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黒い糸  作者: 須永 梗太郎
初日編
16/27

初日-5

それは、昼食を済ませ、五限に備えて各々が動き出していたくらいの時間だった。


古典の授業道具を抱えて歩く私の前に、先程までテーブルで昼食を共にしていた少女がまるで私がここを通ることを予期していたかのように現れる。


その手荷物から察するに次は体育なのだろう。


「本郷さん、少しいいですか?」


「どうしたんですか?伏見さん」


何とも他人行儀な会話だな、とは思うものの私の方から距離は詰められないのでそこは時間が解決するのを待つことにする。目の前の伏見琴葉は印象的な麗笑を浮かべながら、あの、と切り出す。


「放課後、少しだけ話、出来ませんか?……その、大事な話です」


大事な話、という言葉に私の背筋に悪寒が走り抜ける。


さっきまではすっかり忘れていたが、彼女は私を恨んで然るべきの地位にいた少女にほかならない。


如何に、私が彼女に都合のいい幻想を抱いても現状、彼女の本心など見えるはずもないわけで。


「放課後、か……15分くらいなら」


これ以上の時間超過は咲良と晴香の約束を反故にしてしまいそうで、私なりの計算で弾いた取れるであろう最大時間だった。


咲良は言えばわかるだろうし、晴香にはお菓子でも与えとけば大人しく待っているだろう。


「15分……はい、わかりました、じゃあ放課後、購買のところで待ってます」


「うん、バタバタしてごめんね」


「い、いえ!私が突然言い出しただけですから!」


彼女は滅相もない、というように首を振るとその勢いでカバンからジャージを落としてしまう。


彼女が慌ててそのジャージを拾おうと屈んだとき、皮肉にも鞄の開き口から雪崩のように教科書やら空の弁当箱などが溢れ出し、ワックスがまだ新しくテカテカと光っている廊下の床に散乱する。


「あ、あれ!?ご、ごめんなさい!」


廊下のど真ん中で喜劇を繰り広げる彼女を傍観するわけにもいかず、私も腰を曲げ、彼女の始末に協力する。


もしかしたら、生活力と呼べるステータスが人並み以下の水準―平たく言えば、天然―なのかもしれない。


「ありがとうございます、本郷さん」


「ううん、気にしなくていいよ、気をつけてね」


「はい、気をつけます」


彼女は両拳を握ると子供のように頷いてみせる。


もう既に心配しかないが、ここは彼女を見守ることにしようと思う、不安ではあるが。


「じゃあ、次体育なので、放課後にっ!」


「うん、頑張ってね」


彼女はくるりと回れ右をすると、勢いよく廊下を走り抜けていく。


お世辞にも早いとは言えないが―それでも咲良よりはマシである―、それよりも気になったのは。


「伏見さん!体育館!体育館逆!あっち!」


彼女は私の声に振り向くと、その空走距離の間に歩いてきた年配の男性教師にショルダータックルを噛ましている。


「ええっ!?っぁ!ごめんなさい!気をつけます!……あぁ!本郷さんありがとう!じゃあ放課後にっ!」


転倒した名も知らぬ教師の身を案じながらも、私は唯々、全速力でゆっくり遠のいていく彼女を背中を眺めていた。




始業のチャイムが鳴り、古典の授業もまた他の授業と同じく、定例通りにオリエンテーションが幕を開ける。奇しくも古典の教師は先程、伏見琴葉に吹っ飛ばされていた老年の男性に他ならず、足を引きずりながら入ってきたのが彼の往年の癖であることを切に願う他ない。


「藍ちゃん」


「……うん?」


老教師の足に気を取られていた私は、いつの間にか肩ごしにこっちを見ていた朱音への反応が少し遅れる。


最も、彼女はさして気にしてないようで、先生に聞こえない程度の小声で話し始める。


「藍ちゃん、伏見さんとなんで知り合ったの?」


物腰は柔らかで世間話のように装っているが、隠しきれない問い詰めるような語調は焦りと何かへの恐怖の象徴だろうか。


私は彼女に隠しだてる必要もないので順序だてて説明する。


朱音はその間、相槌こそ入れているものの目の奥には底知れぬ何かが渦巻いており、それは私を咎めるものである様にも感じられた。伏見琴葉は危ない、安易に踏み入るな、と忠告するように。


「……というわけなんだけど」


「……そっか、うん……ごめんね藍ちゃん、さっき私怖かったよね多分、あー、咲良ちゃんにも悪いことしちゃったね……」


自嘲気味に笑う朱音にどう声をかけて良いかも分からず、私はただ朱音を見ていた目線を斜め左下に切る。それを首肯と捉えた朱音はアハハっ、と乾いた笑い声を上げるが、それも苦し紛れに発したものにしか見えない。


オリエンテーションはというと先生の昔話がすでに始まっており、失礼ながら今日の授業は聞かなくても問題なさそうである。


現に周りでは食事後の睡魔による脱落者が多発していた。一日目からこの有様で大丈夫なのだろうか。


ただ、今はそんなことや先生の昔話よりも、朱音の話に傾聴するのが得策だろうし、そうすることしか私の頭にはない。


「他の人がいるときは気をつけなきゃって思ってはいるんだけどさ、伏見さんの顔見るとね、こう、何かイラッとくるんだよね、多分私に持ってないものばっか持ってるから嫉妬してるんだね、うん、それだけ、ちっちゃいし性格悪いからさ私」


朱音の言葉は一つ一つが嘲りを含み、自分すらも誤魔化して納得させるような口調だった。


これはきっとこれから伏見琴葉に関わっていくであろう私への配慮なのだろう。きっと彼女は私に、自らの抱く伏見琴葉への印象ないし真実を伝えてしまうことを是としていないようである。


故に、自らを悪人と定義づけることで私に中立的な視点でものを見せようとしているに違いなかった。


根拠はないが、何となくそんな気がした。それは私にとっても勿論だが、自らの感情を抑圧し続ける彼女にとっても芳しいものではない。


ならば、私にも考えはある。


「……琴葉」


「え?」


「さっき、琴葉って呼んでたよね、伏見さんのこと……ホントは嫌いじゃないんじゃない?なんか、無理して嫌ってる、ような気もする」


私の言葉に、朱音はわかりやすい程に動揺を見せる。


手を額に宛い、考える素振りを見せると、諦めたようにふっと息を吐き出した。


その表情は、なんだか少し肩の荷が降りた、そんなようにも見えた。


「……藍ちゃんには何でもお見通しって感じなのかな」


「そんなことないよ、今のはただ、朱音が可哀想に見えたから」


「……えっ?」


朱音は拍子抜けしたような声を上げると、右手に持っていたシャープペンを床に落とす。きっと彼女は私がそこまで気付くとは思わなかっただろうが、悲しいことに私だって悪役は演じなれている。


それが自分の意思とは異なる不本意な事象であったとしても。


「喋りたくないことは喋らなくていいけど、私に気遣って言わないでおくってのはやめてよ、友達なんだからさ」


私の足元に転がってきた彼女のシャープペンを拾い上げると、惚けている彼女の右手にそれを手渡す。


勿論、これは単なる私のエゴなのかもしれない。


ただ、朱音には頼って欲しかった。私がまた朱音に頼るように、彼女にも私を信頼して欲しかったのだ。


「朱音の言いたい話だけでいいからさ、気が向いたら教えて欲しいな、朱音のこと、私はもっと朱音のこと、知りたいし」


「……ありがとね、藍ちゃん……なんか、お姉ちゃんみたい」


「ふふっ、朱音みたいな妹なら歓迎するよ?」


きっと私が姫野朱音という人物を知るにはきっと私が思う以上に多くの時間を要するだろう。


彼女は顔に似合わず、頑固で強情で。ある意味、不器用な私たちは似た者同士なのかもしれない。


「……ありがとう」


少し照れくさそうに微笑む朱音は、やっぱり美人で、可愛くて、彼女の笑顔がもっと見たいと思った。


これは多分、咲良や晴香以外には初めて感じる、言わば友愛なんて形容できる情であろうか。


「ちょっとそこ授業聞いてますかー」


古典の先生に苦言を呈され、朱音は私にウィンクを流すと、前に向き直る。その表情は、昨日出会った時の明るくて、華やかな朱音に相違なかった。


きっとこれから、彼女は様々な苦悩をしていくのかもしれない。それでも、私なんかでも隣に居ることができたら、少しは役に立てるだろうか。


私はノートを開くと、それとなく先生の話に耳を傾ける。


窓から入り込むまだ肌寒い春風が、朱音の亜麻色の髪を揺らしていた。




放課後。


教室の机は後ろに下げられ、割り当てられた掃除当番が不平を漏らしながらモップを床に這わせている。


朱音はというとどうしても外せない用がある、と言って慌ただしく帰ってしまった。やはり昨日といい彼女もなかなか多忙なのかもしれない。


文句やら巫山戯やらで賑わうクラスの喧騒からは遠のいて、私は校内で言う中央に位置する階段を下っていた。下校時間というのも相まり、階段も生徒ラウンジも生徒が雑多としている。


その中でも、彼女の姿は目立っていた。それはあまりに異質とも言えるほどに。


「伏見さん、ゴメン待った?」


「あっ本郷さん、いえ、私も今来たところです」


彼女は私に気づくと、花のような笑顔で微笑みかけ、丁寧にお辞儀する。その仕草の一挙動は洗練され、彼女の高貴さを伺える。


「立ったまんまでっていうのも疲れちゃうので、座りましょっか」


「え?あ、あぁ、はい」


彼女に促されるまま、私は木製椅子に腰を据えると、鞄を椅子の下に置く。


正直のところ緊張の拭いきれない私とは対照的に、彼女は十分にリラックスしているようでもある。それも、やはり柏丘の部長たる所以であろうか、それとも単に私なんかどうでもいいのか。


だとしたらなんだか少し物悲しい。好きの反対は嫌いでなく無関心というように、とことん嫌われるのも嫌だが、無関心というのもそれはそれで少し傷ついたりもするわけで。


少しの寂寞の時間の後、徐に彼女は口を開く。


「……緊張してます?……柏丘の元部長と二人っきりなんて、気味悪いですか?」


「そ、そういうつもりじゃ……!?」


「知ってます、誂ってごめんなさい」


彼女は冗談めかして笑うが、私の緊張は既にバレているわけで、また彼女も改めて『あの話』をするつもりだということも伺える。


待っていたとも来てしまったとも思えるような感情が私の心を揺らし、彼女の笑みが私の不安を掻き立てる。しかし彼女はそれすらも予想の範疇というように、苦笑を浮かべてみせた。


いつもの様に整った笑顔で。


「怖がらないでください、私は本郷さんに何か危害を加える気なんかなくて、いや、抑も恨んでなんかすらもいないんですよ?」


「そう、なんですか?」


「当たり前じゃないですか……寧ろ、尊敬してたんです、本郷さんのこと」


「尊敬?……私を?」


矢継ぎ早に繰り出される彼女の言葉に、私は唯々耳を傾け、相槌を打つことしかできなかった。


少なくとも私は、柏丘という強豪かつ大所帯を彼処まで纏め上げた彼女に尊敬を示されるほどに立派な部長ではなかったと思う。


「本郷さん、私こう見えても人を見る目はあるんですよ?あの日、本郷さんの眼は舞台にいた誰よりも本気でした、何となくわかったんです、ああ、私多分この人に負けるんだなって……こんなこと思ったようじゃ部長失格ですけどね」


そう言って笑う伏見琴葉の目には、怨嗟や悔恨は感じられず、そこには一種の諦めに近い何かが浮かび上がっている。


彼女が、柏丘部長の伏見琴葉が、私たちへの負けを認めたのだ。


それはまるで堅牢な長城が一夜にして瓦解していくような驚きでしかない。


「でも、私たちは柏丘の全道連覇を」


「……歴史はいつか幕を閉じるものです、でも、誰かが幕を下ろさない限り、歴史ってどんどん積み重なっていくんですよ……積んでしまうのは簡単でも、積まされる方にしては、それは途方もない錘で、足枷で、重圧でしかないんですから……その鎖をあの子達に渡す前に切れたなら……それを本望って言ったら怒られちゃいますかね?それに、本気で戦って敗れたのなら悔いはありませんから……寧ろ私達を破ったのが本郷さんの率いる東景でよかったかな」


穏やかな口調の中にも伏見琴葉の語調が強くなるのを感じた。


私のように想定外の勝利に苛まれるものもいれば、彼女のように空前絶後の敗北に嬲られていた者だっていたのだ。


いや、それだけではない。


彼女はあの日敗北するまで、唯々勝利を求められ、如何なる時も常勝校柏丘の部長として振舞ってきたはずだ。そのかかる期待やプレッシャーなど、私に測り得るものではない。


「私はただ、みんなに楽しく、自分のやりたいように音楽に向かい合って欲しかったんです、柏丘として全道全国をみんなで目指すより、自分の奏でる音楽を愛して欲しかったんです、だから、結果として後輩たちを強豪校の呪縛から解き放ってあげられたのなら、私は悪人でも構わない……なんて甘いですよね」


それは、私の中ではあまりに衝撃的で理解しがたい感情だった。


勝利に拘り続けた私は、間違っていたのだろうか、そんな疑念が私を囂々と責め立てる。これ以上聞くのが、怖かった。


「あ、いや!違うんです!別に柏丘に勝つ気がなかった、とかそういう負け惜しみが言いたいんじゃなくって、私たちは持てる全力を出し切りました、それを下して全国に進んだことは……誇ってください、もっと胸を張って欲しいです」


伏見琴葉の考えや理念は私には理解できなかった。


少なくとも私と彼女が逆の立場であったなら、私は自分自身を恨み、そして私を破っていった彼女を呪っただろう。


だが、彼女はなぜ敗北を喫してもなお、これほどに悠然と未来を見据え、私に微笑みかけられるのか。これが私の弱さであり、彼女の強さなのかは分からない。


ただ、彼女が間違っていると糾弾することも、自らが間違っていたと自責することも、今の私には出来はしないのだ。


私は勝者で、彼女は敗者。


事実はそうであっても、私が彼女に優っていた資質なんて万に一つもないのだから。


「伏見さん……どうして貴方はそんなに強いんですか?」


「強い?私が?……考えたこともなかったなぁ」


振り絞るような声でそう問う私に、彼女は一瞬驚いたように瞳孔を開くと、含羞んで見せる。きっと彼女は、人の何倍の荷物を背負わされていても、それを苦としていなかったのだ。


そしてそれをほぼ全てといっていいほどに全うした。それでいてなお、彼女は仲間のことを第一に考えていた。


もう、私のプライドとかそんなものはボロボロだった。私は―――伏見琴葉には敵わない。


「……本郷さん?私、気を悪くするようなこと」


「……ううん、私もう帰るね、約束があるから」


最低だ、と思った。


私への誤解を解きたいがために態々時間を割いてくれた彼女を、自分の些細な自尊心のために無下にし、彼女の眩しさ故に遠ざけた。


私はカバンを持ち上げると、椅子を起つ。


今はもう、逃げたかった。


私は彼女と席を並べられるような立派な人間なんかじゃない。独り善がりに勝利に固執し、仲間すら顧みなかった最低な部長だ。


「尊敬とかやめてください、私は、貴方が思うような人間じゃないから」


ラウンジに掲げられた時計はまだ五分少ししか進んでおらず、辺りの喧騒はまだ収まりそうもない。


私は負け犬そのものな捨て台詞を吐き捨てると、人混みの中に体を委ねんとする。


これで良かった、とも思えた。柏丘の部長―いや、伏見琴葉という人間そのものか―と私が釣り合うはずもないのだ。始まってすらもいないようにも思えるが、これで、私と彼女の関係も終わりだ。少し物悲しくもあるが、それでいい。


決別を込めて私は群衆に向けて歩みだす。


一瞬垣間見えた伏見琴葉の驚きと悲哀の入り混じった表情を振り切るように。


「待って、本郷さんっ!」


踏み出したはずの私の足を引き止めたのは、今にも泣きそうな細くも澄んだ声と、その逡巡の間隙に、縋るように絡み付いた白く細い腕から微かに伝わる、暖かくて柔らかな彼女の温もりだった―――

こんばんは、須永です。

この夏は自分なりにはハイペースで書けている方だな、と思いつつ。

さて、この初日編5話では

藍子と琴葉の対比に一つスポットを置いてみました。

勝利に固執して奇跡とも言える優勝へ導いた藍子からすれば

伏見琴葉の存在は余りにも異質と言えるでしょうね……

次話ではもう少しこの話を広げつつ、放課後の東景組の友好にも触れて

いこうとも思います。

まだまだ暑くなりますので体調管理にはお気を付けて。

筆者 スナガ キョータロー

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