1.8 揺れ落ちた世界の先
飲み込む空気が熱く、燃えていた。火の塊に触れるよりも熱い。吸い込む事などできもしない、血臭。自らの体から這い出たそれを前に、尚もディディカはせき込む、いや吐き出す。
(頭が割れそうだ)
ひどく熱い。いや、重い。
圧迫感が堪らない。締め付けられたようで、ぼんやりして、思考など一切できない。それは今まで経験した何よりも辛いことだった。
(……気持ち悪い)
世界が回っていた。感覚がひどく鋭敏になっている一方でひどく鈍重になっている自分がいた。焼け焦げて炭化した指がある。それは誰かが見れば怒るだろう。無茶をした、といっては泣いてくれるだろう。月の化身かと疑うほど美しい青年の容姿から、芸術品が生命の輝きを得たかのような青年が指を欠損した事を誰かは嘆くだろう。
(けれど、僕にはもう――)
その“誰か”は失われてしまった。
“誰か”は平穏が取り上げられると同時に失われたのだ。そうして、今、ディディカは独りここにいる。自らの体を喪っても、何も思うことなく。精密機械で作られたかのように完璧な顔立ちを何一つ歪めることなく、その存在を見つめる。
『名を。呼ぶ事が出来るとはな』
感心したような声に、苦笑した。
それはディディカが名を呼び見つめていた“火”の神とは違う。その隣に居る、先に顕現した“地”の神。
「……随分と吹っ掛けたものだな、神も」
まさか名を呼ぶだけでこれほどの負荷がかかるとは思いもしなかった。
軽口を叩く。けれど、これもまた声にはならなかったように思う。フッと笑った瞬間の息苦しさに喉は音を奏でる事はなかった。
『どうやって知りえた?』
問いかけには先ほど以上の興味が見えた。
それにディディカは意味深に謎を残す答えをする。
「以前、聞いた事がある」
「あなたの口からね……告げられたのは、僕では、なかったけれど」
聞いたのはディディカではない。レギナだ。
告げられたのは……名前を思い出せないあの子。
(なぜエレナが精霊王を呼び、神を呼ばなかったのか……分かった気がする)
神を呼ぶ代償は途轍もなく大きい。少女の身体には多大な負担だ。だから彼女は“手に入れやすい”精霊王を従えたのだろう。
(でも、甘い)
背後に油断がある。僕という存在を見逃した代償。
(君がいつか神を呼んだとして、そこにいるのは僕と契約を交わした神だ)
低い笑いが出る。
ディディカが今までにしたこともない、凶悪な笑顔。凄絶なるその美貌に、その笑みを貼り付けて、一歩踏み出した。
「っ」
世界が揺れた。
咄嗟に伸ばした腕が何にも触れることなく、身体はバランスを崩した。
空に放り出される。
『――神をこんな些細な事で使うとは、なんとも贅沢だな』
温かな熱が背から伝わってくる。
ディディカは熱のないかのような美しい、けれど冷たい色の眼差しを炎の存在に向けた。
「……長年なかった契約主に同情でも覚えたか」
『今得たばかりの相手を姿も消していないうちから死なせるほど忙しくもないからな』
竜巻の消えうせた空洞に落ちたディディカを助けた手を離しながら神は笑む。ディディカも合わせて酷薄に笑った。
降りたくても降りることのできなかった、地面。闇の底であり、光への入り口。
(っとと……)
足元の感覚があやふやだ。いや、全身の感覚が酷く遠く、そして酷く重ったらしい。
今にも崩れ落ちそうな膝に力を入れて一歩一歩を慎重に動かす。
そして――ただの石の塔となったその扉を押し開いた。
ギィイ――
断末魔よりも尚か細い声が静かに闇の中に木霊した。