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時雨の焼印【通常盤】  作者: 太幽


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第二部・第五章「父娘の再会」



天正二十年(1592年)夏。


秀吉の天下統一が現実のものとなり、京の都はかつてない活気に包まれていた。町には笑い声が溢れ、商人たちが行き交い、平和な時代の訪れを誰もが噂していた。


しかし、その喧騒から離れた城の奥深く、月光だけが差し込む一室で、一人の女が秀吉の前に呼び出されていた。


名を、つぶらという。


彼女は秀吉の側近として、表舞台に出ることなく、影で数々の任務を遂行してきたくノ一だった。その冷徹な任務ぶりから、知る者たちは彼女を「月影の女」と密かに呼んだ。


「圓よ。お前に、伝えねばならぬことがある」


秀吉の声音は、いつになく重かった。彼の顔には、天下人としての威厳ではなく、まるで実の妹に告白するかのような、優しい哀しみが浮かんでいた。


圓は、深く頭を下げた。黒い装束が微かに擦れる音だけが、部屋に響く。


「何でございますか」


秀吉は、窓の外の月を見つめながら、ゆっくりと語り始めた。月は満ちていたが、雲が時折その光を隠す——まるで、これから語られる真実を象徴するかのように。


「お前の父は……生きている」


圓の体が、微かに震えた。これまで数多の修羅場をくぐり抜けてきた彼女の体が、今、初めて制御できない震えを見せた。


「……父は、死んだと聞いておりました。幼い頃に、疫病で——」


「それは、お前を守るために、私が流した偽りの情報だ」


秀吉は、振り返り、圓の目をまっすぐ見つめた。その目には、嘘偽りは一切なかった。


圓もまた、父が生きている事は直観的に感じていた。

だが、秀吉の嘘の裏にある優しさを初めて感じ取り、涙した。


「お前の父の名は、衛門という。吉備の村で、桃太郎という若者に仕えている」


圓は、その場に膝をついた。彼女の手が、畳を握りしめる。指の関節が白くなっていた。


「なぜ……今になって……」


声が、震えていた。くノ一として感情を殺すことに人生を捧げてきた彼女の声が、今、初めて震えていた。


「お前を守るために嘘をついていた、お前の父の存在が知られれば、お前の立場が危うくなる。私はそれを恐れた。そして——」


秀吉は、一度言葉を切った。彼の目が、わずかに潤んでいるように見えた。


「お前は多分、気付いているのであろう。お前の父もまた、娘を探し続けていた。二十年以上、ただひたすらに。お前を失ったあの日から、一度も諦めることなく」


圓の目から、涙が一筋流れ落ちた。彼女は自分が泣いていることに、自分自身が一番驚いていた。くノ一として、涙などとうの昔に枯れたと思っていたのに。


彼女は、父の顔を覚えていない。


二歳の時に生き別れた、ただの影のような記憶しかない。温かい腕に抱かれた感触だけが、かすかに残っている。それが父なのか母なのかさえ、わからない。


それでも、胸の奥底でずっと疼いていた何かが、今、形を得ようとしていた。それは、彼女が任務の合間にふと思う「もしも」の答えだった。


「行け!妹よ!…会いに行くのだ。これまで育てた恩義は、それで返してもらう。これは命令だ。」


秀吉の声は、優しかった。彼はゆっくりと歩み寄り、圓の肩に手を置いた。


「お前は、私にとって本当の妹のような存在だ。幼い頃から、共に育ってきた。そのお前が、幸せになれる道を選ぶことを、私は望む。たとえそれが、私の側を離れることになっても——」


圓は、深々と頭を下げた。彼女の肩が、小刻みに震えていた。


「ありがとう…ありがとうございます……お兄ちゃん」


それは、幼い頃に彼を呼んでいた、懐かしい呼び名だった。秀吉がまだ天下人ではなく、ただの「お兄ちゃん」だった頃の、温かい記憶。


秀吉は何も言わず、ただ圓の頭を優しく撫でた。


---



数日後、圓は吉備の村へと向かっていた。


馬を走らせながら、彼女の脳裏には様々な思いが去来する。彼女は、くノ一として数々の任務を遂行してきた。敵地に潜入することも、人を斬ることも、何の躊躇もなかった。それらは全て、任務だった。


しかし、今、彼女の足は——いや、心は、重かった。


父に会う——そのことが、何よりも怖かった。


任務なら、どんな相手の前でも平気だった。敵地に潜入するのも、人を斬るのも、ただの仕事だった。だが今は、ただの娘として、父の前に立たねばならない。


もし、父が自分を恨んでいたら?自分を捨てたことを後悔しているなら?

もし、自分という存在が、父の人生をさらに苦しめるだけだったら?

もし、父が新しい家族を持っていて、自分が邪魔者だったら?


彼女の冷徹な心が、初めて激しく揺れていた。馬の手綱を握る手が、微かに震えている。


---


村に着いた圓は、一人の男に出会った。


弥助——以前、都の社の前で邂逅したあの男だ。彼は相変わらず山の者のような風貌で、にやりと笑った。


「待ってたぜ」


弥助は口元を歪めて笑った。その目は、圓をじっと見つめていた——まるで、衛門の面影を確かめるかのように。彼の鋭い目が、圓の顔の輪郭、目の形、口元をなぞる。


「衛門から聞いたんだ。お前が来るってな。案内するよ」


弥助に導かれ、圓は山奥へと進んだ。彼女は無意識に周囲の地形を把握していた——くノ一としての性だった。どこに身を隠し、どこから攻めるか。しかし、今日ばかりはその能力が空回りしていた。


清らかな沢の音が聞こえ、木々の間から小さな庵が見えてきた。萱葺きの屋根、朽ちかけた柱。しかし、どこか温かみのある、不思議な場所だった。


「あそこだ。衛門は、あの庵で一人で暮らしている」


弥助は、そこで立ち止まった。彼は圓の肩をポンと叩いた。


「俺は、ここで待ってる。行け。大丈夫だ、あの人はお前をずっと待ってたんだから」


圓は、小さく頷いた。彼女の喉は、緊張でからからに乾いていた。


---



庵の前で、圓は立ち止まった。


戸の向こうから、かすかに薪の燃える音が聞こえる。パチパチという音が、静かな山里に響く。煙の匂い、そして——どこか懐かしい、生活の匂い。


彼女は、深呼吸を一つした。肺いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。彼女の手は、無意識に短刀の柄に触れていた——これは、任務ではない。自分に言い聞かせるように、手を離す。


そして、戸を開けた。


中には、一人の老人がいた。


囲炉裏の火の前で、背中を丸めて座っている。彼女が入ってきたことに気づき、ゆっくりと顔を上げた。


その瞬間——二人の目が合った。


時が、止まったかのようだった。


囲炉裏の火だけが、パチパチと音を立てている。それ以外の全てが、静止していた。


長い沈黙が流れた。それは、二十五年という歳月を凝縮したかのような、重く、深い沈黙だった。


衛門は、目の前の女が自分の娘だと、瞬時に理解した。


二歳の時と変わらぬ、まん丸な目。

何度も夢に見た、あの面影が、そこにあった。産着に刺されていた刺し子の模様と同じ、優しい光を宿した瞳。


「……つぶら……か?」


衛門の声は、震えていた。二十五年ぶりに発した、娘の名前。何度も夢の中で呼びかけた、その名前。


圓は、無言で頷いた。


その目から、涙が溢れ出た。


彼女は、自分が泣いていることに、自分自身が一番驚いていた。くノ一として、感情を殺すことに慣れていたはずなのに。涙など、とっくに枯れ果てたと思っていたのに。


涙は、止めどなく溢れ、彼女の頬を伝って落ちていった。


---



「あ……」


圓の声は、涙で詰まっていた。彼女の言葉は、疑問というより、ただの感嘆の声だった。


衛門は、ゆっくりと立ち上がった。二十五年の重みを背負った体は、思うように動かない。震える足で、一歩、また一歩、彼女に近づいた。


「探していた……ずっと、探していたんだ」


彼の目からも、涙が溢れ出た。老いた頬を伝い、白い髭に吸い込まれていく。


「二十五年……いや、二十五年以上だ。お前が二歳の時に生き別れてから、ずっと——」


衛門は、震える手を懐に入れた。そして、取り出したのは、あのぼろぼろの産着だった。


それは、二十五年間、彼の胸の中で温められてきた証だった。桃色だった布地は色褪せ、刺し子の模様は薄れ、ところどころ破れている。しかし、彼の体温と涙が染み込んだ、かけがえのないものだった。


「これだけが……唯一の手がかりだ。お前を失ったあの日から、ずっと……ずっと持っていた」


圓は、産着を受け取り、じっと見つめた。


それは、自分のものだったのだろうか。覚えていない。何も覚えていない。


でも——。


「この布の感触……なぜか、なぜか懐かしい」


彼女の手が、産着を握りしめた。その手は、短刀を握る時よりも強く、優しく、布を包み込んでいた。


彼女の指が、刺し子の模様をなぞる。母の縫った跡。自分を包んでいた温もり。


彼女の目から、再び涙が溢れた。


---


二人は、囲炉裏の前に並んで座った。


火がパチパチと音を立て、穏やかな時間が流れる。その沈黙は、重くはなく、むしろ温かかった。


「母は……」


圓が、小声で尋ねた。彼女の声は、もう震えていなかった。ただ、真実を知りたいという、娘の声だった。


衛門は、深くうつむいた。囲炉裏の火が、彼の苦悩に満ちた横顔を照らす。


「……私が、主に裏切られた時、無実の罪を着せられて……お前の母は、私の目の前で……」


言葉が続かない。彼の喉が、詰まっている。二十五年経っても、その記憶は鮮明に、彼を苦しめていた。


圓は、何も言わなかった。ただ、父の震える手に、自分の手を重ねた。彼女の手は、冷たかったが、その仕草は優しかった。


「そう……ですか」


その言葉は、冷たくはなかった。むしろ、温かかった。全てを受け入れ、理解しようとする、娘の優しさだった。


---



夜が更けていく。


二人は、語り合った。二十五年分の空白を埋めるかのように。


衛門は、桃太郎との出会い、鬼ヶ島での戦い、そして、この村で過ごした日々を話した。時雨のこと、弥助のこと、喜備丸のこと——彼の新しい家族のことを。


圓は、秀吉に育てられたこと、くノ一としての任務、そして、任務の時に「すまない」と呟くようになった理由を話した。彼女の口癖の秘密を、初めて誰かに打ち明けた。


「母さんの最期の言葉も…すまない、だった」


衛門が、絞り出すように言った。彼の目には、深い哀しみがあった。


圓は、うつむいた。脳裏に、母の最後の言葉が蘇る——「すまない」。あの時、母は父に謝っていたのか、それとも自分に謝っていたのか。それとも、この世の全てに——。


「あなたの活躍は伝説となって語られている。鬼を退治した桃太郎一行、家来に犬を引き連れたと」


圓は衛門の目をまっすぐ見つめた


「動物を連れて旅に出るバカはいない、その犬の正体は父なのではないかと感じていた。その旅の理由は母と私を守れなかった後悔、違う?」


「……すまなかった」


衛門の声は、涙で濡れていた。彼の肩が、小刻みに震えている。


「すまなかった……すまなかった……」


何度も、何度も、繰り返した。二十五年分の「すまなかった」が、今、溢れ出していた。


圓は、首を振った。彼女の手が、父の手を強く握る。


「もう、謝らないで。あなたは、私を探し続けてくれた。それで、十分です」


彼女の声には、確かな温かさがあった。復讐でも、恨みでもなく、ただの娘の想いが、そこにあった。


---



その夜、圓は衛門に連れられて、桃太郎の隠れ家を訪れた。


そこには、桃太郎、時雨、弥助が待っていた。囲炉裏を囲み、彼らは圓を迎え入れた。


「衛門の娘か」


桃太郎は、じっと圓を見つめた。その目は、彼女の全てを見透かすかのようだった。


「道理で、只者ではないと思った」


時雨が口を開いた。彼女の目もまた、同じ闇を知る者の目だった。


「……私と同じ匂いがする。闇で生きてきた者の匂いだ」


圓は、時雨を見つめ返した。彼女の目には、驚きと、そしてわずかな共感があった。


「あんたも……くノ一か」


「いや、今はただの妻だ。だが……かつては、復讐だけを生きがいにする鬼だった」


時雨の言葉に、圓はわずかに目を見開いた。その言葉は、彼女自身の心の奥底に響いた。


「……私も、同じだ。任務のためなら、何人でも斬ってきた」


「でも——」


時雨は、優しく微笑んだ。その笑顔は、かつての冷徹なくノ一からは想像もできないものだった。


「それでも、変われる。私は、ここでそれを知った」


桃太郎は、二人の女を見て、穏やかな口調で言った。


「圓殿。衛門は、我々にとって欠かせない知略の師だ。そして、娘であるあなたもまた、その血を引いている。よければ……秀吉殿の側近としてではなく、一人の人間として、我々と共に歩む気はないか?」


圓は、父・衛門の顔を見た。


衛門は、何も言わず、ただ優しく微笑んでいた。その目には、涙が光っていた。

自らの意志で選ぶ道を見守る、父の目だった。二十五年ぶりに会えた娘が、どんな道を選んでも、彼は受け入れるつもりだった。


「……私は、秀吉公に恩義がある。彼を裏切ることはできない」


「裏切れとは言わない。ただ、これからのこの国の行く末を、共に見守ってほしい。そして、必要とあらば、影から支えてほしい」


圓は、長い沈黙の後、しっかりと頷いた。その目には、迷いはなかった。


「……了解した。私は、表では秀吉公の側近として動く。裏では、あなたたちの……いや、父の理想を支える者として」


その言葉に、衛門は涙を拭い、深く頭を下げた。彼の肩が、安堵と感謝で震えていた。


「ありがとう……つぶら……」


---



それから二年後。


圓との再会を果たし、張り詰めていた気持ちも途切れたのだろう。衛門の身体は、老いには勝てず、徐々に衰弱していった。


ある冬の日、衛門は桃太郎と圓を枕元に呼び寄せた。


外は雪が静かに降り積もっていた。庵の中では、囲炉裏の火が小さく燃えている。


「桃太郎殿……長い間、世話になった。お前のような主に出会えて、私は幸せだった」


衛門の声は、弱々しかったが、その目はしっかりと桃太郎を見つめていた。


桃太郎は、衛門の手を握りしめた。その手は、かつて剣を握っていたとは思えないほど、細く、弱々しかった。


「衛門……いや、師匠と呼ばせてくれ。あなたから学んだことは、一生忘れない」


衛門は、弱々しく笑った。その笑顔は、満足げだった。


「圓よ……お前に、最期に言いたいことがある」


圓は、涙をこらえながら、父の顔を見つめた。彼女の手が、父の手を包み込む。


「お前は、わたしの誇りだ」


それが、最期の言葉だった。


衛門は、安らかな表情で息を引き取った。その顔には、苦しみの跡はなく、ただ穏やかな満足感だけがあった。


---



衛門の葬儀は、村人たちによって質素に行われた。雪が静かに降り積もる中、彼の遺体は荼毘に付された。


圓は、父の棺に、あのぼろぼろの産着を入れてやった。それは、父が二十五年間、肌身離さず持っていた、唯一の手がかり。


「これで……ずっと一緒にいられるね、父上」


彼女の声は、静かだった。涙は、もう枯れていた。ただ、深い安堵だけが、彼女の心を満たしていた。


桃太郎は、圓の肩に手を置いた。その手は、温かかった。


「これからも、共に歩んでくれるか?」


圓は、涙を拭い、力強く頷いた。その目には、強い決意の光が宿っていた。


「はい。父の遺志を継ぎ、あなたたちの……いや、この国の安堵のために、私は闇で生き続けます」


その後、圓は表向きは秀吉の側近として、裏では桃太郎たちの「見えない手」として、歴史を動かし続けた。


---


月明かりの下、圓は一人、衛門の墓の前に立っていた。


雪が、静かに降り積もる。彼女の黒い装束に、白い雪が舞い落ちる。


「父上……私は、あなたの娘であることを誇りに思う」


彼女の声は、風に乗って闇に消えた。


風が吹き抜ける。


その風は、遠い日に生き別れた父娘の涙を、優しく拭うかのようだった。そして、新たな雪が、その涙を優しく包み込んでいた。


---


『次回予告』


父との再会、そして別れ。


圓は、秀吉の側近として、再び闇へと戻っていく。


しかし、その胸には、確かに父の言葉が刻まれていた。


「お前は、私の誇りだ」


そして時は流れ、秀吉の天下統一は完成する。


次章、第二部・終章「安堵の光、そして影の伝説」へ。


---


【第五章・完結】

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