灰冠の令嬢は、滅びゆく北辺で王となる
第一章 祝福の夜に追放を
王立学院の大広間には、春の花が惜しげもなく飾られていた。
白薔薇、薄紅のリリア、王家の紋章をかたどる金色のアステル。
天井から下がる水晶灯には無数の魔石が組み込まれ、夜だというのに広間は真昼のように明るい。楽団が奏でる優雅な音楽に合わせ、王国の未来を担う若者たちが笑い、語り合っていた。
その中心で、セレナ・アルヴェインは一人、静かに立っていた。
銀灰色の髪。
淡い紫の瞳。
身にまとうのは、公爵家の令嬢にふさわしい濃紺のドレスである。胸元には王太子から贈られた青玉の首飾りが輝いていた。
もっとも、その贈り主は一度もセレナの隣に来ていない。
「セレナ・アルヴェイン!」
楽団の演奏が止まった。
人々の話し声も、一斉に消える。
広間の中央に立っていた王太子エドガーが、セレナを指さしていた。
金髪碧眼の整った容貌。その隣には、桃色の髪をした小柄な少女が寄り添っている。
平民出身でありながら強大な光魔法に目覚め、教会から聖女と認定されたリリア・ベル。
彼女は怯えたようにエドガーの腕へしがみついていた。
「前へ出ろ」
命令に従い、セレナは人垣の間を歩いた。
学生たちは露骨に道を空ける。
同情する者はいなかった。
あるのは好奇心と、これから始まる見世物への期待だけだ。
「殿下。お呼びでしょうか」
セレナは形式どおりに膝を折った。
エドガーは鼻を鳴らす。
「まだしらを切るつもりか。お前がリリアを階段から突き落とし、毒を盛ろうとしたことは明らかになっている」
「証拠を拝見しても?」
「リリア本人が証言している。それ以上の証拠が必要か?」
大広間がざわめいた。
セレナは隣の聖女を見る。
リリアの青い瞳には涙が浮かんでいた。
「わ、私はセレナ様を責めたくありません。でも、あの方は私に、身の程を知れと……。殿下に近づけば、家族もろとも消してやるとおっしゃいました」
「私はそのような発言をしておりません」
「嘘です!」
リリアは悲鳴に近い声を上げた。
直後、エドガーが彼女の肩を抱き寄せる。
「もうよい。恐ろしかっただろう」
「殿下……」
二人は見つめ合った。
周囲から感動したような吐息が漏れる。
セレナは目を伏せた。
茶番だった。
あまりにも拙く、幼稚で、少し調べれば崩れるはずの茶番。
毒物の入手経路を調べればよい。階段付近にいた使用人へ聞き取りを行えばよい。目撃証言の時刻を照らし合わせるだけでも、矛盾は明らかになる。
だが、誰も調べようとはしなかった。
彼らが欲しているのは真実ではない。
王太子と聖女の美しい恋物語だ。
その物語を成立させるためには、悪役が必要だった。
「セレナ・アルヴェイン」
エドガーは胸を張った。
「お前との婚約を破棄する。そして王太子妃候補としての地位を剝奪し、王都から永久に追放する」
歓声が上がった。
誰かが拍手を始める。
その拍手は波のように広がり、やがて広間を満たした。
セレナは顔を上げた。
「追放先をお聞きしてもよろしいでしょうか」
エドガーはわずかに眉をひそめた。
泣き崩れると思っていたのだろう。命乞いをし、リリアを罵り、自ら悪役であると証明することを期待していたに違いない。
「アルヴェイン公爵家が所有していた北辺、ノルディア領だ」
その名を聞いた瞬間、大広間が静まり返った。
ノルディア。
かつては北方交易の要地として栄えていたが、二十年前に魔獣災害によって壊滅した土地だ。冬は長く、畑は凍り、今では罪人でさえ送り込まれないと噂されている。
形式上はアルヴェイン公爵家の領地だったものの、十年以上前から代官すら置かれていなかった。
行けと言うのは、死ねと言うのと同じだった。
「陛下の裁可は?」
「すでに得ている」
「公爵家は、この決定を承知しているのでしょうか」
人垣の向こうで、セレナの父が目をそらした。
母も、弟もいた。
誰一人として前に出ない。
セレナは小さく息を吐いた。
それで十分だった。
「承知いたしました」
首飾りを外す。
王太子から贈られた青玉を、セレナはエドガーの前に置いた。
「これまでのご厚情に、心より感謝申し上げます」
「待て」
立ち去ろうとしたセレナを、エドガーが呼び止めた。
「何か申し開きはないのか」
「申し上げたところで、殿下は信じてくださいますか」
「それは内容による」
「でしたら、何もございません」
その答えが気に入らなかったらしい。
エドガーの端正な顔が歪む。
「最後まで可愛げのない女だ。魔力もなく、笑顔さえ見せず、書類と数字にばかり執着する。お前のような女が王太子妃になれば、この国は息が詰まる」
「左様でございますか」
「ああ。リリアこそ、民を照らす光だ」
「それでは殿下」
セレナは初めて微笑んだ。
「どうかその光が、帳簿の数字まで照らしてくださいますように」
意味を理解できないエドガーを残し、セレナは広間を出た。
その背後で、再び音楽が始まる。
王太子と聖女を祝福する、華やかな曲だった。
セレナは一度も振り返らなかった。
十三年間、彼女が王太子妃となるために費やした時間。
覚えた法律。
学んだ外交。
夜を徹して直した予算案。
エドガーの失言を取り消すため、各国の使節へ頭を下げて回った日々。
そのすべてが、今夜、不要になった。
胸が痛まないわけではない。
けれど、不思議と涙は出なかった。
学院の玄関を出たところで、冷たい夜風が頬をなでる。
セレナは空を見上げた。
雲の向こうに、灰色の月が浮かんでいる。
「ノルディア……」
死の土地。
見捨てられた北辺。
だが、セレナは知っていた。
王国の中央図書館。その最奥に封じられた古文書に、ノルディアの本当の名が記されていたことを。
古代王国の心臓。
北の門。
そして、王家が何より恐れる秘密の眠る場所。
「追放してくださって、ありがとうございます」
誰にも聞こえない声で、セレナは呟いた。
王都にいる限り、彼女はいつまでも王太子の影だった。
だが、これからは違う。
もう誰の許しもいらない。
誰のために笑う必要もない。
セレナは灰色の月に向かって、静かに告げた。
「ここからは、私の人生です」
第二章 死の領地
追放は翌朝、直ちに執行された。
持ち出しを許されたのは、衣服を詰めた鞄一つと、わずかな銀貨だけだった。
公爵家の馬車は来なかった。
代わりに用意されていたのは、罪人を運ぶための鉄格子付き馬車だった。
「優雅な旅とはいきそうにありませんね」
御者台から声がした。
振り返ると、黒髪の若者が手綱を握っている。
年齢は二十代半ばほど。片目を革の眼帯で覆い、使い古された外套を羽織っていた。
「あなたが御者ですか?」
「王都を出るまでは」
男は肩をすくめた。
「その先は護衛という名目になります。もっとも、命を狙う人間がいるなら、わざわざ北へ行く前に襲うでしょうけど」
「お名前を伺っても?」
「カイル。姓はありません」
「では、カイル。よろしくお願いいたします」
「驚かないんですね」
「何にでしょう」
「護衛が片目で、姓もなく、腰に王国式ではない剣を差していることに」
セレナは男の腰を見る。
黒い鞘。湾曲した細身の剣。
確かに王国の騎士が使う直剣ではない。
「東方の剣ですね。あなたは御者ではありません。そして王都の人間でもない」
カイルは黙った。
「ですが、今の私を殺すなら、とっくに剣を抜いているはずです」
「度胸がある」
「諦めがよいだけです」
「それは、北へ着いてから判断しましょう」
馬車が動き出した。
王都の城壁が遠ざかっていく。
見送りは一人もいなかった。
セレナは格子越しに都を眺めた。
壮麗な王城。
白い石壁。
幾重にも連なる貴族の屋敷。
すべてが朝日に輝いている。
だが、その美しさを保つために、毎年いくらの金が使われているのかを彼女は知っていた。
昨年、王家は離宮の改築に金貨三十万枚を費やした。
一方、北部の防壁修復に配分されたのは、わずか三千枚。その半分も実際には届いていない。
帳簿上では整っていた。
数字を巧妙に移し替え、存在しない工事を計上し、架空の商会へ代金を支払っている。
セレナが不正に気づいたのは二年前。
証拠を集め、エドガーに報告した。
しかし彼は書類を机へ放り出し、こう言った。
「細かいことは官僚に任せればよい。王となる者は、大きな未来を見るべきだ」
その官僚たちこそ、不正の当事者だった。
今思えば、あのときから追放は決まっていたのかもしれない。
馬車は北へ進んだ。
舗装された道は三日で途切れた。
町は村になり、村は荒れ地になった。
北へ行くほど風は冷たくなり、畑から人影が消えていく。
七日目、最初の襲撃があった。
森を抜ける道で、矢が馬車の扉に突き刺さった。
「伏せて!」
カイルが叫ぶ。
セレナが床へ身を落とした直後、二本目の矢が格子の間を通り抜けた。
馬がいななき、馬車が大きく揺れる。
外から複数の足音が近づいた。
「荷物と女を置いていけ!」
男の怒声。
盗賊らしい。
カイルは御者台から飛び降りた。
金属音が三度鳴る。
悲鳴。
それから、短い静寂。
「もう出てきて構いません」
馬車を降りると、五人の男が地面に倒れていた。
死んではいない。
手首や足を正確に斬られ、動けなくされている。
「お強いのですね」
「感想はそれだけですか」
「殺さなかった理由を考えていました」
カイルは剣についた血を払った。
「北では働き手が貴重です」
「彼らを雇うおつもりで?」
「事情によります」
倒れていた盗賊たちは、ひどく痩せていた。
武器も粗末な農具ばかり。衣服は擦り切れ、その顔には長い飢えが刻まれている。
セレナは彼らの前にしゃがんだ。
「どこの領民ですか」
「領民なんかじゃねえ」
最も年長の男が吐き捨てた。
「俺たちは捨てられたんだ。税を払えねえ村は、王国の民じゃねえそうだからな」
「村はどちらに?」
「教えてどうする。騎士を連れて焼きに来るか?」
「食料を持っていきます」
男が目を見開いた。
「私が北辺ノルディアの領主、セレナ・アルヴェインです」
数秒の沈黙。
やがて盗賊たちは笑い出した。
「領主だと?」
「この死に地の?」
「嬢ちゃん、王都で何をやらかした!」
嘲笑されても、セレナは表情を変えなかった。
「持っている食料は少量です。村全体を救うことはできないでしょう。ですが、けが人と子どもを数日生かすことはできます」
年長の男から笑みが消えた。
「代わりに、ノルディアまでの道案内をお願いします」
「俺たちは、あんたを殺そうとしたんだぞ」
「未遂です」
「そういう問題か?」
「私には地理に詳しい人材が必要です。あなた方には食料が必要。互いの必要が一致しただけです」
カイルが口元を押さえた。
笑いをこらえているらしい。
盗賊の男は長く悩んだ末、地面に額をつけた。
「俺はボルク。村には四十二人いる。半分は子どもだ」
「立ってください、ボルク。まずは傷を手当てしましょう」
「俺たちを処刑しないのか」
「貴重な働き手なのでしょう?」
セレナはカイルを見た。
片目の護衛は、今度こそ声を上げて笑った。
「ええ。そのとおりです、領主様」
その日の夕方、セレナは森の奥にある小さな集落へ案内された。
村人たちは怯え、武器を構えていた。
しかし、保存食を差し出すと、その警戒は困惑へ変わった。
村には老人と子どもが多かった。
若い者の大半は徴兵され、帰ってこなかったという。
畑は痩せ、井戸水は濁っている。
セレナは日が暮れるまで村を歩いた。
土を手に取り、水路を調べ、家々の数を数える。
「何をしてるんだ?」
ボルクが尋ねた。
「この土地は死んでいません」
「何?」
「土の色が薄いのは栄養が足りないからです。ですが、水はあります。森には落ち葉も家畜の糞もある。堆肥を作り、作物を変えれば収穫は増やせます」
「作物を変えるって、麦以外に何を育てる」
「カラ芋です」
「あれは家畜の餌だろう」
「寒さに強く、土の中で育つため霜の影響を受けにくい。王都では家畜用ですが、東方諸国では人も食べています」
「まずくて食えねえぞ」
「調理法を知らないだけです」
セレナは鞄から一冊の手帳を取り出した。
王都から持ち出せた、唯一の本だった。
そこには各地の農法、保存食、薬草、水利工事についての知識が、細かな文字で記録されている。
王太子妃になるために学んだ知識。
王都では退屈だと笑われた知識。
それが今、初めて誰かの命を救おうとしていた。
「明日の朝、村の皆を集めてください」
「どうするんだ」
「領主として、最初の仕事を始めます」
そして二日後。
セレナは四十二人の村人と、五人の元盗賊を連れ、ノルディアへ向かった。
追放された令嬢の最初の領民は、王国に見捨てられた者たちだった。
第三章 灰の城
ノルディア城は、城というより巨大な廃墟だった。
北の山脈を背に、黒い岩の上へ築かれた石造りの要塞。
かつて七つあった塔のうち、残っているのは三つ。城壁には大きな亀裂が走り、正門は半分崩れ落ちている。
城下町も荒れ果てていた。
屋根のない家々。
雑草に覆われた広場。
錆びついた井戸。
人影はない。
ただ、風が壊れた窓を通り抜け、不気味な音を立てていた。
「ここに住むのか」
ボルクが呆然と呟く。
「少なくとも、屋根の残っている場所を探しましょう」
セレナたちは城内へ入った。
大広間には雪が吹き込んでいたが、東棟の一部は無事だった。
厨房も使える。
井戸の水は澄んでいた。
問題は食料だった。
持参した保存食は、節約しても十日しかもたない。
「森で狩りをする」
ボルクが言った。
「魔獣が出ます」
「飢えて死ぬよりましだ」
「単独行動は禁止します。必ず三人以上で組んでください」
セレナは城で見つけた古い木板へ、必要な仕事を書き出した。
食料の確保。
居住区の修復。
井戸と排水路の点検。
城下町の調査。
森と山道の地図作成。
「字が読める者は?」
手を上げたのはカイル一人だった。
「では、読み書きの授業も必要ですね」
「そんな余裕がありますか」
「余裕がないからこそ必要です。指示を読める人間が私とあなたしかいなければ、いずれ何もかも止まります」
カイルは感心したようにセレナを見た。
「本当に十七歳ですか」
「先月、十八になりました」
「失礼しました」
三日後、城の地下で七人の住民が見つかった。
彼らはノルディアに残っていた最後の領民だった。
年老いた鍛冶師。
薬師の老婆。
母親と幼い兄妹。
そして、角を持つ双子の少女。
人間ではない。
魔族だった。
魔族と呼ばれる者たちは、かつて北方に暮らしていた先住民族の末裔だ。角や尖った耳を持ち、人間より魔力が強い。
王国では災厄を呼ぶ種族として迫害されていた。
双子の姉が妹をかばい、セレナを睨む。
「殺すなら、私だけにして」
「殺しません」
「人間はみんなそう言う」
「そうですか。それでは、言葉ではなく今後の行動で示します」
セレナは彼女たちの前に食事を置いた。
薄い芋のスープだったが、双子は目を見張った。
「毒は入っていません」
「どうして助けるの」
「ここで暮らしているなら、あなた方も領民だからです」
「魔族なのに?」
「税を納めていただけるなら、種族は問いません」
薬師の老婆が噴き出した。
「あんた、変わったお嬢さんだね」
「よく言われます」
双子はイリスとミラと名乗った。
二人は魔力を使って地下水脈を探知できた。
鍛冶師のドランは、武器だけでなく農具も作れる。
薬師のマーナは、北方の植物に詳しかった。
城にいた全員が、ノルディアの再建に欠かせない人材だった。
セレナは領内に三つの決まりを作った。
一つ。
種族、身分、出身によって住民を害することを禁ずる。
二つ。
食料は働いた量ではなく、必要量を見て配給する。
三つ。
領主を含め、すべての者は法に従う。
「領主も法に従うのか?」
ボルクが尋ねた。
「当然です」
「王様は法そのものだと聞いたぞ」
「だから王都は腐敗したのでしょう」
その言葉に反対する者はいなかった。
春までの三か月、彼らは働き続けた。
森から木を切り出し、屋根を直した。
凍った水路を掘り起こした。
狩りで得た肉は塩漬けにし、骨から煮出した脂も捨てなかった。
食事の評判は悪かった。
特にカラ芋を潰し、乾燥肉と混ぜて焼いたものは、ボルクから「泥の壁」と呼ばれた。
それでも、誰も飢え死にしなかった。
セレナも働いた。
手の皮が破れ、指先はあかぎれだらけになった。
夜は古い領地記録を読み、朝が来れば子どもたちへ文字を教える。
「領主様なのに、どうして働くの?」
幼い少女が尋ねた。
セレナは少し考えた。
王都では、身分が高い者ほど働かないことを誇っていた。
しかし、ここでは違う。
「皆さんに働けと言ったのが、私だからです」
それ以外に理由はいらなかった。
ある夜、カイルがセレナの部屋を訪れた。
「話があります」
机の上には、修復計画の書類が積まれている。
セレナは羽根ペンを置いた。
「どうぞ」
カイルは腰から一本の短剣を抜き、机に置いた。
柄には、翼を広げた鷹の紋章が刻まれている。
「東方帝国の紋章ですね」
「俺は帝国の密偵です」
セレナは驚かなかった。
「いつからお気づきで?」
「初日から可能性は考えていました」
「どうして黙っていたんです」
「あなたが私を害しなかったからです。それに、大陸共通語を話せる護衛は便利でした」
カイルは苦笑した。
「俺の任務は、王国北部の状況を調査することでした。あなたの追放に合わせて護衛役へ入り込んだ」
「帝国は北へ侵攻するおつもりですか」
「少なくとも俺が出発した時点では、候補の一つでした。王国は弱っている。王太子は無能。聖女を名乗る少女の出現で、教会も権力を増している」
「正確な分析です」
「怒らないんですか」
「国に仕える者が国益のために働くのは当然でしょう」
セレナは短剣を手に取った。
「ですが、今のあなたがどの国に仕えているのかは、確認する必要があります」
「どういう意味です」
「命令どおり調査するだけなら、あなたは素性を明かさなかったはずです」
カイルは沈黙した。
やがて眼帯を外す。
隠されていた目は、鮮やかな金色だった。
帝国皇族の血を引く者だけが持つ色。
「カイル・レグナード。帝国皇帝の第三皇子です」
「皇子殿下でしたか」
「相変わらず驚きませんね」
「少しは驚いています」
「顔に出してください」
「苦手です」
カイルは椅子に座った。
「帝国へ戻れば、あなたとノルディアについて報告しなければならない。だが、今帰れば、この土地は春を越せない」
「それで?」
「しばらく、ただのカイルとして働かせてください」
セレナは短剣を返した。
「歓迎します。ただし、特別扱いはいたしません」
「皇子でも?」
「ノルディアでは私が領主です」
一瞬の静寂の後、カイルは深々と頭を下げた。
「承知しました、領主様」
冬の終わり。
城の南側に、最初の畑が作られた。
まだ雪は残っている。
それでも、土の下から小さな緑の芽が顔を出した。
セレナが植えた薬草だった。
イリスとミラが歓声を上げる。
村人たちが集まり、誰もがその小さな芽を見つめた。
「春が来る」
誰かが呟いた。
セレナは北の空を見上げた。
雲の切れ間から光が差し込み、灰色の城壁を照らしている。
死の領地に、最初の春が訪れようとしていた。
第四章 白銀の魔獣
春は希望だけを運んできたわけではなかった。
雪解けとともに、森から魔獣が現れた。
白銀狼。
普通の狼より二回り大きく、刃のような牙と、魔力を帯びた毛皮を持つ。
最初に襲われたのは、城から離れた畑だった。
見張りの鐘が鳴る。
セレナが城壁へ駆け上がると、十数頭の白銀狼が柵を破ろうとしていた。
「弓隊、構えろ!」
カイルの号令で矢が放たれる。
しかし、矢は銀色の毛皮に弾かれた。
「魔力を込めない武器は通用しません!」
イリスが叫ぶ。
ノルディアに魔法を使える者は少ない。
イリスとミラにも、戦えるほどの力はなかった。
「門を閉じろ!」
ボルクが指揮を執る。
城外で農作業をしていた者たちは退避したが、幼い少年が一人、畑に取り残されていた。
少年の前に白銀狼が迫る。
「ルーク!」
母親の悲鳴。
カイルが城壁から飛び降りた。
着地と同時に剣を抜き、狼の顔面へ斬りつける。
だが、刃は毛皮の表面を滑った。
狼の爪がカイルの肩を裂く。
「カイル!」
セレナは階段を駆け下りた。
周囲から止める声が聞こえたが、無視した。
魔力のない自分が出ても、何もできない。
それでも、領主が安全な場所で見ているだけでは、誰もついてこない。
セレナは倉庫から油の入った壺を持ち出し、火をつけた布を投げ込んだ。
「離れて!」
壺を狼へ投げつける。
地面へ落ちた壺が砕け、炎が広がった。
白銀狼は火を恐れ、後退する。
その隙にカイルが少年を抱え上げた。
「門へ!」
三人が走る。
だが、一頭の狼が炎を飛び越えた。
セレナは逃げなかった。
腰から短剣を抜く。
狼が跳びかかる。
その瞬間、大地が震えた。
低い咆哮が響く。
白銀狼が空中で体勢を崩し、地面へ転がった。
森の奥から、さらに巨大な獣が現れた。
青白い角を持つ、黒い狼。
白銀狼たちは一斉に頭を下げた。
黒狼の額には、古い文字のような紋様が浮かんでいる。
「北の守護獣……」
イリスが震える声で呟いた。
黒狼はセレナへ近づいた。
カイルが剣を構える。
「待ってください」
セレナは黒狼の額を見つめた。
あの紋様を知っている。
中央図書館の古文書に記されていた、ノルディアの旧王家の印。
大地との契約を示すもの。
黒狼がセレナの前で足を止めた。
『灰の血を継ぐ者よ』
声が頭の中へ響いた。
『なぜ戻った』
「戻ったのではありません。追放されました」
周囲の者には、セレナが獣に向かって話しているようにしか見えないらしい。
カイルが戸惑っている。
『人の王は、また北を捨てたか』
「はい」
『ならば去れ。この地は、まもなく閉じる』
「閉じるとは?」
『門が開く。夜があふれる』
黒狼の背後で、山脈が震えた。
雪煙が舞い上がる。
その下に、黒い裂け目が見えた。
地中から濃い瘴気が立ちのぼっている。
魔獣災害の原因。
二十年前にノルディアを滅ぼしたもの。
「止める方法は?」
『王の血と、北の民の誓い』
「私は王族ではありません」
『愚かな娘よ』
黒狼の青い目が細くなる。
『お前はアルヴェインの血を引く。王国が生まれるより前、この地を治めた灰冠の王の末裔だ』
セレナは息をのんだ。
公爵家の始祖が北方の豪族だったことは知っている。
だが、王だったという記録は残っていない。
『人の王は歴史を焼いた。契約を奪い、北を辺境と呼んだ。そして門を封じる役目だけを、お前たちの血へ押しつけた』
「では、二十年前の災害は?」
『契約の弱まりを知りながら、王都は兵を引いた。北の民を犠牲にし、門を一時的に塞いだ』
セレナの手が震えた。
災害ではなかった。
事故でもなかった。
王都は知っていた。
ノルディアが滅びることを承知で見捨てた。
「次に門が開くのはいつですか」
『赤き月が満ちる夜』
「あと三か月……」
『逃げよ。お前一人では止められぬ』
「逃げた場合、どうなります」
『北は闇に沈む。やがて王都も、東の国も、すべてが喰われる』
「でしたら、逃げる場所はありません」
セレナは黒狼を見据えた。
「私は魔法を使えません。それでも、契約を結べますか」
『契約に必要なのは力ではない。王たる覚悟だ』
「王になるつもりはありません」
『ならば、何になる』
セレナは振り返った。
壊れた城。
畑を守ろうと立つ人々。
元盗賊。
人間。
魔族。
王国から捨てられた者たち。
彼らの顔には、恐れがあった。
それでも誰一人、逃げ出そうとはしていない。
「この地に生きる者の、最後の盾になります」
黒狼はしばらくセレナを見つめた。
やがて、地面へ頭を垂れる。
『ならば我が名を呼べ。我はアルグ。北の記憶を守る者』
「アルグ」
『灰の娘よ。三か月で民を集めよ。門の前に立つ者すべてが、お前を領主と認めねばならぬ』
「認めない者がいた場合は?」
『契約は成らぬ』
「ずいぶん厳しい条件ですね」
『王とは、そういうものだ』
セレナは小さく笑った。
「それなら、王にならなくて正解でした」
『お前は妙な娘だ』
「よく言われます」
アルグが吠えた。
白銀狼たちは一斉に森へ引き返していく。
去り際、アルグはセレナを振り返った。
『気をつけよ。門を開こうとする者がいる』
「誰ですか」
『光を名乗る、空虚なる者だ』
その言葉を最後に、黒狼は森の闇へ消えた。
同じ頃、王都では聖女リリアが神託を受けたと発表していた。
北に邪悪な王が生まれようとしている。
その王を討たなければ、国は滅びる。
邪悪な王の髪は灰色。
瞳は紫。
リリアが語った特徴は、セレナの姿と完全に一致していた。
第五章 王国からの使者
ノルディアに王国の使者が来たのは、それから一か月後だった。
豪華な馬車が三台。
護衛の騎士が五十人。
先頭に立っていたのは、セレナの弟アレンだった。
二年ぶりに会う弟は、以前より背が伸びていた。
公爵家の紋章入りの外套をまとい、セレナを他人のように見つめている。
「久しぶりだね、姉上」
「アレン。遠いところをよく来ました」
「ずいぶん変わった格好だ」
セレナは簡素な作業着を身につけていた。
裾には泥がついている。
王都にいた頃なら、人前へ出られる姿ではない。
「畑を見ていましたので」
「公爵令嬢が畑仕事とは。父上がご覧になれば、嘆かれるだろう」
「私はすでに公爵家を追放された身です」
アレンは不機嫌そうに眉を寄せた。
「その件で来たんだ。王太子殿下と聖女様は慈悲深い。姉上が罪を認め、リリア様へ謝罪するなら、王都へ戻ることを許すとおっしゃっている」
「罪とは?」
「まだ言うのか」
「していないことを認めるつもりはありません」
「強情だな。だが、この土地を見れば理解できただろう。姉上には一人で生きる力などない」
セレナは城下町へ目を向けた。
修復された家々の煙突から煙が上がっている。
畑にはカラ芋の葉が並び、水路には澄んだ水が流れていた。
広場では人間と魔族の子どもたちが一緒に遊んでいる。
アレンには、それが見えていないらしい。
「用件はそれだけですか」
「もう一つある。この地で魔族をかくまっているそうだね」
「かくまってはいません。彼らは領民です」
「王国法では、魔族を臣民として認めていない」
「ノルディアの法では認めています」
「この地も王国の一部だ!」
アレンが声を荒らげる。
護衛の騎士たちが剣に手をかけた。
同時に、城壁の上へ弓を持った住民が現れる。
白銀狼まで姿を見せた。
騎士たちの顔が青ざめる。
セレナは片手を上げ、住民を制した。
「アレン。あなたは使者です。私たちは使者を害しません」
「脅すつもりか」
「誤解です。歓迎の仕方に慣れていないだけです」
「これが歓迎だと?」
「以前は矢を射てから歓迎していましたので、進歩しています」
後方でボルクが咳払いをした。
明らかに笑いを隠している。
アレンは顔を赤くした。
「北部で発見された魔石鉱山を、王家へ引き渡せ」
突然の要求だった。
セレナは目を細めた。
やはり、それが目的か。
城の地下水路を修復していた際、大規模な魔石鉱脈が見つかった。質も高く、適切に採掘すれば数十年にわたって領地を支えられる。
発見は領内の秘密だった。
「どこでその情報を?」
「答える必要はない。ノルディアは王国領だ。その資源は王家のものだ」
「そうですか」
「理解したなら、採掘権を示す書類に署名しろ」
アレンが差し出した書類を、セレナは受け取った。
内容を読む。
採掘権だけではない。
土地の使用権。
水源の管理権。
領民の労働徴用権。
署名すれば、ノルディアのすべてを王家へ差し出すことになる。
セレナは書類を二つに裂いた。
アレンの顔から表情が消えた。
「何をしたか分かっているのか」
「不要な紙を処分しました」
「これは反逆だ!」
「では王国法に従い、裁判を開いてください。証拠と証言を提出し、公正に審理していただきましょう」
「追放された罪人に裁判を受ける権利はない!」
「奇妙ですね。裁判を受けられない者を、どうやって罪人と決めたのでしょう」
アレンは言葉に詰まる。
セレナは一歩近づいた。
「王都へ戻り、お伝えください。ノルディアは援助を求めたとき、王国から見捨てられました。ゆえに今後、ノルディアの富を王国へ無条件で差し出すことはありません」
「王太子殿下が軍を送るぞ」
「北方の地形を知らない軍隊が、魔獣の森を越えられると?」
「聖女様が先導なさる」
アルグの言葉が脳裏によみがえる。
光を名乗る、空虚なる者。
「リリア様が、こちらへ?」
「ああ。赤き月の夜、姉上が災厄を呼ぶと神託があった。その前に魔族を討伐し、姉上を拘束する」
あと二か月。
軍が北へ来る。
しかも災厄の門が開く、まさにそのときに。
偶然ではない。
リリアは何かを知っている。
「姉上」
アレンが声を落とした。
「今なら、まだ間に合う。僕と一緒に帰ろう。リリア様に頭を下げるんだ」
「戻って、どうなります?」
「修道院で静かに暮らせる。命までは取られない」
「ノルディアの人々は?」
「魔族と、それに協力した反逆者だ。討伐されても仕方がない」
セレナは弟を見つめた。
幼い頃、泣き虫だった弟。
転んで膝をすりむくたび、セレナの後ろへ隠れた。
公爵家の跡継ぎとして期待される彼を、守らなければならないと思っていた。
いつからだろう。
目の前にいる人間の命を、身分や種族だけで切り捨てるようになったのは。
「帰りません」
「姉上!」
「そして、あなたを城内へ入れることもできません。お引き取りください」
「後悔するぞ」
「すでに多くのことを後悔しています」
もっと早く王都を離れればよかった。
家族なら分かり合えると、信じ続けなければよかった。
正しくあろうとすれば、いつか認めてもらえると思わなければよかった。
「ですが、ここへ来たことは一度も後悔していません」
アレンは背を向けた。
王国の馬車が去っていく。
その夜、セレナは住民を広場へ集めた。
隠すことなく、すべてを話す。
二か月後に門が開くこと。
王国軍が来ること。
ノルディアに残れば、命を失う可能性が高いこと。
「避難を望む方には、東方帝国までの道と食料を用意します。去る者を責めてはなりません」
誰も口を開かなかった。
セレナは続ける。
「私はここに残ります。領主だからではありません。この土地を見捨てたくないからです。ですが、それを皆さんへ強いる権利はありません」
最初に前へ出たのはボルクだった。
「俺たちは、この国に捨てられた」
彼はセレナの前に立つ。
「飢えた子どもを助けず、税だけ取り立てて、抵抗すれば盗賊と呼んだ。そんな国のために戦うつもりはねえ」
ボルクは膝をついた。
「けど、あんたは俺たちを拾った。だから俺は、あんたの土地のために戦う」
次に、魔族の双子が膝をついた。
鍛冶師が。
薬師が。
母親たちが。
子どもたちまで真似をしようとしたため、セレナは慌てて止めた。
最後にカイルが前へ出る。
「俺は帝国の皇子です」
広場がざわめいた。
「この地の者ではないかもしれない。だが、ノルディアで食事をし、働き、冬を越した。ここで俺は、皇子ではなく一人の人間として扱われた」
カイルはセレナの前に剣を置いた。
「我が剣と名にかけて、あなたとノルディアを守ります」
「国へ帰らなくてよいのですか」
「手紙を送りました。援軍を連れて戻ると」
「勝手ですね」
「あなたほどではありません」
セレナは思わず笑った。
広場の人々も笑う。
その笑いは、恐怖の残る夜空へ広がった。
王家の血も、聖女の祝福もない。
けれど、この瞬間。
ノルディアに住む者の心は、一つになっていた。
第六章 偽りの聖女
翌朝、一人の少女が城門の前で倒れていた。
聖女リリア付きの侍女、エマだった。
服は破れ、背中には鞭で打たれた痕がある。
彼女は三日間、山道を歩いてきたという。
治療を受け、目を覚ましたエマは、セレナの姿を見るなりベッドから転げ落ちた。
「セレナ様……お許しください」
「まず横になってください」
「私が、嘘の証言をしました」
部屋にいた者たちが息をのむ。
エマは泣きながら語った。
階段から落ちた事件はリリアの自作自演だった。
毒もリリア自身が用意した。
エマの母親を人質に取り、セレナが犯人だと証言させた。
母親はすでに殺されていた。
「どうして今、ここへ?」
「リリア様の部屋で、これを見つけました」
差し出されたのは黒い革表紙の手記だった。
古代語で書かれている。
セレナが読み進めるうちに、指先が冷たくなった。
それは古代王国の祭司が残した記録だった。
北の門の向こうには、膨大な魔力が眠っている。
門が開く瞬間、その魔力を一人の人間へ集めれば、神に等しい力を得られる。
ただし、契約者である灰冠の末裔を生贄にしなければならない。
「リリア様は、ご自分が神に選ばれたと信じています」
エマが言う。
「夢の中で声を聞いたそうです。その声が、セレナ様を北へ追放するよう命じたと」
「では、私の追放そのものが計画だった」
婚約破棄。
濡れ衣。
ノルディアへの追放。
すべてはセレナを門のそばへ運ぶため。
だが、リリア一人で実行できる計画ではない。
「協力者がいるはずです」
カイルが手記を調べる。
背表紙の内側に、黒い太陽の紋章があった。
「虚無教団」
カイルの表情が険しくなる。
「百年前に帝国で壊滅したはずの邪教です。世界を一度闇へ戻し、選ばれた者だけで作り直すという思想を持つ」
「王国の中枢に入り込んでいる可能性は?」
「高いでしょう。そうでなければ、王太子や教会を操れない」
エマが震える声で付け加えた。
「王太子殿下も、最近はおかしくなられました。リリア様から黒い薬を渡され、それを飲むようになってから……。ご自分の名前すら忘れることがあります」
「薬の効能は?」
薬師のマーナが手記に挟まっていた粉を調べた。
「心を弱らせる毒だね。長く飲めば思考を奪われる。ただし、元からない知恵を奪うことはできないよ」
部屋が静まり返る。
ボルクが顔を伏せた。
カイルは窓の外を向いた。
誰も笑っていないふりをしていた。
セレナは咳払いをする。
「王太子殿下を救う方法は?」
「毒を抜けば正気には戻る。けど時間がかかるよ」
「では、可能なのですね」
カイルがセレナを見る。
「助けるつもりですか。あなたを追放した男を」
「彼を許すつもりはありません」
セレナは手記を閉じた。
「しかし、罪を償わせるためには生きていてもらわなければ困ります」
「あなたらしい」
「それに、何も知らずに従軍させられる騎士や兵士まで、敵にする必要はありません」
方針は決まった。
王国軍を撃退するのではない。
リリアと虚無教団を切り離す。
兵士たちへ真実を伝え、門を封じるための戦力に変える。
問題は、彼らが話を聞いてくれるかどうかだった。
「証拠だけでは足りません」
セレナは地図を広げた。
「王国軍は南の街道を通ります。そこで補給路を押さえます」
「兵糧を奪うんですか?」
「いいえ。届けます」
カイルが眉を上げた。
「敵に?」
「王国軍の補給計画は、おそらく破綻しています」
セレナは王都で見た軍事予算を思い出していた。
横領。
架空の兵士。
水増しされた輸送費。
一万の軍を動かすと宣言しても、実際に届く食料は七千人分にも満たない。
「飢えた軍隊は略奪を始めます。そうなれば、話し合いは不可能です」
「だから先に食わせると」
「食料を与え、治療を施し、そのうえで真実を伝えます」
ボルクが頭をかいた。
「普通は逆じゃねえか。敵を飢えさせて弱らせるんだろ」
「弱った兵士では魔獣と戦えません」
「そいつらは俺たちを殺しに来るんだぞ」
「だから選ばせます」
セレナは地図上の道を指した。
「私たちと戦い、すべてを闇に飲まれるか。共に戦い、生きて王都へ帰るか」
一か月後。
王国軍七千が北の峡谷へ到着した。
予想どおり、彼らは飢えていた。
補給馬車の半数が途中で消え、指揮官たちは責任を押しつけ合っていた。
そこへノルディアの旗を掲げた荷車が現れる。
芋。
干し肉。
薬。
毛布。
兵士たちは罠を疑った。
だが、セレナは食料を届ける前に、ノルディア側の人間へ同じ鍋の料理を食べさせた。
毒がないと分かると、兵士たちはむさぼるように食べた。
「姉上は何を考えている」
軍の前方で、アレンが苛立っていた。
その隣には王太子エドガーがいる。
以前の面影はない。
頬はこけ、目の下には深い隈ができていた。
そして白い法衣をまとったリリアは、多数の神官に囲まれている。
「罠ですわ、殿下」
リリアが言った。
「セレナ様は魔族の術で兵士を操ろうとしているのです」
「しかし、食料がなければ進軍できない」
アレンが反論する。
「神の試練です。信仰があれば空腹など耐えられます」
その言葉を聞いた兵士たちの目つきが変わった。
自分だけは豪華な馬車に乗り、十分な食事を取っている聖女。
一方、魔女と呼ばれた令嬢は、敵である自分たちに食料を差し出した。
疑念が生まれるには、それで十分だった。
セレナはたった三十人を連れ、王国軍の前へ出た。
「兵士の皆さん」
拡声の魔石を通し、声を届ける。
「私は皆さんと戦うつもりはありません」
リリアが叫ぶ。
「惑わされてはいけません! あの女は邪悪な魔女です!」
「私は魔力を持っておりません」
セレナは即座に返した。
兵士たちの間から失笑が漏れる。
魔力がないことで見下され続けた事実が、初めて役に立った。
「ここに、聖女リリアによって傷つけられた侍女がいます。そして、事件が偽りであったことを示す証拠があります」
エマが前に出る。
「エマ!」
リリアの顔が歪んだ。
その一瞬の表情を、多くの者が見た。
慈愛深い聖女には似つかわしくない、憎悪の顔。
エマはすべてを証言した。
脅迫。
偽装。
黒い薬。
虚無教団。
証言が終わると、リリアは笑い出した。
「そんな下賤な女の言葉を信じるのですか?」
「リリア?」
エドガーが彼女を見る。
「君は、エマを知らないと言っていたはずだ」
「あ……」
「なぜ名前を?」
沈黙。
リリアはエドガーの腕をつかんだ。
「殿下、この女を殺してください。今すぐに!」
エドガーは剣を抜いた。
だが、その切っ先をリリアへ向ける。
「答えろ」
手が震えている。
毒で弱りきった身体。それでも王太子として残った最後の意志が、彼を立たせていた。
「セレナを陥れたのか」
「私が、あなたを王にしてあげるのよ」
リリアの声から甘さが消えた。
「無能で、誰からも期待されていなかったあなたを。私が選んであげた。私が愛してあげた。それなのに、私を疑うの?」
エドガーの顔が青ざめる。
「君は……私を愛していなかったのか」
「本当に愚かな人」
リリアが指を鳴らした。
神官たちが一斉に黒い短剣を抜く。
法衣を脱ぎ捨てると、その下には黒い太陽の紋章が刻まれていた。
虚無教団。
混乱の中、教団員がエドガーを背後から刺した。
「殿下!」
アレンが支える。
リリアは黒い魔石を掲げた。
「もう遅いわ」
赤い月が昇る。
まだ予定より七日早い。
黒い魔石が月の光を受け、砕けた。
北の山脈から轟音が響く。
大地が割れ、空が黒く染まった。
「門は開いた!」
リリアは両手を広げた。
「さあ、セレナ! 私の神になるため、その血をよこしなさい!」
第七章 赤き月の戦い
闇が山を越えた。
それは霧のようであり、生き物のようでもあった。
触れた草木が枯れ、地面から黒い魔獣が這い出してくる。
兵士たちが悲鳴を上げた。
隊列は崩れ、馬が暴れる。
「逃げるな!」
セレナの声が拡声魔石から響く。
「南へ逃げても追いつかれます! 生きたい者は武器を取り、ノルディアの旗の下へ集まってください!」
王国兵の一人が剣を掲げた。
「俺は行く! 聖女より、飯をくれた領主様を信じる!」
「俺もだ!」
声が広がる。
騎士の一部は迷っていたが、指揮官であるアレンが決断した。
「全軍、ノルディア軍と合流せよ!」
「アレン様、反逆になります!」
「国がなくなれば反逆も何もない!」
アレンは負傷したエドガーを部下へ預け、剣を抜いた。
王国軍とノルディア軍が初めて肩を並べる。
カイルが前線の指揮を執った。
「槍兵は三列! 魔獣を止めろ! 弓兵は敵の目を狙え!」
イリスとミラが魔力を合わせ、地面へ防壁を作る。
白銀狼たちはアルグに率いられ、魔獣の群れへ飛び込んだ。
ボルクと元盗賊たちは、岩場から油壺を投げる。
炎が闇を照らす。
戦える者は戦った。
戦えない者は負傷者を運び、矢を届け、食事を作った。
誰もが自分の役割を果たしていた。
セレナは門へ向かった。
彼女の左右をカイルとアレンが守る。
「姉上、何をするつもりだ」
「門を封じます」
「方法は?」
「私の血を使います」
アレンの顔色が変わる。
「死ぬのか」
「分かりません」
「そんな方法、認められない!」
「認める必要はありません」
「僕は、姉上を連れ戻すために来たんだ!」
剣で魔獣を払いながら、アレンが叫ぶ。
「父上も母上も、姉上を見捨てたことを後悔していた! 僕だって……僕だって、本当は……!」
「アレン」
セレナは足を止めない。
「後悔は、生きて償ってください」
弟は唇をかんだ。
「もし私が戻らなければ、ノルディアをお願いします」
「嫌だ」
「初めて頼みます」
「嫌だ!」
アレンの叫びを、轟音がかき消した。
前方にリリアが立っている。
白い法衣は黒く染まり、背中から闇の翼が伸びていた。
その顔には、陶酔した笑みが浮かんでいる。
「待っていたわ、セレナ」
「なぜ、こんなことを?」
「なぜ?」
リリアは不思議そうに首を傾げた。
「私はずっと、何も持っていなかった。貧しい村に生まれて、父には殴られ、母には売られた。神殿に行っても、平民だからと見下された」
「だから国を滅ぼすのですか」
「あなたには分からない!」
闇の刃が放たれる。
カイルが剣で受けた。
衝撃で地面を転がる。
「カイル!」
「大丈夫です! 先へ!」
リリアはセレナを睨みつけた。
「生まれたときから美しく、賢く、公爵令嬢で、王太子の婚約者。何もかも持っていたあなたに、私の気持ちが分かるものですか!」
「分かりません」
セレナは答えた。
リリアが一瞬、動きを止める。
「あなたが受けた苦しみを、私が分かるとは言いません。その権利もありません」
「なら!」
「ですが、苦しんだから他人を苦しめてよいという理屈には、同意できません」
「黙れ!」
闇が渦巻く。
セレナの身体が宙へ持ち上げられた。
首を締めつけられ、息ができない。
リリアは笑っていた。
「あなたが嫌いだった。いつも正しくて、冷静で、私がどれだけ殿下に愛されても、少しも悔しそうにしない!」
「悔しく……ありませんでしたから」
セレナは苦しみながら答えた。
「あなた!」
「殿下を、愛したことはありません」
リリアの表情が凍りついた。
「婚約は義務でした。だから、あなたに奪われたとは思っていません」
「嘘よ」
「あなたが私から奪ったのは、地位でも婚約者でもない」
セレナはリリアを見る。
「真実を話す機会です」
エドガーを愛していたわけではない。
それでも、十三年間を共に過ごした。
彼がよりよい王になるよう支え続けた。
せめて最後に、正面から話してほしかった。
他人が作った筋書きではなく、彼自身の言葉で、関係を終わらせてほしかった。
それさえ与えられなかった。
「ですが、もう必要ありません」
セレナは袖に隠していた魔石を砕いた。
光が弾ける。
マーナが作った、魔力を散らす石。
闇の拘束が緩んだ。
地面へ落ちたセレナを、カイルが受け止める。
「無茶をする」
「あなたに言われたくありません」
カイルの肩から血が流れている。
それでも彼は笑った。
「門まで走れますか」
「走ります」
二人は門へ向かった。
リリアが闇の刃を放つ。
アレンが盾で防いだ。
「行け、姉上!」
盾が砕ける。
アレンの身体が吹き飛ばされた。
セレナは振り返らなかった。
振り返れば、進めなくなる。
門の前に立つ。
地面に巨大な黒い穴が開き、その奥には星一つない闇が広がっている。
アルグが現れた。
全身に傷を負いながらも、青い目は力を失っていない。
『灰の娘よ。契約の時だ』
「何をすれば?」
『血を門へ。名を大地へ。民の誓いを空へ』
セレナは短剣で手のひらを切った。
血が黒い大地へ落ちる。
地面に古代文字が浮かび上がった。
『名を告げよ』
「セレナ・アルヴェイン」
『違う』
アルグが吠える。
『それは人の王が与えた名。大地に刻む、お前自身の名を告げよ』
自分自身の名。
公爵令嬢でもない。
王太子の元婚約者でもない。
追放された罪人でもない。
「私はセレナ」
彼女は門を見据えた。
「ノルディアに生きる、すべての民の同胞です」
大地が輝く。
『民の誓いを』
セレナは振り返った。
「聞こえますか!」
戦場へ声を届ける。
「私を王と認める必要はありません! 私に従う必要もありません!」
兵士たちが、領民たちが、セレナを見る。
「ただ、生きたいと願うなら! 隣にいる者を、身分や種族を超えて守りたいと願うなら! その意志を私に貸してください!」
最初に声を上げたのは、ボルクだった。
「俺は生きる! この土地で!」
イリスとミラが続く。
「私たちも!」
鍛冶師が。
薬師が。
王国兵が。
騎士が。
アレンが。
そして負傷したエドガーが、誰かに支えられながら剣を掲げた。
「生きる!」
一万に近い声が、北の空を震わせた。
光がセレナの身体へ集まる。
公爵家の血ではない。
王家の権威でもない。
同じ願いを持つ者たちの意志。
リリアが絶叫した。
「その力は私のものよ!」
彼女は闇の翼を広げ、セレナへ突進する。
カイルが前へ出た。
だが、リリアの闇が彼の剣を砕いた。
黒い刃がカイルの胸を貫く。
「カイル!」
カイルは血を吐きながら、リリアの腕をつかんだ。
「今です……セレナ!」
「離しなさい!」
リリアが暴れる。
カイルは離さない。
セレナは門へ両手をついた。
「北の大地よ」
光があふれる。
「私たちは、あなたを犠牲にしない」
大地の記憶が流れ込む。
滅びた町。
捨てられた人々。
名も残らなかった魔族。
門を封じるため、一人ずつ命を差し出してきた灰冠の王たち。
これまでの契約は、一人の王を犠牲にするものだった。
だが、セレナは拒んだ。
「一人の犠牲で、すべてを救う契約など認めません」
『ならば、何を差し出す』
大地が問う。
「私たち全員が、少しずつ責任を負います」
誰か一人を英雄にしてはいけない。
誰か一人へ罪を押しつけてもいけない。
国を作るのは王ではない。
生きる者すべてだ。
「私たちは門を見張り続けます。土地を守り、歴史を伝え、同じ過ちを繰り返しません」
光が広がった。
『その誓い、永遠に続くと思うか』
「永遠の国などありません」
セレナは答えた。
「だから、続ける努力を法に残します」
静寂。
やがて、大地が笑った。
『それでよい』
門が閉じ始める。
闇が吸い込まれていく。
魔獣たちは黒い塵となり、風に消えた。
リリアの翼も崩れる。
「嫌よ!」
彼女はカイルを振り払い、門へ手を伸ばした。
「私は神になるの! こんなところで終わるはずがない!」
門の闇から、無数の腕が伸びる。
虚無教団が崇めていたもの。
それは神ではなかった。
餌を待つ、名もなき怪物。
「助けて!」
リリアがセレナへ手を伸ばす。
セレナは迷わず、その手をつかんだ。
「どうして……」
「あなたには、生きて罪を償っていただきます」
カイルとアレンも加わり、リリアを引き上げる。
黒い腕が迫る。
アルグが咆哮し、青い炎で焼き払った。
最後の光が弾ける。
門は完全に閉じた。
赤い月が白く戻る。
夜空に星が現れた。
北の大地へ、静けさが戻る。
セレナはカイルへ駆け寄った。
「傷を見せてください」
「急に優しくなりましたね」
「喋らないでください」
胸の傷は深い。
セレナの手が震える。
カイルは彼女の頬へ触れた。
「あなたが無事でよかった」
「私はよくありません」
初めて、セレナの目から涙が落ちた。
「あなたが死んだら、私は……」
「死にませんよ」
「なぜ分かるのですか」
「まだ、給金をもらっていないので」
カイルは微笑み、そのまま意識を失った。
セレナの叫び声が、夜明け前の空へ響いた。
第八章 灰冠の国
カイルは生きていた。
マーナによれば、刃は心臓をわずかに外れていたという。
「悪運だけは強い男だね」
その一言で済ませたが、治療には三日三晩かかった。
目を覚ましたカイルへ、セレナは最初に言った。
「給金を支払います」
「もう少し感動的な言葉は?」
「勝手に死にかけた分を減額します」
「ひどい領主だ」
「不満なら帝国へお帰りください」
「それは困ります」
「なぜです?」
カイルはしばらく黙り、やがて笑った。
「まだ内緒です」
リリアと虚無教団員は拘束された。
誰も私刑を望まなかった。
エマをはじめとする被害者の証言を集め、公開裁判にかけることが決まった。
リリアは当初、何も話さなかった。
だが数週間後、自ら教団との関わりを証言し始めた。
許されたかったのかもしれない。
罪を軽くしたかっただけかもしれない。
セレナには判断できなかった。
ただ、法に従って裁くことだけを決めた。
王太子エドガーも一命を取り留めた。
毒が抜けると、彼はセレナへ面会を求めた。
二人が向かい合ったのは、ノルディア城の小さな応接室だった。
かつて王都で会話をしたときは、必ず従者や侍女がいた。
二人きりで話すのは、これが初めてかもしれない。
「セレナ」
エドガーは痩せていた。
金色の髪からは艶が消え、顔色も悪い。
「謝って許されるとは思っていない」
「はい」
「少しくらい否定してくれてもよいだろう」
「申し訳ございません」
「そういうところは変わらないな」
エドガーは寂しげに笑った。
「私は、リリアに操られていた」
セレナは黙って聞く。
「毒を飲まされ、判断力を奪われていた。教団の者たちに、偽の証拠を見せられていた」
「そうですか」
「だが、それは言い訳だ」
エドガーは膝の上で拳を握った。
「毒を飲む前から、私は君の話を聞かなかった。君が何度も警告してくれたのに、面倒だと切り捨てた。君が積み上げた功績を、自分のものとして受け取った」
「はい」
「婚約破棄の夜も、心のどこかでは、話が不自然だと分かっていた。それでもリリアを選んだ自分を正当化するため、君を悪人だと決めつけた」
セレナは初めて、まっすぐエドガーを見た。
彼は逃げなかった。
「すまなかった」
王太子が頭を下げる。
かつて望んでいた言葉。
だが、実際に聞いても、失った時間は戻らなかった。
傷が消えるわけでもない。
「謝罪は受け取ります」
エドガーが顔を上げる。
「許してくれるのか」
「いいえ」
その目に落胆が浮かぶ。
「許すことと、謝罪を受け取ることは別です。あなたは王都へ戻り、ご自身の責任を明らかにしてください」
「王位を継ぐ資格はないと思っている」
「それを決めるのは、あなた一人ではありません」
「では、どうすればいい」
かつて、自信に満ちていた王太子。
今は答えを求める、一人の青年だった。
「自分でお考えください」
セレナは立ち上がる。
「私はもう、あなたの答えを用意する役目ではありません」
エドガーは何も言えなかった。
一か月後、彼は王都へ戻った。
自ら婚約破棄に至るまでの不正を公表し、王太子の地位を返上。
王国議会による裁判を受けた。
国王もまた、ノルディアを意図的に見捨てた証拠を突きつけられ、退位した。
王国は大きく揺れた。
貴族たちは責任を押しつけ合い、教会は聖女認定の誤りを認めようとしなかった。
そんな王都から、ノルディアへ使節が訪れる。
今度の使者は、アレンだった。
だが、公爵家の紋章は身につけていない。
「父上は爵位を返上した」
「そうですか」
「母上と共に領地の修道院へ入るそうだ。僕も公爵位を継がない」
「今後は?」
「しばらくノルディアで働きたい」
「公爵家のご令息に任せる仕事はありません」
「ただのアレンとして雇ってくれ」
セレナは弟を見る。
手には剣ではなく、農具が握られている。
「畑仕事は厳しいですよ」
「姉上にできたなら、僕にもできる」
「初日に腰を痛めても知りません」
そう言って、セレナは手を差し出した。
アレンはその手を握る。
姉弟が、本当の意味で家族として歩き始めた瞬間だった。
同じ頃、東方帝国から正式な使節団が到着した。
先頭にいたのはカイルである。
「お帰りなさい、皇子殿下」
「ただいま戻りました、領主様」
彼が持参したのは、帝国との同盟条約だった。
ノルディアを独立国として承認する。
国境を相互に守る。
交易路を整備する。
種族に関係なく、互いの民の権利を保障する。
王国もまた、ノルディアの独立を認めざるを得なかった。
北の門を守る役割を、再び一方的に押しつけることはできない。
こうして大陸の北に、一つの小さな国が誕生した。
国名を決める会議では、さまざまな案が出た。
新ノルディア王国。
北方自由国。
白銀狼の国。
最後にイリスが言った。
「灰冠国は?」
「灰冠?」
「セレナ様のご先祖様の名前。でも、昔と同じ国じゃない。冠は王様だけのものじゃなくて、ここにいるみんなで持つの」
人々はその案を気に入った。
国名は灰冠連邦ノルディア。
王を置かず、住民から選ばれた代表と、法によって治める国。
セレナは初代執政官に選ばれた。
就任式の日。
彼女は宝石の冠を拒んだ。
代わりに鍛冶師ドランが作った、灰色の鉄の輪を受け取る。
装飾はない。
豪華さもない。
だが、ノルディアの鉱山から採れた鉄を、領民全員で少しずつ打って作ったものだった。
セレナがそれをかぶると、広場に歓声が上がった。
式の後、城壁に立つセレナの隣へカイルがやって来る。
城下町には新しい家が並び、道には商人の馬車が行き交っている。
人間も魔族もいる。
王国から逃れてきた農民。
帝国から来た職人。
罪を償い、新しい人生を始めようとする者。
さまざまな人々が、同じ市場で言葉を交わしていた。
「見違えましたね」
カイルが言う。
「まだ始まったばかりです。法律も税制も、直すところばかりです」
「本当にあなたは、余韻を楽しむことを知りませんね」
「問題を後回しにした結果、滅びかけた国を知っていますので」
「それは耳が痛い」
カイルは城壁にもたれた。
「一つ、急いで解決してほしい問題があります」
「何でしょう」
「俺の滞在資格です」
「帝国の大使として認められています」
「そうではなく、もっと長期的な資格です」
セレナは首を傾げた。
カイルはため息をつく。
「あなたの隣にいる資格です」
ようやく意味を理解し、セレナは目を見開いた。
「それは……外交上の提案でしょうか」
「個人的な求婚です」
「いつから?」
「雪の中で、手をぼろぼろにしながら屋根を直していた頃から」
「ずいぶん前ですね」
「あなたが気づかないだけです」
セレナは城下町へ目を向けた。
かつて王太子の婚約者だった頃、結婚とは義務だった。
家と国のために結ばれる契約。
そこに自分の感情が入る余地はないと思っていた。
だが、今は違う。
選ぶことができる。
断ることも。
受け入れることも。
「条件があります」
「何でしょう」
「ノルディアで暮らすなら、法に従っていただきます。皇子だからといって特別扱いはしません」
「もちろん」
「執政官の仕事を邪魔しないこと」
「努力します」
「危険な行動をした場合、給金を減額します」
「まだ給金制なのですか」
「それから……」
セレナは一度、言葉を止めた。
これまで誰かへ気持ちを伝える訓練など、一度も受けていない。
外交辞令なら、いくらでも浮かぶ。
けれど、今必要なのは、自分自身の言葉だった。
「私より先に、勝手に死なないでください」
カイルは優しく微笑んだ。
「約束します」
「では」
セレナは彼へ手を差し出す。
「今後について、前向きに検討しましょう」
「もう少し甘い返事を期待していたんですが」
「嫌なら撤回します」
「喜んでお受けします」
カイルがその手を取る。
眼下の広場から、二人を見つけた子どもたちが歓声を上げた。
セレナは恥ずかしそうに手を引こうとしたが、カイルは離さなかった。
灰色の雲の向こうから、光が差す。
北の大地は、これからも厳しい。
冬は長く、魔獣は消えず、国同士の争いもなくならないだろう。
法を作っただけで、人の偏見がすべて消えるわけではない。
誰かが権力を求め、再び過ちを犯す日も来るかもしれない。
だからこそ、見続けなければならない。
間違いを認め、直し続けなければならない。
完璧な王が国を救うのではない。
不完全な人々が、互いを見捨てずに生きようとする。
国とは、そのための約束なのだ。
かつて灰色令嬢と呼ばれた少女は、王都から追放された。
家族を失い、地位を奪われ、死の土地へ送られた。
だが彼女は、その場所で自分の名を見つけた。
誰かの娘ではない。
誰かの婚約者でもない。
誰かに選ばれる聖女でもない。
セレナ。
ただ一人の人間として、多くの人々と共に生きる者。
後年、彼女は「灰冠の女王」と呼ばれることになる。
しかし、その呼び名を向けられるたび、セレナは必ず訂正したという。
自分は女王ではない。
民の上に立ったこともない。
ただ、皆と同じ場所に立ち、最初の一歩を踏み出しただけだと。
ノルディア城の大広間には、一枚の古い木板が今も保存されている。
セレナが追放された最初の年、必要な仕事を書き記したものだ。
食料の確保。
家の修復。
水路の点検。
地図の作成。
読み書きの授業。
その一番下には、後から付け加えられた一文がある。
美しい文字ではない。
さまざまな年齢の者が、何度もなぞって書いた言葉だった。
誰も、見捨てない。
それが灰冠連邦ノルディアで最初に生まれた法律であり、最後まで失われることのなかった建国の誓いとなった。
そして北の空には今日も、白銀狼の遠吠えが響いている。
新しい時代の始まりを告げる、祝福の鐘のように。
完




