失
「好きな物買ってくれて、旅行連れてってくれてェ」
フランチャイズのコーヒーショップは、日曜らしく、昼下がりでも混み合っていた。
そんな中、窓際の席をどうにか取れたのは、タイミングが良かったから。
それぞれがお気に入りの飲み物を手に笑い合う。
高校から付き合いのある友人達は、メイクもネイルも、ヘアカラーだって手を抜かない。華やかで目を引くのは昔からだ。その中で必死に背伸びをし続けているのが、私。
「その上、洗濯とか料理まで!」
春めいた薄ピンクの下地にホワイトのライン。
ネイルモデルの友人が、指折り数える。
「しかも高身長イケメンだよ!うらやましすぎ!」
声が大きい。
そんなことないよ、と答えながら、さり気なく辺りを見渡した。
(良かった。誰も見てない)
客が多くて助かった。
胸を撫で下ろした私はコーヒーを口に運ぶ。彼氏が選んでくれたウォータープルーフだけど、リップがつかないように、慎重に。
「は?なにそれ、最高の彼氏じゃん」
「すっごい溺愛なんだから。道路側とか歩かせないし、ドアは開けてくれるし!彼氏、リサしか見てないってかんじ!」
「スパダリかよ!幸せ者めー!」
きゃあきゃあ騒ぐ友達の一人に小突かれる。
分厚いコートの下に隠した肘に鈍い痛みが走って、私は咄嗟に笑った。
理沙は、私。
私は、最高の彼氏がいる、幸せ者。
「みんなの彼氏だって、」
ステキでしょ?
そう返そうとした言葉を寸でで呑み込んだ。
ニコニコ笑えば友人達の話題はすぐに移り、また、ホッとした。
すぐ側にあるブランドバッグの中には、最高の彼氏が入れた盗聴器がある。
私達の会話は筒抜けで、だから、お世辞でもなんでも男を褒めてはいけない。理沙のスマホにつけておくよと笑った彼は、とても心配性だ。
(大丈夫、大丈夫)
貼り付けた笑顔のまま、友人達の話に相槌を打つ。
動揺したらいけない。
変に思われたら、いけない。
(褒めてない。言ってない。だから、大丈夫)
繰り返し言い聞かせる間、コーヒーを持つ両手は、小刻みに震える。
「リサー?」
友人に肩を叩かれた。
「うん?なに?」
「何じゃないよ、さっきからスマホ鳴ってるよ?」
卓上にあるスマホに表示された名前。
震えが、止まった。
「あ、ウワサの彼氏じゃん!」
「イケメン見たい!呼んでよー!」
私はコーヒーを置いて、スマホを持つ。
友人達へ向けて開いた唇が、不自然に、ぎこちなく強張った。
美容師の友人が、ほんの微かに眉を寄せる。
ネイルモデルの友人と、バリキャリの友人が、顔を見合わせ頷き合う。
私はすぐさまにっこりと笑って、鳴り続ける電話に出た。
「──もしもし?」
「あ、リサ。新しいバッグ見ていい?」
「新作でしょ?いいなぁ!」
彼の声を聞きながら友人達に頷いた。
さっき、自分が何を言おうとしたのか。
わからなかった。
深夜の公園で、私はブランコに揺られていた。
春にはまだ早い季節だ。
薄手のカーディガンとズボンでは、さすがに冷える。
(そろそろ帰りたいな)
ぼんやりと月を見上げる。
毎晩寝る前に流さないトリートメントでケアしている長い髪は乱れ、口許にかかった。ピリッとした刺激が走る。
コーヒーショップを出る前に迎えに来た彼氏は、友人達の前ではやっぱり最高の彼氏だった。
手を繋ぎ、車までエスコートされ、開かれた扉に助手席に乗った。
ガチャガチャとシートベルトを鳴らす。
そんな私に呆れた彼氏は、運転席から身を乗り出して、
『ひ』
たった一言。
吐息よりも小さく漏れてしまった声に、笑顔を消した。
もう三年も同棲しているマンションは、高くて綺麗で、有名な建築家がデザインしたもの。防犯も防音も、一流だ。
部屋に入るなり突き飛ばされた。
髪を鷲掴まれ、殴られ、罵倒された。
『理沙。何でわからないんだ?あいつらは理沙をバカにして笑ってるだけなんだよ。俺しか自慢出来ない理沙を、見下してるんだ。そんな奴らの男が……何だって?』
いつもは顔は殴らないのに、今日は平手で打たれた。
やっぱり、コーヒーショップで友人の彼氏を褒めかかったのがいけなかった。
唇が切れて、血が出た。
痛いのか怖いのか、もうよくわからない。
『ごめんなさいッ……ごめんなさ……!』
私はただ謝るだけだ。
ひたすら謝って、彼の怒りが過ぎるのを待つ。
乱れた呼吸を深呼吸で落ち着かせた彼が、目の前に膝を着く。
『理沙。俺だってこんなことしたくないんだよ。それはわかってるよね?』
『うん。心配かけて、ごめんなさい』
私はそろそろと腕を伸ばして、彼を抱きしめて、労わる。
『迎えに来てくれて、ありがとう』
『いいんだよ。当然だ』
ベッドに運ばれて、青痣だらけの身体に興奮する彼と愛し合った。
『理沙を愛してるのは俺だよ。理沙もそうだよな?俺だけだよな?』
何回も何回も、何回も聞かれて、頷く。
好き。
愛してる。
ずっとそばにいて。
意味もわからなくなった言葉を返して、私は彼に甘える。
(だって、私には彼だけだから)
彼は私を愛してくれていて、私も愛してるから。
それから彼に身体を洗われて、みっともない恰好をしてと言われるまま、すっぴんで、彼が用意してくれたダサい服を着て。
彼が他の女と入って行ったホテルの前にある公園で、待っている。
(愛ってなんだっけ)
私は明日も明後日も休みだ。だから翌日の心配はいらない。いつもこうして、三時間くらい待っている。
二年前に辞めた仕事は、小さな建築会社の事務員だった。
男ばかりの職場を心配していた彼は、無職の私を養ってくれている。
欲しい物もエステも女性専用のジムも通わせてくれて、理沙だけ愛していると言って私を抱く。
その反面、週に一度は必ずこうして、他の女を抱いて、私に嫉妬させる。
嫉妬。
もう忘れてしまった。
忘れた筈なのに、ホテルを見たくなくて、夜空に顔を向けた。
月は綺麗な真ん丸で、無数の星はそこにある。
幸せ者、と言った友人を思い出した。
(……幸せって、なんだっけ?)
揺れるブランコを、両足で止めた。
ホテルを見て、持たされたバッグを見る。
(置いて、いけば)
私がこの場から立ち去っても、彼が気づくまでに時間がかかるのではないか。
ブランコの冷たい鎖を握る両手。
バッグの中から聞き慣れない機械音が聞こえた。独特なそれは、美容師の友人が好きなアーティストのものに似ていた。
けれど指は一ミリも動かないまま、夜風が体温を奪っていく。
「リサ!!」
「リサいたよ!こっち!」
暫くして、聞こえてきたのは彼氏の声ではなかった。
街灯の下、血相を変えた友人達が走って来る。彼女達の彼氏までいて、一体何事かと瞬いた。
「アンタなんでこんな……ッ……なんで助けてって言わないの!!」
美容師の友人が私を抱き締める。
ブランコに座っていたからバランスが悪くて、後から駆けて来た友人二人まで左右から抱き締めてくるものだから、身体のあちこちが軋んだ。
「杏子、その話は後にしよう」
「そうだな。奴が来る前に離れた方がいい」
辺りを警戒する友人の彼氏達。
美容師の友人——杏子は泣きながら、私の髪を丁寧に指で梳く。
「ふざけんなッ!ぶっ殺してやるあんな奴!!」
「杏子」
「よくもあたしたちのリサにこんな……!」
「杏子、大丈夫だから」
遅れてごめんね。
震えた声で繰り返す杏子の肩を、杏子の彼氏が優しく撫でる。
その手は私のバッグを持っていて、そこから見たことのあるスマホを取り出していた。あのカバーは、杏子のものだ。昼間、間違えて入ったのかもしれない。
(……スマホが?)
そんなことあるだろうか。
考えようとしても、状況に混乱した頭は働かない。
許さない、とか。
痛かったよねごめんね、とか。
泣いて、怒って、謝る友人達。
スマホを取りに来たにしても、どうしてこんな所に来たのだろう。みんな、明日は仕事の筈だ。
私が杏子の彼氏を見ると、彼は、真剣な顔をして膝を折った。
「杏子から最近ずっと、その……君の様子が、おかしいと聞い」
「やめてよ!」
「リサにそんなの聞かせないで!」
左右からヒステリックな声が上がる。
口を閉ざしてしまった彼や、他の二人の彼。
自分なりに状況を理解しようと、上手く働かない頭を無理やりに動かす。
(なんか、大事だ)
私の様子がおかしい、と、たぶん、そう言いかけたのだと思う。それなら私のせいだ。心配をかけないように、上手くやっていたつもりだったのに。
私のせいで彼氏は怒るし浮気をするし、友人達は、泣く。
「リサ、もう大丈夫だからね」
三人が口を揃えて言う。
私は何が大丈夫なのかわからずに、ただ困って、眉を情けなく下げた。
「心配かけて、ごめんなさい」
「ッバカ!!」
わんわん泣く友人達に、辺りのビルに灯りがついて行く。チラホラと様子を見に出て来る人達までいた。
私を見て驚いた顔をして、戻って行く人もいれば、遠巻きに様子を見ているだけの人もいた。
「ねぇ、帰ろ?リサ。あたしんちに、一緒に帰ろ」
そうか。
私はもう、彼氏とあのマンションに帰らなくていいのか。
(帰らなくて、いい)
そう思ったら、離せなかった両手を動かしたくなった。
でも上手く動かなくて、指が、ぎこちなくて。
誰も何も言わない。
そして、やっと。
鎖から、浮いた。
何も持たない両手だ。
目の前へ向けて必死に伸ばす。
杏子に縋りついて、声も出せずに泣いた。
私は失っていた痛みを、取り戻してしまった。
空になったブランコが、背後で鎖を鳴らしていた。




