第九章:安堵の光
一
夜が明ける頃。鬼ヶ島から故郷へ帰る準備が整い、一行は船着き場に集まっていた。だが、荷物の最終確認を終えても、頭領の姿が見えない。若い鬼が、不安げな声を上げ、他の民もざわつき始めた。
「頭領はどこへ?」
衛門が眉をひそめて尋ねた。
桃太郎は胸騒ぎを覚えた。
昨晩、あれほど明るい未来を語り合った頭領の一瞬見せた「思い詰めたような顔」が脳裏をよぎる。
その予感は、確信に変わった。
「探すぞ!みんなで手分けして!」
桃太郎の指示で、民と仲間たちは手分けして頭領を探し始めた。桃太郎と時雨は、二人で昨晩酒を酌み交わした場所へと戻った。
焚き火の跡から、冷たい煙が立ち昇っていた。
その近くに、一枚の布が静かに置かれている。
時雨は、それが頭領のまとい、夜の闇に溶け込んでいた熊の毛皮だとすぐに気づいた。
そして、その毛皮の隣に、頭領がひざまずき、静かにうつむいているのを見つけた。
時雨は、言葉を失った。
「…頭領?」
桃太郎が、声をかけようと一歩踏み出した。
だが、頭領の姿は、ひざまずいたまま微動だにしなかった。
その横には、桃太郎一行と民へ向けた遺書が置かれている。
桃太郎は遺書を拾い上げ、震える手で読み始めた。
「桃太郎殿、そして時雨殿、我が民よ。この度は、我らの罪を許し、新たな道を示してくれて心より感謝する。貴殿らは、この世に光をもたらす希望だ。だが、我らが犯した罪は、この世に生きる限り償いようがない。この身は、罪を背負うために、この世から消えるべきだ。介錯を断ったのは、この命を全うするために、罪を背負いながら黄泉の国へ旅立つため。そして、桃太郎殿、貴殿に我らの未来を託すためだ。我らの未来に光を。鬼ヶ島の頭領より」
桃太郎の手から、遺書が滑り落ちる。
頭領の背中には、血が滲み、土に小さな染みを作っていた。
時雨は、頭領の背中に手をかけ、そっと揺すった。
「嘘だ…嘘だと言ってよ、頭領…!」
だが、彼女の震える手には、もはや頭領の体温を感じることはなかった。
「なんで…なんでなのよ!これから一緒に、新しい村を作るって…!約束したじゃない…!」
桃太郎は、その場で立ち尽くしていた。胸に広がるのは、悲しみ、怒り、そして、頭領が最後の最後に自分に託した命の重みだった。
彼は、頭領の遺書を再び手に取った。遺書に書かれた文字が、彼の目に焼き付いて離れない。
「…頭領…」
桃太郎は、込み上げる嗚咽を必死に堪え、空を見上げた。
夜が明け、太陽の光が、頭領の穏やかな寝顔を照らし出す。
その顔には、過去の悲しみも、未来への不安もなかった。
ただ、桃太郎に託した希望だけが、彼の最後の安息を物語っていた。
桃太郎は、大粒の涙を流し、頭領の遺体を前に静かに頭を下げた。彼の頬を伝う涙は、頭領の死を悲しむだけでなく、彼が背負った使命の重さを噛みしめる涙だった。そして、彼は静かに、しかし、はっきりと決意した。
「もう、誰も泣かせはしない。…俺も…泣くのは、これが最後だ」
桃太郎は、心の中でそう誓った。頭領の死は、桃太郎にとって、新しい時代を築くという使命が、どれほど重く、尊いものであるかを教えてくれた。
---
二
鬼ヶ島からの帰路、船は静かな波をかき分けて進んでいた。潮風が彼らの髪を撫で、海鳥の鳴き声が遠くに聞こえる。すべてが、終わった戦いの静けさを物語っていた。
桃太郎は、懐にしまった遺書の重みを噛みしめ、頭領の最期の穏やかな顔を思い出していた。
あの日、彼が遺書に残した言葉——「この身は、罪を背負うために、この世から消えるべきだ」。
その言葉の真意が、今ようやく理解できた気がした。
頭領は、自らの命をもって、憎しみの連鎖を断ち切ったのだ。彼の死は、ただの自害ではなかった。時雨の復讐を完遂させると同時に、これ以上争いが続くことを拒んだ、最後の意思表示だった。自分の死をもって、島の人々に「これ以上、憎しみを続けるな」と伝えたかったのかもしれない。
桃太郎は、その覚悟の重さを、胸の奥で静かに噛みしめていた。
時雨は、船尾に一人座り、遠ざかっていく鬼ヶ島を眺めていた。島は徐々に小さくなり、やがて水平線の彼方に消えようとしている。
彼女の手には、頭領の形見である小さな木彫りの熊が握られている。島を発つ時、一人の幼い子供が彼女に差し出したものだった。
「お姉ちゃん、これ……頭領が作ってたんだ。あげる」
その子の目には、もう憎しみはなかった。ただ、別れの寂しさだけが宿っていた。その純粋な瞳が、時雨の心に深く刻まれた。
時雨は、その木彫りを握りしめながら、静かに呟いた。
「頭領……あなたの思い、決して無駄にはしない」
彼女の頬を、一筋の涙が伝った。
だが、その涙は、復讐の虚しさから流れるものではなかった。
それは、許しと、新たな決意の涙だった。
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三
故郷の村に帰ると、村人たちは桃太郎を英雄として迎え、歓喜の声が響き渡った。
「桃太郎様が帰ってきたぞ!」
「鬼ヶ島を平定したんだ!」
「これで村にも平和が戻る!」
人々の歓声は、まるで祭りのようだった。子供たちは走り回り、大人たちは笑顔で手を振った。
しかし、その声はすぐに戸惑いのざわめきに変わった。
桃太郎の背後から現れたのは、かつて恐れられた「鬼」たちだったからだ。
彼らは誰も武装しておらず、ただ憔悴しきった表情で、怯えるように佇んでいた。その姿は、村人たちが想像する「鬼」とはあまりにかけ離れていた。
村人たちの間に恐怖が広がり、手にした鎌や鍬を構える者もいた。
「鬼だ!」
「なぜ、鬼を連れて帰ってきたんだ!」
「また村が襲われる!」
その叫び声に、鬼と呼ばれた者たちは、さらに縮こまった。中には、震え出す者もいた。
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桃太郎が、前に進み出た。
彼は両手を広げ、村人たちに向かって力強く語りかけた。
「皆、落ち着いてくれ!」
その声は、かつてないほどに強く、村人たちを静かにさせた。彼の中に、確かな指導者の資質が芽生えていた。
「彼らは、もう我らを襲わない。共に生きる道を選んでくれた、新たな村人だ!」
桃太郎は、鬼ヶ島で見た真実を語り始めた。
彼らがなぜ「鬼」と呼ばれるようになったのか。
飢えと絶望が、人をどのように変えてしまうのか。
そして、頭領が最後に選んだ道を。
村人たちは、最初は半信半疑だったが、桃太郎の真摯な言葉に、次第に耳を傾け始めた。その言葉の一つ一つに、嘘偽りがないことを感じ取ったのだ。
しかし、一人の老婆が、震える声で言った。
「じゃが……じゃが、それでも怖いんじゃ。あの人たちの手は、わしらの家族の血で染まっておる……」
その言葉に、鬼と呼ばれた者たちは、うつむいた。彼らの目から、涙がこぼれ落ちる者もいた。
桃太郎は、静かに答えた。
「俺の手も同じだ。俺も、罪のない人々を斬った。でも、その手でこれから何をするかが、大事なんじゃないか」
その言葉は、老婆だけでなく、村人たち全員の心に深く響いた。
弥助もまた、村人たちに語りかけた。
「島から持ってきた、野菜の種や農具も、すべて彼らが作ったもの。これを皆で使えば、もう飢えに苦しむことはない!」
弥助の言葉に、村人たちの間に驚きの声が上がった。
鬼ヶ島から持ち帰られたのは、金銀財宝などではなかった。
それは、新しい時代を築くための希望の種だったのだ。
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四
桃太郎の指示で、極度の栄養失調に陥っている者たちには、島から持ち帰った新鮮な桃が配られた。
その甘い香りが、人々の心を満たしていく。桃を口にする者の顔に、かすかな笑顔が浮かんだ。
特に疲弊が強い妊婦たちは、村の庵で温かく迎え入れられた。
時雨は、そんな妊婦たちの世話を自ら買って出た。
彼女の脳裏に、遠い日の母の背中が浮かんだ。
幼い自分を抱きしめ、優しく微笑んでいた母。
(私も、母さんみたいになれるかな……)
時雨は笑顔で妊婦に寄り添った。その笑顔は、かつての彼女からは想像もできないほど、優しく温かいものだった。
「これをお食べください」
「無理をなさらず、ゆっくり休んで」
彼女の言葉は、かつての冷たさは微塵もなく、優しさに満ちていた。その言葉に、妊婦たちは安心して身を委ねた。
ある妊婦が、時雨に尋ねた。
「あなたは……鬼ヶ島で戦った方ですよね。英雄様がなぜ、私たちのような者にまで……」
時雨は、そっと人差し指を立て、妊婦の言葉を遮った。
「それ以上は言わないで」
「私は英雄なんかじゃない…あなたと同じ、大切な人を失う悲しみは知ってます。そして、その悲しみを乗り越えるためには、誰かを助けることが必要なんだと、やっと気づいたの。だから頼ってください。」
英雄と称えていた戦士の口から思いもしない言葉を受けた妊婦は、大粒の涙を流した。その涙は、感謝と、そして共感の涙だった。
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村長が、桃太郎の元へとやってきた。
「一体、どういうことじゃ……」
桃太郎は、村長と向かい合い、鬼ヶ島で起こった悲劇と、頭領との対話、そして彼らが村を略奪した本当の理由を語った。その口調は、まるで自分の過ちを告白するかのようだった。
「彼らは、村を襲った罪を償うために、この村で共に生きることを選んでくれました。そして、私が、彼らの村長代表として、この村の未来を共に担う者として、ここへ戻ってきたのです」
村長は、桃太郎のまっすぐな眼差しに、ただ静かに頷くしかなかった。その目には、若者の成長を見守る者の温かさがあった。
「お主は……本当に大きくなったのう」
村長の目には、誇らしげな光が宿っていた。
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五
平和が訪れてしばらく経ったある日。
桃太郎は情報収集能力に長けた時雨を伴い、十兵衛の家を訪れた。彼の足取りは、少し重かった。これから訪れるであろう真実に、心が震えていたのだ。
時雨は、桃太郎の意図を察し、彼の後ろで静かに佇んでいた。彼女は、彼の背中を見つめながら、その決意を静かに見守っていた。
「……十兵衛、久しいな」
桃太郎が声をかけると、十兵衛は驚いたように顔を上げた。
「おお、桃太郎!英雄様がおいでくださるとは……」
十兵衛は、桃太郎が鬼ヶ島を平定し、村に平和をもたらしたことを心から喜んでいた。その笑顔には、かつての絶望の影はなかった。
桃太郎は、鬼ヶ島での真実を十兵衛に語った。
「鬼と呼ばれていた者たちも、飢えに苦しみ、生きるために略奪をしていたのです。ですが、その中に一人だけ、快楽のために殺戮を楽しむ下劣な男がいました。奴は頭領の弟で、時雨が……俺たちの手で打ち取りました」
十兵衛は、桃太郎の話に耳を傾け、涙ながらに頷いていた。彼の目には、深い悲しみと、どこか安堵のようなものが混ざっていた。
「……わしには、三人の子どもがいたんじゃ」
十兵衛は、ぽつりと言葉を紡ぎ始めた。それは、長年胸の奥にしまい込んでいた、重い告白だった。
「長男の宗助は、山に食料を探しに行った時に崖から落ちて……次女の春は、俺と二人で暮らしていた時に盗賊に……」
十兵衛の語りから、深い悲しみと後悔の念が、涙となって流れ出た。その涙は、長年彼を苦しめてきたものだった。
「そして……生まれたばかりの三男を、わしは……川に流した」
十兵衛の声が、震えた。
「幸が、命懸けで産んだ子じゃ……わしは、その子を……わしの手で……」
彼は、両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。その姿は、長年苦しみ続けてきた父親そのものだった。
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桃太郎は胸が締め付けられるような痛みを感じた。
彼の村も、十兵衛の村も、同じ飢えの悲劇に苦しんでいた。そして、その悲劇が、今ここで一つに繋がろうとしている。
「十兵衛……」
桃太郎は静かに語りかけた。その声には、同情ではなく、深い共感が込められていた。
「俺も、その気持ちは痛いほどわかる。絶望の淵に立たされて、それでも万が一に祈りを捧げるほど苦しんだ人がいるんだ」
そして桃太郎は、十兵衛を慰めるように笑いながら自分の過去を語り始めた。その笑顔は、彼の優しさだった。
「俺は、老夫婦に拾われた子だ。桃と一緒に、箱に入れられて川に流されてきたらしい。誰が流したかは知らんが……俺を流した人も、あんたと同じように、絶望の淵に立たされて、それでも俺に生きる希望を託してくれたのかもしれない」
その言葉に、十兵衛の体が、ビクッと震えた。
「……まさか……」
十兵衛は、ゆっくりと顔を上げ、桃太郎の顔をまじまじと見つめた。その目には、恐怖と希望が混ざり合っていた。
その目が、見開かれていった。
「お前……お前の背中に……ほくろはあるか?」
桃太郎は、不思議そうな顔をしたが、素直に答えた。
「ああ、右の肩甲骨の下に、小さなほくろがある。婆さんが、生まれた時からあったって言ってた」
十兵衛の顔が、一瞬で真っ青になり、次に真っ赤になった。
「そんな……そんなはずは……」
彼は、立ち上がると、桃太郎の肩に震える手を置いた。その手は、激しく震えていた。
そして、着物をめくって、その背中を見た。
そこには、確かに、小さなほくろがあった。
あの日、生まれたばかりの我が子を抱きしめた時、確かに見た、あのほくろ。
何度も夢に見た、忘れられない証。
十兵衛は、その場に崩れ落ちた。
「……光……お前が……光なのか……!」
その言葉に、桃太郎はすべてを理解した。
十兵衛が、自分の実の父であることを。
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六
「すまん……すまん……!」
十兵衛は、土間に這いつくばって、何度も何度も頭を下げた。その額が、土に触れるたびに、彼の嗚咽が大きくなった。
「お前を……お前を川に流したのは、このわしじゃ……!妻の幸は、お前を産んで死んだ……宗助は、お前に食べさせるものを探しに行って死んだ……春は、盗賊に襲われッ……!」
十兵衛の嗚咽が、部屋中に響いた。それは、二十年以上封印してきた、父親の慟哭だった。
「わしだけが……わしだけが生き残って……お前を捨てて……それで……それでよくも……よくも平気な顔で……!」
彼は、拳で地面を叩き続けた。その拳から、血が滲んでいた。
「許してくれ……許してくれ……!餓鬼のように泣くお前の声が、今も耳から離れんのじゃ……!」
十兵衛の慟哭は、言葉にならなかった。それは、ただの謝罪ではなく、二十年分の後悔と苦しみのすべてだった。
時雨は、その光景を両手を口に当て、涙ながら見守っていた。彼女の目にも、止めどなく涙が溢れていた。彼女自身もまた、父を失った者として、この瞬間の重みが痛いほど分かったのだ。
彼女の脳裡に、自分の父の姿が重なった。父もまた、何かを守ろうとして、命を落としたのだろうか。彼女には、もう確かめる術はない。
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桃太郎は、しばらくの間、ただ立ち尽くしていた。
彼の胸には、様々な感情が渦巻いていた。
捨てられた悲しみ。
実の親にやっと会えた喜び。
そして、目の前で打ちひしがれている男への、複雑な想い。
だが、それらの感情は、すぐに一つの確信へと変わった。
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立ちすくむ桃太郎に時雨が近づき、肘で桃太郎の脇腹をつついた。その仕草には、「行きなさい」という優しい促しが込められていた。
桃太郎は、我に返って十兵衛の前に歩み寄り、しゃがみ込んだ。
そして、震える手で、十兵衛の肩をそっと抱いた。
「父上」
その言葉を聞いた時、時雨の胸も、熱くなった。
彼女自身は、二度と「父」と呼べる人に出会えない。だからこそ、この瞬間の尊さが、痛いほど分かった。
十兵衛の体がビクッと震えた。
「な……何と……?」
十兵衛が、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。その目は、信じられないものを見るかのように見開かれていた。
桃太郎は、優しく微笑んでいた。その笑顔は、すべてを許す者の笑顔だった。
「父上、ありがとう」
「ありがとう……だと……?」
「あの時、俺を川に流してくれなかったら、俺は今ここにいない。爺様や婆様にも出会えなかった。弥助とも、衛門とも、時雨とも出会えなかった」
桃太郎の声は、穏やかだった。その言葉には、一切の恨みも、怒りもなかった。
「あの時、父上は、俺を生かすために、あの決断をしたんだ。俺はそんな父を誇りに思う」
十兵衛の目から、新たな涙があふれ出た。今度の涙は、後悔ではなく、感謝の涙だった。
「しかし……わしは……!」
「もういいんだ」
桃太郎は、十兵衛を強く抱きしめた。その抱擁には、言葉以上の想いが込められていた。
「これからは、一緒に生きよう。爺様や婆様も、きっと喜んでくれる」
十兵衛は、言葉にならない嗚咽を漏らしながら、桃太郎にしがみついた。その腕は、二度と離さないかのように、強く、強く。
時雨は、その光景を涙を流し、微笑みながら見つめていた。
彼女もまた、桃太郎が感じた幸せを自分の事のように感じていた。
十兵衛の絶望、桃太郎の寛容な心、そして二人の間に生まれた愛。
それが、彼女にとって、何よりの「安堵の光」だった。
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その時、十兵衛が時雨に気づき、深々と頭を下げた。
「嫁さんか……この度は、桃太郎と一緒にきてくださり、ありがとうございます。父親なんて言えた柄ではないが、どうか、どうかよろしくお願い……」
桃太郎は焦り、必死に手を振った。
「誤解だ!十兵衛!ちょっと待ってくれ、時雨はまだ……」
桃太郎が言い訳をしようとするが、時雨は十兵衛の言葉に、静かに微笑み、二つ返事で「はい」と答えた。
「ええ、もちろんです。この方を、生涯支えていきます」
桃太郎は、時雨の顔をまじまじと見つめた。その顔は、少し赤くなっていた。
時雨は、いたずらっぽく彼にウインクをしてみせた。
「いいのか?時雨!本当に?」
動揺しながらも嬉しそうな顔をする桃太郎
「あなたが言ったんじゃない!私の全てを背負ってやるって!」
鬼ヶ島で桃太郎が言った言葉を更に昇華させた時雨。
十兵衛はそれを聞いて呆気にとられた表情をしていた。
---
七
その後、桃太郎の実の父である十兵衛も、老夫婦と一緒に暮らすことになった。
貧しさはまだ残っていたが、家族が増え、生活は少しずつ安定し始めた。夕餉の時には、笑い声が絶えなかった。
ある日、時雨は婆様の元を訪れ、きび団子の作り方を教えてほしいと頼んだ。
お爺さんとお婆さんは、もうそれほど長くは生きられないことを悟っており、桃太郎が愛した故郷の味を、誰かに継承したいと願っていた。
「わしらももう年じゃ……お前さんなら、きっと桃太郎も喜ぶじゃろう」
婆様は、時雨の手を握り、優しく微笑んだ。その手は、温かく、そして確かに年老いていた。
時雨は、婆様の温かい手のひらに、桃太郎への愛情と、老夫婦の深い願いを感じた。
「しっかり覚えます。そして、この味を、次の世代に伝えていきます」
時雨は、真剣な眼差しで、婆様の手の動きを一つ一つ見つめた。
粉の量、水加減、捏ねる強さ、火加減。
すべてを、自分のものにしようと、必死だった。
(この味を、いつか桃太郎との子どもにも——)
などと考えて赤面し、一人妄想した。
「いやはや…若いのぉ…」
婆様は時雨の考えを読み取り、少し呆れた顔をした。
「…火傷するでないぞ…」
時雨の胸に、まだ見ぬ我が子への想いが、静かに芽生えていた。
---
八
それから数ヶ月後。
桃太郎と時雨は、小さな村で、ささやかな祝言を挙げた。
老夫婦と十兵衛、そして弥助と衛門が見守る中、二人は固く契りを交わした。
時雨は、白無垢姿で、その美しさに、誰もが息をのんだ。彼女の顔には、かつての復讐鬼の面影は一切なく、ただ幸せだけがあった。
「時雨……今日から、お前は俺の妻だ」
「はい……心は鬼ヶ島に行く前から妻でしたけど?桃太郎、よろしくお願いします。」
その言葉には、二人の長い旅路と、そして、これから始まる新しい人生への決意が込められていた。
弥助が、涙を拭いながら言った。
「おいおい、泣けてきちゃったじゃねぇか……良かったな、桃太郎!」
衛門も、酒を豪快に飲みながら微笑んでいた。
「おめでとうございます。お二人の未来に、幸多からんことを」
その夜、村中が祝いの宴に沸いた。
鬼と呼ばれた者たちも、村人たちも、垣根を越えて共に酒を酌み交わし、笑い合った。かつての敵同士が、肩を組んで歌う姿もあった。
時雨は、その光景を見ながら、心の中で呟いた。
(父さん、母さん……私、やっと本当の幸せを見つけたよ)
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九
一年後。
時雨は、陣痛に耐えながら、新しい命を産み落とした。
「うわああああん!」
産声が、庵中に響き渡った。その声は、新しい命の始まりを告げる、力強いものだった。
桃太郎は、襖の外で、今か今かと待ち構えていた。彼の顔には、緊張と期待が入り混じっていた。
婆様が、笑顔で襖を開けた。
「桃太郎、男の子じゃ!元気な男の子じゃ!」
桃太郎は、勢いよく部屋に飛び込んだ。
時雨は、汗びっしょりになりながらも、満面の笑みで赤子を抱いていた。その顔は、母としての輝きに満ちていた。
(母さん……私もお母さんになったよ)
(あなたが私を抱いた時も、こんな気持ちだったのかな)
(こんなにも…幸せなんだね…母になる気持ち、やっと分かったわ)
時雨は命をかけて守ってくれた、あの時の母の行動とその気持ちを改めて噛み締めた。
「時雨……よく頑張ったな」
桃太郎は、時雨の手を握りしめた。その手は、温かく、そして力強かった。
時雨は、弱々しくも、力強く頷いた。
「この子……どんな子になるかしら」
「きっと、優しい子になるさ。お前みたいにな」
時雨は、笑いながら桃太郎を軽く叩いた。
「もう……からかわないで」
---
桃太郎は、赤子を抱き上げた。
小さな指が、桃太郎の指をぎゅっと握る。その力は、小さくとも、確かに生きている証だった。
その温かさが、彼の心に直接響いた。
「この子の名は……喜備丸と名付けよう」
桃太郎は、静かに言った。
「喜びに満ちた桃。そして、備えの丸。彼の旅の始まりと、これから築いていく安寧の世を象徴する、この上ない名前だ」
時雨は、その名前を口の中で繰り返した。
「喜備丸……喜備丸……いい名前ね」
彼女の目から、涙が一筋流れ落ちた。
それは、喜びの涙だった。
---
十
それから数年後。
老夫婦は、静かに、そして安らかに、この世を去った。
二人は揃って、眠るように息を引き取った。まるで、互いに待ち合わせていたかのように。
最期の日、婆様は時雨の手を握り、こう言った。
「時雨さん……あんたなら安心だよ……桃太郎を……頼みますよ」
「はい、必ず」
「そして……私を、娘のように迎えてくれて……ありがとうございました」
時雨の目から、涙がこぼれた。
「そして……きび団子の味を、絶やさないでください。あれは……私たちの……宝物ですから」
お婆さんが口癖のように口にする「きび団子の味を絶やさないで」の言葉。
時雨にとってもきび団子は宝物になっていた。
「絶やしません。必ず、次の世代に伝えます。この味を、私の子供に、そしてそのまた子供に——」
婆様は、そっと目を閉じた。
爺様も、婆様の手を握り時雨と桃太郎に最後の声をかけた
「婆さんや、ちょっとだけ待っておくれ、桃太郎、時雨…わしらは幸せだったぞい…ありがとな…」
お爺さんが眠るように目を閉じてから、お婆さんの目から一筋の涙が流れ、二人仲良く旅立っていった。
葬儀の日、村中の人々が二人の死を悼んだ。
鬼と呼ばれた者たちも、深く頭を下げ、別れを惜しんだ。彼らもまた、老夫婦の優しさに触れていたのだ。
桃太郎は、二人の墓の前で、長い間立ち尽くしていた。
「爺様……婆様……本当に、ありがとうございました」
彼の目から、涙が静かに流れ落ちた。
時雨は、そんな桃太郎の手を、そっと握った。
「二人は、幸せだったわ。私たちがいるのを見て、安心して旅立ったのよ」
桃太郎は、静かに頷いた。
「ああ……そうだな」
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十一
時は流れ、時代は安土桃山時代へと移りゆく。
山から桃を流し、安堵の土地を手に入れたこの話を象徴するように、この新しい時代を人々は「桃の時代」と呼んだ。
桃太郎は、表舞台に立つことはなかった。
彼は、ただ静かに、村で人々と共に生き続けた。
かつて鬼と呼ばれた者たちと、かつて鬼に怯えていた者たちが、共に畑を耕し、共に笑い合う。
その光景こそが、彼の願った「安堵の光」だった。
---
時雨は、ある日、喜備丸にきび団子の作り方を教えていた。
「母上、もっとこねるの?」
「そうよ。もっと、力強く。愛情を込めて」
喜備丸は、真剣な顔で団子をこね続けた。その額には、うっすらと汗が浮かんでいた。
「父上に、美味しいって言ってもらいたいんだ」
時雨は、その言葉に、昔の自分を思い出した。
あの日、桃太郎が、自分の失敗した団子を美味しいと言って食べてくれたことを。
あの瞬間から、彼女の人生は変わった。
「きっと、喜ぶわよ」
時雨は、喜備丸の頭を優しく撫でた。
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その日の夕方、出来上がった団子を、桃太郎が口にした。
「どうだ、父上?」
喜備丸が、緊張した面持ちで尋ねる。
桃太郎は、ゆっくりと団子を噛みしめた。
そして、目を細めて言った。
「美味いよ。婆さんが作ってくれた団子に、そっくりだ」
喜備丸は、飛び上がらんばかりに喜んだ。
「やった!母上、やったよ!」
時雨は、その様子嬉しそうに見つめていた。
彼女の目には、誇らしげな光が宿っていた。
(この味を、いつか誰かにも——)
その思いが、後に「時雨の焼印」となって、永遠に受け継がれていくことを、彼女はまだ知らない。
---
十二
後に、時雨はこう語っていたという。
桃太郎は、武力で天下を獲った信長や秀吉のように、歴史の表舞台に立つことはなかった。
彼の真の物語は、安寧の地を築き、人々の心に寄り添うことだった。
その真実をそのまま伝えることは、彼が守り抜いた平和を脅かすかもしれない。
私は、彼の望まない形で、この物語を語り継ごう。
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その後、時雨の語る物語は、逸話が重なり、少しずつ変化していった。
飢饉の時代に生まれ、親がやむなく川に運命を委ねた桃太郎は、大量の桃と一緒にお供え物として流され、下流で老夫婦に拾われた。
成長して悪さを働く鬼を退治すべく、犬、猿、雉を引き連れて旅に出る。
そしていつの間にか、川から大きな桃が流れてきて、桃を切ったら中から元気な赤子が生まれた、と言われるようになった。
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真実は、風の中に消えていく。
だが、確かなことが一つだけある。
この地に、安堵の光が灯されたこと。
そして、その光は、これからも決して消えることはない——時雨の手で受け継がれたきび団子の味と共に、永遠に。
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『次回予告』
時は流れ、安土桃山時代へ。
秀吉の天下統一が目前に迫る中、桃太郎たちは新たな決断を迫られる。
表舞台に立たず、歴史の影で生きる道を選んだ者たち。
彼らは「鬼」となる覚悟を決めた——愛する者の未来を守るために。
次章より、第二部「闇の時代」が始まる。
---
【第九章・完結/第一部・終】




