できる絶景を余所目に、私は十年来の付き合いである幼馴染の影を探す。


言うなれば下校ラッシュというやつで、周囲四方どこを見渡しても同じ制服を纏った同年代の少年少女で満ち溢れていた。


「藍子ーっ!こっちこっち!」


声の方に向き直ると人混みに揉まれながら、小柄な少女が精一杯に背伸びをしながらこちらに手招きをしている。


それは紛れもなく晴香の姿であり、その横には咲良が少し憔悴したような笑顔を浮かべながらこちらに手を振っていた。


「遅かったねー、掃除?」


「うーん、まあ、そんなとこ」


「そんなとこ?」


本当のことを言っても却って説明が面倒なため、晴香の勘違いをそのまま首肯する。


咲良ならまだしも晴香の場合は不機嫌になるか、興味全開で根掘り葉掘り聞いてくるかの二択である。これ以上詰問されるのも芳しくないため、さっさと話題を転換する。


「……で、晴香、今日どこ行くか決まってるの?」


「え?あー……何も考えてなかった」


案の定というべきか、晴香は苦々しく笑っている。やはり、そんなことだろうとは思っていたが、なんとも相変わらずである。そんな晴香に呆れながらも、私は一枚のパンフレットを鞄から出して晴香に寄越す。


「なに?」


「学校の真下にあるジェラートショップ、晴香、アイス好きでしょ」


因みにこれは昨日の帰り道、伏見琴葉に紹介されたもので、甘党であるらしい彼女のお墨付きである。また彼女曰くチョコレート系のものが特に美味であるらしい。


「……ゴメン、じぇらーとってなに?」


「ジェラートはイタリアのアイスのことだよ、ハル、普通のより味が濃厚で、低カロリーなのが特徴かな」


辿々しい発音の晴香の質問を、横にいた咲良が懇切丁寧に回答する。特に低カロリーというのは初耳だが、女子としても嬉しいものである。


というか、やはり咲良は本当に凡ゆるジャンルに博学なようで、よくいる勉強しかできないというタイプとは訳が違うのだろう。流石は学年主席当然の自慢の幼馴染だ。


「じゃあ行こう!今すぐ行こう!さっさと行こう!」


「えっ、ちょ、ハル!?」


晴香はそう言うと咲良の手を掴み、驀地(まっしぐら)に坂に向かっていく。小柄な晴香でも馬力はあるようで咲良が遠心力で振り回されている。


「藍子も早くー!」


「はいはい」


私は鞄を左手に持ち替えると、小走りで彼女たちの後を追って、まだ雪の残る旭陽の坂を下ったのだった。




坂を降り始め五分弱、小洒落た看板が私たちを迎えるように掲げられている。


残念ながら東景地区にはこんなお洒落な店舗はなく、なんとなく尻込みしてしまう。その横では依然自然体の晴香と坂道で疲弊しきった咲良が店先のメニューを見ながら品定めに興じているようだった。


その時晴香が、徐に店の看板を指差す。


「ねー咲良、あれなんて読むの?」


「『Su una collina』?英語ではないと思うし……多分イタリア語かな、ジェラートの発祥だし」


流石の咲良もイタリア語にまでは精通していないらしく、電子辞書で意味を調べている。


すぐに電子辞書が出てくるあたりも学年一位の所以かもしれない。


「『collina』が、丘って意味だから……丘の上とか多分そんな感じ」


「へー」


自分で聞いておきながら、既に興味が失せていたのか晴香は適当な返答をして、咲良に軽く叩かれている。まあ、自業自得だろう。


「じゃあ、藍子入ろっか」


「ん?あ、うん」


咲良に促され、私も二人のあとに続く。


店内は少し暗めの大人臭い装飾で、制服姿の女子高生とは不整合性を醸していた。客層も私たちよりも年上の女性が多く、その様相もなんだか上流階級風で落ち着いている。


「ねえ藍子、ここ、もしかして凄い高かったりしない……?」


既に不安になってきたのか、咲良が私の耳元で囁きかけてくる。店先のメニューには金額は書いていなかったらしい。


「咲良、幾ら持ってる?」


「1000円とちょっとだけ……藍子は?」


「……私もそんな感じ」


私たちの心配など露知らず、晴香だけは呑気に店の作りに感嘆の声を漏らしている。きっと彼女の手持ちもそう多くはないはずである。


「じゃあ、私、席取ってくるから藍子はハルのことお願いね……」


「ちょっと咲良さんっ!?」


咲良は逃げるように禁煙席の方のボックス席まで足早に進んでいく。こういう時の逃げ足だけは早い女である。


そして私の目の前に残されたのは、矮躯でこの場に最も場違いな幼馴染。


「あれ?咲良は?」


「……席取っておくって」


「ふーん、じゃあ、頼みに行こうよ」


晴香は私に構うことなくズイズイと進んでいく。侭よ、と私も覚悟を決めると彼女の後に次ぐ。


「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりでしょうか?」


淡々とした決まり文句を口にしながら、三十代程度の女性店員がメニューをこちらに提示する。


そこに記されていたのは、シングル290円、ダブル450円の文字。


どうやら、完全に田舎者―認めたくはないが―の杞憂だったようで情けなく息を吐き出す。その横では晴香が頬を緩めながらメニューと睨めっこしていた。


「うーん、何がいいかなぁ……じゃあー、チーズケーキのダブルで、藍子は?」


「え、じゃあ、チョコレートのダブル、あと抹茶のダブルも」


抹茶は咲良の分の注文である。店員は少々お待ちくださいと宣い、アイスをカップに装い始める。


「なんかこんな所に来るのって、高校生みたいだよねー」


「もう高校生だからね、私達も」


「そうだよ、しかもアサコウ生だよ、華のアサコウだよ!」


晴香は得意げに制服を見せびらかすように一回転してみせる。こんな子供臭いところは高校生になっても変わらない。


「こちら三点で1350円になります」


「あぁ、はい丁度です」


私は財布からなけなしの全財産を出すと、代わりにレシートを受け取る。これは早く、出し渋られている四月分のお小遣いをもらわなくてはやっていけない。


「お?藍子の奢り?」


「なわけないでしょ、席戻ったら返してね」


「えー、ケチー」


「じゃあ晴香の分のアイスも美味しくいただくけど文句は?」


「きっちりかっちり支払いますので、それだけは」


「わかればよろしい」


不満げに膨らんでいる晴香の頬にアイスを宛てがってやる。晴香は冷たい冷たい、と騒ぎながらも楽しそうだ。


相変わらず、四六時中如何なる時も童心を忘れない奴である。


咲良や晴香との変わらない絆と、朱音、そして伏見琴葉との新たな友好。


相反するようにも類似するようにも思える関係が、今はただ円滑に行くことばかりが私の懐く望みであって。


「藍子ーっ!アイス溶けちゃうよーっ?」


いつの間にやら、先を歩いていた晴香に急かされてしまう。今日という日は毎度彼女に急かされてばかりのようだった。


でも、ジェラートは普通のアイスに比べて溶けにくいのだ。もう少し感傷に浸らせてはくれないだろうか、なんて泣き言は飲み込んで、私はまたも晴香の背中を追ったのだった。

どうも須永です。

さて、今回は前半を琴葉、後半を咲良と晴香の二人と過ごしたことで

それぞれ別の面の藍子が見られたと思います。

さて次回ですが。

このまま東景の三人でのグダグダに終始するつもりです。

たまにはいいですよね、グダグダ。

ご精読ありがとうございます。次回もお会いできれば嬉しいです。

それでは、今回はこの辺で。


筆者 須永梗太郎。

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