第五章:時雨(桃太郎物語の雉)
一
鬼ヶ島へと続く道中、桃太郎たちは深い森の中を歩いていた。
春の柔らかな日差しが木漏れ日となって地面をまだらに照らし、湿った土の匂いが鼻腔をくすぐる。鳥のさえずり、風に揺れる木々のざわめき——すべてが平和そのものだった。
その時、前方から微かな気配がした。
衛門が鋭い視線を向けると、木々の間に一つの人影が揺れる。それは風に揺れる木の影か、それとも——。
桃太郎が声をかけようとしたその瞬間、その人影は風のように一行の前に舞い降りた。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
黒い装束に身を包み、顔の下半分を布で隠している。年は十五、六歳ほどだろうか。細身ながらも、その立ち姿には無駄がなく、獲物を狙う獣のような緊張感が漂っていた。
彼女は一切の言葉を発さず、ただ静かに桃太郎を見据えていた。その瞳は冷たく、まるで氷の欠片のようだった。
「もし、何か困っているのかい?」
桃太郎の純粋な問いかけにも、少女は答えなかった。ただ、わずかに首を傾げたように見えた——その問いかけが、彼女にとっては想定外だったのかもしれない。
沈黙が重くのしかかる。
衛門は警戒を強め、弥助は身構えた。いつでも飛びかかれるように、弥助の指が微かに動く。
その張り詰めた空気の中、少女は初めて口を開いた。
「……鬼の居場所を教えてほしい」
その声は、森の静けさに溶け込むように小さく、感情が読み取れなかった。だが、その言葉の端々に、かすかな——しかし確かな——熱が宿っているのを、衛門だけは感じ取っていた。
「鬼を討伐するため、我々も鬼ヶ島へ向かうところだ。もし良ければ、共に旅をしないか?」
桃太郎の提案に、少女は一瞬ためらったように見えた。彼女の瞳が、わずかに揺れる。
(利用させてもらう——そう思ったはずなのに、なぜか胸の奥がざわつく)
少女はその感情を振り払うように、静かに頷いた。
「……利害は一致している。同行する」
そう言って、彼女は静かに桃太郎の後ろに立った。その位置は、彼女にとって最も戦いやすい場所——背後の警戒も、前方への奇襲も、どちらも可能な距離だった。
時雨と名乗るその少女は、旅の仲間となった後も、必要最低限の会話しか交わさなかった。
しかし、その動きには一切の無駄がなく、衛門ですらその気配を完全には捉えられないことに驚きを隠せなかった。
(この娘、只者ではない。それに——どこかで……)
衛門の脳裏に、かすかな既視感がよぎった。だが、それが何なのか、彼にはわからなかった。
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二
言葉を失った日
時雨はかつて、都で名の知れた貴族の娘であった。
彼女の家は、飢饉で苦しむ農民から容赦なく年貢を徴収し、抵抗する者は平然と馬で踏みつけて命を奪う、極悪非道な行いを繰り返していた。
しかし、時雨はそれを知らなかった。
庭に咲く牡丹の花の香り、母が弾く琴の音色、父が聞かせてくれた武勇伝。それらすべてが、彼女にとっての「世界」だった。使用人たちの哀れな視線も、村の方から聞こえる泣き声も、幼い彼女の耳には届かなかった。
「お前は、私たちの宝物だ」
父がそう言って頭を撫でてくれた温かい手。
「大きくなったら、素敵なお嫁さんになるのよ」
母がそう言って抱きしめてくれた優しい腕。
兄がこっそりと菓子を分けてくれた笑顔。
すべてが、彼女の幸せだった。
しかし、ある日——。
屋敷に大勢の集団が押し入り、全てを破壊された。
時雨は幼い頃から話で聞いた「鬼」の仕業だと確信していた。鬼は人を襲い、家を焼き、財宝を奪う——そう教えられてきたから。
屋敷は怒号と悲鳴に包まれ、炎が天を焦がした。真っ黒な煙が立ち込め、鼻をつく焦げた匂い。時雨は八歳だった。
彼女は母に起こされ、押し入れの裏の隠し部屋に隠された。狭くて暗いその場所は、幼い時雨には恐怖でしかなかった。
「絶対に、声を出してはいけません」
母の最後の言葉だった。その言葉を残して、母は戦場へと消えていった。
時雨は、息を殺して、その一部始終を見ていた。
襖の隙間から見えるのは、炎に照らされた地獄絵図。父が、母が、そして兄が、無数の男たちに斬り捨てられる姿。
父は最後まで、時雨の隠れ場所を口にしなかった。刀を向けられても、ただ黙って——いや、笑っていたように見えた。娘を守れたという、満足げな笑みを浮かべて。
母は、時雨の方を見て、微笑んでいた。血に染まりながらも、その微笑みだけは、いつもと同じ優しさだった。
時雨は、指を噛みしめ、血が出るのも構わず、声を殺した。恐怖で震える体を必死に抑え、唇が破れるのも構わず、ただひたすらに息を潜めた。
その時、襲撃者の一人が言った。
「この宝を持って、鬼ヶ島に献上するぞ!」
時雨は、その言葉を決して忘れなかった。目の前で家族が殺された衝撃よりも、その言葉は彼女の心に深く突き刺さった。
——鬼ヶ島。そこに、仇がいる。
幼い心に、その思いだけが焼き付いた。
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三
七年間の修行
襲撃から逃れた時雨は、父の知り合いだったという一人の忍びの元に身を寄せた。
しかし、その忍びも「表向きは別人」として生きており、時雨を弟子として迎え入れることはできなかった。彼は彼女に最低限の食料と隠れ家だけを与え、こう言った。
「お前は、自分で這い上がるしかない。それが、生き残るための道だ」
時雨は、山中の廃寺で一人、父から教わったわずかな手ほどきを頼りに、独学で忍びの技を磨いた。
食べ物は、山で採れる木の実や、時々村から盗んだ。盗みは罪だと知っていた。しかし、生きるためには仕方なかった。盗むたびに、彼女の心は少しずつ冷えていった。
夜は、両親が斬られる夢を見て、泣きながら目を覚ます。夢の中で、父と母はいつも微笑んでいた。その笑顔が、彼女の心をさらに深く傷つけた。
——なぜ、私だけが生き残ったのか。
——なぜ、私はあの時、何もできなかったのか。
その自責の念が、彼女を強くした。
ある冬の夜、時雨は凍えながら廃寺の仏像の前に座っていた。かじかんだ手で、父から教わった唯一の手紙を取り出す。何度も読み返して擦り切れたその紙は、もうすぐ破れてしまいそうだった。
そこには、幼い彼女に宛てた父の文字が残っていた。
「香へ——お前が大きくなったら、この手紙を読むがいい。父は、お前を愛している」
時雨は、その手紙を読み返すたびに泣いた。温かい涙が、凍えた頬を伝う。
そして、涙が乾く頃には、決意を新たにした。
「必ず……必ず仇を討つ。そのためなら、何だってする」
その手紙は、彼女の唯一の宝物になった。修行の合間、何度も何度も読み返した。やがて手紙は擦り切れ、文字は消えかかっていたが、それでも彼女は捨てられなかった。
十二歳の時、山で修行していた一人の武士の老人に出会った。
彼は、時雨の素質を見抜き、弓の腕を磨く手助けをしてくれた。老人は何も語らなかったが、時雨にはわかっていた。彼もまた、何かを失った者なのだと。
「弓はな、心を射るものだ。的に向かう矢は、お前の心そのもの。迷いがあれば、矢は逸れる」
老人の教えは、時雨の心に深く刻まれた。
一年後、老人は病で亡くなった。時雨は彼の遺体を丁寧に葬り、墓の前に一輪の花を供えた。名前も知らない師のために、彼女は初めて涙を流した。
「ありがとうございました」
それが、彼女が七年間で初めて口にした感謝の言葉だった。
十五歳の春、時雨は「鬼ヶ島」の噂を聞く。盗賊たちを束ねる頭領がいること。その弟は特に残忍で、殺戮を楽しむと評判だということ。
復讐の時が来たと、彼女は決意した。
そして、桃から生まれた不思議な力を宿した少年の噂も、どこかで聞いた。
彼を復讐のために利用しよう――そう考え、時雨は桃太郎に近づこうと決めた。
偶然にも桃太郎が鬼討伐に動き出したことを知り、時雨は偶然を装って一行と合流した。
時雨の心の中に眠る、暗く燃え盛る復讐の炎が宿っていることを、桃太郎たちはまだ知らない。
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四
心を溶かす温かいきび団子
旅に出て数日目のことだった。
祖母が持たせてくれたきび団子を、桃太郎は時雨に差し出した。
時雨は無言でそれを受け取った。警戒心から、一瞬ためらう。毒が入っているかもしれない——そんな考えが頭をよぎった。
しかし、桃太郎の瞳はあまりにも澄んでいて、そこに邪なものは何一つ見えなかった。
彼女はゆっくりと顔を覆う布を少しだけずらし、団子に歯を立てた。
その瞬間、彼女は目を見開いた。
口の中に広がる優しい甘さ、そして米の温かい香ばしさが、冷え切った彼女の心にじんわりと染み渡る。
——この感覚は、何だ?
七年間、味わったことのない、温かいものが、胸の奥から溢れてくる。それは、父の手紙を読んだ時とも、母の微笑みを思い出した時とも違う——もっと深く、もっと優しい何か。
時雨は言葉を失い、無意識に頬に手を当てていた。冷たいはずの頬が、なぜか温かい。そして、その温かさが、なぜか心地良い。
普段、一切の感情を表に出さない時雨が見せたその表情に、桃太郎と衛門、そして弥助は皆、目を奪われた。
「どうだ、時雨?」
桃太郎が期待を込めて尋ねると、時雨は小さく、しかしはっきりとした声で答えた。
「……おいしい」
その一言が、彼女にとってどれほど大きな意味を持つか——時雨自身にも、まだわかっていなかった。
その日の夜、時雨は初めて自分から桃太郎に話しかけた。
「桃太郎!このきび団子は……どうやって作るの?」
時雨の真剣な問いに、桃太郎は祖母から教わった作り方を、嬉しそうに語った。粉の配合、水加減、捏ねる強さ、火加減——桃太郎の言葉を、時雨は一つ一つ、宝物を仕舞い込むように丁寧に頭に刻み込んだ。
少しずつ笑顔を見せるようになった時雨を、衛門はどこかで見た記憶があるような気がしていた。それは、遠い昔に失った、ある女性の面影——。
だが、衛門はその思いを胸の奥にしまい込んだ。今はまだ、その時ではないと感じたからだ。
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五
失敗した団子と桃太郎の嘘
それから数日後。
時雨は、誰にも気づかれないよう、こっそりと一人で団子作りに挑戦していた。
桃太郎の教えを思い出しながら、必死に材料を混ぜ、形を整え、火にかけてみた。
しかし、出来上がった団子は、一口食べるとべったりと歯にくっつき、まるで土のような味がした。甘さはなく、ただ粉っぽいだけの塊。
食べられるものではなく、時雨は人知れずそれを笹に包み、森の奥へと捨てに行った。
その時の彼女の顔は、失敗したことにひどく落ち込んでいた。七年間の修行で、彼女は多くの技を身につけてきた。暗殺も、潜入も、情報収集も——どれも完璧にこなせるようになった。
なのに、団子一つ作れない。
その事実が、彼女の心に予想外の打撃を与えていた。
その日の夕食時、桃太郎と弥助が採ってきた食材を衛門が調理し、四人は輪になって食べていた。
時雨は、自分の失敗した団子の理由を考えながら、上の空で箸を進めていた。
「ん?」
時雨は見覚えのある包みに気づき、桃太郎の手元に目を向けた。
彼の手に握られていたのは、先ほど自分が捨ててきたはずの、あの笹の包みだった。
桃太郎は、嬉しそうにその中から団子を取り出し、ためらうことなく一口食べた。
「え?あ!ちょっと!桃太郎!」
普段無口でほとんど喋らない時雨が、思わず声を張り上げた。慌てて食べるのを止めようとしたが、間に合わない。
「その……ベトベトしたの、団子か?どうしたの?それ?」
弥助が戸惑ったように尋ねたが、桃太郎は悪戯っぽい笑顔で「教えなーい」とニヤニヤしながら答えた。
桃太郎は、団子を独り占めするように口に運びながら、時雨の目を真っ直ぐ見つめた。
「美味いよ!」
そう言って、およそ三人前はあろうかという団子を一人で食べ尽くし、笹にへばりついた残りまで舐め取り、両手を合わせて「ご馳走様でした」と、作り手と食材に感謝を込めた。
時雨の全身に、雷に打たれたような衝撃が走った。
——なぜ?
——まずいはずなのに、なぜ?
——嘘をついているの?それとも……
「お……お粗末……様でした」
時雨は明らかに動揺していた。その顔は、ほんのりと赤く染まっているように見えた。
衛門は、桃太郎の表情と時雨の動揺を見て全てを把握し、静かに笑う。
「さすがは我が主、計算なのか天然なのか、それともただの優しさなのか、わからぬわ」
時雨は、その時の衝撃が何なのかを理解できなかった。
それは、彼女の冷酷な心が初めて感じる、温かい痛みだった。憎しみでも、復讐心でもない——もっと優しく、もっと温かい何か。
時雨の心の変化に気づいたのは、衛門ただ一人。
旅が終わったらどうなることやら……と、少し気恥ずかしい気持ちになった衛門であった。
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六
夜、皆が寝静まった後、時雨は一人、月を見上げていた。
手には、桃太郎が食べてくれた団子の笹の包み。もう何も残っていないのに、彼女はそれを握りしめていた。
「なぜ……あんなものを……」
彼女は、自分の問いかけに答えを出せないでいた。
復讐だけを生きがいにしてきた。誰かを信じることなど、とっくに忘れていた。感情は弱さであり、仇を討つためには捨てるべきものだと思っていた。
なのに、あの男は——。
(私は、仇を討つためにここにいる。それなのに……なぜ、あんな団子ごときで……)
(でも、あの温かさは……何なんだ?)
(あの人の瞳は、なぜあんなに優しいんだ?)
二つの感情が、彼女の心の中で激しくぶつかり合う。復讐への執念と、初めて感じる温かい何か——それが、彼女を深く悩ませた。
「……私は、何をしているんだろう」
その夜、彼女の心に、初めて「復讐」以外の何かが芽生えた。
それが何なのか、まだ彼女にはわからなかったが、確かにそれは、冷え切った心を溶かす、温かいものだった。
月明かりが、彼女の頬を照らしていた。その頬には、かすかに涙の跡があった。
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鬼ヶ島は、もうすぐそこまで近づいている。
四人の旅は、やがて運命の真実へと導かれていく――。
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『次回予告』
鬼ヶ島が、目前に迫る。
そこに待つのは、時雨が七年間追い求めた復讐の相手——鬼の頭領。
だが、彼らの前に現れた真実は、あまりにも残酷だった。
自分たちが「鬼」と呼んだ者たちの正体。
そして、時雨の復讐が向かう先に待つ、新たな悲劇とは――。
次章、運命の真実が明かされる。
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【第五章・完結】




