初日-外伝 春の章 1
『子ども』とは何か。
そんなことを聞かれても、多分私は高校生になった今でも答えに困るだろう。
18歳を超えるまでが子どもか、自分の家族を持つまでか、或いは恋を知るまでが子供なのか。
多分どれも私の求める答えではないが、ほかの人には正解なのかもしれない。
未だ見つからぬ私自身の答えにヒントがあるとするならば、それは、
『自分が子供であるのを認めることが大人への一歩なんじゃないか』という、
常に私を導いてくれていた幼馴染み、本郷藍子の言葉だった―――
「で?話って何?」
私の不機嫌な声は静まった廊下を通っていく。
地階とも呼ばれるこの辺りには下足ロッカーと大きな鏡程度しかものはなく、私の目の前には四人のクラスメイト―らしい、顔も名前も知らないけれど―が身長的に私を見下すように取り囲んでいた。
「……あんたさ、何様なつもりのワケ?真里谷くんに媚び売っちゃってさ」
勇みでてきた長身の女の言い草からここに私が態々呼びつけられた理由を理解する。
と言っても、理由そのものも意味がわからないし、私自身にそこまでの積もりがない以上はどうしようもない。
「そんなどーでもいいことならお昼食べてきていい?お腹すいてるんだけど」
「このチビ……!」
「やめなよ、ねぇ?」
掴みかかってきた女を諌めるように、後ろにいたリーダー格の女が肩を叩く。最もその女の目も据わっており自体の好転は見込めそうにない。
っていうか誰がチビだ。そういったアンタだって身長がデカいだけでスタイルは悪いじゃんか。これでは藍子と大違いだ。
藍子は胸が若干控えめなだけで、脚はモデルばりにスラリと長く、顔立ちだって、くーるびゅーてぃー―使い方あってるだろうか?―に整っている。
そんなことを思っている私の前に、リーダーと思わしき女が歪笑を浮かべこちらを嘲るように見下ろしていた。
「宮沢さん、だったよねぇー?私ー、萱島って言うんだけど……覚えてないよねぇ?」
萱島と名乗った女はそう言って、口元を歪ませる。甘ったるい声やねっとりとした喋り方は悪意と憎悪に満ち、その狐のような眼差しからは狂気すらも感じられる。
「私たちはさぁ、別にあなたと喧嘩したいわけじゃなくてねぇ?たださ、私たちの真里谷くんにちょっかいかけないで欲しいかなぁって」
「それで?真里谷くんのことは無視でもしろ、と?バカバカしいな……高校生にもなって恥ずかしくないわけ?抑も、私たちの真里谷くんって何よ、そんなに大事なら名前でも書いとけばー?」
自分でも、だいぶ挑発的だったと思うが、その効果は覿面で、萱島の蟀谷に青筋が浮かびあがる。
別に、私は真里谷くんとやらに特別な感情など微塵もないが、コイツらを恐れて喋らないなんてのは私の性に合わない。
「……それは私たちへの宣戦布告……、ってことでいいのよねぇ……?」
「それならそれでいいけど、勝手にすれば?私友達待たせてるから」
「友達……ねぇ……西野さんっていったかなぁ?後……本郷藍子とか言う女……だよねぇ?」
「……なんで、知ってるのよ」
私を馬鹿にするように萱島はケラケラと笑い出す。長髪を揺らし、体を屈折させながら甲高い声をあげるその光景は常軌を逸しているとしか言えなかった。
それは私の中の本能的な何かが諭す。
この女はヤバイ、と。
「なんでぇ……っ?フフッ……ゴメンナサイねぇ……少しおかしくって……!貴方、自分の立場がわかってるのぉ?」
「立場……?」
「そうよ、貴方はあの忌まわしき東景中の吹奏楽部なんですよねぇ!?知らないわけないでしょぉ?」
「……忌まわしき?あんた、吹部の人間なの?」
私の言葉に、女はそうだよ、と歪みきった笑顔で答える。
私の中でこの女は、既にクラスメートなどではなく、敵という認識で決定していた。
東景に、私たちの努力や誇りに、そして何よりも私の大切な藍子や咲良へ仇為すのなら、それは紛いもなく私の敵だ。
「やっぱり覚えてるわけないわよねぇ!貴方達の下に埋もれて消えてった弱小校の部長なんて!あぁぁぁぁ!本当に忌々しい!」
そうは言われても、彼女の顔なんて思い出せるはずもなく、私はただ敵意を持って、呆然と立っていることしか出来なかった。
少なくとも、全道大会にはこんないかれた女はいなかったに違いない。
「……フフッ、仕方ないから教えてあげるわよ……私たちは桐幡中の吹奏楽部、そう東景によって夢を潰された学校の一つ」
「きり、はた?」
そこまで言われてもピンと来ないあたり、多分本当にそんなに強い学校ではなかったのだろう。これでも私なりには上手だった中学の演奏は覚えているつもりである。
特に、去年の柏丘の演奏は圧巻で、私たちがあれほど血が滲むまでに真面目に練習していなければ間違いなく全国には柏丘が進んでいただろう。
「アンタたちさえいなければ……!あの憎き本郷藍子の顔……っ!あぁ……思い出しただけで吐き気がしてくるわ!」
「……藍子が、藍子があんたに何したっていうのよ」
睨み上げる私に応戦するように、萱島も目つきを更に細めて私を見下ろしている。
決して身長が高いわけではないが、やはり小さな私には分が悪い。
だが、怯むはずもなかった。
この女は今、藍子を侮辱し、否定した。それだけは、何が何でも許せるはずもない。
「きりたんぽだかなんだか知らないけどさ、私達はアンタらの数十倍は練習したの、わかる?……そんなこともわからないから負けたのよ」
言ってから、これは少し余計だったかと気づいた時には彼女の掌が私の頬を強く打っていた。
正直それなりに痛いが、小学校低学年に藍子に決められていた関節技を思えばこんなの、どうってことはない。
ただそんなことよりも拙かったのはこの後で、
何とも反射神経の優れた私の拳は無意識のうちに彼女に右フックのカウンターを浴びせていたわけであって。
無論、武術の心得などあるはずもないであろう萱島が力なく左に吹っ飛んでいく。
―――ああ、これはマズイ
不本意ながらも仕方なく、喧々囂々と叫ぶ集団に背を向けると、私は一目散に走り出す。
本当のところはもう一発殴っておきたかったが、これ以上面倒になるのは御免だ。どこに逃げれば良いかなどはさっぱりわからないが、今はただ走るしかなかった。
「待ちなさいよぉ!宮沢晴香ぁぁ!」
「待てって言われて誰が待つかぁぁ!」
当然待つはずもなく、私は階段を駆け上がると、壁に手を当てて勢いよく左折する。
校舎の設計なども分からぬまま、私は唯一鍵の空いている教室に滑り込むと、そのまま鍵を閉める。
誰かしに助けを呼ぼうにも携帯電話は自宅に置いてきていた。こんなことなら藍子の言い付けを守って持ち歩くべきだっただろう。
元を正せば下らない男女のやっかみに巻き込まれただけだったはずなのに、どうしてだかこんなことになってしまっていた。
確かに高校、ましてや柏丘の真上に位置する旭陽に通うと決めたとき、ある程度の向かい風は覚悟していたし、寧ろそんなもの切り裂いてやろうと考えていた。
咲良は昔っから小さいことですぐウジウジして勝手に抱え込んで自分で収拾つけられなくなるし、藍子だって外面では気にしないフリしてるくせに内心では咲良以上に気に病んでいて、でもそれを決して私たちに見せないように、只管に凛とした全国優勝校東景中の部長を演じていた。
特に周囲の連中から槍玉に挙げられた藍子の心中はボロボロだったに違いないんだ。そんな二人を守れるのは、私しかいない、いつしか無意識にもそう思うようになっていて、それから私は強くなろうとした。
きっとヒーローは少し馬鹿で鈍感で子供じみたくらいが丁度いいんだ、なら私しかできないな、なんて思いながら。
これは、恥ずかしいから二人には内緒だ。
―――抑も、この教室はなんだ?
落ち着いて見渡してみると、三つのベッドが私の目を惹く。
それに棚に入れられた衛生用品や微かに香る消毒液の香りから、ここが保健室であることは私にも理解できた。養護教諭は席を外しているようで、狭い室内に私以外に人は見当たらない。
仕方なく私はベンチ状の椅子に腰掛けるとブレザーのジャケットを脱いで、微かに乱れた呼吸を整える。
―――ああ、折角、咲良が誘いに来てくれたのに無駄になっちゃったな
昼休みになって八組に訪れた、咲良の表情は嬉々としていて、それは私を大いに安心させた。
私と比べると藍子は不器用な上、無愛想で人に勘違いされやすいし、咲良に至っては第一に緊張でコミュニケーションが成立しない恐れがある。
私ですら彼女の心を開くのに半年近くを有したわけで、そこまで咲良に付き合ってあげられる人間もなかなか稀有なものだろう。
そんな咲良があんなに楽しそうにしていたのは少し驚いたが、昨日のこの世の終わりみたいな表情よりはずっといい。藍子と、咲良と藍子の友達のあのちっちゃい子―えと、名前なんだったっけか?―、そして謎多き柏丘の部長。
「あぁぁぁっ!私だって行きたかったぁぁっ!」
きっとみんな仲良くお喋りしながらお弁当を食べて、昔の話やひょっとしたら恋バナに興じているのかもしれない。
藍子と恋バナといえば、花束とチェーンソーくらいの噛み合わなさだがそこには目を瞑ることにしよう。壁にかけられた時計は十二時半を示しており、昼休みはまだ三十分残されているが、かと言って今廊下に出るのは愚の骨董?という奴である。熱りが冷めるまではここで隠れていた方がいいかもしれない。
「あぁっ!もうっ!どうして私だけがこんな!」
私は大袈裟にベンチに倒れこんで天井を仰ぐ。
学校特有の謎の線が走る天井に吊るされた切れかけの蛍光灯は寿命が近いようでチラチラと点滅していた。
「……私だけ?」
自分で言った言葉を復唱すると私はゴクリと唾を飲む。
あの女は私のことは疎か藍子や咲良のことまで調べ上げていたはずだ。
それにあの目は、明らかに異常だった。
そんな女が私に罵られ、挙句殴られ、逃げられで大人しくしているはずもない。
そして咲良が言うにはみんなが昼食をとるのは最も人目に付き易いラウンジ。
―――浅はかだったっ!
私はベンチから飛び上がると、押取り刀で保健室を飛び出す。
あの女だけは二人に近付けてはならない、そう本能が騒いでいた。ある意味これも私の役目だ。これ以上藍子と咲良の悩みの種は増やしたくない。
二人には出来る限り幸せでいてほしかった、その代償を私が被るとしても。
私は二人の笑顔が見れればそれでいいのだから。
「待ってろ藍子、咲良!今行くから!」
一段飛ばしで階段を駆け上がると、そのまま廊下を走り抜ける。
もう少しでラウンジだ、というところでまたも誤算が起きた。
というのも、
「見つけたわ……宮沢晴香ぁぁっ!」
「そっちかっ!?」
金切り声を上げながら萱島が私の登ってきた階段を駆け上がってくる。
スピードはないが、問題はその通る声だった。
他の人や先生たちも勿論だが藍子や咲良にまで届いてしまうのは拙い。幸い私が注目を引けているようであり、一六勝負、私は右足を軸に半回転すると階段まで走り抜く。
目の前からは目を血走らせた萱島の姿。
「止まれぇぇ!」
萱島が飛びつくように伸ばしてきた両腕の下の空間に潜り込むと、私はそのまま体を捻り右手を床に付け体を逆立ちの体勢にまで持っていく。
左手で軌道を合わせながら両手で体を突き上げると、私の体は宙に浮き、上手く捻りが入りながら両足で踊り場に着地する。
側方倒立回転跳び四分の一捻り。ロンダートとも言われる器械体操の中では基礎となる技であり、この高低差の中でやるのは初めてだったが私の身体能力もまだまだ捨てたものではないようである。
因みにスパッツを履いてたのでそっちの心配もない。
「何ボーッとつっ立ってんのー?私のこと追っかけるんじゃなかったのー?」
階段を駆け降りながら私は後ろにいる萱島を煽り立てる。
このまま藍子と咲良の距離は出来るだけ離しておきたかった。案の定とでも言おうか、萱島に明確な殺意が沸いたのが伝わってくる。
作戦は大成功だ。
「……いい加減にしろよこのクソ女ァ!」
少しやりすぎたかもしれないが、これくらいの方が丁度良い。鬼ごっこなんて本気でやるのは小学校以来だ。
取り巻きの女たちの追撃を掻い潜りながら私は人通りの少ない棟へ移動していく。
少なくともあいつらの速さと体力じゃ私を捕まえることはまず無理だろう。中二くらいから100mを13秒前半で走り切れるのは少し自慢だ。息せき切らして私を追う四人を多少哀れに思いつつ、相手に見失わせないように上手く立ち回る。
「なんなのよあの女……猿みたいのに細やかと」
肩で呼吸しながら苦しげに萱島が喘ぐ。周りの三人もそれに同調しているようだが、最早声にもなっていない。やはり現代の若者の運動不足は顕著―と朝のニュースでやってた―なのだろう。
そんなの私には関係ないけれども。
「……覚えてなさいよぉ……宮沢、晴香……っ」
「そりゃ意味も分からずに逆恨みされた上、追い回されたら忘れるわけもないでしょ」
私は態とらしく肩を竦めて、やれやれと首を傾げてみせる。
結局この女が、私が真里谷君とやらと話したことを怒ってるのか、私が東景の人間であることを目の敵にしているのか、はたまた昔の話を掘り返して来たのか、或いは私が殴ったことに憤っているのかはよく分からない。
ただこの女は―――子供なのだろう。
自分の思い通りにいかなければ喚き、恨み、平気で人を傷つける。そんな奴は幾つになっても大人を名乗る資格はない、と私は思った。
ただ、そんな事を思っても私だってまだまだ子供だ。
「……私なら何回でも相手になってあげるけど、藍子と咲良に手出してみなさいよ?そんときは……タダじゃ置かないから」
そう吐き捨てると私は連中に背を向け颯爽と場所を後にする。
こう、クルって回った時にジャケットが棚引くとそれがまた格好がつく―――はずだったのに。
棚のガラスに映るのは旭陽カラーである青のワイシャツに緩んだネクタイをぶら下げるだらしない私の姿。
「……あれ!?ジャケットどこいったぁぁ!?」
保健室に置きっぱなしだ。
そう気がつくや否や、私は再び全力で廊下を走破する。
どうやら私はまだまだ大人にも、ヒーローにも程遠いようである。
どうもこんにちは、須永です。
さて、今回は外伝三作の三つ目である「春の章」と言うわけで
作中きっての元気印、晴香に大暴れしてもらいました。
やっぱり書いてて一番楽しいのはこの子ですね。
何も考えてないように見えて、実は色々考えてて、でもやっぱりアホで。
藍子や咲良と比べても単純明快でエネルギッシュに書けてると思います。
さて、次回はというと、初日編はまだまだ続きます(8話予定)。
本編に戻っていきますが果たして……
今回もご精読誠にありがとうございました!
次話も何卒宜しくお願いいたします。
筆者:須永 梗太郎




