山歩き訓練でめちゃ手がかかる殿下 (2)
雨合羽を羽織ってはいる二人だが、湿った土で汚れてしまった。
特に下敷きになっていたアンダーは顕著だ。
もうじき訪れる夜を想わせるような黒髪が水分を含んでいる。
髪から垂れてきた水滴を片手の甲で拭って、アンダーは立ち上がる。
アンダーは特に何も言わない。
だが、立ち上がる瞬間を見ていたオイラーは、アンダーが右足に若干の違和感を覚えているのではないかと感じた。
彼は小柄だが逞しい男だ、転落程度で壊れるような弱い身体ではないということは知っている。だがそれでも察してしまった。彼は足を痛めている、と。しかしそれを察することができたところでオイラーに良い影響は欠片ほどもない。大量の空気を入れた風船のように罪悪感が大きく膨らむだけ。
アンダーが敢えてそのことに触れずにいるのはそれを告げられた時の自分の精神状態を考慮してなのだろう、と、オイラーは密かに思った。
「何してんだ?」
色々考えていたために硬直してしまっていたオイラーは、その様をおかしなものを見るような目で見ていたアンダーに声をかけられたことで現実世界へと戻ってきた。
「あ、ああ……」
「ぼさっとしてんじゃねーよ」
「すまない」
「遅れてんだから急がねぇとな」
正規ルートを進むだけでも遅れていたのに、斜面を登らなくてはならないという余計な手間まで増えてしまった――オイラーは己の無能さを反省する。
「私のせいでこんなことに……」
「そーいうのマジ要らねぇ」
先に斜面を登り始めていたアンダーはほんの僅かに振り返って発した。
……そのぶっきらぼうな言葉にオイラーがどれだけ救われたか。
「ありがとうアン。……隣にいてくれたのが君で、本当に良かった」
オイラーにとって急な斜面を登ることは容易いことではなかった。
高低差はさほどないルートを進むだけでも足場の悪さに苦戦していたレベルなのだ、そこに傾きと高低差が同時に加わってくるとなればなおさら上手く進めず体力だけを消耗することとなってしまう。
しかもこの雨である。
とにかく滑る。
ほんの僅かにでも足の力を緩めれば全身の位置がずりずりと下がっていってしまうので油断も隙もない。
ただ、先に進んでいるアンダーに手を貸してもらうなどして、何とか元の場所にまで戻ることができた。
そうしてようやく正規ルートへ戻った二人。
一分もない極めて短い休憩を挟みまた歩き出す。
「雨が激しくなってきた」
「それな」
「冷えているんじゃないか」
「はぁ?」
なんてことのない会話を続けながら、オイラーはアンダーの歩く様をじっと見つめて観察していた。
というのも先ほどの足の件が気になっていたのだ。
本人が主張したわけではないし、ただ自身が気になっているだけかもしれないが、それでも一度気になりだすといつまでも気になってしまうものなのである。
「ったく、オレの心配する暇あんなら自分の心配してろ」
「気になってしまう」
「要らねぇ! 気にすんな!」
鋭く言われて。
「だが、君は足を痛めているだろう?」
思わずこぼしてしまうオイラー。
アンダーがそこに触れないのは自分への優しさだと思っているオイラーは、敢えて自らそこに触れるつもりなんて少しもなかった。そんなことをすればアンダーのさりげない優しさを叩き壊すこととなるだけだから。
だが無意識のうちに口から出てしまったのだ。
制御が間に合わなかった。
先を行くアンダーが足を止め、振り返る。
その目つきは冷たかった。
攻撃的な意味でも冷たさではないのだが、赤い双眸はよく研がれたナイフの先のようで、真っ直ぐに向き合う時その尖端は見る者の身に容赦なく食い込むかのようだ。
「だったら何だってんだ」
甘いことを言うな、とでも言いたげな視線を送られて、オイラー言葉を発せなくなってしまう。
「アンタにゃ関係ねーだろ」
――彼はずっとこうやって生きてきたのだろう。
オイラーはそんな風に想像した。
目の前の彼についてオイラーは多くを知らない。
元々捨て子であったことやそこから軍へ来ることとなったというような話はこれまでに聞いたことがあるが、それ以上の深いところや具体的なエピソードなんかは特に耳にしたことはない。
単なる噂として、であれば、他人があれこれ言っているのを聞いたことはあるけれど。
だがそれはあくまで噂。
そういった話には大抵悪意が含まれているもので、悪い方向へ誇張されていたりするもの――ゆえにその話が事実であるという信頼度は低い。
「関係ない……ことは、ない。なぜなら、私のせいで怪我をした可能性がある……否、高いから、だ」
暫しの沈黙の後、勇気を絞り出し言葉を紡ぐオイラーだったが。
「くだらね」
それもあっさりと蹴り飛ばされてしまう。
「なぜそうも反抗的で攻撃的な言葉ばかり発するんだ」
「アンタがくだらねーこと言うからだろ」
「人の身体に関することはくだらないことではない」
何とか食いついていくオイラーだが。
「偉大な殿下の身体ならそーだろなぁ」
嫌み交じりの言葉を返され何度も心が折れそうになる。
だがそれではいけないのだと彼は繰り返し自分に言い聞かせた。
「それは間違いだ」
「はぁ?」
「君も私も人間としての価値は同じだし、そうであるべきだ」
「そりゃ綺麗事だな」
王子だから完璧なわけではない。
時には痛いところを突かれてぷんすかしてしまうこともある。
「ど、どうして! そんなにも! 冷たいんだ!」
だがそれでも。
「そーいう世界で生きてきたからだよ」
「……そう、か」
できることはある。
それはどんな時も真っ直ぐに飾らない自分で相手と向き合うことだ。
「だがそれでも、理想は捨てたくない」
歩きながらオイラーは想いを隠さず言葉にする。
「誰もが軽んじられることのない世界を作りたいんだ」
「くだらねぇなぁ」
「罪なき者が生まれだけで見下されその命すらも軽んじられるような世界ではいけない――私はそう思う」
教科書に書かれているような理想論。
冷たい世界で生きてきた者には響かないかもしれない。
だがそれでも理想を抱えることを諦めてしまっては良い世界は作れないのだとオイラーは思っている。
くだらないと言われても。
綺麗事だと呆れられても。
それでも信念として掲げていたいことというのはあるのだ。
「今夜はこの辺で休むか」
「こ、ここで!?」
「んなびびんなよ、急に叫び過ぎだろ」
「すまない……」
ハプニングは色々あったが何とか乗り越えて、六割程度は進むことができた。
前半はとにかく酷かった。
だが後半で予想していたよりかは巻き返すことができたのだった。
とはいえ、もう日は完全に沈んでいる。
「では君の言う通りにしよう」
「雨やんで良かったなぁ」
「ああ。雨の中、夜を明かすというのは……さすがに何とも言えない気分だ」
オイラーは暗がりで近くの木の根に腰を下ろした。
荷物に入っていたランプを使うとほんの少し明るさを得られる、が、それでも互いの顔がくっきりと見えるほどではない。
「アン、足は?」
「へーき」
あの時、片足を痛めたアンダーは、長時間歩き続けていくうちに段々上手くバランスを取ることが難しくなっていた。途中からはそちらの足を半ばひきずるような形で歩いていた。本人は何も言っていなかったが、素人が見ても分かるほど明らかに異常があった。
逞しいアンダーでさえそうなっているのだからもし怪我したのが自分だったら――なんて考えて、オイラーはぞっとしていた。
「そうか。ならいいのだが。ただ……なんというか、途中から、歩くのもきつそうだったので……」
「そりゃあなぁ。オレだって足痛めりゃ歩きづれぇよ」
アンダーは荷物の中から取り出したエナジーバーを勝手に食べ始めている。
「けどそんなんよくあることだし、騒ぐほどのことじゃねーな」
雨に打たれてあれほど濡れていた雨合羽だがいつの間にか乾いていた。
「つか飯食えよ」
「あ、ああ、そうだなありがとう」
オイラーはリュックから銀の箱を取り出す。そして固く締められた蓋部分を回し開けると、サラダが現れた。ドレッシングがよく混ざっているようでカットされた野菜にはしっかりとした色がついている。続けて小型のフォークを取り出すと、そのフォークで箱の中身をごそごそと動かし始める。その時のオイラーの顔つきは暗いものではなかった。何ならとても楽しそうな表情だ。
「アンタん飯、草かよ」
「これは実はただのサラダではない」
言って、オイラーはフォークで一枚の肉を持ち上げる。
「肉も入っているんだ」
「美味そ……!」
思わず目を輝かせてしまうアンダー。
少しして慌てて視線を逸らした。
「ゃ……わ、わりぃ……」
アンダーは恥ずかしそうな顔をする。
「一切れ食べるか?」
「くれんの!?」
「ああ、よければ」
「マジで!?」
オイラーが一枚の肉を突き刺した状態のフォークを差し出すと、アンダーはそれに直接食いついた。
フォークごと受け取ってもらえるものと思っていたオイラーは想定外の流れにただ目をぱちぱちさせることしかできない。
燻製したような匂いが微かに漂う肉を口に含んだアンダーは赤い双眸を無邪気に輝かせる。
「うめぇ!」
彼は歓喜していた。
「どうやら気に入ってもらえたようだな」
「マジうめぇよ!」
アンダーは一人の時はエナジーバーだけで食事を済ませることが多い。ゆえに周囲からは食へのこだわりはあまりない人間であると思われている。が、実際にはそうではないのだ。
いや、もちろん、グルメかというとそうでもないかもしれないが。
ただ彼は食べることが好きだ。
幼い頃ずっと腹いっぱい食べらずにいたこともあるのだろう、食への執着というのは実はかなりある。
平常時エナジーバーで済ませているのは、あくまで、その方が効率的に栄養補給ができてすぐ次の動きへ移れるからというだけのことなのである。
「それは良かった」
「てか、それどこで入手した?」
「自分で用意した」
「嘘だろ!? マジか!?」
「ああ事実だ」
オイラーが木の根にちょこんと座ってさくさくとサラダを食べている間もアンダーは肉の余韻を楽しんでいた。
「はー、たまんねぇ」




