初日
2013年4月9日(火)
昨日と比べると、空は暗く澱んでいた。
輝く太陽は曇天に埋もれ、今にも雨が降り出しそうである。私自身、雨がそんなに嫌いなわけではないが、溶け切りそうな雪を雨が濡らした道路ほど、歩くのに不快感を催す道はない。
そんな入学式翌日の登校に似つかわしくない憂鬱にウンザリとしながら、本郷藍子は慣れ親しんだ階段を下っていた。マンションと呼ぶのも烏滸がましいこの低層の建物こそ、自身の住居である。
一階と二階の間の踊り場から顔を外を乗り出して眺めると、駐輪場あたりで背丈の小さな少女が体いっぱいを使ってこちらに手を振っていた。
「藍子ぉー!」
「おはよう晴香、今日は早いね」
私は彼女の元に着くと、態とらしく時計を確認してみせる。
針は7時20分を指しており、朝練のある日以外はいつもは呼びに行かないと出てこない幼馴染にしては珍しく、彼女は既に紺色のコートの下に新たなユニフォームを纏い、学校に行く準備を整えていた。
「まあ、入学の翌日だからね」
「晴香もそう言う社会的なこと考えてたんだ、意外」
「酷い!私をなんだと思ってるんだ!?」
朝から元気に喚く幼馴染を捨て置き、私は昨日と同じ東景神社への道のりを歩み始める。私の姿を認めると、晴香は不服そうに頬を膨らまして、私の後ろを小走りで追従する。
「そういえばさ、藍子はチャリ通にするの?」
すぐに横に並んだ晴香の突然の問いかけに、私はもう一方の虚弱体質の幼馴染を思い返すと、首を横に振る。
「んー、してもいいけど、咲良がちょっと心配かな、晴香は?」
「しようと思ってたけど今やめた、三人で歩いていくほうが楽しいからねー」
晴香はそう言うと、私を見上げてあっけらかんと笑う。
咲良の体力のなさは折り紙つきで、長距離走で貧血を起こしたり、バスケやサッカーも軒並みそんなに動かないポジションにつくことが多かった。動かないから体力がないのか、体力がないから動けないのかと言われればどっちもだろう。
この辺はなぜ吹奏楽部に入ったのか謎なくらいにスポーツ万能な晴香とは真逆である。きっと晴香なら速度制限ギリギリのスピードで自転車を飛ばしていける筈だ。
「それもそうだね、朝ぐらいはゆっくりしたいよね」
私の相槌に晴香はウンウンと頷くと、左手でさりげなく私の右手を掴む。
「最近やけに甘えてくるね」
「そー?昔からじゃない?」
「……そういえばそうか」
晴香に言いくるめられ、狐に抓まれた心地の私に晴香は邪気のない笑顔を向けてくる。
「昨日ね、変な夢を見たんだ」
「変な夢?」
「そう、聞きたい?」
「うん、まあ」
ほぼ誘導されるように私はそう答えると、晴香は少し私の手を強く握る。
「えっとね?藍子とね……」
「ん?」
首を傾げる私を前に覚悟を決めたのか、晴香は少し目を泳がせながら私の手を強く握る。
「藍子と私が付き合う夢だったんだよね」
「……そ、そっか」
心地の悪い静寂が場を支配する、感じるのは肌寒い北風と、握られた手の体温だけで、他の物は何も感じられない。
「……藍子が悪いんだよ?昨日あんなこと言うから」
「……ご、ごめん」
晴香の不貞腐れたような言い回しに、私は珍しく謝罪の言葉が口に出る。事実、責められても仕方ないので謝るほかない。
「……なんてね、冗談」
「えっ?」
「別に藍子は悪くないよ、私も全っ然気にしてないから!いっつもイジられっぱなしだから仕返し!」
晴香はそう言うと私の手を引きながら先へと進んでいく。その平常の様子に私は安心すると彼女の後に続いたのだった。
それから幾分もしないうちに昨日も訪れた赤い鳥居が私たちを出迎える。
その下には、墨色のブレザーに高校生にしては落ち着いた色合いの灰色のカーディガンを羽織った見慣れた姿があった。私たちの姿を認めると彼女は控えめに右手を振る。
「あっ!おっはよー咲良」
晴香はそれに気づくと、体いっぱいに右手を振り返している。
低血糖気味で、隣で軽く手を振っている程度の私と比べても、あいも変わらず朝から元気である。
「おはよう咲良」
「おはようハル、藍子、ちょっといい?」
咲良はそう言って微笑むと、鳥居の奥にいる男性に目を向ける。
男性もまた、昨日と全く同じ黒狩衣に竹箒という出で立ちで、昨日と違うのは手に一眼レフカメラを持っていることくらいだった。
「お父さん、早く」
「わかってるよ」
おじさんは優しい声で応じると、ゆっくりとこちらに歩んでくると疑問符を浮かべている私たちに会釈する。
「おはよう藍子ちゃん、晴香ちゃん、悪いんだけど写真撮らせてくれないかな?咲良が三人で写ってるのが欲しいんだとさ」
「勿論、構いませんよ」
「喜んで!」
写りたがりな晴香が居酒屋の店員の様な挨拶をしたところで、おじさんは私たちに向かい合うように立ち、カメラを構える。
この件は昔からで、咲良は昔から事あるごとに思い出として写真を残したがっていた。並び立つ私たち三人の背景には朱塗りの鳥居が存在感を放ち続けている。
「三人とももっと寄ってー」
おじさんに言われるまま、私は左にいる咲良の方に距離を詰め、晴香は一度私の手を離すと、私と咲良の間の前に立つ。前に立っていたところで晴香の身長上、全くもって邪魔にはならない。
「藍子ちゃんもっと表情柔らかくできるかーい?」
レンズを覗きながらのおじさんの言葉に盛大に吹き出した晴香の横腹を抓ると、私はなんとか柔和な表情を作ろうと腐心する。
しかしすればするほど、表情筋は硬直し、顔はますます強張っていく。元々写真を撮られるのが苦手なだけにどうして良いのかもよくわからない。
「……布団が吹っ飛んだ」
「えっ?」
咲良がそう呟くと眼前の晴香がツボに入ったように笑い出す。晴香のツボは昔から驚く程に浅い。
「あ、いや、何とかして藍子の自然な笑いを引き出そうと……」
咲良は苦笑い気味にそう宣う。
そのダジャレは流石にベタすぎるだろう、とも思ったが普段お笑いなどは見ない咲良なりの努力だと思うとなんだか微笑ましい。
その刹那、私たちを閃光が襲う。
「!?」
何が起きたかわかっていない私に、おじさんは満足げにカメラを下ろすと指でOKサインを出す。
「藍子ちゃん、今の表情良かったよ」
「あ、ありがとうございます」
横では咲良がドヤ顔でこちらを眺めており、私はそんな咲良を軽く小突いてやる。
目の前では未だに晴香が息を切らしながら咲良のダジャレに悶え続けていた。
「咲良、写真をプリントしておくから、学校終わったら取りに来たらどうかな」
「ああ、うん、お願いするね」
咲良はおじさんに軽く頭を下げると足元に置いていたスクールバッグを持ち上げる。やはり咲良は非力で、持ち上げた重量で軽く仰け反る。
「咲良、大丈夫?重い?」
「ううん、これくらい平気だよ」
咲良はニコリと微笑むと、階段の方に歩みだす。その足取りは甚く不安で庇護欲が掻き立てられるが、こういう時の咲良は言いだしたら聞かないので見守るだけに留めておく。
「ハル、そろそろいくよ」
「まっ、待って、今行くから」
晴香は過呼吸気味になりながらもヨロヨロと咲良の後に付いていく。
その足取りは咲良と理由は違えど酷く覚束無い。
「布団が……吹っ飛んだ……っ」
晴香は未だツボに入り続けているようで、既に軽く過呼吸を起こしているようだった。自分でも制御できないほど笑っているのもなんとも晴香らしい。
私も二人に続かんと歩き始めたとき、柔らかな声が私を引き止めた。
「藍子ちゃん」
「……はい?」
「これからも―――咲良を頼むよ」
少し詰まるような突然の台詞に違和感を覚えながらも、私は、はいと首肯する。
柔和ながらも神妙な面持ちで私たちを見送るおじさんを尻目に、私は先行する二人を追いかけ、登校を再開したのだった。
アサコウ、こと旭陽高校は市内の中心部にある極めて都会的な立地であり、特に膝下にある柏丘中などは言わずもがなの富裕層御用達の学区となっていた。
しかしながら、旭陽地区は市内を代表する山である妹尾山の山麓でもあり、同高校に通うには途方もない坂道を登る羽目になる。それは北海道に住む者の宿命とでも言うべきで、柏丘の地名などもまさに丘そのものから来ているのだろう。
こう考えると中心部というのも存外羨ましくもない。
「……長いよこの坂!馬鹿なんじゃないの!?」
ついに痺れを切らしたように晴香が喚く。
坂道はまだ中腹ほどで、高校の姿は依然見えない。正確に言うと、長いというよりは坂の傾斜が結構急なのだ。それゆえに脚への負担は大きくなる。
都会側に住む人間であればスクールバスが学校の真下まで通っているが、決してアクセスの良いとは言えない東景はその恩恵を受けることはない。バスの停留所まで歩くくらいなら学校に直で向かうのと相違ないのである。
「もう少しだけだから……頑張ろ?」
苦笑いで励ます咲良も疲れの色は濃く、すでに息が切れ切れになっている。私も二人の会話に入り込む余裕もなく、黙々と歩き続けていく。
他の旭陽生もちらほら見受けられ、徒歩通学をしているとなると大方の出身中学は限られてくる。どの生徒も黙々と坂を登り続けており、歩調などで何となく学年も察しがつく。
「ここも慣れれば……楽になるのかな……」
咲良は既に死んだ魚のような生気の失せた目である。
私は、だといいんだけど、と返すと明らかにペースの落ちてきた咲良の手を掴んで前へと進み始める。
「……藍子、あとどれくらい?」
「あと10分弱だから、頑張ろ」
10分弱という私の言葉に、咲良は乾いた笑い声を上げると、ガックリと肩を落とす。
目の前では喧しく晴香がブツブツ文句を言い続けていながらも、先頭に立って元気に坂道を闊歩していく。
「……藍子、私が死んだら椿季のこと、お願いね……?」
「馬鹿なこと言わないの」
悲観的になる咲良を励ましながら、私は周りの景色にも目を向けてみる。高級住宅街の柏丘地区だけあり、東景では見られないような豪勢で優美な一戸建てが美を競い合うようにして立ち並んでいる。
市内でも有数の地価を誇るこの使いにくい土地の一体どこに付加価値をつけているのか、やはり金持ちの心情は理解できない。ただ悪いことだらけでもないようだった。
「咲良」
「あの、藍子、遺言頼んでもいい……?」
「後ろ、向いてみな」
疲れきり、緩慢とした動きで咲良は背後に振り返る。そこに広がっていたのは―――
「うわぁ……すごい、こんなに……!?」
柏丘や東景は愚か、市内を一望できる大パノラマといってもいい。
曇天の空の下には無数のビルが碁盤の目を体現しており、その人々すべての営みを俯瞰しているような大仰しい気分に思えてくる。言うならば神になったような気分である。
「晴れてたらもっと綺麗に見えたのかもね」
咲良が少し落胆したような声を出す。
しかし、その表情から先ほどの疲労や絶望は消え失せ、仄かに血色が良くなっていた。
「ハル、ちょっと」
「……うん?」
咲良に呼びかけられ、先行していた晴香もまたその景色を眼前とする。
咲良や私よりかは文句を言いながらも坂をずんずん登っていった彼女はまだエネルギーが残っているようで、駆け下りてくると嬌声を上げながら咲良にあれこれ話しかけている。
―――しかし綺麗だな
見下ろした市内の景色は、けして東景で見ることはできなかっただろう。それも偏にこの学校に進学できたためで、三人でこの壮麗な景色が見れているのは存外幸せなことなのかもしれない。
私は携帯電話を取り出すと、目の前で燥ぐ幼馴染二人とともにこの景色を枠に収め、親指でシャッターを切る。
空は少し曇っていたが、いい写真だった。
振り返ると、旭陽の校舎は少し遠くに私たちを待つかのように聳えている。
「二人とも、学校、見えてきたよ」
私の声に二人は頷くと、私たちは市内を背に、煉獄とも思える坂登りを再開したのだった。
酷く険しい坂を上りきると、そこには昨日と変わらない荘厳でいて美麗とした校舎が私たちを迎え入れるように聳え立っている。
校舎の大きな時計は8時15分を示しており、少しばかり時間には余裕がある。
「いつ見ても綺麗な校舎……東景とは大違いだね」
「まあ、築云十年のボロ中学と新進気鋭の高校を比べてもね」
咲良の見当違いな感嘆を軽くいなしつつ、私は一人の少女を視界から探し始める。
色素が薄く灰に近いような長い黒髪をごった返す人混みの中追い求めるが、彼女、伏見琴葉の姿は見当たらない。挙動不審になる私を横目に、咲良は胡乱げに首を傾げてみせる。
「……藍子?誰か探してるの?」
「……ん?あ、あぁ、いや、なんでもないよ、それより晴香は?」
「え?ハルならそこに……ってあれ?」
咲良の指差す先には晴香の姿は見えない。
元々ジッとしているのが苦手な女だけに突然いなくなったところで別に驚くことも特にないのだが、咲良の方は気がかりでならないらしく、頻りに周囲を見渡している。
私も咲良に倣い、辺りに目を移すが、多くの一年生でごった返した玄関からは人より殊更小さな晴香を見つけ出すのは難しく、また内心探していた伏見琴葉の姿も確認できない。
「あーいーちゃーん、もしかして私のこと探してくれてた?」
「!?」
突然の悪戯めいた声に、私は前に向き直ると、そこには昨日知り合ったばかりというには心強い友人が人懐こい笑顔を浮かべ、私を見上げていた。
昨日の一件からどんな顔をして会えば良いのか分からなかっただけに、彼女からの接近は痛み入るほどにありがたいものである。
「おはよう、藍ちゃん」
「おはよう、朱音」
朱音は花が咲いたようにニコリと微笑むと、おずおずと私の後ろに隠れ始める体勢をとっていた咲良にも軽く会釈する。
「おはよう、初めまして、藍ちゃんのクラスメイトの姫野朱音です」
「……お、おはようございます」
「藍ちゃんのー……元中の人?」
既に人見知りを遺憾なく発揮している咲良に嫌な顔一つせず、朱音は咲良に問いかけると、咲良はこくこくと首肯してみせる。朱音の方が背丈は明らかに小さいが、咲良は完全に萎縮してか朱音以上に小さく見えてしまっていた。
咲良がこの調子なので、これ以上の接近は無理と判断したのか朱音は、これから宜しくね、と咲良に微笑むと、私に目を合わせ、お先にっ!、と走り去ってしまう。
残されたのは早くも自己嫌悪に包まれている咲良のみとなってしまった。
「……また喋れなかった」
「おはようございますって言えてたじゃん、進歩進歩」
「……そう、なのかな」
実際のところ、昔の咲良なら静かにその場を離れていただろう。彼女なりにも今日は結構頑張った方なのかもしれない。
「あの子に嫌われたかな……話もまともに出来ない人って思われたかな……」
「そんなことないって、朱音もわかってくれるって」
「自己紹介すら出来てないのに……」
「次会った時すればいいでしょ、ね?」
自己嫌悪の渦に呑まれている咲良を励ますと、彼女は漸く首を縦に振る。
昔から気落ちしている咲良を励ますのは私の役目だった。
「……ハルは?」
「さあ?きっとクラスの友達でも見つけたんだよ、私たちも行こっか」
依然咲良を慰めながら、私達は朱音の後を追うように玄関を潜ったのだった。
咲良と別れ、教室に入った私を出迎えたのは二日目にしては大きめな喧騒と可憐で小さな級友だった。
「藍ちゃん、さっきの子は?」
「ああ、西野咲良って言うんだけど」
私の言葉に朱音は頷くと、口篭るように繰り返す。
「咲良ちゃん、か、元中?」
「うん、幼馴染かな」
「えーいいなー、幼馴染ー、私そうゆうのいないからさー」
朱音はその大きな眼で羨望の意を私に向けたと思ったら、今度は申し訳なさそうに目を伏せる。
「……私、嫌われたかな、ちょっと馴れ馴れしかったよね」
「ううん、咲良、人見知りだから気にしなくても大丈夫だよ」
私の言葉に朱音はホッとしたように胸を撫でおろす。
「あの子、結構可愛いね、なんかお嬢様っぽい感じ?」
朱音の指摘は強ち間違いではなく、現に咲良は神社の息女であり、また清楚な見た目や品のある立ち振舞いもまたその印象に一役買っている。
といっても今回は私の後ろで隠れていただけなのだが。
「ああ、うん、可愛いよね、昔っから男子から人気でさ」
「あーそんな感じする、藍ちゃんと並ぶと二人とも美人で絵になるね」
「……冗談言わないでよ」
「藍ちゃん照れてる?」
「照れてない」
こういう随所で朱音の不意打ちが飛んできてはおちおち話もできない。
熱くなった顔を手で煽ぎながら私はなんとか流してみせる。そんな様体の私を朱音は微笑げに眺めながら口を開いた。
「……でもちょっと妬けちゃうな」
「え?」
突然発せられた言葉に驚き、問い返す私の方を見ず、朱音は左斜めに俯いてしまう。
照れ、とはまた違う感情のようだった。
「……私はまだ一日分しか知らない藍ちゃんを、あの子はその何倍も沢山知ってるんだよね、きっと」
「あぁ、うん……そうかも」
気のないような返事を返しながらも、私は朱音の微細な表情の変化を読み取ろうとする。
微かに歪んだ口元以上に気になったのは何か憂いを訴えるような目許だった。昨日のものともまた違っていて、落ち着いた中に悲愴的な色合いも含まれている。それは物凄く大人びた横顔だった。
「……あれ、私何言ってんだろ、ごめんね藍ちゃん変なこと言って」
彼女のポツリと呟いた台詞は教室の騒々しい下卑た笑いにかき消されていく。
「……うん、わかった」
私の声は彼女に届いたのかはわからない。
ただ、この時はまだ、彼女のその憂笑の裏に隠された心情になど私が気付くことなどできなかったのであった。
どうも須永です。
新章突入!というわけで今回から咲良や晴香といった幼馴染組と朱音やこの物語のキーパーソンである伏見琴葉といったメンバーが徐々に交友を始めていきます。
一体この物語がどこに進むのか、ある意味その第一章というわけです。
この初日編がその引き金になれるよう今後共鋭意製作していきます。
ご清読ありがとうございました!
作者:須永 梗太郎




