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時雨の焼印  作者: 太幽
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二部・第二章「闇に消える者たち」


天正十年(1582年)、戦国の世は、織田信長という巨大な光によって照らされていた。


その光の届かぬ場所で、桃太郎たちは静かに、そして周到に、歴史を動かしていた。


信長の中国攻めが本格化する中、彼の陣営では不可解な出来事が頻発した。


それは、まるで漆黒の帳が、歴史の筋道を密かに描き直しているかのようだった。


---


梅雨の季節、備中高松城は深い霧に包まれていた。


城を囲む秀吉軍の陣営には、雨が降り続き、兵士たちの足元は泥濘に埋もれていた。


その重苦しい空気の中、桃太郎の密偵たちは、城を囲むように築かれた堤防の完成を待っていた。


「水攻め……か」


桃太郎は、弥助から受け取った地図を広げ、指で城の周りの川の流れをなぞった。


土の湿った匂い、雨に濡れた木の葉の匂い、そして遠くから漂う川の匂いが、彼に戦略を語りかけているかのようだった。


「堤防は、あと三日で完成する」


弥助が、静かに報告した。


「問題は、毛利の援軍だ。彼らが到着する前に、城を落とさねばならぬ」


衛門が、地図上の一点を指さした。


「援軍のルートは、この山道を通るのが最短だ。しかし、この時期、山道は水害で寸断されやすい」


時雨が、冷徹な声で言った。


「ならば、寸断されたと思わせればいい」


桃太郎は、時雨を見た。


「できるか?」


「ええ」


時雨は、静かに頷いた。


---



時雨は、夜陰に乗じて、毛利軍の陣営に潜入していた。


雨は、彼女の足音を完璧に隠してくれる。彼女の足音は、闇に溶け込むようで、兵士たちの寝息や、雨に打たれる陣幕の音にかき消されていた。


彼女の目的は、毛利軍の伝令を妨害することと、偽の情報を流すことだった。


陣営の中心にある幕舎。そこで、伝令が巻物を抱えて出てくるのを、時雨は待っていた。


やがて、一人の男が幕舎から現れた。彼は、大事そうに巻物を懐にしまい、馬に乗ろうとしている。


時雨は、闇の中を音もなく移動した。


男が馬に跨がろうとした瞬間、彼女の手が男の首筋を打った。男は、声もなく崩れ落ちる。


時雨は、素早く巻物を奪い、懐から取り出した偽の巻物とすり替えた。


偽の巻物には、こう記されていた。


——大雨により山道寸断。援軍、到着は十日後になる見込み——


時雨は、草むらに身を潜め、偽の巻物を持たされた伝令が、再び夜の闇に消えていくのを見送った。


彼女の心には、冷たい雨粒とは違う、冷たい感情が満ちていた。


これは、人殺しではない。ただ、歴史を動かすための、一つの歯車に過ぎない。


そう自分に言い聞かせても、彼女の手のひらは、握りしめた短刀の柄でじっとりと汗ばんでいた。


---


しかし、時雨の暗躍はそれだけではなかった。


彼女は、毛利軍の伝令の癖、立ち回り、会話の内容まで、綿密に観察していた。彼女の鋭い観察眼は、敵兵たちの些細な仕草や言葉の端々から、彼らの士気や計画を読み取っていく。


その情報が、衛門の筆によって精緻な地図となり、桃太郎に届けられた。


桃太郎は、その情報を元に、秀吉軍の陣営に、あたかも偶然を装って情報を流し込んだ。


「毛利軍は、水害で街道が寸断され、動きが取れないようですな」


村人になりすました衛門の密偵が、秀吉軍の兵糧を運ぶ農民に、さりげなくそう語りかけた。


情報が真実であることと、その情報の出所が怪しまれないよう、衛門は細心の注意を払っていた。


---



この情報を信じた秀吉は、毛利軍の援軍が到着する前に、水攻めを敢行した。


水が渦を巻き、城の周囲は湖と化した。


城は孤立し、兵糧は尽き、城主・清水宗治は自らの命をもって城兵の命を救った。


桃太郎は、遠くからその様子を見ていた。


城から立ち上る白い煙、そして、城主の首を差し出す兵士たちの姿。


それは、一つの命の終わりであり、一つの時代の始まりだった。


この勝利は、秀吉の天才的な閃きによるものだと、誰もが信じていた。


---


その夜、時雨は任務を終えて闇に身を潜めていた。


ふと、風に乗って微かな気配を感じた。


——自分以外にも、この夜を動く者がいる。


敵か、味方か。それはわからなかったが、確かにそこに、もう一つの影があった。


時雨は、警戒を強めた。しかし、その影は、すぐに消えた。


彼女は首を振り、その場を離れた。


彼女は知る由もなかった。


その影の正体が、後にこの国の行く末を左右する存在となることを。


そして、その者が、衛門の娘であることを——。


---



天正六年(1578年)。


信長の天下統一が目前に迫る中、彼を裏切ろうとする者も現れた。


信長の重臣の一人、荒木村重は信長に反旗を翻し、伊丹城に籠城していた。


歴史上、彼は最終的に姿を消し、その後の消息は不明とされている。


この裏には、時雨の影があった。


伊丹城に潜入した時雨は、城の隅々まで、まるで自分の庭のように知り尽くしていた。


彼女は、夜風の音、鳥の鳴き声、城兵の足音、その全てから情報を読み取っていた。


村重の居場所を突き止めた時雨は、彼の居室の前に立った。


部屋からは、筆を走らせる音と、すすり泣くような声が聞こえてくる。


村重は、密かに毛利氏と連絡を取ろうとしていた。その手紙には、信長への憎悪と、彼の苛烈な統治への不満が、切々と綴られていた。


時雨は、障子の隙間から室内を覗いた。


村重は、一人で書状をしたためている。周りに家臣はいない。


——今だ。


時雨は、音もなく部屋に滑り込んだ。


村重が気づいた時には、既に彼女の短刀が、彼の心臓を貫いていた。


「な……!」


村重の口から、かすかな悲鳴が漏れたが、それはすぐに血の泡に変わった。


時雨は、彼の目を静かに見つめた。


その目には、憎しみはなかった。ただ、任務を遂行する者の、冷徹な光だけがあった。


「すまない」


彼女は、静かにそう呟いた。

それが、彼女の口癖だった。

なぜ、そう呟くのか——自分でもわからなかった。

ただ、人を斬るたびに、胸の奥で誰かが謝っている気がした。


---


村重の遺体は、地下の隠し通路から運び出され、誰も知らない場所に埋められた。


時雨は、遺体を隠す間、心の中で桃太郎の言葉を反芻していた。


「この国の平和のためには、必要な犠牲だ……」


彼女は、鬼ヶ島で味わった復讐の虚無を思い出していた。

あの時は、憎しみのためだった。

だが今回は、喜備丸の未来のためだ。

同じ「人を斬る」でも、その重みは違う——そう信じたかった。


---


村重が逃亡したかのように偽装されたことで、信長は激怒した。


彼は、村重の裏切りを許さず、伊丹城を徹底的に攻撃した。


そのことで、信長の「天下統一の意志」はさらに強固になった。


桃太郎は、信長が自身の力で道を切り開くという信念を揺るがさないよう、周到に事を運んでいた。


---



桃太郎自身もまた、戦乱の渦中に身を投じていた。


彼の存在は、敵味方の裏をかくことに特化しており、風の噂にすらならなかった。


ある日、桃太郎は毛利軍の伝令を追っていた。


疲れ果てた伝令は、足元もおぼつかない。


桃太郎は背後から静かに近づき、一撃で首を刎ねた。


伝令は何が起こったのかも分からず、地面に倒れ伏した。


桃太郎は、流れ出る血を見つめていた。


その血の匂いは、かつて鬼ヶ島で斬った「鬼」たちのものとは違っていた。

あの時は、正義のためだと信じていた。

だが今は——。


脳裏に、あの男の顔が浮かんだ。

船上で、娘への土産を差し出そうとした、あの男。

「たのむ……これだけでも……」


あの時と同じ匂いが、鼻の奥にこびりついていた。


「……俺は、何をしているんだ」


彼は、両手で顔を覆い、静かに呟いた。


正義のためではなく、任務として人を斬る。

その違いに、彼はまだ慣れていなかった。


---



数日後、四人は山奥の隠れ家に集まっていた。


任務の報告を終え、一息ついたところで、衛門が口を開いた。


「桃太郎、面白い噂を聞いたぞ」


「何だ?」


「巷では、桃太郎は大きな桃から生まれ、犬、猿、雉を連れて鬼退治に向かった英雄だと言われているらしい」


桃太郎は、呆れたように笑った。


「犬、猿、雉だと?」


「そうだ。我々三人のことだろうな」


弥助が、嬉しそうに言った。


「おいおい、俺が猿で、衛門が犬で、時雨が雉か?こりゃ愉快だな!」


衛門が、苦笑いしながら言った。

「犬か……確かに、私は主に忠実な犬かもしれぬな」


時雨が、静かに呟いた。

「雉……空を飛び、闇に潜む。私にぴったりの役回りね」


桃太郎が、笑いながら言った。

「じゃあ俺は、桃から生まれた英雄ってことか?桃がびっしり入った木箱に一緒に詰められて流された話が昇華されてるな、身の丈に合わん」


四人は、久しぶりに笑い合った。


時雨が、懐からきび団子を取り出した。


「さあ、食べましょう」


時雨は弥助を見て怪しい笑みを浮かべ、団子をひとつ差し出した。


「さぁお猿さんもひとつどうぞ。」


弥助は顔を真っ赤にして飛び上がる。


「ウッキー!この!猿扱いしやがって!」


弥助は、両手を顔の前でぶらぶらさせながら、わざとらしく猿の真似をしてみせた。


「ウッキッキ!それなら俺は猿で結構!山の王様だ!」


その仕草に、桃太郎も衛門も思わず吹き出した。


四人は珍しく、賑やかに笑いながら団子を口にした。


優しい甘さが、彼らの心を癒していく。


「……弥助が猿か、本当に素早いんだよな」


桃太郎が言うと、衛門が続けた。


「稽古をつけようとしたが、気付いたらいなくなっている。勉強となれば、さらに速い」


弥助は、照れくさそうに笑った。


「だってよぉ、文字なんて読めなくたって、獣と話せれば生きていけるんだ」


「やっぱり猿じゃん。」

時雨が呆れたような顔をしてため息をついた。


「……時雨は雉か、気配を感じさせない佇まいで掴みどころがなく、最初は本当に怖かった」


弥助が悪戯っぽく言うと、時雨は静かに微笑んだ。


「悪かったわね!あの頃のことは、忘れたい過去だわ。復讐しか頭になくて……」


そう言いながらも、時雨の表情にはかすかな笑みが浮かんでいた。あの過去があったからこそ、今の自分がいる——そう思えるようになったのは、間違いなく彼らのおかげだった。


それぞれが苦んだ過去を笑いながら語る

戦士たちの微笑ましい光景だった


「だが、あの時があったからこそ、今がある」


衛門が静かに言った。


「流石は犬!援護が上手いな。時雨が現れなければ、今の俺たちは違う関係性になってたかもしれん」


桃太郎は、時雨の手を握った。


時雨は、その温かさに涙がこみ上げるのを感じた。


---


衛門は、一人、刀の手入れをしながら、遠い目をしていた。


脳裏に浮かぶのは、幼い娘の笑顔。


「つぶら……お前は、今どこで生きている」


彼は、懐からあのぼろぼろの産着を取り出し、しばらく見つめた後、再び仕舞った。


「衛門、会えると良いな…生きてれば30歳前くらいか」


桃太郎が衛門の肩に手を置くと、衛門はハッとした顔をした。


「そうか!俺の記憶の圓は2歳のままだ!成長してる姿なんて想像もしてなかった!」


弥助が腹を抱えて笑った。


「衛門!あんた珍しく抜けてるな!」


衛門は、少し恥ずかしそうに頬をかいた。


「……二十五年もの間、娘の顔を二歳のまま思い描いていたとはな。我ながら笑える」


その言葉に、今度は桃太郎が優しく笑った。


「それだけ、想いが強かったってことだ。きっと、圓もどこかで感じてるさ」


---


月明かりの下、四人の影が一つに重なった。


彼らの心には、ただ一つの願いがあった。


——喜備丸が笑って過ごせる世の中を。


その願いのためなら、たとえ誰に何と言われようと、彼らは構わなかった。


彼らは、自ら進んで「鬼」になることを選んだのだ。


---


『次回予告』


歴史の影で、彼らの戦いは続く。


京の都では、一人の男が静かに陰謀を巡らせていた。


その名は、明智光秀。


次章、本能寺の変——歴史を動かした「裏」の真実が、今明かされる。


---


【第二章・完結】


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