初日-4
四限目の終わりを示すチャイムが鳴り響き、名も知らぬ級友たちは自らを主張しあうかのような大声で新たな友人との会話を繰り広げている。しかし、そんな大衆の事情など鑑みれないほどに、私の頭は伏見琴葉と姫野朱音によって埋め尽くされていた。
こればかりは流石に自らの異常性には気付けていても致し方ないようで、高校生活初の授業だというのに、てんで身が入らない。せいぜい、理解そっちのけで板書についていくのが精一杯であった。
「……おーい、藍ちゃーん?」
「どうしたの朱音?」
「……いや、さっきから藍ちゃん、ノート逆さまに使ってるよ?」
「……えっ?……嘘でしょ……」
色味も少なく、板書通りに記されたさして面白くないはずの物理基礎のノートは圧倒的な欠陥を有していたようで、私は深い憂鬱に包まれる。まずこれは家に帰ったら一から書き直したほうが良いだろう。
周囲の人々は昼食をとる動きを見せており、私も従してノートを仕舞って、代わりに鞄から弁当箱の入った巾着袋を出す。
朱音はというと、その傍らで色味のいい唇を真一文字に結んでいた。その表情から読み取れるのは、深い憂慮。
「……藍ちゃん、何か悩み事?朝から変だったし……もしかして、昨日の吹奏楽の話でまた誰かに難癖でも付けられたの?」
「い、いや!そんなのじゃないよ!」
しどろもどろになる私を見て、朱音は席を立つと私の方へと歩み寄ってくる。
歩く度にふわふわと外ハネした髪が微動し、それがまた可愛らしい。
「……本当に?」
「う、うん、考えてたのは別のことだから」
私の言葉に、朱音は至近距離まで顔を近づけてくる。
身長に不相応といえば失礼かもしれないが、朱音の端正な顔立ちは可愛いというよりかは美人と形容できるもので―最も、可愛くもあるのだが―、近くで見るとやはりその印象を再確認する。
「……無理、しないでね?」
まるで聞き分けのない弟妹を宥める姉のような口調で朱音はそう言うと、私の頭をポンポンと撫でる。
「私の……知り合いに藍ちゃんとそっくりな人がいたんだよね、何するにも自分一人で勝手に抱え込んで、それで自分の手に負えなくなるくせに、人に弱いとこ見せないようにって無理して失敗してさー……もうそんな人見るのは嫌だからさ、ね?だから藍ちゃんにちょっかい掛けたくなるし、お節介も焼きたくなるのかもね、あんま頼りないかもしれないけど、頼って欲しいな、私のこと、私に出来ることがあったら、頑張るから」
朱音の言葉は確かに私へ向けられたもので、その一言一句に重みと温かみが篭っている。
ただ私の目を見ているはずの朱音の瞳は、私の奥にあるもっと別の私ではない何かを見つめている、そんな気がした。無論、その実体のない何かなんてのは私にはわからない。
「……ありがとね、朱音」
「いいのいいの、私は藍ちゃんの笑顔が見れれば幸せだから、なんてね」
「じゃあ……笑顔見せれるように、頑張る」
朱音は頑張れー、と私の両肩に手を置くと激励を込めてか肩を揉んでくれる。
その小さくて、温かくて、柔らかな手が私の中の疑問や蟠りを溶かしていった。
例え過去に朱音に何があったとしても、二人にどんな関係があったとしても私が干渉する余地なんて最初からないことは分かっていた。ならば、今は『今現在の』朱音と仲良くなってもいいじゃないか。
そして、過去にあった辛さ以上に楽しませてあげればいいのだ。
私と、朱音と、咲良と、伏見琴葉と、もしかしたら晴香やほかの人も入れてみんなでこれから仲良くしていければそれでいい。
これはただの妄想や幻想に過ぎなくても、私はそれを切に望めばいい、それだけのことなのだ。
「じゃあ、ご飯食べに行こっか」
「うん、お腹すいたねー」
朱音はチェックのミニバッグを片手に取ると、私の横に並んで歩く。
やはり縁というのは奇特なもので、私なんかにこんな可愛らしい友人ができるなど思ってもおらず、ましてこれから柏丘吹奏楽の元部長も同席するとは人生何が起こるかわかったものではない。
「朱音」
「うん?」
「伏見さんってどんな人?」
「……いい子、ビックリするぐらい真面目で一生懸命で素直ないい子だよ、さ、行こっか」
これ以上は言いたくない、とでも言わんばかりに朱音は話を切り上げると、先行して歩き出す。
褒めてはいるのだが、如何せん抽象的で彼女に対して明言を避けているのは明らかだった。
こう見ると、朱音の方が幾らかは常に微笑みで武装している伏見琴葉よりわかりやすいようにも思える。
「……うん」
私はそう頷くと、また彼女に伴って歩行を再開する。やはり考えることは皆同じなようで、四組の目の前に展開されるラウンジは既に溢れんばかりの人でごった返していた。
「うわぁ、こんなにいるの?」
「伏見さん達、見つかるかな……」
その不安も束の間、奥から二つ目のテーブルで見覚えのある少女が多くの男子に囲まれているのが確認できた。
それは楽しげな談笑というよりチャラチャラした見た目の男子数人に誘われ、辟易気味に笑う他ないように見える。
「ねえ、あれ、伏見さん、だよね?」
「……そうだね、藍ちゃん、ちょっと待っててね」
朱音の声に殺気に近いほどに明白な怒気が篭もる。それは、ここ二日間では未だ見たことのない彼女の姿だった。
小さな体躯で、人混みを縫うように邁進する彼女の後ろを私は慌てて付いていく。ようやっと彼女に追いついた頃には既に舌戦の火蓋は落とされていた。
「……ちょっと君たちさ、彼女と仲良くなりたいのは大いに結構だけど、今は一寸後にしてもらえないかな……ほら、困ってるじゃん、それに私たちもお昼ご飯食べたいし」
怖気付くどころか、全身から殺気を滲ませている美少女を前に、男たちは明らかにたじろいでいる。
その目に浮かぶのは動揺。
「な、なんだよお前……」
「この子の―――友達だけど、文句あるの?」
朱音の眼力を前にこれ以上は分が悪いと読んだのか、男たちは悄々と退散していく。
そこに残ったのは恍惚と朱音を見上げている伏見琴葉だけになった。
「朱音ちゃ―――」
「勘違いしないでくれない、別に貴女以上にあの連中が鼻についただけだから」
「で、でも今友達って言ってくれたよね!私、嬉しかったよ?」
「っ!?べっ、別に、方便ってやつだから、深い意味なんかないし」
照れ隠しともとれる台詞を吐きながら、彼女は四つある椅子のうち敢えてか彼女の横や眼前を避け、彼女と対角線上の席に座す。
その言葉に伏見琴葉は一瞬シュンとしたものの、それを悟られないよう朱音から目を逸らす。
またすぐにいつもの微笑みを浮かべながら。
「藍ちゃんも座りなよ」
「え、あ、うんじゃあ横座るね」
私は朱音の左隣且つ伏見琴葉の眼前の席に座る。
目の前の伏見琴葉は私と目が合って、嬉しそうに微笑みかけてきたような気がしたのは恐らく私の誇張気味の妄想だろう。
その横では気に食わなさそうに朱音が鋭く目を光らせている。
「あの伏見さん、咲良は?」
「えっ?あ、晴香さん?を呼びにいってます」
「そ、そうなんだ……」
会話が続けられず沈黙する私に、伏見琴葉はニヘラっと気の抜けたように柔らかく笑いかけてくる。
ただ、不思議とだらしのない感じはしない。
それどころか、寧ろ彼女の根底にある品や育ちの良さが見え隠れしているようにも思える。
「本郷さん、朱音ちゃんと仲いいんですね」
「えっ?ま、まあ、朱音がいい子なので」
「……少し嫉妬しちゃうな、私は何年も一緒にいるのに……」
「琴葉、その話はしないでって」
私の横から怒気を孕んだ刺々しい声が飛ぶ。
朱音はそれだけ言うと、驚いて肩を竦めている伏見琴葉など気にも留めず、ミニバッグから弁当箱を出し始める。
ここまで見ても、朱音の伏見琴葉に対しての態度は軟化される気配はない。でも、一つだけ見えるところはあった。
『琴葉』
怒声であれど確かに朱音は彼女の名をそう呼んだのだ。
それは他でもない伏見琴葉と朱音の積年の絆なのだろう。伏見琴葉はああは言っても、根底から憎み合っているようではないことに安堵する。
そう思うと、朱音の顰めっ面も素直になれない子供のようでなんだか弄らしい。
「ごめんね朱音ちゃん、昔の話はしない約束だったね」
「……分かればいいのよ」
朱音は頬杖を突きながら不機嫌そうに答える。その視線はラウンジの宙に向いており、もう伏見琴葉と話をする気はない、とでも言いたげである。
その時、丁度朱音の視線の方向から、見覚えのある影が人混みに呑まれながらこちらに向かってきていた。その足取りはやはり脆弱そうで覚束無い。
「ごめんね伏見さん、ハル、見つからなくって……」
「そうなんだ、少し残念、また今度紹介してね」
伏見琴葉は咲良に目を合わせて上品に笑いかけると、咲良の座るであろう椅子を引いて着座を促す。
その動作も自然なもので、咲良はありがとう、と返して巾着をテーブルに置いて椅子に腰掛ける。
咲良はというと、唯でさえの人見知りに加えて、私の隣に座す不機嫌そうな少女への対応に苦心しているようで、頻りに私の方に緊張気味な視線を注いできては居心地が悪そうに肩を揺らしている。
「藍子、いつ来たの?」
「ついさっき朱音と一緒に」
「……あっ、ど、どうも……」
「……よろしくね咲良ちゃん」
人見知りで今にも泣きそうになっている咲良と、不機嫌を無理やり押さえ込んだ笑顔を浮かべる朱音という構図は滑稽で、どちらも美人なのにとても勿体ない。
そんな中でも伏見琴葉だけはいつも通りニコニコと微笑を湛えていた。
「それじゃ食べよっか」
伏見琴葉の促しに、各々が弁当に口をつけ始める。
私の弁当は朝、母が残り物を突っ込んで五分で拵えたようなもので他の人と比べると見劣りしてならない。
まず朱音のものは、定番を極めたといった風体で、特別なことをしていない分一つ一つの料理が美しく映え、まさに家庭の味を体現している。
また咲良のものは昔からそうだが、彩り豊かで趣向に凝っていて、その見た目はプロ級と言っても過言ではない。これも全て咲良のお母さんの賜物である。余談だが、咲良自身の料理の腕もこれもまた彼女の母に引けをとっていない。
そして目の前に座る伏見琴葉のものはというと―――彼女は弁当箱そっちのけで巾着や鞄の中を引切り無しに漁っている。
「あの、伏見さん?どうしたんですか?」
咲良がおずおずと問いかけると、伏見琴葉は顔面を蒼白させ、どうしよう、と小声で呟く。
その表情や態度からは事態の異常を思わずにはいられない。朱音も目線を一度こっちに向けてはまた、無言でご飯の咀嚼を再開する。
「……どうしよう、お箸忘れた……」
「ええ!?ど、どうしよう!えっと割り箸、割り箸……」
彼女の表情につられてか、咲良も大いに焦燥しているが、割り箸くらいなら購買に行けば貰えるだろう。
しかしながら咲良も伏見琴葉並びに鞄の中を模索している。普段から通学鞄に割り箸が在中している可能性は皆無だろうが、突っ込んだら負けな気がしたので黙っておく。
あと咲良、流石に筆箱の中にはないだろう。少し落ち着きなさい。
「ごめんね西野さん……」
「ううん大丈夫だよ!多分持ってたはずだから……」
その自信はどこから来るのか、咲良はまた鞄の中を探し始める。錯綜するふたりを見てか、さっきまで不機嫌にそっぽを向いていた朱音は大袈裟に嘆息してみせると、ミニバックから一膳の割り箸を取り出し、伏見琴葉の鼻先に突きつける。
その目は、呆れや侮蔑というよりかは、母が子供を窘める時のそれの類であろうか。
「朱音ちゃん?」
「……別に、偶々、入ってただけだから」
「ありがとう!朱音ちゃん大好k―――」
「うるさい」
割り箸を両手に目を輝かせている伏見琴葉を一蹴にすると、朱音は卵焼きを口に運ぶ。一見冷静そうには見えても、頬の紅潮だけは隠しきれていない。
それと咲良、そろそろ筆箱は仕舞いなさい。
「……もう、朱音ちゃんったら照れ屋さんなんだから」
「……うるさい」
ニヤニヤと笑う伏見琴葉を一瞬睨み、朱音はくぐもった低い小声で吐き捨てる。
これは、朱音が本当に伏見琴葉を嫌っているのか、はたまた彼女たちなりのコミュニケーションなのか。
だとしたら、中々ハードな関係のようにも思えるが、などと私は邪推を巡らせる。
「西野さんも迷惑かけてごめんね?」
「ううん、大丈夫だよ」
咲良は少し固めの笑みを浮かべながら、漸く筆箱を鞄の中に戻す。
少しずつではあるが場が打ち解け始めたようで、伏見琴葉を中心にそれとなく居心地の良さそうな空気が流れている。
現に表情こそはまだぎこちないが、咲良の肩の力は抜けており、朱音もまた暴言を吐きながらもここに居着いている辺り、全体的な相性はそう悪くはないように思える。
ちなみにこの間、私はというと、黙々とおにぎりを食しながらこの顛末を眺めていたに過ぎない。
斜向かいに座る咲良は、そんな私に気づいたようで鶏の唐揚げを飲み下すと箸を置く。
「……藍子?そんなにトマト食べたいの?」
「い、いや、いらないけど」
そんなに私が物欲しそうな目をしていたのかは知らないが、咲良はいいよ、と何を勘違いしたのか私の弁当箱にミニトマトを差し入れてくれる。
それを見ていた伏見琴葉は自分の弁当箱の中から器用にミニトマトを割り箸で掴みあげ私に微笑みかけてくる。多分、彼女も何か勘違いを始めたのだろう。
「本郷さんトマト好きなんだ!私のもあげるよ!」
「え?あ、あのいや」
「藍ちゃん、私のもどーぞ」
「え……えぇー……」
更には便乗した朱音も加え、三人からありったけのトマトを貰い、私の弁当箱は赤々と彩られている。
ちなみに私は言うほどトマトが好きなわけではないが、この手前言えるはずもなかった。
「藍子ってトマトそんなに好きだったんだねー」
「ま、まあね」
咲良からもらったミニトマトのヘタを取りながら私は苦笑気味にそう答える。
もう暫くはトマトは弁当にはいらないな、と思いながら。
どうもこんにちは、須永です。
この度初日編第四話、ということで、普段であればここで一区切り、と
なるのですが、今回は長編となっております故、何とも勿体ぶった幕引きと
なってしまいました。予定では8話ないし12話で完結の予定です、はい。
今回は四人での会話が中心になるコメディパートになりましたね。
こういう話ばっかり書けるといいんですけど……(笑)
次回は小休止、というわけで、外伝『春の章』公開です。
この場に居合わせられなかった彼女は一体何をしていたのでしょうか……?
ご精読ありがとうございます!
次話も読んでいただけると嬉しいです!それでは( *`ω´)
作者 須永 梗太郎




