泥団子と猫かぶり姫、あるいはパンが舞う晩餐会
「クロエ・ヴァルグレン?
あんな粗暴な女、お前の相手に相応しくない」
王宮の回廊に、その声はやけに澄んで冷たく響いた。
あまりにもはっきり聞こえすぎて、思わず私の足が止まる。
(今、なんて?)
磨き上げられた大理石の床に、午後の光が静かに反射していた。
……とても美しい光景。
だからこそ、余計に腹が立つ。
隣を歩いていた王子妃候補仲間のソフィア様が、ハッと息を呑むのがわかった。
一方、もう一人の候補、ヴィオレッタ様はというと――扇で口元を隠しながらも、その瞳は楽しそうに輝いている。
声の主は、第一王子カシエル殿下。
白銀の髪に緋色の瞳。
この国で最も美しいと称されるその横顔は、相変わらず感情を一切映さない、彫刻のような冷徹さを湛えている。
話し相手は、弟君――第二王子リュカ殿下だった。
「え? でも兄上。クロエ嬢は、兄上の幼馴染でしょう?」
少し困ったような、リュカ様の声。
「だからだ。
あいつは辺境伯の娘だ。穏やかなお前には向かない」
「そんなこと……。クロエ嬢は、マナーも完璧だし、とても立派なレディだと思うよ?」
「猫をかぶっているだけだ。
中身は、辺境の荒くれどもと変わらん」
――粗暴。
――猫かぶり。
耳が、じわりと熱くなる。
(――よくもまあ、スラスラとそれだけ悪口が出てくるものね……!
私、ここにいるんですけど)
柱一本隔てただけの距離に、その“猫かぶり”がいるのだが、二人はまったくこちらに気づいていない。
私は辺境伯ヴァルグレン家の娘。
確かに、幼い頃は騎士たちに混じって木に登り、剣を振り回し、泥だらけで駆け回っていた。
――でも!
今はリュカ様の妃候補。
毎日、血の滲むような淑女教育に耐えて、完璧な“猫”をかぶっているというのに!
「……さ、参りましょう」
完璧令嬢であるソフィア様が、これ以上聞かせまいとするように小声で促してくる。
ヴィオレッタ様はといえば、もう笑いを堪えるのに必死で、縦ロールの黒髪が小刻みに揺れていた。
私たちは両殿下に気づかれないよう音を立てず、その場を離れる。
それでもカシエル様の言葉は、私の背中を追いかけてきた。
「彼女は、お前の妃候補から外すべきだ」
***
「――おーっほっほっほ!」
淑やかな空気が漂うお茶会に、やけに通りの良い高笑いが響く。
「クロエ様。第一王子殿下から直々に『粗暴』のお墨付きをいただけるなんて、ある意味、光栄ですわね?」
楽しそうに扇を揺らすヴィオレッタ様。
あの日以来、彼女は事あるごとに
「あら、リュカ殿下の『相応しくない』お相手候補様?」
と嫌味を言ってくる。
おかげで、社交界での私の評判は“粗暴な王子妃候補”として定着しつつあった。
(そりゃ楽しいでしょうよね……ライバルが一人減るんですもの)
「殿下の御耳に留まるほどのお振る舞い。さすが辺境伯家……野性的でいらっしゃること」
「ヴィオレッタ様、もうそれ以上は――。クロエ様、あまり気になさらないで。カシエル殿下は、少し言葉が鋭いところがありますから」
ソフィア様の優しい慰めが、逆に胸に染みる。
周囲の令嬢たちの視線は、冷ややかで痛いくらいだ。
ヴィオレッタ様は、そんな令嬢たちを見渡して大仰に扇を揺らす。
「でも、皆様も気になっていらっしゃるでしょう?
クロエ様を昔からご存知のカシエル殿下が仰るのですもの。今のクロエ様は、さぞ巧妙に猫をかぶっていらっしゃるのでしょうね?」
……言い返せないのが、悔しい。
私とカシエル様は、確かに幼馴染だ。
幼い頃、弟のリュカ様は身体が弱く、遠くの温泉地で療養していた。
その間、王宮の庭園で一人、本を読んでいたカシエル様を、遊びに連れ出していたのが――私だった。
『殿下、そんなところでじっとしていても退屈でしょう?
秘密の通路を教えて差し上げますわ!』
そう言って、服が汚れるのも構わず、一緒に地下通路を探検した。
あの頃のカシエル様は、今の氷の美貌からは想像もつかないほど、無邪気に笑う少年だった。
それ以降も、王子殿下と貴族令嬢として、特別に仲が悪かったわけではない――はずなのだが。
……それでも、一つだけ心当たりがある。
四年前、カシエル様と私が十三歳、リュカ様が十二歳の時。
リュカ様が療養を終えて王宮に戻ってきた。
柔らかな陽光が降り注ぐ王宮庭園で、彼との初顔合わせを兼ねたお茶会が催されたのだ。
しかし、そのお茶会で私は――
カシエル様に向かって、作りたての“泥団子”を思い切りぶつけたのだった。
カシエル様の輝く銀髪が泥まみれになったあの瞬間は、今でもスローモーションで思い出せる。
周囲の悲鳴。
彼の呆然とした顔。
――お茶会は大騒ぎになった。
(まあ、あれには深い深い“理由”があったんですけどね)
本来なら、第一王子に物を投げつけた大事件として、ヴァルグレン家ごと大問題になっていてもおかしくなかった。
けれど、陛下とお父様の話し合いの末、あの事件は内々に処理され、表向きは“なかったこと”になっている。
(あの出来事で、私……カシエル様に嫌われてしまったのかもしれない)
胸の奥が、きゅっと冷えた。
「……ご心配には及びませんわ」
私は、無理やり口角を上げて微笑んだ。
「私は、リュカ殿下の候補として、お役目を果たすだけですから」
「あら、殊勝なことですこと」
ヴィオレッタ様が、くすりと笑う。
「けれど、王宮は繊細ですのよ?
――少しの“素”が、致命傷になることもありますわ」
「以後、より一層気をつけますわ」
ここで感情を見せたら負けだ。
私は教えられた通りの完璧な角度で会釈をしてみせた。
辺境伯の娘は、粗暴だと思われているらしい。
ならばせめて――完璧な“猫かぶり”でいよう。
***
シャンデリアの光が、金色に揺れていた。
杯の音、食器の触れ合う気配。
笑顔と礼儀が並ぶ中で、私はいつも通り猫をかぶって座っていた。
今夜は、両殿下と王子妃候補たちとの恒例の晩餐会。
王子妃候補の席は、最初から決まっている。
第一王子カシエル様の側に座れるのは、公爵家の令嬢だけ。
王太子妃は、王権の象徴であり――政治そのものだからだ。
侯爵家や伯爵家、そして私……辺境伯家の令嬢は、最初から第二王子リュカ殿下の候補として席を与えられている。
つまり私は、どれほど淑女らしく振る舞っても、制度の上では“カシエル殿下の候補”になることはない。
(……最初から、届かない場所なんだわ)
小さく息を吐いて視線を上げると、カシエル様の筆頭側近を務める私の兄・ステファンの姿が見えた。
(晩餐会に、ステファン兄様も出席するなんて珍しいわね)
けれど、兄様はただの出席者ではなかったようだ。
食事が一段落ついたころ、兄様はおもむろに立ち上がった。
一瞬だけ、私の方を見る。
それから、感情を押し殺したような公の顔で、事務的に書簡を読み上げた。
「――第二王子リュカ殿下の婚約者候補について」
会場の視線が私に集まる。
「クロエ・ド・ヴァルグレン嬢を、その任から解く」
一瞬、音が消えた。
それから、ざわめきが遅れてやって来る。
ヴィオレッタ様は目を見開き、ソフィア様は扇を持ったまま固まっていた。
リュカ様は、困ったように笑って、こちらを見ている。
(ああ。やっぱり)
理由は、わかっている。
『粗暴な女はお役御免』ということなのだろう。
胸の奥が、冷たい氷で満たされていくような感覚。
別に、王子妃になりたかったわけじゃない。
リュカ様の候補だって、年齢の近い令嬢がまとめて選ばれただけ。
いわば、花嫁修行の延長みたいなものだ。
けれど、殿下のご迷惑にならないよう、この四年、王子妃教育を頑張ってきた。
そんな自分の努力も、過去の思い出も、すべて否定されたような気がして――。
皆の視線を受けて、私は静かに立ち上がり、深く一礼した。
――その時。
視界の端で、違和感が動いた。
給仕の男。
距離。
角度。
「……ッ!」
誰も気づいていない。
――兄様の視線さえ、届いていなかった。
カシエル様は、無防備に背中を晒している。
考えるより先に、体が動いた。
私はドレスの裾を翻し、テーブルの上にあったパンを次々と掴んだ。
「カシエル殿下――屈んで!」
同時に腕を振る。
一つ、二つ。
迷いは、ない。
パンは、一直線に飛んだ。
「は?!」
カシエル様が、反射的に身を屈める。
その頭上を、パンが華麗に通り抜けた。
コーンッ! という乾いた音が会場に響く。
「うわっ!?」
給仕の男は驚いて飛び退き、その拍子に隠し持っていたナイフが床へと落ちた。
「刺客だ! 殿下を守れ!」
ようやく異変に気づいた兄様の声と同時に、騎士たちが男を取り押さえる。
会場は一気にパニックに包まれたが、私はその場に立ち尽くしていた。
「クロエ! お前は、また殿下にモノを投げつけて……!」
呆れたような、それでも必死に公の顔を保った兄様の叱責。
「兄様の反応が遅いからですわ!」
思わず、“素”が口をついた。
「……驚いたな」
呟きとともに、ゆっくりと立ち上がったカシエル様が、私を見ている。
緋色の瞳が、揺れていた。
「まあ……」
そこへ、ヴィオレッタ様の声が割り込む。
「ご覧になって? 晩餐会でパンを投げるなんて……
やはり、野蛮な――」
しかし、高飛車な彼女の言葉は、途中で途切れた。
彼女の背後に、騎士が立ったからだ。
「ヴィオレッタ・ド・ノクティス」
カシエル殿下の声が、低く響く。
「その“パン”がなければ、私は死んでいた。
君が招き入れた刺客の手によってな」
ヴィオレッタ様の顔から血の気が引く。
「ノクティス家が反王族派に通じていることは把握していた。……連れて行け」
「そんな!……待ってください! カシエル殿下!
こんなことになるなんて知らなかったんです……!」
ヴィオレッタ様の叫び声が虚しく響く。
騎士に連れられ、彼女の姿が消えると、広間に、再び沈黙が落ちた。
私は、まだ立っていた。
立ったまま、逃げ場を探していた。
(刺客のこともヴィオレッタ様のことも……
カシエル様は最初から全部、分かっていたのかしら……)
――なのに、私はパンを投げてしまった。
どうやら、完璧な“猫”ではいられなかったらしい。
(余計に……嫌われてしまうわね)
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
――気づけば、カシエル様が歩み寄り、私の前に立っている。
「クロエ。……助かった」
「……どういたしまして。どうせ私は“粗暴”で“猫かぶり”な女ですから」
そっぽを向いた私に、カシエル様は困ったように眉を下げる。
そして――ゆっくりと、私の前に跪いた。
「――クロエ・ド・ヴァルグレン嬢。私と結婚してほしい」
「……は?」
突然の展開に、口から出たのは、淑女らしからぬ情けない声だった。
***
「ちょ、ちょっと待ってください!
先ほど『候補は白紙』とおっしゃいましたよね!?
それに、私のことを『粗暴』だの『猫かぶり』だのと――!」
混乱したまま詰め寄る私に、カシエル様は一瞬だけ視線を伏せ、低く息を吐いた。
「……悪かったよ。
君をリュカの候補から外さなければ、私の候補に引き寄せることはできなかった。
あの場で、他に方法が思いつかなかったんだ」
「兄上、説明が足りないよ」
横から、リュカ様の楽しそうな声が割り込んだ。
「兄上はね、クロエ嬢が僕と一緒に王子妃教育を受けているのを、ずっと苦々しく見てたんだ」
「……おい、リュカ」
「だってそうでしょ?
『あいつは粗暴だ』『猫を被っている』『お前の妃候補から外した方がいい』って、毎日のように言われたよ。
でも僕には全部――」
リュカ様は肩をすくめて、にやりと笑う。
「『俺のクロエに手を出すな』って聞こえてたけど?」
私は、ゆっくりとカシエル様を振り返った。
彼は、耳まで赤くして、悔しそうに唇を噛んでいる。
「……いや、その。ステファン、お前からも何か言え……」
カシエル様は助けを求めるように兄様を見た。
「いえ。カシエル殿下が、クロエのことになると余裕がなくなるのは周知の事実ですので」
兄様まで、澄ました顔で頷いている。
驚きのあまり、私はカシエル様の顔を、ぽかんと見つめてしまう。
「だって……泥団子のことで、私はずっと恨まれていると……」
「泥団子? 逆だよ」
即答だった。
カシエル様は、まっすぐに私を見る。
「私は幼い頃からずっと反王族派に狙われてきた。
あの時も、給仕に化けた刺客が、私に毒針を向けていて……。
君はいち早くそれに気づき、泥団子を投げつけて私の命を救ってくれたのだろう?」
「……ご存じだったのですか?
あれは内密に処理されたと……」
「父から聞いた。
君が泥まみれになって、迷いなく私を守ったあの瞬間から……」
彼は、そっと私の手を取った。
「私の心は、君のものだ。
泥団子くらいで、君を嫌いになるはずがないだろう」
そう言うと、私の指先にそっと唇を寄せる。
「クロエ。正式に、私の妃になってほしい」
頭も気持ちも、まったく追いついていない。
けれど――
その緋色の瞳に宿る熱だけは、嫌というほど伝わってきた。
「私の妃に相応しいのは、君しかいないんだ。
パンを投げて刺客を倒すような、君でなければ」
「……最後の一言、余計ではなくて?」
私が頬を膨らませると、カシエル様はやっと、幼い頃のような無邪気な笑みを浮かべた。
「……そうだな。だが、そんな君が愛おしくてたまらない」
次の瞬間、カシエル様は立ち上がると、逃げ場を塞ぐように私を引き寄せた。
近い。
近すぎて、思考が真っ白になる。
思わず目を瞑ると――
私の唇に柔らかいものが触れた。
会場から、どよめきと拍手が同時に湧き起こった。
リュカ殿下の「おめでとう!」という声。
遠くでソフィア様が「まぁ、お熱いことですわ」と扇をパタパタさせているのが見えた。
耳元で、低い声が囁かれる。
「これからは、私の隣では猫をかぶらなくていい。
……ただし、泥団子を投げる相手は私だけにしてくれよ?」
「……善処いたしますわ」
辺境伯の令嬢は、どうやら王宮で最も美しい、そして一番面倒な王子を射止めてしまったらしい。
パンが舞った晩餐会は――
のちに、王宮で語り継がれる、少し可笑しくて、とびきり甘い伝説となった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
泥団子とパンが飛ぶ物語でしたが、少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
「粗暴」と言われるヒロインが、一番まっすぐで強い――
そんなお話を書きたくて生まれた作品でした。
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