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泥団子と猫かぶり姫、あるいはパンが舞う晩餐会

作者: こより
掲載日:2026/01/27

 「クロエ・ヴァルグレン?

 あんな粗暴な女、お前の相手に相応しくない」


 王宮の回廊に、その声はやけに澄んで冷たく響いた。

 あまりにもはっきり聞こえすぎて、思わず私の足が止まる。


(今、なんて?)


 磨き上げられた大理石の床に、午後の光が静かに反射していた。


 ……とても美しい光景。

 だからこそ、余計に腹が立つ。


 隣を歩いていた王子妃候補仲間のソフィア様が、ハッと息を呑むのがわかった。

 一方、もう一人の候補、ヴィオレッタ様はというと――扇で口元を隠しながらも、その瞳は楽しそうに輝いている。


 声の主は、第一王子カシエル殿下。

 白銀の髪に緋色の瞳。

 この国で最も美しいと称されるその横顔は、相変わらず感情を一切映さない、彫刻のような冷徹さを湛えている。


 話し相手は、弟君――第二王子リュカ殿下だった。


 「え? でも兄上。クロエ嬢は、兄上の幼馴染でしょう?」


 少し困ったような、リュカ様の声。


 「だからだ。

 あいつは辺境伯の娘だ。穏やかなお前には向かない」


 「そんなこと……。クロエ嬢は、マナーも完璧だし、とても立派なレディだと思うよ?」


 「猫をかぶっているだけだ。

 中身は、辺境の荒くれどもと変わらん」


――粗暴。

――猫かぶり。


 耳が、じわりと熱くなる。


(――よくもまあ、スラスラとそれだけ悪口が出てくるものね……!

 私、ここにいるんですけど)


 柱一本隔てただけの距離に、その“猫かぶり”がいるのだが、二人はまったくこちらに気づいていない。


 私は辺境伯ヴァルグレン家の娘。

 確かに、幼い頃は騎士たちに混じって木に登り、剣を振り回し、泥だらけで駆け回っていた。


――でも!


 今はリュカ様の妃候補。

 毎日、血の滲むような淑女教育に耐えて、完璧な“猫”をかぶっているというのに!


 「……さ、参りましょう」


 完璧令嬢であるソフィア様が、これ以上聞かせまいとするように小声で促してくる。

 ヴィオレッタ様はといえば、もう笑いを堪えるのに必死で、縦ロールの黒髪が小刻みに揺れていた。


 私たちは両殿下に気づかれないよう音を立てず、その場を離れる。


 それでもカシエル様の言葉は、私の背中を追いかけてきた。


 「彼女は、お前の妃候補から外すべきだ」


***


 「――おーっほっほっほ!」


 淑やかな空気が漂うお茶会に、やけに通りの良い高笑いが響く。


 「クロエ様。第一王子殿下から直々に『粗暴』のお墨付きをいただけるなんて、ある意味、光栄ですわね?」


 楽しそうに扇を揺らすヴィオレッタ様。


 あの日以来、彼女は事あるごとに

 「あら、リュカ殿下の『相応しくない』お相手候補様?」

 と嫌味を言ってくる。

 おかげで、社交界での私の評判は“粗暴な王子妃候補”として定着しつつあった。


(そりゃ楽しいでしょうよね……ライバルが一人減るんですもの)


 「殿下の御耳に留まるほどのお振る舞い。さすが辺境伯家……野性的でいらっしゃること」


 「ヴィオレッタ様、もうそれ以上は――。クロエ様、あまり気になさらないで。カシエル殿下は、少し言葉が鋭いところがありますから」


 ソフィア様の優しい慰めが、逆に胸に染みる。

 周囲の令嬢たちの視線は、冷ややかで痛いくらいだ。

 ヴィオレッタ様は、そんな令嬢たちを見渡して大仰に扇を揺らす。


 「でも、皆様も気になっていらっしゃるでしょう?

 クロエ様を昔からご存知のカシエル殿下が仰るのですもの。今のクロエ様は、さぞ巧妙に猫をかぶっていらっしゃるのでしょうね?」


 ……言い返せないのが、悔しい。


 私とカシエル様は、確かに幼馴染だ。

 幼い頃、弟のリュカ様は身体が弱く、遠くの温泉地で療養していた。

 その間、王宮の庭園で一人、本を読んでいたカシエル様を、遊びに連れ出していたのが――私だった。


『殿下、そんなところでじっとしていても退屈でしょう?

 秘密の通路を教えて差し上げますわ!』


 そう言って、服が汚れるのも構わず、一緒に地下通路を探検した。

 あの頃のカシエル様は、今の氷の美貌からは想像もつかないほど、無邪気に笑う少年だった。


 それ以降も、王子殿下と貴族令嬢として、特別に仲が悪かったわけではない――はずなのだが。


 ……それでも、一つだけ心当たりがある。


 四年前、カシエル様と私が十三歳、リュカ様が十二歳の時。

 リュカ様が療養を終えて王宮に戻ってきた。

 柔らかな陽光が降り注ぐ王宮庭園で、彼との初顔合わせを兼ねたお茶会が催されたのだ。


 しかし、そのお茶会で私は――

 カシエル様に向かって、作りたての“泥団子”を思い切りぶつけたのだった。


 カシエル様の輝く銀髪が泥まみれになったあの瞬間は、今でもスローモーションで思い出せる。


 周囲の悲鳴。

 彼の呆然とした顔。

――お茶会は大騒ぎになった。


(まあ、あれには深い深い“理由”があったんですけどね)


 本来なら、第一王子に物を投げつけた大事件として、ヴァルグレン家ごと大問題になっていてもおかしくなかった。

 けれど、陛下とお父様の話し合いの末、あの事件は内々に処理され、表向きは“なかったこと”になっている。


(あの出来事で、私……カシエル様に嫌われてしまったのかもしれない)


 胸の奥が、きゅっと冷えた。


 「……ご心配には及びませんわ」


 私は、無理やり口角を上げて微笑んだ。


 「私は、リュカ殿下の候補として、お役目を果たすだけですから」


 「あら、殊勝なことですこと」


 ヴィオレッタ様が、くすりと笑う。


 「けれど、王宮は繊細ですのよ?

 ――少しの“素”が、致命傷になることもありますわ」


 「以後、より一層気をつけますわ」


 ここで感情を見せたら負けだ。

 私は教えられた通りの完璧な角度で会釈をしてみせた。


 辺境伯の娘は、粗暴だと思われているらしい。

 ならばせめて――完璧な“猫かぶり”でいよう。


***


 シャンデリアの光が、金色に揺れていた。

 杯の音、食器の触れ合う気配。

 笑顔と礼儀が並ぶ中で、私はいつも通り猫をかぶって座っていた。


 今夜は、両殿下と王子妃候補たちとの恒例の晩餐会。


 王子妃候補の席は、最初から決まっている。

 第一王子カシエル様の側に座れるのは、公爵家の令嬢だけ。

 王太子妃は、王権の象徴であり――政治そのものだからだ。

 侯爵家や伯爵家、そして私……辺境伯家の令嬢は、最初から第二王子リュカ殿下の候補として席を与えられている。


 つまり私は、どれほど淑女らしく振る舞っても、制度の上では“カシエル殿下の候補”になることはない。


(……最初から、届かない場所なんだわ)


 小さく息を吐いて視線を上げると、カシエル様の筆頭側近を務める私の兄・ステファンの姿が見えた。


(晩餐会に、ステファン兄様も出席するなんて珍しいわね)


 けれど、兄様はただの出席者ではなかったようだ。


 食事が一段落ついたころ、兄様はおもむろに立ち上がった。

 一瞬だけ、私の方を見る。

 それから、感情を押し殺したような公の顔で、事務的に書簡を読み上げた。


 「――第二王子リュカ殿下の婚約者候補について」


 会場の視線が私に集まる。


 「クロエ・ド・ヴァルグレン嬢を、その任から解く」


 一瞬、音が消えた。

 それから、ざわめきが遅れてやって来る。

 ヴィオレッタ様は目を見開き、ソフィア様は扇を持ったまま固まっていた。

 リュカ様は、困ったように笑って、こちらを見ている。


(ああ。やっぱり)


 理由は、わかっている。

 『粗暴な女はお役御免』ということなのだろう。


 胸の奥が、冷たい氷で満たされていくような感覚。

 別に、王子妃になりたかったわけじゃない。

 リュカ様の候補だって、年齢の近い令嬢がまとめて選ばれただけ。

 いわば、花嫁修行の延長みたいなものだ。

 けれど、殿下のご迷惑にならないよう、この四年、王子妃教育を頑張ってきた。

 そんな自分の努力も、過去の思い出も、すべて否定されたような気がして――。


 皆の視線を受けて、私は静かに立ち上がり、深く一礼した。


――その時。


 視界の端で、違和感が動いた。


 給仕の男。

 距離。

 角度。


 「……ッ!」


 誰も気づいていない。

――兄様の視線さえ、届いていなかった。


 カシエル様は、無防備に背中を晒している。


 考えるより先に、体が動いた。

 私はドレスの裾を翻し、テーブルの上にあったパンを次々と掴んだ。


 「カシエル殿下――屈んで!」


 同時に腕を振る。

 一つ、二つ。

 迷いは、ない。


 パンは、一直線に飛んだ。


 「は?!」


 カシエル様が、反射的に身を屈める。

 その頭上を、パンが華麗に通り抜けた。


 コーンッ! という乾いた音が会場に響く。


 「うわっ!?」


 給仕の男は驚いて飛び退き、その拍子に隠し持っていたナイフが床へと落ちた。


 「刺客だ! 殿下を守れ!」


 ようやく異変に気づいた兄様の声と同時に、騎士たちが男を取り押さえる。


 会場は一気にパニックに包まれたが、私はその場に立ち尽くしていた。


 「クロエ! お前は、また殿下にモノを投げつけて……!」


 呆れたような、それでも必死に公の顔を保った兄様の叱責。


 「兄様の反応が遅いからですわ!」


 思わず、“素”が口をついた。


 「……驚いたな」


 呟きとともに、ゆっくりと立ち上がったカシエル様が、私を見ている。

 緋色の瞳が、揺れていた。


 「まあ……」


 そこへ、ヴィオレッタ様の声が割り込む。


 「ご覧になって? 晩餐会でパンを投げるなんて……

 やはり、野蛮な――」


 しかし、高飛車な彼女の言葉は、途中で途切れた。

 彼女の背後に、騎士が立ったからだ。


 「ヴィオレッタ・ド・ノクティス」


 カシエル殿下の声が、低く響く。


 「その“パン”がなければ、私は死んでいた。

 君が招き入れた刺客の手によってな」


 ヴィオレッタ様の顔から血の気が引く。


 「ノクティス家が反王族派に通じていることは把握していた。……連れて行け」


 「そんな!……待ってください! カシエル殿下!

 こんなことになるなんて知らなかったんです……!」


 ヴィオレッタ様の叫び声が虚しく響く。

 騎士に連れられ、彼女の姿が消えると、広間に、再び沈黙が落ちた。


 私は、まだ立っていた。

 立ったまま、逃げ場を探していた。


(刺客のこともヴィオレッタ様のことも……

 カシエル様は最初から全部、分かっていたのかしら……)


――なのに、私はパンを投げてしまった。


 どうやら、完璧な“猫”ではいられなかったらしい。


(余計に……嫌われてしまうわね)


 胸の奥が、きゅっと痛んだ。


――気づけば、カシエル様が歩み寄り、私の前に立っている。


 「クロエ。……助かった」


 「……どういたしまして。どうせ私は“粗暴”で“猫かぶり”な女ですから」


 そっぽを向いた私に、カシエル様は困ったように眉を下げる。

 そして――ゆっくりと、私の前に跪いた。


 「――クロエ・ド・ヴァルグレン嬢。私と結婚してほしい」


 「……は?」


 突然の展開に、口から出たのは、淑女らしからぬ情けない声だった。


***


 「ちょ、ちょっと待ってください!

 先ほど『候補は白紙』とおっしゃいましたよね!?

 それに、私のことを『粗暴』だの『猫かぶり』だのと――!」


 混乱したまま詰め寄る私に、カシエル様は一瞬だけ視線を伏せ、低く息を吐いた。


 「……悪かったよ。

 君をリュカの候補から外さなければ、私の候補に引き寄せることはできなかった。

 あの場で、他に方法が思いつかなかったんだ」


 「兄上、説明が足りないよ」


 横から、リュカ様の楽しそうな声が割り込んだ。


 「兄上はね、クロエ嬢が僕と一緒に王子妃教育を受けているのを、ずっと苦々しく見てたんだ」


 「……おい、リュカ」


 「だってそうでしょ?

 『あいつは粗暴だ』『猫を被っている』『お前の妃候補から外した方がいい』って、毎日のように言われたよ。

 でも僕には全部――」


 リュカ様は肩をすくめて、にやりと笑う。


 「『俺のクロエに手を出すな』って聞こえてたけど?」


 私は、ゆっくりとカシエル様を振り返った。


 彼は、耳まで赤くして、悔しそうに唇を噛んでいる。


 「……いや、その。ステファン、お前からも何か言え……」


 カシエル様は助けを求めるように兄様を見た。


 「いえ。カシエル殿下が、クロエのことになると余裕がなくなるのは周知の事実ですので」


 兄様まで、澄ました顔で頷いている。


 驚きのあまり、私はカシエル様の顔を、ぽかんと見つめてしまう。


 「だって……泥団子のことで、私はずっと恨まれていると……」


 「泥団子? 逆だよ」


 即答だった。

 カシエル様は、まっすぐに私を見る。


 「私は幼い頃からずっと反王族派に狙われてきた。

 あの時も、給仕に化けた刺客が、私に毒針を向けていて……。

 君はいち早くそれに気づき、泥団子を投げつけて私の命を救ってくれたのだろう?」


 「……ご存じだったのですか?

 あれは内密に処理されたと……」


 「父から聞いた。

 君が泥まみれになって、迷いなく私を守ったあの瞬間から……」


 彼は、そっと私の手を取った。


 「私の心は、君のものだ。

 泥団子くらいで、君を嫌いになるはずがないだろう」


 そう言うと、私の指先にそっと唇を寄せる。


 「クロエ。正式に、私の妃になってほしい」


 頭も気持ちも、まったく追いついていない。


 けれど――

 その緋色の瞳に宿る熱だけは、嫌というほど伝わってきた。


 「私の妃に相応しいのは、君しかいないんだ。

 パンを投げて刺客を倒すような、君でなければ」


 「……最後の一言、余計ではなくて?」


 私が頬を膨らませると、カシエル様はやっと、幼い頃のような無邪気な笑みを浮かべた。


 「……そうだな。だが、そんな君が愛おしくてたまらない」


 次の瞬間、カシエル様は立ち上がると、逃げ場を塞ぐように私を引き寄せた。


 近い。

 近すぎて、思考が真っ白になる。


 思わず目を瞑ると――

 私の唇に柔らかいものが触れた。


 会場から、どよめきと拍手が同時に湧き起こった。

 リュカ殿下の「おめでとう!」という声。

 遠くでソフィア様が「まぁ、お熱いことですわ」と扇をパタパタさせているのが見えた。


 耳元で、低い声が囁かれる。


 「これからは、私の隣では猫をかぶらなくていい。

 ……ただし、泥団子を投げる相手は私だけにしてくれよ?」


 「……善処いたしますわ」


 辺境伯の令嬢は、どうやら王宮で最も美しい、そして一番面倒な王子を射止めてしまったらしい。


 パンが舞った晩餐会は――

 のちに、王宮で語り継がれる、少し可笑しくて、とびきり甘い伝説となった。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 泥団子とパンが飛ぶ物語でしたが、少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。


 「粗暴」と言われるヒロインが、一番まっすぐで強い――

 そんなお話を書きたくて生まれた作品でした。


 感想や評価をいただけると励みになります。

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