昵懇-外伝 桜の章 1
「桜の花の散り際は呆気ない。でも、だからこそ儚くも美しい。それは諸行無常の人の世と同じなんじゃないかな……古くから日本の精神の象徴とも謳われているからね、お前なりの桜の在り方を見つけなさい『咲良』」
ある日、泣き喚く私を諌めるように父はそう言った。
私が今の椿季くらいの年齢だっただろうか、何で泣いていたのかは今となっては思い出せないが、この言葉だけは高校生になった今でも刻まれたように克明に覚えている。
「桜の在り方、か」
藍子とハルの帰ってしまった自室で、ソファで俯せに寝そべりながら私は独りそう呟いた。
泣き虫な私はいつも両親や藍子、晴香に迷惑をかけっぱなしだったと思う。それは『サクラ』なんて名前を背負うには情けなくて、名前負けも甚だしかった。
私は桜の木のように、散り際ですらもみんなを楽しませることも出来なければ、人が目を見張るほどの美しさもなく、ましてや人の精神の象徴になんてなれるはずもない。諦観に近いように、ふっと息を吐き出すと近くにあったクッションを抱きかかえる。
「……お姉ちゃんどうかしたの?」
「椿季……?」
いつから居たのか、目の前には妹の椿季が不安そうな目でこちらを見上げていた。
私なんかと比べても、椿季は明朗快活で友人も多く、滅多なことがない限り泣くこともない。陰気で、人見知りで、未だに泣き虫な私とは姉妹とは言えど大違いだった。
「……ううん、なんでもないよ、どうかしたの?」
「……お姉ちゃん可哀想な顔してたから……」
「か、可哀想……?」
吃る私に対し、椿季は首肯すると後ろ手に組んだままモジモジとしている。
「……私、可哀想に見える?」
椿季の真っ直ぐな目は自虐気味に苦笑いする私の目を見つめている。今の私には、彼女の瞳すらも眩しくて直視できなかった。
彼女は私の問いに答える代わりに、もうひとつの質問を投げかけてくる。
「……お姉ちゃん、自分のこと嫌いなの?」
椿季の放った言葉が胸に刺さるような感触がする。やはり姉妹というのはこうもお見通しなのだろうか。
「……そんなことないよ」
私の口が嘘を紡ぎ出す。椿季には嘘をついたらダメな大人になる、と散々言っているのに、やはり私は全くもってダメな姉のようだった。
「……なら良かった、椿季はね、お姉ちゃん大好きだよ、優しくて、勉強もできて、友達思いなお姉ちゃんが大好き」
「……ありがとう」
折角大人しくなってきた涙腺がまた決壊しそうになる。私は妹にすら支えられていると思うと情けないが、同時によく出来た自慢の妹であることを再認識させられた。
「お母さんが晩御飯だからそろそろ来なさいって」
「……わかった、すぐ行くね」
私の返事に、椿季は満足げに大きく頷くとそのまま今まで駆けていってしまう。
「……ごめんね、ダメなお姉ちゃんで」
遠のいていく妹の小さな背中に聞こえないようにそう呟くと、長らく寝かせていた体を起こす。入学式だけあって体に疲労からくる怠さはあったが、椿季の前ではこれ以上弱いところは見せたくなかった。
「……お姉ちゃん、頑張るから」
そう言うと、私はソファから戸の方へと歩んでいく。何をかはわからないが、頑張らなければいけない気がしていた。
だって私は椿季のお姉ちゃんなのだから。
食卓に並ぶのは白飯、絹ごし豆腐と葱の味噌汁、焼き魚、芋の煮物、酢の物といつもの如く西野家の見事な一汁三菜である。これは父の拘りでもあり、間違ってもファストフードで夕食を済ましたことはない。
「お姉ちゃん、早くっ!」
お腹が空いているのか、急かす椿季を宥めながら私が席に着くと、父がこちらに優しげな目線を投げかける。先ほどの神主装束とは変わり、部屋着の黒の着流し姿に着替えていた。
「咲良も来たことだし、さあ食べようか」
父の言葉に、椿季はいただきます、と言うやいなや煮物を口に運びだす。
「椿季、はしたないからゆっくり食べなさい」
私の言葉に椿季はうんうんと頷くと、白飯を口に掻き込んでいく。いつも以上の見事な食べっぷりで、母はニコニコとそんな椿季を眺めているようだった。
「そういえば、藍子ちゃんと晴香ちゃんはもう帰っちゃったのかい?」
「ああ、うん、晩御飯もあるしね」
「あらー、それは残念ね、お母さんも会いたかったなー」
母は笑顔のままそう言うと、上品に酢の物を口に運ぶ。その整った所作には一遍の曇りもなく、当に日本美人という表現にほかならない。
「別にいつでも会えるよ、また来ると思うし」
「そうよね、その時はまたカステラ買いにいかないと、ね?」
そう言うと、母は茶目っ気のある笑顔を見せる。改めて、表情の若々しさからも三十路を優に超えているとは思えない。
「……お願いします」
「わかってるわよ、藍子ちゃんのためだもんね」
頭を低くする私に、母は柔らかな笑顔のまま焼き魚の身を解している。実母とは言え、昔から母のこう言った人を食ったような飄々としたところが少し苦手でもあった。
「お母さん、おかわりっ!」
「はいはい、椿季もゆっくり食べなさいね」
母に窘められ、椿季は口に煮物を含んだままうんうんと頷いている。
あれが全く話を聞いていないときの反応であることは、姉として十年付き合ってきた為かよくわかっていた。ただ、それ以上に藍子との付き合いの方が少しばかり長かったりもする。
「でもお姉ちゃんと藍子お姉ちゃんって仲いいよねー」
「まあね、昔から三人でいるからね」
私の返答に、椿季はもどかしそうに首を傾げてみせる。その表情は小四に成りたてにしてはとても大人びて見えた。
「そうじゃないんだよなぁ……何ていうんだろ……お姉ちゃんの目がさ、藍子お姉ちゃんに向ける時と、
晴香ちゃんに向けるときってなんか違うんだよねー」
「そ、そんなことないよ、どっちも大切な友達だよ」
「うーん、それは伝わってくるんだけどなぁ……」
依然不服げな椿季も、母に茶碗を給されたところでまた一心不乱にご飯を掻き込み始める。
そして、ハルへの敬称は付き始める兆しもない。
―――わかってるよ、そんなこと
勘の良すぎる妹に辟易しながらも、私はゆっくりと味噌汁に口をつけた。
「……ダメだな、今日は」
流していたリスニング対策用のCDを止めると、私は独り、部屋で言ちた。
英語が右から左に抜けていくようで、いつもの日課にしていた勉強も今日ばかりは全く身に入らなかった。積み上げられた用済みの高校受験対策の参考書だけが私をせせら笑うように本棚の前に取り残されている。
時刻も始めてからはまだ15分と経っておらず、教材も白紙のまま手が止まっていた。
「……藍子」
私は、意味もなく幼馴染の呼び親しんだ名前を呟いてみる。
藍子との付き合いは遡ること幼稚園の前からであり、母親同士が旧知の仲であるらしく、家も近いこともあってか幼少時代はずっと藍子と一緒にいた。
幼い時から藍子は表情に乏しく、いつも不機嫌そうに一人で本を読んでいるような子で、私はというと、今と殆ど変わらず泣き虫で、そんな藍子の後ろをいつもベッタリとついて回っていた。
藍子は、情けない私に嫌な顔一つせず、いつも私を庇ってくれていて、それが今の私の藍子への依存の引き金だったのかもしれない。
―――椿季が変なこと言うから、藍子のことばっか考えちゃうな……
心中ではそう嘯いてみても、実際、椿季のせいではないことも良くわかっていた。
元を正せばこの勉強だって、藍子に褒められたい一心であり、私はただ藍子に『やっぱり咲良は凄いね』と言ってもらいたいだけなのだ。
それを原動力に、私は只管に東景の学年一位を死守し続けていた。先生には『西野さんなら旭陽以上の高校に行けると思うけど……』などと言われたが、それでは私が勉強を続ける意味はなくなってしまう。
それに、藍子もハルもいない学校生活など私には耐えられない。
「……もう少しだけ頑張ろう」
私は大きく背中を反らすと、教材のページをめくったのだった。
勉強も課した分の量は片付け、ソファで寛いでいた私のもとに、寝巻き姿の母が電話を持って部屋に入ってくる。流石の我が家でも父を除けばパジャマ等は洋服で占められており、母もネグリジェのような西洋風の衣装に身を包んでいた。
風呂から上がったばかりなのか頬は上気し、玉のような肌を水滴が伝っている。
「咲良、電話よ」
「こんな時間に誰?」
時刻は既に23時を周り、夜更しをあまりしない我が家ではあと1時間もすれば消灯である。怪訝に目を細める私に、母はフフッと笑うと、いいから、と子機を手渡してきた。
「……もしもし?」
『……あぁ、夜中にごめんね、咲良、勉強中だった?』
申し訳なそうな電話越しの声に、私の目は泳ぎ動悸は早くなっていく。落ち着きのない私をみてか、母は口元に手を当て、品よく笑っていた。
「ううん!今終わったとこ!……で、どうしたの?」
『明日さ、帰りに三人で遊びに行こうって晴香からメール来てさ、どう?大丈夫そう?』
何ともハルの言い出しそうなことだった。そして当然ながら今までの私の予定表は部活と彼女たちに彩られてきたため、未だ四月の予定は白紙といっても過言でない。
「明日?うん、大丈夫、空いてるよ」
『よかった、じゃあ晴香に伝えとくね』
「うん、お願い、話ってそれだけ?」
『……うん、まあそうなんだけど』
私の言葉に、電話の奥で難しい顔をして目線を落とす藍子の姿は容易に想像できた。私はただ、彼女の言葉が継がれるのを待つ。
「どうしたの?」
『なんとなく咲良の声が聞きたくなったんだよね』
「……変な藍子」
『うん、変だよね、なんでだろ?』
「こんな声でよかったらいつでも聞かせますよ」
『フフッ、ありがとう、じゃあ夜も遅いし、そろそろ切るね』
「うん、じゃあ明日の朝ね」
『じゃあ、おやすみ咲良』
聞き慣れた低い声が、ブツリとノイズ混じりの電子音に変わる。子機の液晶には02:48と無機質な彼女との繋がりの記録だけが残されていた。
私は名残惜しさを母に悟らせないように、態と淡白な態度で受話器を母に返してみせる。
「あらあら、残念そうね」
「そんなことないよ」
母の不意打ちに思わず私の声が上ずった。やはり、実母といってもここまでくればエスパーを疑いたくもなる。それとも私が分かり易すぎるのだろうか。
「明日、楽しんできなさいね」
「……ありがとう」
「……モタモタしてたら藍子ちゃん、他の人に取られちゃうわよ?」
「!!?」
「悩むのもいいけれど、遅くならないうちにお風呂にも入っちゃいなさい」
当惑する私を嬲るような怪しげな笑みで年甲斐もなくウィンクを噛ますと、母は調子外れな鼻歌を纏って退室していく。
再び訪れた無音の空間の中で、母のシャンプーの爽やかな残り香だけが私の感覚を刺激する。
「……取られる、か」
母の言葉は巫山戯ているのか、それとも真剣な忠言なのかはあの母のことでさっぱりわからない。
ただ、一つ言えるのはあの言葉は昔の私にも向けられていることくらいだった。それは遡ること十年ほど前になる。
約十年前
あの日も私は泣きべそをかきながら家に帰ってきた。理由なんて決して大したことではないのだが、薄弱な私のメンタルには甚く答えたらしい。
「……咲良、今日はどうしたの?」
母の言葉に私は唇をキュッと締めたまま俯き続けていた。母も母で追及しようとも慰めようともするわけでもなく、いつも通りにこやかに私の横に座しているだけである。
「……藍子ちゃんと喧嘩でもしたの?」
「ち、違うっ!藍子は別に悪くないもん!」
「あら、じゃあ咲良が悪いのかしら?」
健かな母に嵌められたようにも、自爆のようにも見えるが、私は観念して母に幼稚園であった全容を話す。
「藍子がね、大きくなったらカズキ先生と結婚するんだって……」
「?、咲良はそれの何が嫌なの?」
カズキ先生とは、私たちの幼稚園の先生だった人である。快活な人柄や熱心な仕事ぶりに加え、若くてスラリと背が高く、精悍な顔立ちで、園児はもちろん、お母さん方にも密かに人気を集めていたらしい。
子供たちのありがちな戯話だが、母は笑うことなく、真剣な調子で私に聞き返す。
それに警戒を解いたのか、私はまた幼稚園児なりの思いの丈を話しだした。
「だって……そしたら、藍子とずっと一緒にいれなくなっちゃう」
「そっか、咲良はずっと一緒にいたいんだ」
「……私は藍子と結婚したいんだもん」
私の言葉に母は珍しく虚を突かれたようにあらあら、と口許を押さえてみせる。
思えば私が物心ついてから母を驚かせたのはこれを含めて二回だけしかないかもしれない。
「咲良」
「……わかってるもん、藍子も私も女の子だから結婚できないんでしょ?」
涙目で不貞腐れる私の頭に母は白く繊細な手を乗せると指先で髪を梳く。
「そんなことないわよ」
「えっ?」
「咲良は藍子ちゃんが好きなんでしょ?ならそれでいいじゃない」
「でも……」
「お母さんにもそんな経験があったな」
「……本当?」
「うん、今でもその人とは時々会うのよ、すっごく美人さんなんだから」
母はそう言うと一枚の写真を見せてくれる。そこに写されていたのは、控えめに相手の肩に寄りかかる若かりし母の姿と、少し照れたような笑みを浮かべている女性の姿だった。
「綺麗な人だね」
「そうでしょ?普通に笑ってくれてる写真ってこれくらいしかないのよね」
母は呆れたように笑うと、また写真を懐に仕舞う。
「まあ、お母さんはいっつも咲良の味方だから、女の子が好きだって全然問題ないのよ」
「……ありがとうお母さん」
母は感謝の言葉に照れくさそうに笑うと、私の頭を優しく撫でてくれた。
それからどうしたのかは記憶にないが、ただあの日を境に母が私のことをより理解してくれた、そんな気がしていたのだった。
「……さ、お風呂入ってこよ」
私はそう独り言つと、机上の写真に一瞥すると浴室へと足を進める。
その写真に写っていたのは、日頃、無愛想というにはあまりに自然に笑えている藍子と、控えめにその肩に寄りかかる私の姿だった。
こんにちは須永です。
今回も外伝、というわけで今回は咲良にスポットライトを当ててみようと思いました。
ここで咲良ちゃんの家族や過去なんかが明らかになりましたね。
特にお母さんは今後のキーパーソンですのでご期待ください(笑)
それではまた。
筆者 Kyotaro Sunaga




